君を忘れた僕へ
忘れたかったわけじゃない。
忘れなければ、生きられなかっただけ。
それでも、忘れられた側の痛みも、
忘れてしまった側の痛みも、確かに存在していた。
第9ページ「君を忘れた僕へ」。
湊は、澪だけではなく、過去の自分自身にも向き合い始めます。
澪が名前で呼んでくれるようになってから、世界の音が少し変わった気がした。
「湊」
ただそれだけの二文字なのに、教室のざわめきの中でその声が聞こえるたび、湊の胸は小さく跳ねた。
昔は、そう呼ばれていたのだ。
十年前の公園で。
屋上の夏祭りで。
雨の病院の夢の中で。
湊くん。
澪はそう呼んでいた。
そして今、また同じように呼んでくれている。
消えてしまったと思っていた時間が、少しずつ今に戻ってきているようだった。
けれど、嬉しさの裏側には、いつも痛みがあった。
澪を忘れた自分。
その事実は、何度思い返しても胸を刺した。
忘れたかったわけじゃない。
幼い自分が壊れないために、心が勝手に記憶を閉じたのだと、今なら分かる。
それでも、澪は十年間覚えていた。
手紙を持ち続け、星の砂を守り、夢の中で湊に会い続けた。
その間、湊は澪の名前すら思い出せなかった。
それが苦しかった。
朝の教室で、澪は隣の席に座っていた。
窓から差し込む光が、彼女のノートの上に落ちている。
澪は丁寧な字で黒板の内容を書き写していたが、時々手が止まる。
湊はそのたびに、彼女の横顔を見る。
顔色は悪くない。
けれど、昨日より少し疲れているように見えた。
夏祭りの疲れかもしれない。
それとも、治療のことを話したからかもしれない。
「湊」
小さな声で呼ばれた。
「何?」
「見すぎ」
湊は慌てて視線を黒板に戻した。
「見てない」
「見てた」
「気のせい」
「気のせいで人は三分も見ない」
「計ってたのかよ」
澪は小さく笑った。
その笑顔を見て、湊は少し安心する。
けれど、澪はすぐに咳をした。
ほんの短い咳だった。
でも湊の胸は強く反応した。
「大丈夫か?」
澪は頷いた。
「うん。ちょっと喉が乾いただけ」
「水ある?」
「あるよ」
澪は鞄からペットボトルを取り出して、一口飲んだ。
何でもない動作。
でも、湊にはそれすら不安の種になった。
澪が少し咳をするだけで怖い。
少し黙るだけで怖い。
少し遠くを見るだけで、どこかへ行ってしまうような気がする。
そんな自分が嫌だった。
澪は「可哀想な子」として見られたくないと言った。
普通に隣にいてほしいと言った。
なのに湊は、普通にすることがひどく難しくなっていた。
「湊」
また呼ばれる。
「顔、怖い」
「……ごめん」
「謝らない」
「でも」
「心配してくれるのは嬉しいよ。でも、心配だけで私を見ないで」
澪の声は優しかった。
でも、その優しさが湊には痛かった。
「分かってる」
「うん」
「でも、うまくできない」
正直に言うと、澪は少し驚いた顔をした。
湊は続けた。
「普通にしたい。でも、澪がいなくなるかもしれないって思うと、全部怖くなる」
澪はペンを置いた。
授業中だったが、周りの生徒たちは教師の方を見ていて、二人の小さな会話には気づいていない。
「いなくなるって決まったわけじゃないよ」
「分かってる」
「私は、生きるために治療するの」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「分かってるのと、怖くないのは違う」
言ってしまってから、湊は唇を噛んだ。
澪はしばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「そうだね」
その声に、責める響きはなかった。
「私も怖いもん」
湊は澪を見た。
澪は少しだけ笑っていた。
「だから、怖いまま一緒にいよう」
その言葉は、湊の胸に静かに落ちた。
怖くなくなる必要はない。
大丈夫なふりをする必要もない。
怖いまま、隣にいる。
それが澪の望む“普通”なのかもしれない。
昼休み、湊は悠真に屋上へ連れて行かれた。
「今日は俺が話す番な」
悠真はそう言って、屋上のベンチに座った。
「何だよ急に」
「最近、お前と白峰さん、二人だけの世界作りすぎ」
