第二話「雨の日に置き去りにされた名前」
雨は、朝から降り続いていた。
細い糸のような雨だった。傘を叩く音も控えめで、けれど確かに街の輪郭を濡らし、アスファルトの色を一段暗く沈めている。コンビニの窓ガラス越しに外を眺めながら、三枝春斗は欠伸を噛み殺した。
深夜勤務明けの身体は重い。
それでも、今日はすぐに帰る気にはなれなかった。
ポケットの中に、小さなガラス瓶が入っている。
昨夜、あの奇妙な店――忘れもの屋で渡されたものだ。
青白い光が閉じ込められた瓶。
触れるとほんのり温かく、耳を澄ませば微かな声のようなものが聞こえる気がする。
もちろん、気のせいであってほしかった。
だが春斗は、昨夜見たものを夢だと片付けられずにいた。
見知らぬ路地。
古びた看板。
白瀬灯という、不思議な店主。
そして彼女の言葉。
『その忘れものを、本来いるべき場所へ』
「本来いるべき場所って、どこだよ……」
春斗はレジ横の廃棄予定のパンを袋に詰めながら呟いた。
そのとき、瓶がポケットの中でかすかに震えた。
「うわ」
思わず声が出た。
幸い、店内に客はいない。早朝のコンビニは、雨のせいもあっていつもより静かだった。
春斗はバックヤードに入り、ポケットから瓶を取り出した。
中の光はゆっくりと揺れている。
青白い炎。
水底に沈む月。
そんなものを思わせる光だった。
瓶の側面には、小さな紙片が結ばれている。
昨夜は気づかなかった。
春斗は紙片を広げた。
そこには、細い文字でこう書かれていた。
『名前』
それだけだった。
「名前?」
誰の。
どこの。
何の。
意味が分からない。
春斗は額を押さえた。
こういうとき、普通なら警察に相談するのだろうか。いや、警察に「光る瓶を渡されまして」などと言ったところで、疲れているんですねと労われるのが落ちだ。
それに、なぜだか分かっていた。
これは普通の出来事ではない。
普通の考え方では、たぶん辿り着けない。
春斗はもう一度瓶を見た。
すると、青い光がゆらりと一方向に傾いた。
まるで、そちらへ行けと言っているように。
「……道案内までしてくれるのかよ」
春斗は苦笑した。
勤務を終え、制服から私服に着替える。ビニール傘を広げて店を出ると、雨の匂いが肺に入り込んできた。
瓶の光は、駅とは逆方向を示していた。
住宅街を抜け、小さな商店街を過ぎ、線路沿いを歩く。朝の通勤時間帯だというのに、その道だけは妙に人通りが少なかった。
やがて、春斗は一つの高校の前に着いた。
校門には「市立藤ヶ丘高等学校」とある。
雨の中、制服姿の生徒たちが傘を差して校舎へ吸い込まれていく。
「高校……?」
ポケットの中の瓶が、また小さく震えた。
ここで間違いないらしい。
とはいえ、二十三歳のフリーターが朝の高校前でうろうろしているのは、かなりまずい。春斗は校門から少し離れた電柱の陰に立ち、どうしたものかと考えた。
すると、背後から声がした。
「三枝さん」
振り返ると、白瀬灯がいた。
昨日と同じ白いシャツに、黒いロングスカート。雨の中に立っているのに、傘を差していない。なのに髪も服も濡れていなかった。
「……心臓に悪い登場するなよ」
「おはようございます」
「今さら普通の挨拶されても困る」
灯は小さく笑った。
「ちゃんとここまで来られたんですね」
「瓶が案内した。で、ここに何があるんだ?」
「持ち主がいます」
「この瓶の?」
「はい。正確には、この中に入っているものの」
春斗は瓶を持ち上げた。
「これ、『名前』って書いてあったけど」
「ええ。誰かが忘れてしまった名前です」
「名前なんか忘れるか? いや、まあ人の名前を忘れることはあるけど」
「大切な人の名前ほど、忘れてしまうことがあります」
灯の声は静かだった。
「覚えていると、痛いから」
春斗は言葉に詰まった。
雨が傘を叩く。
