夏の匂い、君の隣
忘れてしまった約束を思い出しても、
過去がすべて戻るわけではない。
けれど、もう一度隣を歩くことはできる。
アイスを食べて、笑って、くだらない話をして、
失った十年を少しずつ埋めるように。
第6ページ「夏の匂い、君の隣」。
湊と澪は、十年前の続きを始めます。
その朝、湊はいつもより少し早く家を出た。
理由は分かっていた。
澪と約束をしていたからだ。
通学路の途中にある小さな児童公園で、アイスを食べる約束。
たったそれだけのことなのに、湊の胸は朝から落ち着かなかった。
夏の空は、朝から容赦なく青かった。
雲は薄く、太陽はまだ低い位置にあるのに、アスファルトにはもう熱がこもっている。
蝉の声が、世界の隙間という隙間を埋めるように鳴いていた。
湊は歩きながら、昨日の手紙のことを思い出していた。
『大人になっても、また会えます』
幼い自分が、澪に書いた言葉。
あの頃の自分は、本気で信じていたのだろう。
約束は破れないものだと。
大切な人とは、離れてもまた会えるのだと。
夢で会うと言えば、本当に夢の中で会えるのだと。
今の湊は、そんなふうに真っ直ぐ信じることができない。
けれど、信じられなかったはずの約束が、今こうして目の前に戻ってきている。
澪がいる。
十年前の手紙がある。
夢の中で繰り返し見ていた屋上も、白いワンピースも、全部ただの幻ではなかった。
ならば、幼い自分の言葉は、完全な嘘ではなかったのかもしれない。
公園が見えてきた。
錆びたブランコ。
色あせた滑り台。
砂場の隅に残された小さなバケツ。
昔と変わったところもあるはずなのに、湊にはその場所がやけに懐かしく見えた。
公園の入り口に、澪が立っていた。
白いブラウスに、紺色のスカート。
制服ではない私服姿の澪を見るのは初めてだった。
髪はいつもより少しだけゆるく結ばれていて、肩にかけた小さな鞄が風に揺れている。
湊は一瞬、足を止めた。
澪が気づいて、手を振った。
「おはよう、朝倉くん」
「おはよう」
声が少し硬くなった。
澪は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや……私服、珍しいなって」
言ってから、湊は自分の言葉に少し焦った。
澪は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「似合わない?」
「そうじゃない」
「じゃあ?」
湊は視線を逸らした。
「……似合ってる」
澪は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見て、湊の胸が少し熱くなった。
澪が笑う。
ただそれだけで、朝の公園が昨日より明るく見える。
「アイス、買いに行こう」
澪が言った。
「まだ朝だけど」
「朝アイスも夏っぽいよ」
「そうか?」
「そういうことにしよう」
二人は公園近くの小さなコンビニへ向かった。
店内は冷房が効いていて、外の熱気から逃げ込んだ瞬間、澪が小さく息を吐いた。
「涼しい」
「ずっとここにいたいな」
「それは普通の夏じゃなくて、ただの避暑」
「普通って難しい」
澪はアイスケースの前で真剣に悩んでいた。
バニラ。
チョコ。
いちご。
ソーダ。
抹茶。
湊はソーダ味を手に取った。
澪は悩んだ末、バニラを選んだ。
「十年前と同じ?」
湊が聞くと、澪は頷いた。
「うん。私はバニラが好きだった」
「今も?」
「今も」
「変わらないんだな」
「変わったこともあるよ」
澪はそう言って、レジへ向かった。
湊はその背中を見ながら、胸の奥が少し痛くなった。
変わったこともある。
澪のその言葉の中には、湊がまだ知らない十年が詰まっている。
入院生活。
町を離れた日。
渡せなかった手紙。
夢で湊を待ち続けた時間。
そして、今もまだ隠している秘密。
湊はそれを聞きたいと思った。
でも、約束した。
急がないと。
普通に過ごすと。
だから今は、アイスを持って公園に戻る。
それだけでいい。
