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夜明け前の忘れもの屋  作者: にこ
始まり
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2/4

第二話「雨の日に置き去りにされた名前」

 雨は、朝から降り続いていた。


 細い糸のような雨だった。傘を叩く音も控えめで、けれど確かに街の輪郭を濡らし、アスファルトの色を一段暗く沈めている。コンビニの窓ガラス越しに外を眺めながら、三枝春斗は欠伸を噛み殺した。


 深夜勤務明けの身体は重い。


 それでも、今日はすぐに帰る気にはなれなかった。


 ポケットの中に、小さなガラス瓶が入っている。


 昨夜、あの奇妙な店――忘れもの屋で渡されたものだ。


 青白い光が閉じ込められた瓶。


 触れるとほんのり温かく、耳を澄ませば微かな声のようなものが聞こえる気がする。


 もちろん、気のせいであってほしかった。


 だが春斗は、昨夜見たものを夢だと片付けられずにいた。


 見知らぬ路地。


 古びた看板。


 白瀬灯という、不思議な店主。


 そして彼女の言葉。


『その忘れものを、本来いるべき場所へ』


「本来いるべき場所って、どこだよ……」


 春斗はレジ横の廃棄予定のパンを袋に詰めながら呟いた。


 そのとき、瓶がポケットの中でかすかに震えた。


「うわ」


 思わず声が出た。


 幸い、店内に客はいない。早朝のコンビニは、雨のせいもあっていつもより静かだった。


 春斗はバックヤードに入り、ポケットから瓶を取り出した。


 中の光はゆっくりと揺れている。


 青白い炎。


 水底に沈む月。


 そんなものを思わせる光だった。


 瓶の側面には、小さな紙片が結ばれている。


 昨夜は気づかなかった。


 春斗は紙片を広げた。


 そこには、細い文字でこう書かれていた。


『名前』


 それだけだった。


「名前?」


 誰の。


 どこの。


 何の。


 意味が分からない。


 春斗は額を押さえた。


 こういうとき、普通なら警察に相談するのだろうか。いや、警察に「光る瓶を渡されまして」などと言ったところで、疲れているんですねと労われるのが落ちだ。


 それに、なぜだか分かっていた。


 これは普通の出来事ではない。


 普通の考え方では、たぶん辿り着けない。


 春斗はもう一度瓶を見た。


 すると、青い光がゆらりと一方向に傾いた。


 まるで、そちらへ行けと言っているように。


「……道案内までしてくれるのかよ」


 春斗は苦笑した。


 勤務を終え、制服から私服に着替える。ビニール傘を広げて店を出ると、雨の匂いが肺に入り込んできた。


 瓶の光は、駅とは逆方向を示していた。


 住宅街を抜け、小さな商店街を過ぎ、線路沿いを歩く。朝の通勤時間帯だというのに、その道だけは妙に人通りが少なかった。


 やがて、春斗は一つの高校の前に着いた。


 校門には「市立藤ヶ丘高等学校」とある。


 雨の中、制服姿の生徒たちが傘を差して校舎へ吸い込まれていく。


「高校……?」


 ポケットの中の瓶が、また小さく震えた。


 ここで間違いないらしい。


 とはいえ、二十三歳のフリーターが朝の高校前でうろうろしているのは、かなりまずい。春斗は校門から少し離れた電柱の陰に立ち、どうしたものかと考えた。


 すると、背後から声がした。


「三枝さん」


 振り返ると、白瀬灯がいた。


 昨日と同じ白いシャツに、黒いロングスカート。雨の中に立っているのに、傘を差していない。なのに髪も服も濡れていなかった。


「……心臓に悪い登場するなよ」


「おはようございます」


「今さら普通の挨拶されても困る」


 灯は小さく笑った。


「ちゃんとここまで来られたんですね」


「瓶が案内した。で、ここに何があるんだ?」


「持ち主がいます」


「この瓶の?」


「はい。正確には、この中に入っているものの」


 春斗は瓶を持ち上げた。


「これ、『名前』って書いてあったけど」


「ええ。誰かが忘れてしまった名前です」


「名前なんか忘れるか? いや、まあ人の名前を忘れることはあるけど」


「大切な人の名前ほど、忘れてしまうことがあります」


 灯の声は静かだった。


「覚えていると、痛いから」


 春斗は言葉に詰まった。


 雨が傘を叩く。


 校門の方から、生徒たちの笑い声が聞こえる。普通の朝だ。何も不思議なことなど起きていないように見える。


「持ち主って、誰なんだ?」


「二年生の女の子です。名前は……」


 灯が言いかけたとき、校門の前で一人の少女が立ち止まった。


 紺色のブレザー。肩までの黒髪。大きな傘を少し傾け、校舎を見上げている。


 瓶の光が、強く震えた。


「あの子か」


「はい」


「どうやって返せばいい?」


「本人が受け取れば戻ります」