校門の方から、生徒たちの笑い声が聞こえる。普通の朝だ。何も不思議なことなど起きていないように見える。
「持ち主って、誰なんだ?」
「二年生の女の子です。名前は……」
灯が言いかけたとき、校門の前で一人の少女が立ち止まった。
紺色のブレザー。肩までの黒髪。大きな傘を少し傾け、校舎を見上げている。
瓶の光が、強く震えた。
「あの子か」
「はい」
「どうやって返せばいい?」
「本人が受け取れば戻ります」
「いや、知らない男からいきなり光る瓶を渡されたら通報されるだろ」
「そこは三枝さんの自然な会話力で」
「無茶振りがすごいな」
灯は悪びれもせず微笑む。
その間に少女は校舎へ向かって歩き出していた。
「今日中に返してください」
「今日中?」
「忘れものは、持ち主に近づくほど不安定になります。長く持っていると、壊れてしまうことがあります」
「壊れると?」
灯は少しだけ目を伏せた。
「戻らなくなります」
春斗は瓶を握り直した。
その温もりが、さっきより少し弱くなった気がした。
「……分かったよ」
とは言ったものの、学校の中に入るわけにはいかない。
春斗は結局、近くの喫茶店で時間を潰すことにした。
窓際の席に座り、冷めかけたコーヒーを前に、何度もため息をつく。
忘れもの屋。
名前を忘れた少女。
光る瓶。
普通に考えれば、関わるべきではない。
自分の人生だってままならないのに、誰かの忘れものを届ける余裕などあるはずがなかった。
それでも、春斗は瓶を置いて逃げることができなかった。
灯の言葉が耳に残っている。
覚えていると、痛いから。
忘れることは、悪いことなのだろうか。
忘れなければ生きていけない痛みだってあるはずだ。
なら、それをわざわざ返すことは、本当に正しいのか。
春斗には分からなかった。
午後になっても雨は止まなかった。
授業が終わる頃を見計らい、春斗は再び高校の近くへ向かった。校門からは生徒たちが次々に出てくる。
瓶の光が揺れる。
あの少女が現れた。
朝と同じく、傘を差している。けれど今度は一人ではなかった。友人らしき二人と並び、何か話しながら笑っている。
普通の女子高生に見えた。
名前を忘れて苦しんでいるようには見えない。
春斗は少し迷った。
すると、少女が友人たちと別れ、商店街の方へ歩き出した。
瓶が熱を帯びる。
「行けってことか」
春斗は小さく息を吐き、後を追った。
商店街の外れに、小さな花屋があった。
少女はその前で立ち止まり、白い花を一本買った。
菊ではない。カーネーションでもない。春斗には花の名前など分からなかったが、どこか素朴で、雨の匂いに似合う花だった。
少女は花を手に、さらに歩く。
やがて辿り着いたのは、古い住宅街の一角にある小さな墓地だった。
春斗は足を止めた。
少女は一つの墓の前で傘を閉じ、膝を折る。
雨が彼女の髪を濡らした。
それでも彼女は気にしない。
花を供え、手を合わせる。
長い沈黙。
春斗は墓地の入口で立ち尽くした。
声をかけるべきではない。
そう思った。
だが瓶は震えている。
ひどく弱々しく。
今にも消えそうに。
春斗は覚悟を決めた。
「あの」
少女が振り返った。
驚いた顔。
当然だ。
墓地で見知らぬ男に声をかけられたのだから。
春斗は両手を軽く上げた。
「怪しい者……ではあるかもしれないけど、危ない者ではないです」
言ってから、最悪の自己紹介だと思った。
少女は警戒したまま立ち上がる。
「何ですか」
「ええと……君に、返さなきゃいけないものがある」
「私に?」
「たぶん」
「たぶん?」
少女の眉が寄る。
春斗は内心で頭を抱えた。
どう説明すればいい。
忘れもの屋で預かりました。
あなたが忘れた名前です。
はいどうぞ。
駄目だ。完全に不審者だ。
けれど、時間はなかった。
瓶の光が薄くなっている。
春斗はポケットから瓶を取り出した。
少女の目が見開かれる。
「それ……」