公園のベンチに二人で座った。
蝉の声が近い。
木陰に入っていても、夏の熱は肌にまとわりついてくる。
澪はバニラアイスの袋を開け、嬉しそうに一口食べた。
「冷たい」
「アイスだからな」
「そういう返し、十年前もしてた気がする」
「僕、昔からつまらない奴だったのか」
「ううん。ちょっと意地悪だった」
「意外だな」
「今もだよ」
湊はソーダアイスをかじった。
冷たさが歯にしみる。
澪がそれを見て笑った。
「痛そう」
「見て笑うな」
「だって、すごい顔した」
「冷たかっただけだ」
「朝倉くん、昔もよくそういう顔してた」
「どんな顔?」
「強がってるけど、ほんとは痛い顔」
湊は言葉に詰まった。
澪は何気なく言ったのだろう。
けれど、その言葉は湊の中に静かに落ちた。
強がってるけど、ほんとは痛い顔。
自分はずっと、そんな顔をして生きてきたのかもしれない。
澪が横から自分のバニラアイスを差し出した。
「一口いる?」
「いい」
「交換する約束だったでしょ」
「そんな約束したか?」
「昨日した」
「よく覚えてるな」
「約束は覚えるタイプなので」
その言い方に、湊は少し胸が痛んだ。
澪はわざと明るく言ったのかもしれない。
湊はソーダアイスを差し出した。
「じゃあ、一口」
澪は嬉しそうに少しかじった。
「冷たい」
「アイスだからな」
「またそれ」
澪は笑った。
そして湊のバニラアイスを受け取るように差し出す。
湊も一口食べた。
甘かった。
思ったよりずっと甘くて、なぜか懐かしい味がした。
その瞬間、頭の中に小さな記憶が浮かんだ。
十年前の公園。
幼い澪が、ベンチに座ってバニラアイスを食べている。
幼い湊は隣でソーダアイスを食べている。
澪が言う。
『一口交換しよう』
『やだ』
『なんで?』
『澪ちゃん、絶対大きく食べるから』
『そんなことない』
『前もそう言った』
『今回は小さく食べる』
結局、澪は大きくかじって、湊が怒る。
澪は笑いながら謝る。
その光景があまりにも鮮明で、湊は思わず笑ってしまった。
澪が驚いたように見た。
「どうしたの?」
「思い出した」
「何を?」
「君、昔も僕のアイス大きく食べただろ」
澪は一瞬固まった。
それから、頬を赤くして目を逸らした。
「……覚えてたんだ」
「今思い出した」
「そんなこと思い出さなくていいのに」
「大事なことだろ」
「大事かな」
「僕のアイスが減った」
「十年前の恨みを今言う?」
湊は少し笑った。
澪も笑った。
その笑い声が、公園の中に小さく響いた。
普通の朝。
普通の公園。
普通のアイス。
でも、湊にとっては、奇跡みたいな時間だった。
十年前に置き忘れてきたものが、少しずつ戻ってくる。
それは悲しみだけではなかった。
ちゃんと笑いもあった。
くだらない喧嘩もあった。
アイスを取られた記憶もあった。
失くした過去は、痛みだけでできていたわけではない。
澪といた時間には、確かに温かさがあった。
「朝倉くん」
澪が不意に言った。
「何」
「思い出すの、怖くなくなった?」
湊は少し考えた。
「怖いよ」
正直に答えた。
「でも、全部が怖いわけじゃないって分かった」
澪は静かに湊を見た。
「楽しいこともあったんだな」
「うん」
「僕は、それも忘れてた」
澪は少しだけ寂しそうに笑った。
「でも今、思い出した」
湊は頷いた。
「うん」
澪はアイスの棒を見つめながら言った。
「私ね、忘れられて悲しかった。でも、朝倉くんが楽しかったことまで忘れて苦しんでたなら、それも悲しい」
湊は黙った。
澪は続けた。
「だから、思い出してほしいの。事故のことだけじゃなくて、一緒に笑ったことも」
その言葉に、湊は深く頷いた。
「分かった」
アイスを食べ終えたあと、二人は公園を歩いた。
ブランコは錆びていたが、まだ使えた。
澪がブランコの前で立ち止まる。
「乗っていい?」
「高校生が?」
「高校生でも乗れるよ」
澪はそう言って、ブランコに座った。
ゆっくり足で地面を蹴る。
ぎい、と金属の音が鳴った。
湊は隣のブランコに座った。
