花火が消える前に伝えたいこと
夏祭りの夜。
十年前、途中で終わってしまった約束。
見られなかった花火。
言えなかった言葉。
離れてしまった手。
第7ページ「花火が消える前に伝えたいこと」。
湊と澪は、あの日の続きを歩き始めます。
夏祭りの日、湊は鏡の前で何度も自分の服装を確認していた。
白いTシャツに、黒いパンツ。
特別おしゃれなわけではない。
でも、普段より少しだけ気を遣った。
自分でもおかしいと思った。
ただ澪と夏祭りに行くだけだ。
十年前の続きを歩くだけだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥は朝から落ち着かなかった。
机の上には、古いメモが置いてある。
『澪ちゃんとやること』
一、アイスを食べる。
二、ブランコで勝負する。
三、屋上で夕焼けを見る。
四、夏祭りで花火を見る。
五、夢で会う。
六、大人になっても忘れない。
湊は指先で、その文字をなぞった。
幼い自分の字は、不格好で、まっすぐだった。
アイスは食べた。
ブランコにも乗った。
屋上で夕焼けも見た。
次は、夏祭りで花火を見る。
十年前、そこで何かが途切れた。
花火の音は、雨の音に変わった。
笑い声は、クラクションに変わった。
澪の手は、自分の手から離れた。
湊は深く息を吸った。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、行きたいと思った。
澪と並んで、十年前に見られなかった花火を見たい。
いや、もしかすると本当は見ていたのかもしれない。
忘れているだけなのかもしれない。
どちらでもいい。
今度こそ、最後まで一緒にいたい。
「兄ちゃん、出かけるの?」
部屋の扉から美咲が顔を出した。
「まあ」
「まあって何。夏祭り?」
「そう」
「誰と?」
湊は黙った。
美咲の顔がにやりとする。
「白峰さん?」
「何で名前知ってるんだよ」
「兄ちゃん、寝言で言ってた」
「嘘だろ」
「半分嘘」
「どっちだよ」
美咲は楽しそうに笑った。
それから少しだけ真面目な顔になった。
「兄ちゃん、最近変わったね」
「そうか?」
「うん。前より、ちゃんとどこかに行こうとしてる感じがする」
湊は言葉に詰まった。
どこかに行こうとしている。
それは正しいのかもしれない。
湊はずっと、止まったままだった。
母がいなくなった日から。
澪を忘れた日から。
自分の中のどこかに鍵をかけて、動いているふりをしていた。
けれど今は違う。
怖くても、行きたい場所がある。
会いたい人がいる。
思い出したい過去がある。
「気をつけてね」
美咲が言った。
湊は頷いた。
「行ってくる」
待ち合わせ場所は、商店街の入口だった。
夕方の空は、淡い橙色に染まり始めていた。
祭りの提灯が通りに並び、屋台から甘い匂いや油の匂いが流れてくる。
浴衣姿の子どもたちが走り、親に怒られている。
遠くから太鼓の音が聞こえた。
十年前の夏祭りと、少し似ていた。
湊は人混みの端に立ちながら、何度もスマホの時間を見た。
待ち合わせの五分前。
それなのに、もう落ち着かない。
その時、背後から声がした。
「朝倉くん」
振り返った瞬間、湊は言葉を失った。
澪が立っていた。
紺色の浴衣。
白い花の模様。
髪はいつもより少し高く結われていて、耳元に小さな飾りが揺れている。
夢の中の白いワンピースとは違う。
十年前の澪とも違う。
今、この夏の夜にいる澪だった。
「変?」
澪が少し不安そうに聞いた。
湊は慌てて首を振った。
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ?」
湊は言葉に詰まった。
まただ。
澪はこういう時、こちらが逃げられないように聞いてくる。
湊は視線を逸らしながら、小さく言った。
「似合ってる」
澪の表情がふわりと明るくなった。
「ありがとう」
その笑顔を見るだけで、湊は来てよかったと思った。