反応があった。
「見えるのか?」
「見えます。何ですか、それ」
「名前、らしい」
「名前?」
少女は戸惑ったように繰り返した。
その瞬間、瓶の光がふわりと強くなった。
少女の瞳に青い光が映る。
彼女は無意識に一歩近づいた。
「なんで……懐かしい感じがするんだろう」
春斗はゆっくり瓶を差し出した。
「受け取ってくれ。たぶん、君のものだ」
少女はしばらく瓶を見つめていた。
警戒。
戸惑い。
恐れ。
それでも最後には、震える手を伸ばした。
指先が瓶に触れた瞬間。
青白い光が弾けた。
音はなかった。
けれど春斗には、遠くで誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
少女は目を閉じた。
雨が降っている。
墓石を濡らし、地面を濡らし、二人の間に静かな幕を下ろす。
やがて、少女の唇が小さく動いた。
「……千代さん」
その声は、息のように細かった。
「おばあちゃんの名前……千代さんだった」
少女の目から涙がこぼれた。
一粒。
また一粒。
雨に混じって頬を伝う。
「思い出した……私、毎日呼んでたのに。ちよさん、ちよさんって。小さい頃、ずっと一緒にいてくれたのに」
彼女はその場にしゃがみ込んだ。
春斗は何も言えなかった。
「忘れたくなかったのに」
少女は泣きながら言った。
「でも、思い出すと苦しくて。最後に病院に行けなかったこととか、ありがとうって言えなかったこととか、全部苦しくて……だから、いつの間にか名前だけ出てこなくなって」
春斗は瓶を見た。
もう光はない。
ただの空っぽのガラス瓶になっていた。
「最低ですよね」
少女は墓石の前で膝を抱えた。
「大好きだった人の名前、忘れるなんて」
「最低じゃないだろ」
春斗は思わず言っていた。
少女が顔を上げる。
春斗自身、自分が何を言うのか分からなかった。
ただ、黙っていることができなかった。
「忘れたのは、どうでもよかったからじゃないと思う。大事だったから、きつかったんだろ。大事なものって、近くにあると痛いこともあるし」
言いながら、自分の言葉が自分に刺さるのを感じた。
春斗にも、忘れたふりをしているものがあった。
辞めた会社のこと。
両親の失望した顔。
友人からの連絡を返さなくなったこと。
何者にもなれなかった自分。
考えると痛いから、考えないようにしていた。
少女は涙を拭った。
「でも、忘れたままだったら……おばあちゃんがかわいそうで」
「今、思い出した」
「はい」
「なら、たぶん間に合ったんじゃないか」
少女は墓石を見る。
そこには春斗の知らない名字と、いくつかの戒名が刻まれていた。
彼女はそっと墓石に触れた。
「千代さん」
今度は、はっきりと呼んだ。
「ごめんね。忘れてて、ごめんね」
雨の中で、その声だけが不思議と温かかった。
しばらくして、少女は落ち着いた。
春斗は墓地の入口まで彼女を送った。
「えっと、名前……聞いてもいいですか?」
「三枝春斗」
「私は結衣です。高瀬結衣」
「そっか」
「三枝さんは、何者なんですか?」
当然の質問だった。
春斗は少し考えた。
「バイト帰りの不審者」
結衣は一瞬きょとんとして、それから少し笑った。
「自覚あるんですね」
「今日だけは否定できない」
「でも、ありがとうございました」
結衣は丁寧に頭を下げた。
「名前を返してくれて」
春斗は何と返せばいいか分からず、曖昧に頷いた。
結衣は傘を差し直し、雨の中を歩いていった。
その背中は、来たときよりも少しだけ軽く見えた。
春斗は空になった瓶を握りしめる。
「……これでよかったのか」
「はい」
背後から声がした。
春斗は振り返らずに言った。
「毎回そうやって出てくるのやめろ」
「善処します」
灯が隣に立っていた。
相変わらず濡れていない。
「見てたのか?」
「少しだけ」
「手伝ってくれてもよかったんじゃないか」