二人で並んで、ゆっくり揺れる。
「懐かしい」
澪が呟いた。
「ここでも遊んだ?」
「うん。朝倉くん、ブランコこぐの下手だった」
「そんなことまで覚えてるのか」
「覚えてるよ。全然高くこげないのに、怖くないって言ってた」
「それは……たぶん今も下手だ」
澪は笑った。
「やってみて」
「嫌だ」
「ほら、強がってる」
湊はため息をつきながら、少し強めに地面を蹴った。
ブランコが前に出る。
想像より少し高く上がり、湊は思わず鎖を強く握った。
澪が隣で笑う。
「顔!」
「うるさい」
「やっぱり下手」
「笑いすぎだ」
澪は楽しそうに笑っていた。
湊はその笑顔を横目で見ながら、心の奥にある不安が少しずつ薄れていくのを感じた。
澪が笑っている。
それだけでいいと思った。
でも、それだけではいられないことも分かっていた。
公園で過ごしたあと、二人は少し遅れて学校へ向かった。
校門に着くと、悠真が待っていた。
「お前ら、朝からデートか」
「違う」
湊が即答する。
澪は少し笑った。
「アイス食べてただけ」
「それを世間ではデートって言うんだよ」
「言わない」
「湊、顔赤いぞ」
「暑いだけだ」
「はいはい、夏だもんな」
悠真はにやにやしながらも、それ以上は茶化さなかった。
教室に入ると、いつもの日常が始まった。
授業。
休み時間。
クラスメイトの声。
黒板を叩くチョークの音。
けれど湊には、今日の一つ一つが昨日より少し鮮やかに見えた。
澪が隣にいる。
ノートを取る横顔。
ペンを落として慌てる仕草。
教師に当てられて少し焦る声。
そんな何気ない姿が、湊の中に静かに積もっていく。
忘れたくない、と思った。
もう二度と、澪との時間を失くしたくない。
昼休み、澪は悠真と三人で中庭にいた。
悠真は購買の焼きそばパンを食べながら、澪に質問攻めをしていた。
「白峰さん、好きな食べ物は?」
「バニラアイス」
「湊、メモしとけ」
「何で僕が」
「好きな色は?」
「白と青」
「湊、メモ」
「だから何で」
澪は笑いながら答えていた。
「じゃあ、嫌いなものは?」
悠真が聞いた時、澪は少しだけ黙った。
湊はその沈黙に気づいた。
澪は空を見上げ、小さく言った。
「病院の匂い」
空気が少し止まった。
悠真もすぐに冗談を引っ込めた。
「そっか」
澪はすぐに笑った。
「でも、今はそんなに嫌いじゃないよ。助けてくれる場所でもあるから」
湊は何も言えなかった。
病院の匂い。
夢の中で見た、あの白い廊下。
消毒液の匂い。
澪の手紙。
澪にとってその匂いは、痛みと孤独の記憶なのだろう。
でも、澪はそれすらも優しく言い換えようとする。
助けてくれる場所でもあるから、と。
湊は思った。
澪は、強いのではない。
強くあろうとしてきたのだ。
自分が壊れないように。
周りを悲しませないように。
そしてきっと、湊が自分を責めすぎないように。
放課後、三人で途中まで一緒に帰った。
悠真が用事があると言って駅前で別れたあと、湊と澪は商店街へ向かった。
週末の夏祭りのポスターが貼られていた。
「小さな夏祭りだけど、花火も少し上がるんだって」
澪が嬉しそうに言う。
「人多そうだな」
「苦手?」
「得意ではない」
「じゃあ、私が案内する」
「この町に詳しいのは僕の方じゃないのか」
「十年前の私は詳しかった」
「十年前か」
「うん。十年前の私に案内してもらうと思って」
湊は少し笑った。
「それは頼りになるのか?」
「たぶん迷う」
「だめじゃん」
澪は楽しそうに笑った。
その笑顔を見るたび、湊は胸の奥が温かくなる。
けれど、同時に怖くなる。
この時間が楽しければ楽しいほど、澪が隠している「最後」が近づいている気がした。
湊はその不安を飲み込んだ。
今日は普通に過ごすと決めた。
商店街の端にある小さな雑貨屋に入ると、風鈴が涼しげな音を立てた。
澪は店内を楽しそうに見て回った。
ガラス細工。
小さな便箋。
花柄のハンカチ。
星の形をしたキーホルダー。
星のキーホルダーの前で、澪が足を止めた。
「星、好きなのか?」