「そんなこと」
「ある」
悠真は即答した。
「俺、親友としては応援してる。でも、ちょっと心配もしてる」
湊は黙った。
悠真はいつもの軽い調子ではなかった。
「白峰さん、何かあるんだろ」
「……何で」
「見てれば分かる。あの子、笑う時に時々、別れの準備してるみたいな顔する」
湊の胸が痛んだ。
悠真は空を見上げた。
「俺は事情知らないし、無理に聞く気もない。でも湊、お前、一人で全部抱えるなよ」
「抱えてるつもりは」
「あるだろ」
湊は反論できなかった。
悠真は続ける。
「大事な人が苦しんでる時、自分が何とかしなきゃって思うのは分かる。でもさ、全部背負うのは優しさじゃなくて、ただの無茶だぞ」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
湊の声が少し荒くなった。
「澪が入院する。治るかどうか分からない。怖いって言ってる。僕は何ができる?」
悠真は静かに聞いていた。
湊は続けた。
「僕は十年前、澪を忘れた。今度は忘れたくない。でも、覚えているだけで何になる? 澪の痛みを消せるわけじゃない。治療を代われるわけでもない」
言葉が止まらなかった。
「隣にいるって言った。でも、隣にいるだけで足りるのか分からない」
悠真は少し黙ってから、ぽつりと言った。
「足りるかどうかは、白峰さんが決めることじゃね?」
湊は顔を上げた。
「お前が勝手に足りないって決めるなよ」
悠真の言葉は、静かに湊の胸を打った。
「白峰さんが隣にいてほしいって言ったなら、それが今一番してほしいことなんだろ」
「でも」
「でもじゃない」
悠真は珍しく強い声で言った。
「お前はたぶん、自分を許せてないから、何か大きいことをしなきゃって思ってるんだよ」
湊は息を止めた。
「十年前に忘れたことも、今まで気づかなかったことも、全部取り返そうとしてる」
悠真は湊を見る。
「でも、人間ってさ、過去を取り返すために生きるんじゃなくて、これからを作るために生きるんじゃないの」
湊は言葉を失った。
悠真は照れくさそうに頭をかいた。
「まあ、俺が言うと薄っぺらいけど」
「いや」
湊は小さく言った。
「薄っぺらくない」
悠真は少し笑った。
「ならよかった」
風が吹いた。
屋上のフェンスが小さく鳴る。
湊はポケットから、夏祭りの射的で取った星のキーホルダーを取り出した。
青い星。
澪が「今度は朝倉くんが忘れないように」と言ったもの。
湊はそれを見つめながら言った。
「僕、澪を忘れた自分が嫌なんだ」
悠真は黙っていた。
「でも、忘れた自分も、たぶん必死だったんだよな」
「そうだと思う」
「責め続けても、何も戻らない」
「うん」
湊はキーホルダーを握った。
「だから、手紙を書こうと思う」
「手紙?」
「昔の自分に」
悠真は少し驚いたあと、優しく笑った。
「いいんじゃね」
「変じゃないか」
「変だけど、お前には必要そう」
「褒めてるのか?」
「褒めてる」
湊は少し笑った。
放課後、湊は澪を屋上へ誘わなかった。
代わりに、図書室へ行った。
澪は少し不思議そうにしたが、何も聞かずについてきた。
図書室の奥、窓際の席に二人で座る。
西日がカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
湊は鞄からノートを取り出した。
澪が首を傾げる。
「勉強?」
「違う」
「じゃあ?」
「手紙を書く」
澪の表情が変わった。
「誰に?」
湊は少し息を吸った。
「君を忘れた僕へ」
澪は何も言わなかった。
ただ、静かに湊を見ていた。
湊はノートを開き、ペンを持った。
最初の一文字を書くまでに、少し時間がかかった。
何を書けばいいのか分からない。
責める言葉なら、いくらでも浮かぶ。
どうして忘れた。
どうして澪を一人にした。
どうして手紙を受け取れなかった。
どうして十年も気づかなかった。
でも、それを書いたところで、幼い自分は救われない。
湊は目を閉じた。
夢の中で見た、病室の前の小さな自分を思い出す。
泣きそうなのに泣けず、震えながら「僕のせいだ」と呟いていた子ども。
あの子をこれ以上責めたくなかった。
湊はペンを動かした。