「いや、知らない男からいきなり光る瓶を渡されたら通報されるだろ」


「そこは三枝さんの自然な会話力で」


「無茶振りがすごいな」


 灯は悪びれもせず微笑む。


 その間に少女は校舎へ向かって歩き出していた。


「今日中に返してください」


「今日中?」


「忘れものは、持ち主に近づくほど不安定になります。長く持っていると、壊れてしまうことがあります」


「壊れると?」


 灯は少しだけ目を伏せた。


「戻らなくなります」


 春斗は瓶を握り直した。


 その温もりが、さっきより少し弱くなった気がした。


「……分かったよ」


 とは言ったものの、学校の中に入るわけにはいかない。


 春斗は結局、近くの喫茶店で時間を潰すことにした。


 窓際の席に座り、冷めかけたコーヒーを前に、何度もため息をつく。


 忘れもの屋。


 名前を忘れた少女。


 光る瓶。


 普通に考えれば、関わるべきではない。


 自分の人生だってままならないのに、誰かの忘れものを届ける余裕などあるはずがなかった。


 それでも、春斗は瓶を置いて逃げることができなかった。


 灯の言葉が耳に残っている。


 覚えていると、痛いから。


 忘れることは、悪いことなのだろうか。


 忘れなければ生きていけない痛みだってあるはずだ。


 なら、それをわざわざ返すことは、本当に正しいのか。


 春斗には分からなかった。


 午後になっても雨は止まなかった。


 授業が終わる頃を見計らい、春斗は再び高校の近くへ向かった。校門からは生徒たちが次々に出てくる。


 瓶の光が揺れる。


 あの少女が現れた。


 朝と同じく、傘を差している。けれど今度は一人ではなかった。友人らしき二人と並び、何か話しながら笑っている。


 普通の女子高生に見えた。


 名前を忘れて苦しんでいるようには見えない。


 春斗は少し迷った。


 すると、少女が友人たちと別れ、商店街の方へ歩き出した。


 瓶が熱を帯びる。


「行けってことか」


 春斗は小さく息を吐き、後を追った。


 商店街の外れに、小さな花屋があった。


 少女はその前で立ち止まり、白い花を一本買った。


 菊ではない。カーネーションでもない。春斗には花の名前など分からなかったが、どこか素朴で、雨の匂いに似合う花だった。


 少女は花を手に、さらに歩く。


 やがて辿り着いたのは、古い住宅街の一角にある小さな墓地だった。


 春斗は足を止めた。


 少女は一つの墓の前で傘を閉じ、膝を折る。


 雨が彼女の髪を濡らした。


 それでも彼女は気にしない。


 花を供え、手を合わせる。


 長い沈黙。


 春斗は墓地の入口で立ち尽くした。


 声をかけるべきではない。


 そう思った。


 だが瓶は震えている。


 ひどく弱々しく。


 今にも消えそうに。


 春斗は覚悟を決めた。


「あの」


 少女が振り返った。


 驚いた顔。


 当然だ。


 墓地で見知らぬ男に声をかけられたのだから。


 春斗は両手を軽く上げた。


「怪しい者……ではあるかもしれないけど、危ない者ではないです」


 言ってから、最悪の自己紹介だと思った。


 少女は警戒したまま立ち上がる。


「何ですか」


「ええと……君に、返さなきゃいけないものがある」


「私に?」


「たぶん」


「たぶん?」


 少女の眉が寄る。


 春斗は内心で頭を抱えた。


 どう説明すればいい。


 忘れもの屋で預かりました。


 あなたが忘れた名前です。


 はいどうぞ。


 駄目だ。完全に不審者だ。


 けれど、時間はなかった。


 瓶の光が薄くなっている。


 春斗はポケットから瓶を取り出した。


 少女の目が見開かれる。


「それ……」


 反応があった。


「見えるのか?」


「見えます。何ですか、それ」


「名前、らしい」


「名前?」


 少女は戸惑ったように繰り返した。


 その瞬間、瓶の光がふわりと強くなった。


 少女の瞳に青い光が映る。


 彼女は無意識に一歩近づいた。


「なんで……懐かしい感じがするんだろう」


 春斗はゆっくり瓶を差し出した。


「受け取ってくれ。たぶん、君のものだ」


 少女はしばらく瓶を見つめていた。


 警戒。


 戸惑い。


 恐れ。


 それでも最後には、震える手を伸ばした。


 指先が瓶に触れた瞬間。


 青白い光が弾けた。


 音はなかった。


 けれど春斗には、遠くで誰かが名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。


 少女は目を閉じた。


 雨が降っている。


 墓石を濡らし、地面を濡らし、二人の間に静かな幕を下ろす。


 やがて、少女の唇が小さく動いた。


「……千代さん」


 その声は、息のように細かった。


「おばあちゃんの名前……千代さんだった」


 少女の目から涙がこぼれた。


 一粒。


 また一粒。


