第一話 夜明け前の忘れもの屋
現代日本の片隅に、誰かが「忘れた感情」や「失くした記憶」を預かる不思議な店がある。
夜というものは、時折、人を迷わせる。
それは道だけではない。
人生そのものを。
春先だというのに肌寒い夜だった。
三枝春斗は、コンビニの制服の上に安物のパーカーを羽織り、人気のない住宅街を歩いていた。
時刻は午前二時を過ぎている。
深夜勤務を終えた帰り道だった。
街灯はところどころ切れかけていて、足元に落ちる影は頼りない。
そんな道を歩きながら、春斗はため息をついた。
「……何やってるんだろうな」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
二十三歳。
大学卒業。
新卒入社。
半年で退職。
そして現在、深夜のコンビニアルバイト。
人生が終わったとは思わない。
だが始まってもいない気がした。
友人たちは就職し、昇進し、恋人を作り、未来を積み上げている。
自分だけが立ち止まったままだ。
焦りはある。
不安もある。
だが何をしたいのか分からない。
だから動けない。
動けないからさらに焦る。
そんな堂々巡りを繰り返していた。
ふと顔を上げる。
見慣れた帰り道のはずだった。
だが目の前には見覚えのない路地があった。
「こんな道……あったっけ」
住宅と住宅の隙間。
細い石畳。
奥にはぼんやりと明かりが見える。
春斗は眉をひそめた。
疲れているのだろうか。
それとも単に気づかなかっただけか。
気になった。
ほんの少しだけ。
それだけだった。
だから足を踏み入れた。
後で思えば、それが間違いだったのかもしれない。
あるいは正しかったのかもしれない。
石畳の道は思ったより長かった。
十歩。
二十歩。
三十歩。
振り返る。
来たはずの道が見えない。
「は?」
思わず声が漏れた。
路地だったはずだ。
だが今は細い通りになっている。
左右には古びた木造建築。
どこか昭和の商店街を思わせる景色。
夜なのに静かすぎる。
風の音さえない。
春斗は急に背筋が冷たくなった。
その時だった。
ちりん。
鈴の音が鳴った。
通りの先。
一軒の店がある。
暖かな灯りが漏れている。
古びた木製の看板。
そこには見慣れない文字が書かれていた。
忘れもの屋
「……なんだそれ」
怪しすぎる。
普通なら引き返す。
だが引き返そうにも道が分からない。
仕方なく店へ向かった。
引き戸を開く。
からん、と鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
静かな声だった。
店の奥に女性がいた。
歳は二十代前半くらいに見える。
長い黒髪。
白いシャツ。
琥珀色の瞳。
どこか現実感が薄い。
月明かりをそのまま人にしたような印象だった。
「営業中だったのか」
「ええ」
女性は微笑んだ。
「忘れものを探しに来たんですよね」
「いや、別に」
「そうですか」
女性はあっさり頷く。
「では忘れものを届けに来たのでしょう」
「いやだから違うって」
「なるほど」
彼女は湯呑みにお茶を注ぎながら言った。
「自分が何を失くしたのか分からないお客様ですね」
春斗は返答に困った。
冗談なのか本気なのか。
判断できない。
店内を見回す。
棚が並んでいる。
そこには奇妙な札が置かれていた。
『十五歳の夏休み』
『初恋』
『叶わなかった約束』
『母の声』
『最後の後悔』
どれも商品名とは思えない。
「……これ何なんだ?」
「忘れものです」
女性は当然のように答えた。
「人が人生の途中で落としていくものですよ」
春斗は苦笑した。
変な店だ。
変な女だ。
だがなぜか居心地は悪くなかった。
彼女は改めて頭を下げた。
「私は白瀬灯。この店の管理人です」
「三枝春斗」
「春斗さんですね」
灯は嬉しそうに笑った。
「ちょうど良かったです」
「何が?」
「人手が足りなかったので」
「嫌な予感しかしないな」
その瞬間だった。
店内の空気が揺れた。
棚の一つから淡い光が漏れ出す。
灯が小さく息をついた。
「またですか」
「また?」
「忘れものが持ち主を呼んでいます」
彼女は棚から小さなガラス瓶を取り出した。
中には青白い光が揺れている。
まるで星屑のようだった。
「届けてもらえませんか?」
「いや意味が分からない」
「大丈夫です」
灯は微笑んだ。
「帰り道も分からないでしょう?」
春斗は言葉に詰まった。
確かにそうだった。
「仕事を終えれば帰れます」
「脅迫か?」
「お願いです」
灯は少しだけ寂しそうな顔をした。
その表情を見た瞬間。
なぜか断れなくなった。
春斗は深くため息をつく。
「……何をすればいい?」
灯の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます」
そう言って差し出された瓶は驚くほど温かかった。
「その忘れものを、本来いるべき場所へ」
「だから意味が」
「行けば分かります」
灯は笑った。
まるで最初からそうなると知っていたかのように。
店の外では月が高く輝いている。
春斗はまだ知らない。
この夜が、自分の人生を少しだけ変えてしまうことを。
そして忘れもの屋で働くことになる未来を。
その始まりが、今まさに動き出そうとしていることを。
夜明けまでは、まだ遠かった。