『君を忘れた僕へ』
そこまで書いて、胸が詰まった。
澪は隣で黙っている。
急かさず、覗き込まず、ただ同じ空間にいてくれる。
湊はゆっくり書き続けた。
『君は、きっと怖かったんだと思う。
澪ちゃんが泣いていて、病院の匂いがして、大人たちは深刻な顔をしていて、何が起きたのか分からなくて、それでも全部自分のせいだと思ったんだと思う。
澪ちゃんを忘れたことを、今の僕は何度も責めた。
でも、本当は忘れたかったわけじゃないんだよな。
覚えていたら、壊れてしまいそうだったんだよな。
だから、君は忘れた。
澪ちゃんを嫌いになったからじゃない。
大切じゃなかったからじゃない。
大切すぎたから、忘れるしかなかったんだと思う。』
そこまで書いた時、湊の目に涙が浮かんだ。
文字が滲む。
澪が小さく息を呑んだのが分かった。
湊はそれでも書き続けた。
『でも、大丈夫だった。
澪ちゃんは消えていなかった。
夢の中にいた。
夕焼けの屋上にいた。
白いワンピースで笑っていた。
顔は思い出せなかったけど、声は残っていた。
胸の痛みも残っていた。
君が完全に忘れなかったから、今の僕は澪にもう一度会えた。
だから、責めるのはもうやめる。
君は弱かったんじゃない。
生きようとしたんだ。
ただ、今度は僕が覚えている。
澪の名前も、笑った顔も、泣きそうな顔も、花火の下で言ってくれたありがとうも。
全部、僕が覚えている。
だから、もう大丈夫。
君は、もう一人で病室の前に立っていなくていい。』
ペンを置いた瞬間、湊の涙がノートに落ちた。
一粒だけ。
でも、その一粒は、ずっと泣けなかった幼い自分の涙のようだった。
澪が静かにハンカチを差し出した。
湊はそれを受け取った。
「読んでもいい?」
澪が聞いた。
湊は少し迷ったが、頷いた。
澪はノートを受け取り、ゆっくり読んだ。
読み終える頃には、澪の頬にも涙が流れていた。
「湊」
澪は震える声で言った。
「ありがとう」
「何で澪が礼を言うんだよ」
「昔の湊くんを、許してくれたから」
湊は目を伏せた。
「まだ完全には分からない」
「うん」
「でも、責め続けるのは違う気がした」
「うん」
澪はノートをそっと返した。
「私も、手紙を書いていい?」
「誰に?」
澪は少し考えてから言った。
「私を忘れた湊くんへ」
湊は驚いた。
澪はペンを持ち、ノートの次のページに書き始めた。
湊は何も言わず、隣で待った。
澪の字は綺麗だった。
少し震えていたけれど、丁寧で、優しい字。
『私を忘れた湊くんへ』
澪はそこから、ゆっくり書いた。
『私は、忘れられて悲しかったです。
嘘をついても仕方ないから、ちゃんと書きます。
悲しかった。
寂しかった。
どうして私だけ覚えているんだろうって、何度も思いました。
でも、怒ってはいませんでした。
だって、湊くんが私を忘れた理由を、私は少しだけ分かっていたからです。
あの日、湊くんは私を助けてくれました。
それなのに、湊くんは自分を責めていました。
私はありがとうって言いたかった。
でも届かなかった。
だから、夢で何度も言いました。
ありがとう。
でも、夢の湊くんはいつも泣きそうで、顔が見えませんでした。
私は、それでも待っていました。
いつか思い出してくれるかもしれないって。
でも本当は、思い出してほしいだけじゃありませんでした。
湊くんに、幸せになってほしかった。
私を忘れていても、笑っていてほしかった。
でも、今こうしてまた会えて分かりました。
湊くんも、ずっと苦しかったんだね。
だったら、もう一人で苦しまなくていいです。
忘れた湊くんも、忘れられなかった私も、どちらも悪くありません。
また会えたから。
今、隣にいられるから。
それで、私は十分幸せです。』
澪はそこでペンを止めた。
けれど少し迷って、最後に一行書き足した。
『でも、できればこれからは、忘れないでください。』
湊は泣きそうになりながら笑った。
「最後だけ急に本音だな」
澪も涙を拭いながら笑った。
「大事なことだから」
「忘れないよ」
「うん」
澪はノートを閉じた。
「これ、持ってて」
「いいのか?」
「うん。湊の手紙だから」
「澪の手紙もある」