「朝倉くんも、いつもよりちゃんとしてる」
「どういう意味だ」
「いつもは、ちょっと寝起きみたい」
「失礼だな」
「今日は、ちゃんと夏祭りに来た人っぽい」
「褒めてるのか?」
「褒めてる」
澪は楽しそうに笑った。
二人は並んで商店街を歩き始めた。
屋台の明かり。
焼きそばの匂い。
りんご飴の赤。
金魚すくいの水面。
遠くで鳴る太鼓。
その全部が、湊の中の記憶を刺激した。
幼い澪が手を引く。
白いワンピースの裾が揺れる。
提灯の下で笑う。
星の砂のキーホルダーを握る。
今の澪と、昔の澪が重なる。
でも湊は、今の澪を見ようと思った。
過去を取り戻すためだけに、ここへ来たわけじゃない。
今の澪と、新しい記憶を作るために来たのだ。
「何食べたい?」
湊が聞くと、澪は目を輝かせた。
「全部」
「無理だろ」
「じゃあ、半分ずつ」
「また僕の分が減る」
「十年前からの伝統です」
「嫌な伝統だな」
まず二人は、焼きそばを買った。
人混みから少し離れた石段に座り、二人で一つのパックを分ける。
澪は箸で麺を持ち上げ、少し苦戦していた。
「浴衣だと食べにくい?」
「うん。でもお祭りっぽい」
「そこ大事なのか」
「大事」
澪は真剣な顔で頷いた。
湊は少し笑った。
その笑顔を見て、澪が目を細める。
「朝倉くん、最近よく笑うね」
「そうか?」
「うん」
「白峰が変なことばっかり言うからだろ」
「私のおかげ?」
「そういうことにしておく」
澪は嬉しそうに笑った。
その後、金魚すくいをした。
澪は意外にも上手かった。
湊は一匹もすくえなかった。
「朝倉くん、不器用」
「紙が弱い」
「みんな同じ紙だよ」
「この店の陰謀だ」
「負け惜しみ」
澪は笑いながら、小さな赤い金魚を袋に入れてもらった。
「飼えるのか?」
湊が聞くと、澪は少しだけ困った顔をした。
「ううん。たぶん、飼えない」
「じゃあ、どうするんだ」
「見るだけでよかった」
その言葉に、湊は少し引っかかった。
見るだけでよかった。
まるで、最初から長く持っていられないと分かっているような言い方だった。
澪は金魚の袋を光に透かした。
水の中で、赤い命が小さく揺れている。
「綺麗」
その横顔は、やっぱり少し泣きそうだった。
湊は聞きたくなった。
どうして飼えないのか。
どうしてそんな顔をするのか。
どうして時間がないのか。
でも、今日の約束を思い出した。
普通に過ごす。
湊は金魚の袋を指さした。
「じゃあ、しばらく僕が持つ」
「え?」
「見たい時に見ればいい」
澪は驚いたあと、笑った。
「ありがとう」
金魚の袋を片手に、二人はまた歩いた。
射的では、湊が小さな星型のキーホルダーを取った。
偶然だった。
棚の端に置かれていた、青い星のキーホルダー。
店のおじさんに渡された瞬間、湊は星の砂のキーホルダーを思い出した。
澪も同じだったようで、目を丸くしていた。
「すごい」
「たまたまだよ」
「でも、星だね」
「いる?」
湊が差し出すと、澪は首を振った。
「朝倉くんが持ってて」
「何で」
「今度は、朝倉くんが忘れないように」
その言葉に、湊の胸が少し痛んだ。
湊はキーホルダーをポケットに入れた。
「忘れないよ」
澪は何も言わず、微笑んだ。
祭りの明かりは、どんどん濃くなっていった。
空は群青色に変わり、提灯の赤が夜の中で揺れている。
人混みはさらに増え、二人の肩が時々触れた。
澪が少しふらついた。
「大丈夫か?」
湊が聞くと、澪はすぐに笑った。
「大丈夫。少し人に酔っただけ」
「休む?」
「ううん。花火まで行きたい」
「無理するな」
「無理じゃない」
澪はそう言ったが、声は少し弱かった。
湊は迷ったあと、手を差し出した。
澪がその手を見た。
「人多いから」
湊は言い訳のように言った。
「はぐれたら困るだろ」
澪はしばらく湊の手を見つめていた。
それから、ゆっくり手を重ねた。
小さくて、温かい手。
湊の胸が強く鳴った。
十年前の雨の日。
離れてしまったかもしれない手。
