また、同じ夢を見ていた
同じ夢を、何度も見ていた。
夕焼けの屋上。
白いワンピース。
消えていく君。
けれど、思い出すたびに夢は少しずつ形を変えていく。
それは、忘れた過去が戻る合図なのかもしれない。
第8ページ「また、同じ夢を見ていた」。
湊は、澪が十年間抱えていた本当の孤独に触れ始めます。
湊は、また同じ夢を見ていた。
夕焼けの屋上だった。
何度も見た場所。
何度も立った場所。
夢の中でしか行けなかったはずなのに、今では現実の記憶と夢の景色が重なり合って、どちらが本物なのか分からなくなる。
フェンス。
沈んでいく太陽。
風に揺れる白いワンピース。
町の向こうへ落ちていく橙色の光。
けれど、その日の夢は、いつもと少し違っていた。
澪が一人ではなかった。
屋上の中央に、小さな机が置かれていた。
その上には、星の砂のキーホルダー、古い手紙、花火大会のチラシ、そして小さな金魚鉢が並んでいる。
金魚鉢の中では、夏祭りですくった赤い金魚――はなびが、静かに泳いでいた。
夢の中なのに、その水面は本物みたいに光っていた。
「湊」
声がした。
湊は振り返った。
白いワンピースを着た澪が立っていた。
けれど、今までの夢の澪とは違う。
顔がはっきり見える。
目の色も、涙の跡も、微笑みの形も、全部分かる。
夢の中の幻ではなく、湊が知っている澪だった。
「また、同じ夢を見てる」
湊が言うと、澪は少しだけ首を横に振った。
「同じだけど、同じじゃないよ」
「どういう意味だ」
「朝倉くんが思い出すたびに、夢も少しずつ変わるの」
澪は机の上の手紙に触れた。
「忘れていたものが戻ると、夢の中にも置き場所ができる」
湊は金魚鉢を見た。
「はなびまでいる」
「昨日の思い出だから」
「夢って便利だな」
「うん。心に残ったものは、何でも持ってこられる」
澪は少し笑った。
その笑顔は穏やかだった。
でも、どこか寂しい。
湊は胸の奥に痛みを感じた。
「澪」
名前で呼ぶと、澪の表情が少し変わった。
嬉しそうで、泣きそうな顔。
「何?」
「入院のこと、もっと聞いてもいいか」
澪は金魚鉢を見つめたまま、黙った。
夢の中でも、沈黙は現実と同じ重さを持っていた。
しばらくして、澪は小さく頷いた。
「いいよ」
湊は息を整えた。
「事故の後遺症って、どんなものなんだ」
澪はフェンスの方へ歩いた。
湊も隣に並ぶ。
夢の屋上には、蝉の声が聞こえなかった。
代わりに、遠くから花火のような音がする。
ドン、と小さく響いて、すぐに消える。
「体が急に動かなくなる時があるの」
澪は静かに言った。
「昔ほどじゃないけど、疲れやすかったり、頭が痛くなったり、視界がぼやけたりすることもある」
湊は言葉を失った。
澪は続けた。
「見た目では分からないから、周りには普通に見える。学校にも行けるし、笑えるし、歩ける。でも、急に全部が遠くなる時がある」
「遠くなる?」
「音も、景色も、自分の体も」
澪は自分の手を見つめた。
「自分がここにいるのに、ここから離れていくみたいな感じ」
その言葉に、湊は胸が冷たくなった。
消える。
澪が何度も使っていた言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
「それで、治療?」
「うん。今回の治療は少し大きいの。しばらく入院する。うまくいけば、今よりずっと楽になるかもしれない」
「うまくいかなかったら?」
湊は聞いたあと、後悔した。
でも澪は怒らなかった。
ただ、夕焼けを見つめた。
「今みたいに、普通には会えなくなるかもしれない」
湊の喉が詰まった。
「死ぬってことか?」
澪はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何より怖かった。
「可能性は、ゼロじゃない」
澪はゆっくり言った。
「でも、私は死ぬために戻ってきたわけじゃないよ」
湊は澪を見た。
澪は真っ直ぐこちらを見ていた。
「生きるために、戻ってきた」
その言葉は、湊の胸に深く届いた。
生きるために戻ってきた。
終わらせるためだけではない。
別れるためだけではない。
可哀想に見られるためでもない。
澪は、生きるために湊に会いに来た。
「湊に会わないまま治療を受けたら、私、きっと怖くて逃げたくなると思った」
澪は少し照れたように笑った。