「三枝さんなら大丈夫だと思いました」
「買い被りだ」
「そうでしょうか」
灯は墓地の方を見た。
「忘れものは、ただ返せばいいわけではありません。持ち主が受け取れる形にして届ける必要があります」
「それを先に言え」
「言ったら、三枝さんは逃げたでしょう?」
図星だった。
春斗は何も言えなくなる。
灯は小さく笑った。
「ありがとうございました」
「別に。帰るためにやっただけだ」
「そうですか」
「そうだよ」
春斗は歩き出した。
墓地を出ると、雨は少し弱くなっていた。
街の音が戻ってくる。
車の走る音。
遠くの踏切。
傘を叩く雨粒。
当たり前の世界。
けれど、さっきまでと少し違って見えた。
人は誰でも、何かを抱えて歩いている。
笑っている人も。
急いでいる人も。
傘の下で俯いている人も。
忘れたもの。
忘れたいもの。
忘れられないもの。
そういうものを抱えながら、それでも今日を生きている。
「なあ」
「はい」
「忘れるのって、悪いことなのか?」
灯はすぐには答えなかった。
二人は雨の歩道を並んで歩く。
やがて灯は言った。
「悪いことではありません。忘れることで守られる心もあります」
「じゃあ、返さない方がいい場合もあるんじゃないか」
「あります」
春斗は足を止めた。
「あるのかよ」
「あります。でも、今日の彼女は返してほしかった」
「どうして分かる?」
「忘れものが呼んでいましたから」
灯は春斗の手の中の瓶を見る。
「忘れものは、持ち主の心と繋がっています。完全に手放したものは、店には来ません。忘れたくないのに忘れてしまったもの。捨てたくないのに置いてきてしまったもの。そういうものが、忘れもの屋へ流れ着くんです」
春斗は空瓶を見つめた。
ただの瓶になったそれは、妙に軽かった。
「面倒な店だな」
「ええ。とても」
灯はなぜか嬉しそうだった。
「でも、必要な店です」
春斗は返事をしなかった。
必要。
自分にとって必要なものとは何だろう。
考えても答えは出ない。
会社を辞めてから、春斗はずっと、自分には価値がないと思っていた。
誰かの役に立てない。
何も続けられない。
未来を選べない。
そんな自分に、意味などあるのかと。
けれど今日、結衣は確かに春斗に礼を言った。
名前を返してくれて、ありがとうと。
それは小さな出来事だった。
世界を変えるようなことではない。
給料が上がるわけでも、履歴書に書けるわけでもない。
それでも、春斗の胸の奥には、久しぶりに何かが灯っていた。
小さくて、頼りなくて、今にも消えそうな火。
けれど確かに温かいもの。
「三枝さん」
灯が言った。
「店に戻りますか?」
「戻ったら、また変な仕事を押し付けるんだろ」
「お茶くらいは出します」
「そこは否定しろよ」
春斗はため息をついた。
帰るべきだった。
アパートに帰って寝るべきだった。
明日もバイトがある。
生活は何一つ変わっていない。
問題は山積みのままだ。
それでも、春斗は気づけば灯の後について歩いていた。
雨に濡れた住宅街の隙間。
朝にはなかったはずの細い路地が、そこに口を開けている。
石畳。
古びた木造の建物。
奥に灯る、暖かな明かり。
忘れもの屋。
看板の文字を見上げ、春斗は小さく笑った。
「本当に、ろくでもない場所に迷い込んだな」
「後悔していますか?」
「してる」
春斗は即答した。
灯は少し困ったように笑う。
春斗は引き戸に手をかけた。
「でも、少しだけなら付き合ってやる」
からん、と鈴が鳴った。
店内には、相変わらず奇妙な札のついた棚が並んでいる。
『初恋』
『帰らなかった日』
『言えなかった謝罪』
『春の匂い』
『父の背中』
その一つ一つに、誰かの人生が詰まっているのだろう。
そう思うと、昨日見たときとは違って見えた。
不気味さよりも、重さを感じた。
灯はカウンターの奥に入り、急須に湯を注ぐ。