今、その手をもう一度握っている。
澪も同じことを考えたのか、少しだけ指に力を込めた。
「今度は、離さないでね」
その声は、冗談のようで、祈りのようだった。
湊は真っ直ぐ前を見たまま答えた。
「離さない」
澪は小さく頷いた。
二人は手を繋いだまま、花火が見える河川敷へ向かった。
川沿いには、すでに多くの人が集まっていた。
家族連れ、浴衣姿のカップル、友達同士の高校生。
湊と澪は少し離れた土手の上に座った。
屋台の賑わいが遠ざかり、代わりに川の流れる音と人々のざわめきが聞こえる。
夜空は暗く、花火を待っているみたいだった。
澪は膝を抱え、空を見上げた。
「十年前も、ここで見る予定だった」
湊は隣で頷いた。
「思い出したのか?」
「うん。少しずつ」
「僕も」
湊はポケットの中の星のキーホルダーに触れた。
「夏祭りのあと、花火を見に行こうとしてた。君が走って、僕が追いかけた」
澪は静かに聞いていた。
「雨が降った」
「うん」
「そのあと、まだ思い出せない」
湊の声は震えていた。
澪はそっと言った。
「無理に思い出さなくていい」
「でも、思い出さなきゃいけないんだろ」
「うん」
澪は頷いた。
「でも、今じゃなくていい」
「いつならいいんだ」
澪は答えなかった。
夜風が吹き、澪の髪飾りが小さく揺れた。
「白峰」
湊は静かに言った。
「今日、花火が終わったら、話してほしい」
澪の肩がわずかに震えた。
「何を?」
「君が隠してること」
澪は何も言わなかった。
「全部じゃなくていい。でも、僕はもう、君が消えるかもしれないって不安を抱えたまま笑えない」
澪の目が揺れた。
「朝倉くん」
「普通に過ごしたいって言ったのは君だ。でも、普通に過ごすためにも、僕は知りたい」
湊は澪を見た。
「君が何を怖がってるのか。何で最後って言ったのか。何で金魚を飼えないのか」
澪の唇が少し震えた。
湊は続けた。
「僕は、可哀想だから優しくしたいわけじゃない」
澪が息を呑む。
「君が大事だから、隣にいたいんだ」
その言葉を口にした瞬間、湊自身が一番驚いた。
大事。
それは、友達としてだけの言葉ではなかった。
まだ好きだと呼ぶには怖かった。
恋だと言い切るには、過去と現在が複雑に絡みすぎていた。
でも、それでも。
澪が大事だった。
失いたくなかった。
花火が上がる前の夜空の下で、澪は湊を見つめていた。
その目に涙が浮かんでいる。
「私も」
澪は小さく言った。
「朝倉くんが、大事」
その声は震えていた。
「だから、言うのが怖い」
「何を」
その時、最初の花火が上がった。
ヒュウ、と夜空を切る音。
次の瞬間、大きな花が空に開いた。
赤と金の光が、川面に散る。
人々の歓声が響いた。
澪の顔が花火の光に照らされた。
泣いていた。
湊は思わず手を伸ばした。
澪の頬の涙を拭うことはできなかった。
ただ、その手をもう一度握った。
澪も握り返した。
花火が次々と上がる。
青。
緑。
白。
金。
夜空に咲いては消えていく。
湊はその光を見ながら、胸の奥で記憶が揺れるのを感じた。
十年前も、花火が上がっていた。
いや、上がるはずだった。
でも、その前に雨が降った。
違う。
思い出せ。
本当に雨は、花火の前だったのか。
記憶の奥で、幼い澪が笑う。
『花火が消える前に、言いたいことがあるの』
幼い湊が首を傾げる。
『何?』
『あとで言う』
『今言えばいいのに』
『花火見ながら言うの』
『変なの』
『いいの』
その声。
花火が消える前に伝えたいこと。
澪は十年前、何を言おうとしていたのだろう。
湊は隣の澪を見た。
「白峰」
花火の音に負けないよう、少し大きな声で呼ぶ。
澪がこちらを見る。
「十年前、君は花火を見ながら何か言おうとしてた」
澪の目が大きく開いた。
「思い出したの?」
「少しだけ」
澪は唇を噛んだ。
花火がまた上がる。
光が二人の間を照らしては消える。
「言って」
湊は言った。
「十年前に言えなかったこと」
澪は首を横に振った。