「だから、勇気をもらいに来たのかもしれない」
「勇気なんか、僕にあるのか」
「あるよ」
「僕は、澪のことを忘れてた」
「それでも、思い出そうとしてくれた」
澪は言った。
「怖い記憶から逃げずに、私の隣に来てくれた。それって、すごく勇気がいることだよ」
湊は何も言えなかった。
自分はずっと弱いと思っていた。
逃げてばかりだと思っていた。
大切なものから目を逸らし、痛みを忘れたふりをして生きてきた。
でも澪は、それでもいいと言う。
思い出そうとしてくれたことが勇気だと言う。
夢の中なのに、泣きそうになった。
「私ね」
澪はフェンスに手をかけた。
「事故のあと、何度も同じ夢を見たの」
「どんな夢?」
「病院の白い天井。窓の外の雨。扉の向こうに湊くんが立ってるのに、私は声が出せない夢」
湊は息を止めた。
自分が見た夢と、同じ病院。
でも、視点が違う。
湊は病室の外から澪を見ていた。
澪は病室の中から湊を待っていた。
二人は同じ場所にいたのに、会えなかった。
「私は、湊くんにありがとうって言いたかった。でも、夢の中でも声が出なかった」
澪の声が震えた。
「現実でも、手紙は渡せなかった。夢でも、声は届かなかった」
「澪」
「だから、私もずっと同じ夢を見てた」
澪は涙を浮かべた。
「湊くんが、扉の向こうで泣いてる夢」
湊の胸が締めつけられた。
自分は澪を忘れて苦しんだ。
でも澪もまた、湊に届かないまま苦しんでいた。
二人は同じ痛みを、違う場所で抱えていた。
「ごめん」
湊は言った。
澪はすぐに首を横に振った。
「謝らないで」
「でも、僕は会いに行かなかった」
「怖かったんでしょ」
「それでも」
「私も怖かった」
澪は言った。
「手紙を出すのが怖かった。会いに行くのも怖かった。忘れられてるって聞いて、もう私のことなんか思い出さない方が湊くんは楽なんじゃないかって思った」
湊は唇を噛んだ。
「楽じゃなかった」
澪は驚いたようにこちらを見る。
「忘れてても、楽じゃなかった。ずっと、何かを失くした感じがしてた」
湊は胸に手を当てた。
「夢を見るたびに苦しかった。でも、見なくなるのも怖かった。夢の中の君が誰か分からないのに、会えなくなるのが嫌だった」
澪の瞳から涙がこぼれた。
「それ、すごく嬉しい」
「嬉しいのか」
「うん」
澪は泣きながら笑った。
「私、ちゃんと残ってたんだね」
湊はその言葉に胸を刺された。
澪は、自分が湊の中から完全に消えてしまうことを怖がっていた。
忘れられることは、ただ寂しいだけではなかった。
自分が生きていた証まで消えてしまうような恐怖だったのかもしれない。
「残ってた」
湊ははっきり言った。
「名前も、顔も思い出せなかった。でも、声も、夕焼けも、胸の痛みも、全部残ってた」
澪は両手で顔を覆った。
夢の中なのに、涙は本物みたいに見えた。
湊はそっと隣に立った。
触れようとして、少し迷う。
夢の中で澪に触れたら、消えてしまう気がした。
でも、現実の夏祭りで手を繋いだ時の温度を思い出した。
湊はゆっくり手を伸ばし、澪の肩に触れた。
澪は消えなかった。
むしろ、その温度が夢の中に広がったように感じた。
「泣いていい」
湊が言うと、澪は小さく笑った。
「それ、私の言葉みたい」
「澪に教わったから」
「じゃあ、湊も泣いていいよ」
湊は返事ができなかった。
泣きたい気持ちはあった。
でも、まだ涙にならない。
胸の奥で何かが固まっている。
澪はそれを責めなかった。
ただ、隣にいた。
やがて夢の景色が揺れ始めた。
夕焼けの屋上が、病院の廊下へ変わっていく。
白い壁。
消毒液の匂い。
雨の音。
湊は息を呑んだ。
「また変わった」
澪が呟いた。
「これは……」
目の前には、十年前の病室があった。
扉の前に、幼い湊が立っている。
中には、幼い澪がいる。
二人はそれを、少し離れた場所から見ていた。
「私の夢と、湊の夢が混ざってる」
澪が言った。
湊は震える声で聞いた。
「こんなこと、あるのか」
「夢だから」
澪は少し笑った。
「心が同じ場所を覚えてると、重なるのかもしれない」
幼い湊は、病室の前で震えていた。
手には、小さな星の砂のキーホルダーが握られている。
幼い澪は、ベッドの上から扉を見つめていた。
声を出そうとしている。
でも出ない。
湊は見ていられなかった。
「入れよ」