 雨に混じって頬を伝う。


「思い出した……私、毎日呼んでたのに。ちよさん、ちよさんって。小さい頃、ずっと一緒にいてくれたのに」


 彼女はその場にしゃがみ込んだ。


 春斗は何も言えなかった。


「忘れたくなかったのに」


 少女は泣きながら言った。


「でも、思い出すと苦しくて。最後に病院に行けなかったこととか、ありがとうって言えなかったこととか、全部苦しくて……だから、いつの間にか名前だけ出てこなくなって」


 春斗は瓶を見た。


 もう光はない。


 ただの空っぽのガラス瓶になっていた。


「最低ですよね」


 少女は墓石の前で膝を抱えた。


「大好きだった人の名前、忘れるなんて」


「最低じゃないだろ」


 春斗は思わず言っていた。


 少女が顔を上げる。


 春斗自身、自分が何を言うのか分からなかった。


 ただ、黙っていることができなかった。


「忘れたのは、どうでもよかったからじゃないと思う。大事だったから、きつかったんだろ。大事なものって、近くにあると痛いこともあるし」


 言いながら、自分の言葉が自分に刺さるのを感じた。


 春斗にも、忘れたふりをしているものがあった。


 辞めた会社のこと。


 両親の失望した顔。


 友人からの連絡を返さなくなったこと。


 何者にもなれなかった自分。


 考えると痛いから、考えないようにしていた。


 少女は涙を拭った。


「でも、忘れたままだったら……おばあちゃんがかわいそうで」


「今、思い出した」


「はい」


「なら、たぶん間に合ったんじゃないか」


 少女は墓石を見る。


 そこには春斗の知らない名字と、いくつかの戒名が刻まれていた。


 彼女はそっと墓石に触れた。


「千代さん」


 今度は、はっきりと呼んだ。


「ごめんね。忘れてて、ごめんね」


 雨の中で、その声だけが不思議と温かかった。


 しばらくして、少女は落ち着いた。


 春斗は墓地の入口まで彼女を送った。


「えっと、名前……聞いてもいいですか?」


「三枝春斗」


「私は結衣です。高瀬結衣」


「そっか」


「三枝さんは、何者なんですか?」


 当然の質問だった。


 春斗は少し考えた。


「バイト帰りの不審者」


 結衣は一瞬きょとんとして、それから少し笑った。


「自覚あるんですね」


「今日だけは否定できない」


「でも、ありがとうございました」


 結衣は丁寧に頭を下げた。


「名前を返してくれて」


 春斗は何と返せばいいか分からず、曖昧に頷いた。


 結衣は傘を差し直し、雨の中を歩いていった。


 その背中は、来たときよりも少しだけ軽く見えた。


 春斗は空になった瓶を握りしめる。


「……これでよかったのか」


「はい」


 背後から声がした。


 春斗は振り返らずに言った。


「毎回そうやって出てくるのやめろ」


「善処します」


 灯が隣に立っていた。


 相変わらず濡れていない。


「見てたのか?」


「少しだけ」


「手伝ってくれてもよかったんじゃないか」


「三枝さんなら大丈夫だと思いました」


「買い被りだ」


「そうでしょうか」


 灯は墓地の方を見た。


「忘れものは、ただ返せばいいわけではありません。持ち主が受け取れる形にして届ける必要があります」


「それを先に言え」


「言ったら、三枝さんは逃げたでしょう?」


 図星だった。


 春斗は何も言えなくなる。


 灯は小さく笑った。


「ありがとうございました」


「別に。帰るためにやっただけだ」


「そうですか」


「そうだよ」


 春斗は歩き出した。


 墓地を出ると、雨は少し弱くなっていた。


 街の音が戻ってくる。


 車の走る音。


 遠くの踏切。


 傘を叩く雨粒。


 当たり前の世界。


 けれど、さっきまでと少し違って見えた。


 人は誰でも、何かを抱えて歩いている。


 笑っている人も。


 急いでいる人も。


 傘の下で俯いている人も。


 忘れたもの。


 忘れたいもの。


 忘れられないもの。


 そういうものを抱えながら、それでも今日を生きている。


「なあ」


「はい」


「忘れるのって、悪いことなのか?」


 灯はすぐには答えなかった。


 二人は雨の歩道を並んで歩く。


 やがて灯は言った。


「悪いことではありません。忘れることで守られる心もあります」


「じゃあ、返さない方がいい場合もあるんじゃないか」


「あります」


 春斗は足を止めた。


「あるのかよ」


「あります。でも、今日の彼女は返してほしかった」


「どうして分かる?」


「忘れものが呼んでいましたから」


 灯は春斗の手の中の瓶を見る。


「忘れものは、持ち主の心と繋がっています。完全に手放したものは、店には来ません。忘れたくないのに忘れてしまったもの。捨てたくないのに置いてきてしまったもの。そういうものが、忘れもの屋へ流れ着くんです」