湊が聞くと、澪は頷いた。
「うん。昔から」
「星の砂のキーホルダーも?」
「うん。あれ、朝倉くんが選んでくれたんだよ」
「僕が?」
「そう。澪ちゃんは泣き虫だから、星を持ってたら夜でも寂しくないだろって」
湊は顔をしかめた。
「僕、そんな恥ずかしいこと言ったのか」
「言ったよ。すごく真面目な顔で」
「忘れててよかった」
「私は覚えててよかった」
澪はそう言って、小さな星のチャームを手に取った。
「買うのか?」
「ううん」
澪は少し考えたあと、それを戻した。
「今は、持ってる星で十分」
湊は胸が少し痛くなった。
澪が十年間守ってきた星の砂。
それは、ただのキーホルダーではなかった。
湊との約束そのものだった。
店を出ると、夕方の風が吹いていた。
夏の匂いがした。
焼けたアスファルト。
遠くの屋台準備の油の匂い。
誰かの家から漂う夕飯の匂い。
風鈴の音。
蝉の声。
澪が目を閉じて、ゆっくり息を吸った。
「夏の匂い」
「暑いだけじゃないのか」
「違うよ」
澪は笑った。
「夏は、匂いで思い出すんだよ」
「何を?」
「楽しかったことも、寂しかったことも」
湊は澪の横顔を見た。
夕方の光に照らされた彼女は、今にも夏の中に溶けてしまいそうだった。
「白峰」
「うん?」
「今は、何を思い出してる?」
澪は少し考えた。
「湊くんが、アイスを取られて怒ってた顔」
「それかよ」
「あと、屋上の夕焼け」
「うん」
「それから……」
澪は言いかけて、口を閉じた。
「何?」
湊が聞くと、澪は首を振った。
「まだ内緒」
湊はため息をついた。
「内緒多いな」
「女の子は秘密が多いのです」
「便利な言葉だな」
澪は笑った。
その笑顔があまりにも穏やかで、湊はそれ以上聞けなかった。
帰り道、二人は少し遠回りをした。
川沿いの道を歩く。
水面に夕焼けが映り、赤く揺れている。
草むらから虫の声が聞こえ始めていた。
澪は湊の少し前を歩いていた。
その背中を見ながら、湊はふと思った。
この時間を覚えていたい。
澪が歩く速さ。
風で揺れる髪。
サンダルの小さな音。
夕焼けを見て立ち止まる癖。
全部、覚えていたい。
「朝倉くん」
澪が振り返った。
「何ぼーっとしてるの?」
「別に」
「また別に」
「考えてただけ」
「何を?」
湊は少し迷った。
でも、今日は少しだけ素直になろうと思った。
「忘れたくないなって」
澪の表情が変わった。
「今日のこと」
湊は続けた。
「アイス食べたことも、ブランコで笑われたことも、商店街歩いたことも」
澪は何も言わなかった。
ただ、目を細めて湊を見ていた。
「今度は、忘れたくない」
湊がそう言うと、澪は泣きそうに笑った。
「うん」
「また泣きそう」
「言うの早い」
「泣いていいって言っただろ」
「今日は泣かない」
「どうして」
澪は夕焼けの方を見た。
「今日は、楽しい日だから」
その言葉に、湊は胸が締めつけられた。
楽しい日は泣かない。
澪はきっと、そうやってずっと自分を支えてきたのだろう。
悲しい日だけ泣くのではなく、楽しい日には楽しいままでいようとする。
その健気さが、湊には少し痛かった。
「じゃあ、楽しいまま帰るか」
湊が言うと、澪は嬉しそうに頷いた。
「うん」
駅前で別れる時、澪は少しだけ名残惜しそうに立ち止まった。
「明日も学校でね」
「うん」
「週末、夏祭りね」
「忘れない」
澪は笑った。
「約束」
「約束」
その言葉を交わすたび、湊の胸には温かさと不安が同時に広がる。
約束は、未来へ続く言葉だ。
でも澪にとっては、別れを数える言葉でもあるのかもしれない。
湊はその考えを追い払った。
今日は楽しい日。
澪がそう言ったから。
だから、これ以上不安で汚したくなかった。
家に帰ると、美咲がリビングで宿題をしていた。
「兄ちゃん、最近帰り遅いね」
「そうか?」
「そうだよ。しかも、ちょっと機嫌いい」
「普通だろ」
「普通じゃない。何かあった?」
美咲はにやにやしている。
湊は鞄を置きながら言った。
「友達と寄り道しただけ」