夢の中の幼い自分に言う。
「会いたいなら、入れよ」
でも幼い湊は動かない。
『僕がいたら、澪ちゃんが苦しくなる』
その声が聞こえた。
幼い澪は、涙を浮かべながら扉を見ている。
『湊くん、泣かないで』
その声は、幼い湊には届かない。
湊は拳を握った。
「届いてなかったんだな」
澪が小さく頷いた。
「うん」
「こんな近くにいたのに」
「うん」
「二人とも、相手のことばっかり考えてたのに」
「うん」
湊は胸が苦しくなった。
たった一枚の扉。
それだけが、二人を隔てていた。
でもその扉は、幼い二人にとってあまりにも重かった。
恐怖。
罪悪感。
痛み。
言えなかったありがとう。
受け取れなかったごめん。
全部が、その扉を閉じていた。
「湊」
澪が言った。
「開けて」
「え?」
「今の湊なら、開けられる」
湊は扉を見た。
幼い自分が開けられなかった扉。
十年間、心の中で閉じたままだった扉。
湊は震える手を伸ばした。
ドアノブに触れる。
冷たい。
夢なのに、はっきり冷たい。
「怖い」
湊は正直に言った。
澪は隣で頷いた。
「私も」
「開けたら、何が出てくるか分からない」
「うん」
「でも、開けなきゃ進めないんだろ」
澪は小さく頷いた。
湊は深く息を吸った。
そして、ドアノブを回した。
扉がゆっくり開く。
病室の中の幼い澪が、こちらを見た。
幼い湊も驚いたように顔を上げる。
夢の中の時間が、そこで止まった。
湊は幼い自分の前に立った。
小さな湊は、怯えた顔をしていた。
『僕のせいだ』
幼い湊が言う。
湊は膝をつき、目線を合わせた。
「違う」
『違わない』
「違うんだ」
湊の声が震える。
「お前は澪を助けた」
幼い湊の目に涙が溜まる。
『でも、澪ちゃん痛そうだった』
「そうだな」
『泣いてた』
「うん」
『僕が誘ったから』
「違う」
『僕が止めなかったから』
「違う」
『僕が手を離したから』
湊は息を呑んだ。
その言葉が、ずっと自分を縛っていた。
僕が手を離したから。
でも違う。
本当は、手を離したのではない。
澪を助けるために、突き飛ばした。
そのあと、自分も傷ついた。
二人とも怖かった。
二人とも泣いた。
でも、それは誰か一人の罪ではなかった。
湊は幼い自分の肩を掴んだ。
「お前は、手を離したんじゃない」
幼い湊が顔を上げる。
「助けようとしたんだ」
涙が、幼い湊の頬を伝った。
『でも、澪ちゃんに会えない』
「会える」
湊は言った。
「ほら、そこにいる」
幼い湊が病室のベッドを見る。
幼い澪が、涙を浮かべながらこちらを見ていた。
幼い澪は、小さな手を伸ばした。
『湊くん』
その声が、今度は届いた。
幼い湊の顔が歪む。
『澪ちゃん』
幼い湊は、泣きながら病室へ入った。
そして、ベッドのそばで何度も謝った。
『ごめんね、ごめんね』
幼い澪は首を横に振った。
『ありがとうって言いたかったの』
『でも』
『ありがとう』
幼い澪が言った。
『助けてくれて、ありがとう』
その瞬間、夢の病室に光が差した。
雨の音が遠ざかる。
湊は立ち尽くした。
澪が隣で泣いていた。
「やっと言えた」
澪が呟いた。
「十年かかったね」
湊の目にも涙が浮かんだ。
幼い二人は、病室の中で手を繋いでいた。
本当なら、十年前にそうなるはずだったのだ。
けれど時間は戻らない。
だから今、夢の中でやり直している。
過去を変えるためではなく、過去に閉じ込められた自分たちを連れ出すために。
景色がまた揺れる。
病室の壁が夕焼け色に染まり、屋上へ戻っていく。
幼い二人の姿は消えた。
机の上に置かれていた手紙が、風に揺れている。
澪は涙を拭いながら笑った。
「ありがとう、湊」
「僕は何も」
「開けてくれた」
湊は首を横に振った。
「澪がいたからだ」
「そうかな」
「そうだよ」
二人は屋上のフェンスの前に立った。
夕焼けは、今までで一番綺麗だった。
「ねえ、湊」
澪が名前で呼んだ。
「何」
「もし、私が治療でしばらく会えなくなっても」
湊の胸が強く痛んだ。
「夢で会えるかな」
その問いに、湊はすぐには答えられなかった。
夢で会う。
それは十年前の約束だった。
でも今の湊は、少し怖かった。
夢で会えるということは、現実で会えない時間が来るということでもある。
澪はその意味を分かって聞いている。
湊は手を握った。
「会える」