「今言ったら、たぶん泣く」
「泣けばいい」
「止まらなくなる」
「止まるまでいる」
第4ページの屋上で交わした言葉が、また二人の間に戻ってきた。
澪は涙をこぼしながら笑った。
「朝倉くん、そういうところ、本当にずるい」
「何が」
「逃げ道を塞ぐところ」
「君が逃げるからだ」
「そうだね」
澪は夜空を見上げた。
大きな花火が開いた。
その光の下で、澪はゆっくり口を開いた。
「十年前、私が言いたかったのはね」
湊は息を止めた。
「湊くんに会えてよかったってこと」
澪の声は、花火の音に少し震えていた。
「家のことでつらいことがあっても、病院が怖くても、知らない町に引っ越すのが不安でも、湊くんがいたから、私は少しだけ大丈夫だった」
湊は何も言えなかった。
「だから、花火が上がったら言おうと思ってた。湊くんがいてくれてよかった。友達になってくれてありがとうって」
澪の涙が止まらない。
「でも、言えなかった」
花火の光が消える。
夜が一瞬戻る。
「事故のあと、何度も夢で言った。でも、夢の湊くんはいつも顔が見えなかった。だから、現実で言いたかった」
澪は湊を見た。
「ありがとう、湊くん」
その名前の呼び方に、湊の胸が震えた。
朝倉くんではなく、湊くん。
十年前の続きのように。
湊は唇を噛んだ。
泣きそうだった。
けれど、今度は涙を我慢しようとは思わなかった。
「僕も」
声が掠れた。
「澪に会えてよかった」
澪の瞳が揺れる。
「忘れてたのに?」
「忘れてた。でも、全部消えたわけじゃなかった」
湊は澪の手を握った。
「夢でずっと会ってた。顔は思い出せなかったけど、声は残ってた。胸の痛みも、懐かしさも、全部残ってた」
花火がまた上がる。
湊は続けた。
「たぶん僕は、澪のことを完全には忘れられなかったんだと思う」
澪は泣きながら笑った。
「それ、嬉しい」
「嬉しいのか」
「うん」
「忘れたのに?」
「思い出してくれたから」
湊は胸が詰まった。
澪はいつもそうだ。
失ったものより、戻ってきたものを見ようとする。
悲しみより、今ここにある温かさを掴もうとする。
だからこそ、湊は怖かった。
そんな澪が「最後」と言う意味が。
花火は中盤に入り、連続で夜空を染めていた。
人々の歓声。
川面に映る光。
澪の涙。
繋いだ手の温度。
湊はその全部を忘れたくないと思った。
「花火が終わったら」
澪が言った。
「少しだけ、話すね」
湊は頷いた。
「うん」
「でも、その前に」
澪は涙を拭って笑った。
「最後まで、花火を見たい」
「分かった」
二人は並んで花火を見た。
言葉は少なかった。
けれど、手は繋いだままだった。
湊は夜空を見上げながら、十年前の続きを歩いているのだと思った。
あの日、見られなかった花火。
言えなかったありがとう。
離れてしまった手。
その全部が、少しずつ今に繋がっていく。
そして最後の大きな花火が上がった。
夜空いっぱいに、金色の光が広がる。
周囲から歓声が上がった。
澪はその光を見上げていた。
湊は澪の横顔を見ていた。
花火は美しかった。
けれど、それよりも、花火を見ている澪の顔を覚えていたいと思った。
やがて光が消えた。
夜空が戻る。
拍手が起こる。
祭りの終わりの空気が、ゆっくり河川敷に広がっていく。
澪は静かに立ち上がった。
「少し、歩こう」
湊も立ち上がった。
二人は人混みから離れ、川沿いの暗い道を歩いた。
祭りの音が背中の方で遠ざかっていく。
街灯の下、澪は足を止めた。
「朝倉くん」
「うん」
澪は金魚の袋を見つめた。
水の中で、赤い金魚が小さく揺れている。
「私ね、また入院するの」
湊の心臓が止まりそうになった。
「入院?」
澪は頷いた。
「この夏が終わったら」
「どこか悪いのか」
「事故の後遺症。ずっと治療してた。普通に生活できる時もあるけど、波があるの」
湊は言葉を失った。
澪は続ける。
「今回この町に戻ってきたのは、治療の前に、どうしても湊くんに会いたかったから」
「治療って……治るんだよな」