湯気が立ちのぼる。
雨音が窓の外で静かに続いている。
「今日の報酬です」
灯は小皿を差し出した。
そこには、まんじゅうが二つ乗っていた。
「……金じゃないのか」
「忘れもの屋は現金収入が不安定で」
「急に世知辛いな」
「でも美味しいですよ」
春斗は一つ手に取り、かじった。
甘かった。
ひどく素朴な味だった。
なぜか、泣きそうになるほど。
「これ、何のまんじゅう?」
「千代さんがよく作っていたものです」
春斗は噛むのを止めた。
「……そういうの、先に言えよ」
「言ったら食べづらいかと」
「もう食べてるけどな」
灯は楽しそうに笑った。
春斗は残りをゆっくり食べた。
雨の匂い。
温かい茶。
甘いまんじゅう。
奇妙な店。
奇妙な店主。
空っぽの瓶。
そして、誰かの名前。
そのどれもが現実離れしているのに、不思議と夢ではないと思えた。
「なあ、灯」
「はい」
「あの子、これから大丈夫かな」
「大丈夫かどうかは、彼女が決めることです」
「冷たいな」
「でも」
灯は湯呑みを春斗の前に置いた。
「名前を呼べるようになりました。きっと、それだけで進める日もあります」
春斗は湯呑みを両手で包んだ。
温かかった。
名前を呼べる。
それだけで進める日。
そんなものがあるのだろうか。
あるのかもしれない。
誰かの名前。
自分の名前。
忘れたくなかったもの。
忘れたふりをしていたもの。
春斗はふと、自分のスマホを取り出した。
通知欄には、母からの未読メッセージが残っている。
一週間前のものだった。
『ちゃんと食べてる?』
それだけの短い文章。
春斗はずっと返せずにいた。
返したら、何かを説明しなければならない気がしたから。
仕事を辞めたこと。
まだ何も決まっていないこと。
心配をかけていること。
情けない自分を見せるのが嫌だった。
けれど、画面の中の言葉は、結衣が呼んだ名前と少し似ていた。
忘れたくないのに、痛くて見ないふりをしていたもの。
春斗はしばらく画面を見つめたあと、短く返信を打った。
『食べてる。心配かけてごめん』
送信。
たったそれだけで、胸の奥が少し軽くなった。
灯は何も言わない。
ただ静かにお茶を飲んでいる。
「見てた?」
「少しだけ」
「見るなよ」
「善処します」
「絶対しないやつだな」
春斗は苦笑した。
そのとき、店の奥の棚がかすかに鳴った。
ちりん。
鈴とは違う、小さな音。
灯の表情が変わる。
「またか?」
「はい」
「早くないか」
「忘れものは待ってくれませんから」
棚の一つから、銀色の光が漏れていた。
灯は立ち上がり、瓶を取り出す。
札にはこう書かれている。
『約束』
その文字を見た瞬間、灯の指先がわずかに震えた。
春斗はそれに気づいた。
「灯?」
「……何でもありません」
灯はいつもの笑顔を作った。
だが、その笑顔はさっきまでとは違っていた。
少しだけ遠い。
どこか、雨の向こう側を見るような顔だった。
春斗はまんじゅうの最後の一口を飲み込み、湯呑みを置いた。
「次は、それを届けるのか?」
灯はしばらく黙っていた。
そして、静かに首を横に振った。
「これは、まだ届けられません」
「どうして」
「持ち主が、見つからないんです」
銀色の光が瓶の中で揺れる。
青い名前とは違う。
もっと冷たく、もっと古い光だった。
「ずっと昔から、ここにあります」
灯は瓶を棚に戻した。
その横顔に、春斗は初めて明確な寂しさを見た。
忘れもの屋の店主。
人の忘れものを預かる女。
その彼女自身にも、何か忘れられたものがあるのかもしれない。
雨音が強くなる。
夜明け前の店に、静けさが満ちていく。
春斗はその銀色の瓶から、なぜか目を離せなかった。
約束。
誰かが忘れたもの。
誰かが忘れられなかったもの。
その光は、まるで長い時間を閉じ込めた月の欠片のように、棚の奥でひっそりと瞬いていた。




