最終話 朝が来る前に
忘れもの屋に、朝が近づいていた。
それは比喩ではなかった。
店の窓の外に広がる路地は、日に日に輪郭を失っていた。
石畳は霞み、建物の影は薄れ、夜の色そのものが少しずつ剥がれ落ちている。
店が消えようとしている。
それはもう疑いようのない事実だった。
「本当に時間がないんだな」
春斗は窓の外を見ながら呟いた。
灯はカウンターの奥で静かに茶を淹れていた。
「はい」
穏やかな返事。
だが、その声はどこか遠かった。
諦めているのだ。
長い間待ち続けた人の声だった。
春斗はそれが気に入らなかった。
だから翌日から、出来る限りのことを始めた。
暁斗。
白瀬暁斗。
灯の兄。
それだけが分かっている情報だった。
古い郷土資料館。
図書館。
市史。
寺の過去帳。
暇さえあれば調べ回った。
もちろん、期待はしていなかった。
何百年も昔の人間だ。
見つかる方がおかしい。
だが、それでも。
やらないまま終わる方が嫌だった。
何日目だっただろう。
閉館間際の郷土資料館で、春斗は一冊の古い記録を見つけた。
薄茶色に変色した紙。
そこには旅人や商人の記録が残されていた。
その中に、一つの名前があった。
『白瀬暁斗』
春斗の心臓が跳ねた。
震える手で続きを読む。
そこに書かれていたのは、短い記録だった。
都へ向かう途中、流行病に罹患。
療養の末、死亡。
享年十九。
家族の元へ戻ることは叶わず。
それだけだった。
春斗はしばらく動けなかった。
あまりにも短い。
あまりにも呆気ない。
けれど、その数行だけで全てが分かってしまった。
帰れなかったのだ。
帰らなかったのではなく。
忘れたのでもなく。
約束を破ったのでもなく。
ただ、帰りたくても帰れなかった。
春斗は記録をコピーし、夜の路地を駆けた。
雨は降っていなかった。
満月だった。
不思議なほど明るい夜だった。
忘れもの屋の扉を開く。
からん、と鈴が鳴る。
灯が顔を上げた。
「三枝さん?」
春斗は息を切らしながら紙を差し出した。
「見つけた」
灯は受け取る。
読み始める。
そして。
その指が止まった。
長い沈黙だった。
やがて彼女は静かに椅子へ腰を下ろした。
泣いてはいなかった。
ただ、紙を見つめている。
何百年も待ち続けた答えを。
「そうですか」
小さな声だった。
「帰れなかったんですね」
それだけだった。
怒りも。
悲鳴も。
恨みもない。
ただ静かな理解だけがあった。
春斗は胸が痛くなった。
「灯」
「はい」
「……大丈夫か」
灯は少し考えてから笑った。
「分かりません」
正直な答えだった。
「でも」
彼女は窓の外を見る。
月が見える。
昔も今も変わらない月。
「ようやく終われそうです」
その瞬間だった。
店の奥で銀色の瓶が強く輝いた。
棚が震える。
無数の忘れものたちが共鳴する。
名前。
約束。
初恋。
謝罪。
後悔。
すべての光が一斉に瞬いた。
銀色の瓶が砕ける。
音はなかった。
ただ光だけが溢れた。
店中を埋め尽くすほどの光。
そして。
そこに一人の青年が立っていた。
春斗は息を呑んだ。
記憶の中で見た少年。
少し成長した姿。
優しい目。
白瀬暁斗だった。
灯は動けなかった。
青年はゆっくり笑った。
『ごめんな』
その声を聞いた瞬間。
灯の瞳から涙が溢れた。
初めて見る涙だった。
『待たせた』
灯は首を振る。
何度も。
何度も。
言葉にならない。
何百年分もの感情が溢れていた。
『海、見せてやれなかったな』
青年が言う。
灯は泣きながら笑った。
「兄さまは」
声が震える。
「嘘つきです」
『ああ』
「約束したのに」
『ああ』
「すごく待ったんですよ」
『知ってる』
青年は優しく笑った。
『ありがとう』
その一言で。
灯はとうとう声を上げて泣いた。
長い長い夜が終わる音がした。
春斗は何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
やがて光は薄れていく。
青年の姿もまた。
『灯』
「はい」
『今度は行け』
青年は月を見上げた。
『もう待たなくていい』
灯は泣きながら頷いた。
何度も。
何度も。
光は消えた。
静寂が戻る。
店の中には春斗と灯だけが残されていた。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
約束は届いたのだ。
何百年越しに。
ようやく。
灯は涙を拭った。
そして春斗を見る。
「三枝さん」
「ん?」
「ありがとうございました」
「俺は何も」
「いいえ」
灯は微笑んだ。
今まで見たどの笑顔とも違った。
軽くて。
自由で。
まるで長い旅を終えた人のような笑顔だった。
「あなたが探してくれたから」
春斗は頭を掻いた。
照れ臭かった。
だから話題を変える。
「それで」
「はい」
「店はどうなるんだ」
灯は少し考えた。
それから窓の外を見る。
夜が白み始めていた。
「たぶん」
彼女は言う。
「朝が来ます」
その言葉と同時に。
店が光に包まれた。
棚が消える。
壁が消える。
路地が消える。
夜そのものが溶けていく。
春斗は思わず目を閉じた。
そして。
次に目を開けた時。
そこは見慣れた住宅街だった。
朝日が昇っている。
路地はない。
店もない。
ただ静かな朝だけがあった。
「終わったのか……」
春斗は呟く。
少しだけ寂しかった。
けれど後悔はなかった。
その時。
ポケットの中で何かが鳴った。
からん。
小さな鈴の音。
取り出す。
そこには銀色の鈴があった。
見覚えがある。
灯が持っていたものだ。
鈴の下には、小さな紙片。
『営業時間 月夜のみ』
春斗は思わず吹き出した。
「終わってないじゃねえか」
風が吹く。
どこかで誰かが笑った気がした。
数年後。
ある月夜。
住宅街の片隅に、小さな店が現れる。
古びた看板。
忘れもの屋。
カウンターの奥では、一人の青年がお茶を淹れている。
壁には新しい札が増えていた。
『やり直したい春』
『母からのメッセージ』
『帰れなかった約束』
そして店の一番奥。
誰も触れない棚に、鈴がひとつ置かれている。
時折、月明かりが強い夜だけ。
白い影がその前に座っていることがある。
青年は何も言わない。
ただ湯呑みを一つ多く置く。
すると影は少しだけ笑うのだ。
まるで。
ようやく朝を迎えられた人のように。
――了
最後まで閲読いただきありがとうございました。