 春斗は空瓶を見つめた。


 ただの瓶になったそれは、妙に軽かった。


「面倒な店だな」


「ええ。とても」


 灯はなぜか嬉しそうだった。


「でも、必要な店です」


 春斗は返事をしなかった。


 必要。


 自分にとって必要なものとは何だろう。


 考えても答えは出ない。


 会社を辞めてから、春斗はずっと、自分には価値がないと思っていた。


 誰かの役に立てない。


 何も続けられない。


 未来を選べない。


 そんな自分に、意味などあるのかと。


 けれど今日、結衣は確かに春斗に礼を言った。


 名前を返してくれて、ありがとうと。


 それは小さな出来事だった。


 世界を変えるようなことではない。


 給料が上がるわけでも、履歴書に書けるわけでもない。


 それでも、春斗の胸の奥には、久しぶりに何かが灯っていた。


 小さくて、頼りなくて、今にも消えそうな火。


 けれど確かに温かいもの。


「三枝さん」


 灯が言った。


「店に戻りますか?」


「戻ったら、また変な仕事を押し付けるんだろ」


「お茶くらいは出します」


「そこは否定しろよ」


 春斗はため息をついた。


 帰るべきだった。


 アパートに帰って寝るべきだった。


 明日もバイトがある。


 生活は何一つ変わっていない。


 問題は山積みのままだ。


 それでも、春斗は気づけば灯の後について歩いていた。


 雨に濡れた住宅街の隙間。


 朝にはなかったはずの細い路地が、そこに口を開けている。


 石畳。


 古びた木造の建物。


 奥に灯る、暖かな明かり。


 忘れもの屋。


 看板の文字を見上げ、春斗は小さく笑った。


「本当に、ろくでもない場所に迷い込んだな」


「後悔していますか?」


「してる」


 春斗は即答した。


 灯は少し困ったように笑う。


 春斗は引き戸に手をかけた。


「でも、少しだけなら付き合ってやる」


 からん、と鈴が鳴った。


 店内には、相変わらず奇妙な札のついた棚が並んでいる。


『初恋』


『帰らなかった日』


『言えなかった謝罪』


『春の匂い』


『父の背中』


 その一つ一つに、誰かの人生が詰まっているのだろう。


 そう思うと、昨日見たときとは違って見えた。


 不気味さよりも、重さを感じた。


 灯はカウンターの奥に入り、急須に湯を注ぐ。


 湯気が立ちのぼる。


 雨音が窓の外で静かに続いている。


「今日の報酬です」


 灯は小皿を差し出した。


 そこには、まんじゅうが二つ乗っていた。


「……金じゃないのか」


「忘れもの屋は現金収入が不安定で」


「急に世知辛いな」


「でも美味しいですよ」


 春斗は一つ手に取り、かじった。


 甘かった。


 ひどく素朴な味だった。


 なぜか、泣きそうになるほど。


「これ、何のまんじゅう?」


「千代さんがよく作っていたものです」


 春斗は噛むのを止めた。


「……そういうの、先に言えよ」


「言ったら食べづらいかと」


「もう食べてるけどな」


 灯は楽しそうに笑った。


 春斗は残りをゆっくり食べた。


 雨の匂い。


 温かい茶。


 甘いまんじゅう。


 奇妙な店。


 奇妙な店主。


 空っぽの瓶。


 そして、誰かの名前。


 そのどれもが現実離れしているのに、不思議と夢ではないと思えた。


「なあ、灯」