「じゃあ、二人の手紙」
その言葉が、湊の胸に温かく響いた。
二人の手紙。
十年前、渡せなかった手紙。
今、書けた手紙。
過去には届かないかもしれない。
でも、今の二人には届いた。
図書室を出る頃には、夕方になっていた。
廊下の窓から橙色の光が差し込んでいる。
澪は少し疲れた様子だった。
「送る」
湊が言うと、澪は素直に頷いた。
「ありがとう」
二人で校舎を出る。
夏の夕方の匂いがした。
校門の前で、悠真が待っていた。
「お、やっと出てきた」
「何でいるんだよ」
「親友の勘」
悠真は澪を見て、少しだけ優しく笑った。
「白峰さん、大丈夫?」
澪は頷いた。
「うん。ありがとう」
「ならよかった」
悠真は湊に目を向ける。
「書けた?」
湊は頷いた。
「書けた」
「そっか」
悠真は安心したように笑った。
「じゃあ俺、帰るわ。邪魔者なので」
「最初からそうしろ」
「ひど」
悠真は手を振って去っていった。
澪はその背中を見て言った。
「いい友達だね」
「うるさいけどな」
「大事にしなきゃ」
「分かってる」
湊は本当にそう思った。
悠真がいなければ、自分はもっと一人で抱え込んでいたかもしれない。
澪が大事。
でも、澪だけが世界のすべてではない。
自分を支えてくれる人が他にもいる。
そのことに気づくことも、湊にとっては大切だった。
帰り道、澪はいつもよりゆっくり歩いた。
湊は歩幅を合わせる。
「疲れた?」
「少し」
「休む?」
「ううん。歩ける」
「無理するなよ」
「うん」
少し沈黙が続いた。
川沿いの道に出ると、夕焼けが水面に映っていた。
澪が足を止める。
「湊」
「何」
「私、今日の手紙、嬉しかった」
「僕も」
「でも、少し怖くもなった」
「何が?」
澪は川を見つめたまま言った。
「湊が優しすぎるから」
湊は眉をひそめた。
「優しくなんか」
「優しいよ」
澪は振り返った。
「昔から」
湊は返事に困った。
澪は続けた。
「でもね、優しい人って、自分の痛みに鈍いことが多いの」
「そうなのか」
「うん。湊は特に」
「決めつけるな」
「決めつけてない。知ってる」
澪は少し笑った。
「だから約束して」
「何を」
「私のことで苦しくなったら、ちゃんと誰かに言って」
湊は黙った。
「悠真くんでも、美咲ちゃんでも、お父さんでもいい。もちろん私でもいい」
「澪に言ったら、澪が苦しくなるだろ」
「それがだめなの」
澪の声は少し強かった。
「私を守るために、湊が一人で苦しまないで」
湊は言葉を失った。
それは、十年前の自分がしたことだった。
澪を守るために会わない。
澪を苦しめないために消える。
そうやって、結局二人とも苦しんだ。
同じことを、今また繰り返そうとしていたのかもしれない。
「分かった」
湊は言った。
「約束する」
澪は少し安心したように笑った。
「ありがとう」
「澪も」
「え?」
「僕に言えよ」
湊は澪を見た。
「怖いことも、苦しいことも、全部じゃなくていいから」
澪の瞳が揺れた。
「うん」
「可哀想だと思われたくないなら、可哀想扱いはしない。でも、隠されるのは嫌だ」
「うん」
「僕は、澪の隣にいたい。ちゃんと」
澪は泣きそうに笑った。
「また泣きそうって言われる?」
「もう言った方がいいか?」
「今は、まだ大丈夫」
「本当に?」
「半分」
「半分か」
二人は少し笑った。
駅前で別れる時、澪は言った。
「明日、病院に行く日なの」
湊の胸が跳ねた。
「学校は?」
「午前だけ行く。午後から検査」
「一人で?」
「お母さんが来る」
「僕も」
そこまで言って、湊は言葉を止めた。
澪が望んでいるか分からない。
澪は湊を見た。
「来てくれる?」
「行っていいなら」
澪の表情が柔らかくなった。
「来てほしい」
湊は頷いた。
「行く」
澪は小さく笑った。
「ありがとう」
その夜、湊は父に病院へ行くことを話した。
父はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「そうか」
「行ってもいいよね」
父は湊を見た。
「お前が決めたなら、行きなさい」
湊は少し驚いた。
父は続けた。