声が震えた。
「会えるよ」
澪は少し安心したように笑った。
「そっか」
「でも」
湊は続けた。
「夢だけじゃ嫌だ」
澪がこちらを見る。
「現実でも会う。病院でも、退院したあとでも、何年後でも」
湊は澪を真っ直ぐ見た。
「夢で会うのは、現実でまた会うまでの約束にしよう」
澪の瞳が大きく揺れた。
「湊」
「十年前みたいに、夢だけに頼らない」
湊は言った。
「今度は、現実でもちゃんと会いに行く」
澪は口元を押さえた。
泣きそうだった。
いや、泣いていた。
「それ、嬉しすぎる」
「泣くほどか」
「泣くほどだよ」
湊は少し笑った。
澪も泣きながら笑った。
その時、屋上の空に花火が上がった。
夢の中の花火。
音は小さく、光は淡い。
でも、消えずに空に残った。
まるで星のように。
澪はそれを見上げて言った。
「この夢、忘れないでね」
「忘れない」
「また同じ夢を見ても?」
「うん」
「同じじゃなくなっても?」
「それでも」
湊は澪の手を取った。
「澪がいるなら、覚えてる」
澪は嬉しそうに笑った。
その笑顔を最後に、夢はゆっくり薄れていった。
目が覚めると、朝だった。
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。
蝉の声が聞こえる。
部屋の空気は少し蒸し暑い。
湊はしばらく天井を見つめていた。
頬が濡れていた。
でも、胸の奥は昨日までと違っていた。
痛い。
苦しい。
怖い。
でも、少しだけ軽い。
十年前の扉を開けたからだ。
幼い自分に、ようやく言えた。
お前は悪くない。
手を離したんじゃない。
助けようとしたんだ。
そして幼い澪も、ようやく言えた。
ありがとう、と。
湊は机の上のメモを見た。
『澪ちゃんとやること』
五、夢で会う。
湊は鉛筆を取り、その項目に丸をつけた。
でも、すぐ横に小さく書き足した。
『現実でも会う』
それが、今の湊が新しく作った約束だった。
スマホを見ると、澪からメッセージが来ていた。
『おはよう。昨日、夢を見た気がする』
湊は胸が鳴った。
すぐに返信する。
『僕も見た』
少しして、澪から返事。
『同じ夢?』
湊は指を止めた。
そして、こう送った。
『同じだけど、同じじゃない夢』
既読がついた。
すぐに返信が来た。
『うん。私もそう思った』
湊はスマホを握りしめた。
夢は、まだ二人を繋いでいる。
でも、もう夢だけではない。
現実の澪がいる。
メッセージを送れる。
学校で会える。
隣を歩ける。
病院にも、きっと会いに行ける。
湊は制服に着替えた。
今日は澪に会ったら、最初に何を言おう。
夢の話をしようか。
幼い自分の話をしようか。
病室の扉を開けた話をしようか。
考えた末、湊は一番普通の言葉を選んだ。
おはよう。
それでいい。
普通の朝を重ねることが、澪が望んだことだから。
学校へ向かう道で、湊は公園の前を通った。
ブランコが風に揺れている。
そこに幼い二人の姿はない。
でも、いなくなったわけではないと思った。
思い出の中にいる。
夢の中にいる。
そして今の自分たちの中にも、ちゃんと生きている。
校門の前に、澪がいた。
昨日の浴衣姿ではなく、いつもの制服姿。
けれど、湊には分かった。
澪も少しだけ変わっていた。
目元は少し赤かったけれど、表情は昨日より柔らかい。
「おはよう、湊」
澪が言った。
自然に名前で呼ばれた。
湊は少し照れながら答える。
「おはよう、澪」
澪は嬉しそうに笑った。
それだけで、今日が始まった。
同じ夢を見ていた。
でも、同じ朝ではなかった。
夢が変わったように、二人の現実も少しずつ変わっていく。
忘れていた過去に向き合いながら。
まだ見えない未来に怯えながら。
それでも、隣にいることを選びながら。
湊は澪と並んで校舎へ向かった。
夏の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
第8ページを読んでくださり、ありがとうございます。
湊と澪は、夢の中で十年前の病室の扉を開けました。
幼い湊が抱えていた罪悪感、幼い澪が伝えられなかった「ありがとう」。
同じ夢は、少しずつ違う夢へと変わっていきます。
次の第9ページ「君を忘れた僕へ」では、湊が“忘れてしまった自分自身”と向き合い、澪への想いをさらに深く自覚していきます。