澪はすぐには答えなかった。
その沈黙が、湊の胸を冷たくした。
「分からない」
澪は正直に言った。
「よくなるかもしれない。でも、悪くなるかもしれない」
「そんな」
「だから、金魚は飼えないの。最後まで面倒を見られるか分からないから」
湊は拳を握った。
澪が隠していたことの一部が、やっと形を持った。
時間がない。
最後に会いたかった。
消えるかもしれない。
それは、比喩ではなかった。
湊の中に、怒りに似た感情が湧いた。
誰に向けたものか分からない。
事故に。
運命に。
十年前の自分に。
澪を苦しめ続けた時間に。
「何で言わなかった」
湊の声は震えていた。
澪は目を伏せた。
「言ったら、今日みたいに笑えなくなると思ったから」
「笑えなくてもいいだろ」
「私は、笑いたかった」
澪は顔を上げた。
涙は流れていなかった。
でも、その目は深く揺れていた。
「湊くんと、普通に夏祭りを歩きたかった。可哀想な子じゃなくて、十年前に約束した友達として、隣にいたかった」
湊は何も言えなかった。
澪の願いは、いつもささやかだ。
アイスを食べたい。
ブランコに乗りたい。
花火を見たい。
普通に隣にいたい。
そんな小さな願いさえ、澪にとっては大切なものだった。
「でも」
澪は小さく言った。
「もう隠したくないとも思った」
「澪」
「花火が消える前に伝えたいこと、ちゃんと言えたから」
澪は少し笑った。
「次は、朝倉くんにちゃんと知ってほしい」
湊は澪を見つめた。
「僕は」
声がうまく出なかった。
「どうすればいい」
澪は首を横に振った。
「何かしてほしいわけじゃない」
「でも」
「隣にいて」
澪の声は、小さいけれどはっきりしていた。
「治るって簡単に言わなくていい。大丈夫って無理に言わなくていい。可哀想って思わなくてもいい。ただ、今までみたいに隣にいてほしい」
湊の目が熱くなった。
「いるよ」
迷わず言った。
「いる。隣にいる」
澪の顔が少し歪んだ。
泣きそうだった。
「また約束してくれるの?」
「する」
「忘れない?」
「忘れない」
澪は震える手を差し出した。
湊はその手を握った。
十年前より強く。
さっきより確かに。
「花火、見られてよかった」
澪が言った。
「うん」
「ありがとうって言えてよかった」
「僕も、聞けてよかった」
澪は笑った。
その笑顔は、今夜見たどの花火よりも、湊の胸に残った。
帰り道、二人はあまり話さなかった。
商店街の屋台は片づけを始めていた。
提灯の明かりはまだ残っているが、祭りの熱は少しずつ冷めていく。
澪は金魚の袋を湊に渡した。
「お願いしてもいい?」
「うん」
「見られなくなるわけじゃないよ。時々、写真送って」
「連絡先、まだ知らない」
澪は少し驚いたあと、笑った。
「そうだった」
二人はスマホを取り出し、連絡先を交換した。
その何気ない行為が、湊には妙に嬉しかった。
夢ではなく、現実で繋がる方法が一つ増えた気がした。
駅前で別れる時、澪は湊を見上げた。
「今日は楽しかった」
「僕も」
「泣いたけど」
「泣いていいって言っただろ」
「うん」
澪は小さく笑った。
「朝倉くんも、泣きそうだった」
「気のせいだ」
「嘘」
湊は何も言い返せなかった。
澪は少しだけ近づいて、湊の手を握った。
「おやすみ、湊くん」
その呼び方に、胸が鳴る。
「おやすみ、澪」
初めて、名字ではなく名前を呼んだ。
澪は驚いたように目を見開き、それから本当に嬉しそうに笑った。
「また明日」
「また明日」
それは、とても普通の言葉だった。
でも、湊にとっては祈りみたいだった。
家に帰ると、美咲がリビングで待っていた。
「遅かったね」
「祭りだから」
「楽しかった?」
湊は少し考えてから頷いた。
「楽しかった」
美咲は目を丸くした。
「兄ちゃんが素直に楽しかったって言った」
「うるさい」
「よかったね」
その言葉が妙に優しくて、湊は返事に困った。
部屋に戻ると、湊は金魚の袋を小さな容器に移した。