「はい」


「あの子、これから大丈夫かな」


「大丈夫かどうかは、彼女が決めることです」


「冷たいな」


「でも」


 灯は湯呑みを春斗の前に置いた。


「名前を呼べるようになりました。きっと、それだけで進める日もあります」


 春斗は湯呑みを両手で包んだ。


 温かかった。


 名前を呼べる。


 それだけで進める日。


 そんなものがあるのだろうか。


 あるのかもしれない。


 誰かの名前。


 自分の名前。


 忘れたくなかったもの。


 忘れたふりをしていたもの。


 春斗はふと、自分のスマホを取り出した。


 通知欄には、母からの未読メッセージが残っている。


 一週間前のものだった。


『ちゃんと食べてる?』


 それだけの短い文章。


 春斗はずっと返せずにいた。


 返したら、何かを説明しなければならない気がしたから。


 仕事を辞めたこと。


 まだ何も決まっていないこと。


 心配をかけていること。


 情けない自分を見せるのが嫌だった。


 けれど、画面の中の言葉は、結衣が呼んだ名前と少し似ていた。


 忘れたくないのに、痛くて見ないふりをしていたもの。


 春斗はしばらく画面を見つめたあと、短く返信を打った。


『食べてる。心配かけてごめん』


 送信。


 たったそれだけで、胸の奥が少し軽くなった。


 灯は何も言わない。


 ただ静かにお茶を飲んでいる。


「見てた?」


「少しだけ」


「見るなよ」


「善処します」


「絶対しないやつだな」


 春斗は苦笑した。


 そのとき、店の奥の棚がかすかに鳴った。


 ちりん。


 鈴とは違う、小さな音。


 灯の表情が変わる。


「またか?」


「はい」


「早くないか」


「忘れものは待ってくれませんから」


 棚の一つから、銀色の光が漏れていた。


 灯は立ち上がり、瓶を取り出す。


 札にはこう書かれている。


『約束』


 その文字を見た瞬間、灯の指先がわずかに震えた。


 春斗はそれに気づいた。


「灯?」


「……何でもありません」


 灯はいつもの笑顔を作った。


 だが、その笑顔はさっきまでとは違っていた。


 少しだけ遠い。


 どこか、雨の向こう側を見るような顔だった。


 春斗はまんじゅうの最後の一口を飲み込み、湯呑みを置いた。


「次は、それを届けるのか?」


 灯はしばらく黙っていた。


 そして、静かに首を横に振った。


「これは、まだ届けられません」


「どうして」


「持ち主が、見つからないんです」


 銀色の光が瓶の中で揺れる。


 青い名前とは違う。


 もっと冷たく、もっと古い光だった。


「ずっと昔から、ここにあります」


 灯は瓶を棚に戻した。


 その横顔に、春斗は初めて明確な寂しさを見た。


 忘れもの屋の店主。


 人の忘れものを預かる女。


 その彼女自身にも、何か忘れられたものがあるのかもしれない。


 雨音が強くなる。


 夜明け前の店に、静けさが満ちていく。


 春斗はその銀色の瓶から、なぜか目を離せなかった。


 約束。


 誰かが忘れたもの。


 誰かが忘れられなかったもの。


 その光は、まるで長い時間を閉じ込めた月の欠片のように、棚の奥でひっそりと瞬いていた。

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