「十年前、俺たちはお前を守ろうとして、何も話さなかった。それが正しかったのか、今でも分からない」
父の声は低かった。
「でも、お前はもう、自分で向き合おうとしている。なら、止める理由はない」
湊は頷いた。
「ありがとう」
父は少しだけ笑った。
「ただし、一人で抱え込むな」
今日、澪にも言われた言葉だった。
湊は苦笑した。
「みんな同じこと言うな」
「それだけお前が抱え込みそうに見えるんだ」
湊は返す言葉がなかった。
部屋に戻ると、湊はノートを開いた。
自分が書いた手紙。
澪が書いた手紙。
二人の文字が並んでいる。
湊はそのページを見ながら、小さく呟いた。
「忘れない」
それは澪への言葉でもあり、過去の自分への言葉でもあった。
その夜、湊はまた夢を見た。
夕焼けの屋上ではなかった。
そこは、小さな部屋だった。
机の上にノートが置かれている。
幼い湊が椅子に座っていた。
目の前には、今の湊が書いた手紙がある。
幼い湊は、それをゆっくり読んでいた。
読み終えると、小さな手で目をこすった。
『僕、悪くないの?』
湊はそばに立っていた。
「悪くない」
『忘れたのに?』
「それでも」
『澪ちゃん、悲しかったよ』
「うん」
『僕も悲しかった』
「知ってる」
幼い湊は泣いた。
今度は、ちゃんと声を出して泣いた。
湊はその小さな背中に手を置いた。
「もう、一人で泣かなくていい」
幼い湊はしゃくりあげながら頷いた。
『澪ちゃんに、会える?』
「会える」
『また忘れない?』
「忘れない」
『約束?』
「約束」
その瞬間、部屋の扉が開いた。
そこに幼い澪が立っていた。
手には、澪が今日書いた手紙を持っている。
幼い澪は、幼い湊に向かって笑った。
『私も、もう怒ってないよ』
幼い湊は泣きながら言った。
『ごめんね』
幼い澪は首を横に振った。
『ありがとう』
二人は手を繋いだ。
その姿を見て、今の湊は胸が熱くなった。
夢の中で、過去の自分たちが少しずつ救われていく。
その光景は、悲しくて、優しかった。
やがて景色は夕焼けに変わった。
屋上。
白いワンピースの澪が、フェンスの前に立っている。
今の澪だった。
「湊」
「何」
「明日、病院に来てくれるんだよね」
「行く」
「怖くない?」
「怖い」
湊は正直に答えた。
「でも、行く」
澪は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
湊は澪の隣に立った。
「僕を忘れた僕へ、手紙を書いた」
「うん」
「でも、本当はまだ書きたい相手がいる」
「誰?」
湊は少し考えた。
「君を忘れない僕へ」
澪の瞳が揺れた。
「それは、これからの湊だね」
「うん」
「じゃあ、これから書いていこう」
澪は夕焼けを見た。
「毎日少しずつ」
「手紙を?」
「ううん」
澪は微笑んだ。
「思い出を」
その言葉を最後に、夢は静かに消えていった。
目が覚めると、朝だった。
湊は起き上がり、ノートを鞄に入れた。
今日は病院へ行く。
澪の現実に、もう一歩近づく日。
怖い。
でも、怖いまま一緒にいると約束した。
湊は机の上の星のキーホルダーをポケットに入れた。
そして、家を出た。
夏の朝の光が眩しかった。
校門の前に澪が立っていた。
湊を見ると、澪は笑った。
少し不安そうで、でも嬉しそうな笑顔。
「おはよう、湊」
「おはよう、澪」
今日も普通の朝が始まる。
でも、その普通の先に、二人は病院という現実へ向かう。
湊はもう逃げなかった。
君を忘れた僕へ。
もう大丈夫だ。
僕は今、君が忘れたかった痛みも、
君が忘れられなかった温かさも、
全部抱えて歩いている。
そして隣には、澪がいる。
今度は一人じゃない。
湊はそう思いながら、澪と並んで校舎へ歩いた。
第9ページを読んでくださり、ありがとうございます。
湊は「澪を忘れた自分」を責めるのではなく、ようやく許そうとし始めました。
そして澪もまた、忘れられた悲しみを言葉にしました。
二人は過去を責めるためではなく、これからを一緒に作るために向き合っています。
次の第10ページ「さよならを言えなかった夜」では、病院で澪の現実を知り、湊が十年前に言えなかった“さよなら”と向き合うことになります。