美咲に手伝ってもらいながら、仮の水槽を作った。
赤い金魚は、静かに水の中を泳いでいる。
湊はスマホで写真を撮り、澪に送った。
すぐに返信が来た。
『ありがとう。名前つけていい?』
湊は少し笑った。
『いいよ』
澪から返事。
『はなび』
湊は画面を見つめた。
金魚の名前は、はなび。
消えてしまう光ではなく、水の中で生きている小さな赤。
湊は返信した。
『忘れない名前だな』
澪から、少し間を置いて返事が来た。
『忘れないでね』
その文字を見た瞬間、胸が痛んだ。
湊はゆっくり打った。
『忘れない』
送信してから、スマホを胸に当てた。
その夜、湊は夢を見た。
夏祭りの夜だった。
十年前の自分と澪が、手を繋いで走っている。
白いワンピースの澪。
青い恐竜のシャツを着た湊。
花火を見るために、河川敷へ向かっている。
『花火が消える前に言うからね』
澪が笑う。
『何を?』
『秘密』
空に最初の花火が上がる。
でも、その直後、雨が降り始める。
人々が慌てて走る。
提灯の光が滲む。
道路が濡れる。
車のライトが伸びる。
澪の手が滑る。
『澪ちゃん!』
幼い湊が叫ぶ。
澪が振り返る。
その時、車のライトが近づく。
湊は走る。
澪の手を掴む。
今度こそ離さない。
そう思った。
けれど、幼い湊の手は小さすぎた。
濡れた手が滑る。
澪が道路の真ん中で固まる。
湊は夢の中で叫んだ。
「押せ!」
幼い湊が、澪を突き飛ばす。
澪の体が歩道側へ倒れる。
次の瞬間、強い衝撃。
景色が白く弾けた。
湊は息を呑んで目を覚ました。
全身が汗で濡れていた。
心臓が激しく鳴っている。
思い出した。
あの日、澪だけが事故に遭ったのではない。
自分も、車に接触していた。
だから軽傷の記事があった。
自分は澪を突き飛ばして、代わりに車の端にぶつかった。
そして倒れた自分が最後に見たのは、歩道に倒れた澪が泣きながらこちらへ手を伸ばす姿だった。
『湊くん!』
澪は自分を呼んでいた。
湊は震えながら、額を押さえた。
父は言った。
お前は澪ちゃんを助けた。
でも幼い自分は、澪が傷ついたことだけを覚えて、自分が救ったことを受け入れられなかった。
澪もまた、湊が傷ついたことをずっと覚えていた。
二人は互いに、自分のせいだと思っていたのだ。
湊はスマホを見た。
澪からの最後のメッセージ。
『忘れないでね』
湊は小さく呟いた。
「忘れない」
花火が消える前に伝えたいこと。
ありがとう。
会えてよかった。
隣にいてほしい。
忘れないで。
十年前に言えなかった言葉が、ようやく届き始めた。
でも同時に、澪の現実も湊の前に現れた。
この夏が終わったら、澪はまた入院する。
治るかどうかは分からない。
湊は窓の外を見た。
夜明け前の空はまだ暗い。
けれど、遠くの方で、ほんの少しだけ青くなり始めていた。
湊は思った。
怖い。
でも、逃げない。
澪が花火の下で伝えてくれたから。
今度は自分が伝える番だ。
大丈夫なんて簡単には言えない。
絶対治るなんて無責任なことも言えない。
でも、隣にいることはできる。
忘れないことはできる。
湊は机の上の古いメモに目を向けた。
四、夏祭りで花火を見る。
その項目に、そっと鉛筆で丸をつけた。
残る約束は、あと二つ。
五、夢で会う。
六、大人になっても忘れない。
そして湊はまだ知らなかった。
次の夜から、夢は少しずつ変わり始める。
同じ夢のはずなのに、
同じではいられなくなることを。
花火が消えたあとに残る暗闇の中で、
二人の本当の別れが、静かに近づいていることを。
第7ページを読んでくださり、ありがとうございます。
夏祭りの夜、湊と澪は十年前に言えなかった「ありがとう」を伝え合いました。
そして澪は、自分がこの夏の終わりにまた入院することを明かします。
花火は綺麗に消えたけれど、二人の時間はまだ終わりません。
次の第8ページ「また、同じ夢を見ていた」では、湊の夢が変化し、事故の記憶と澪の本当の想いがさらに深く重なっていきます。