「友達? 女の子?」
湊は答えなかった。
美咲の目が輝く。
「え、当たり?」
「宿題しろ」
「兄ちゃんが青春してる!」
「うるさい」
美咲は楽しそうに笑った。
その笑い声を聞いて、湊は少しだけ安心した。
家の中にも、こんなに普通の音があったのだ。
母が亡くなってから、湊は家を静かな場所だと思い込んでいた。
父の疲れた背中と、美咲の気遣いと、自分の沈黙だけがある場所だと。
でも、違った。
美咲は笑う。
父は心配する。
朝食は少し焦げていても温かい。
澪と再会してから、湊は自分の周りにあったものにも少しずつ気づき始めていた。
夕食後、湊は部屋で手紙を読み返した。
幼い澪の手紙。
幼い自分の手紙。
何度読んでも、胸が痛くなる。
でも、その痛みは以前のような黒い穴ではなかった。
そこには確かに、愛しさがあった。
大切だったから痛い。
大切だったから忘れた。
大切だったから、もう一度思い出そうとしている。
湊は机の引き出しを開け、古いノートを探した。
小学生の頃の自由帳。
落書き。
夏休みの予定表。
使いかけのシール。
その奥に、小さな紙切れがあった。
色あせたメモ。
そこには、幼い字でこう書かれていた。
『澪ちゃんとやること』
一、アイスを食べる。
二、ブランコで勝負する。
三、屋上で夕焼けを見る。
四、夏祭りで花火を見る。
五、夢で会う。
六、大人になっても忘れない。
湊の手が震えた。
これは、十年前の自分が書いたものだ。
今日、アイスを食べた。
ブランコにも乗った。
屋上で夕焼けも見た。
残っているのは、夏祭りで花火を見ること。
夢で会うこと。
大人になっても忘れないこと。
湊はそのメモを見つめたまま、胸の奥が熱くなるのを感じた。
十年前の自分も、ちゃんと澪との未来を考えていた。
子どもなりに。
不器用に。
真っ直ぐに。
その夜、湊は夢を見た。
公園だった。
夕方の公園。
幼い湊と幼い澪が、ブランコに乗っている。
澪が大きく揺れて笑っている。
湊は怖がりながらも、負けないように足を動かしている。
『湊くん、遅い!』
『うるさい!』
『私の勝ち』
『まだ勝負してない』
『じゃあ明日も勝負ね』
『いいよ』
『約束』
『約束』
夢の中の二人は、本当に楽しそうだった。
やがて景色が変わる。
夏祭りの夜。
提灯の明かり。
人の声。
花火の音。
白いワンピースの澪が、湊の手を引いて走っている。
『早く! 花火始まっちゃう!』
『待ってよ!』
『待たない!』
幼い澪の笑い声。
その声が、少しずつ遠くなる。
雨の音が混ざる。
花火の音が、車のクラクションに変わる。
湊は夢の中で叫んだ。
「待って」
でも、幼い二人は止まらない。
雨。
道路。
光。
そして、夢はまた途切れた。
湊は目を覚ました。
息が乱れていた。
けれど、今回は涙だけではなかった。
思い出した楽しい記憶の温かさと、その先に待つ事故の冷たさが、胸の中で混ざっていた。
湊は枕元に置いたメモを見た。
『澪ちゃんとやること』
次は、夏祭りで花火を見る。
きっとそこで、さらに思い出す。
楽しい記憶も。
悲しい記憶も。
最後の約束も。
湊は怖かった。
でも、行きたいと思った。
澪の隣で、夏祭りの夜をもう一度歩きたい。
十年前に途切れた道を、今度は最後まで歩きたい。
朝になったら、澪に見せよう。
このメモを。
十年前の自分が、どれだけ澪との時間を楽しみにしていたのかを。
そして伝えよう。
今日も明日も、忘れないように一緒に思い出したい、と。
湊は目を閉じた。
窓の外では、まだ夜の静けさが残っている。
でも、遠くの空は少しずつ白み始めていた。
夏の匂いがした。
アイスの甘さ。
公園の土。
夕焼けの川沿い。
澪の隣を歩いた時間。
その全部を抱えながら、湊はもう一度眠りについた。
夢の中で、澪が笑っていた。
今度は、顔がはっきり見えた。
泣きそうではなく、
ちゃんと楽しそうに笑っていた。
第6ページを読んでくださり、ありがとうございます。
湊と澪は、十年前にできなかったことを少しずつ取り戻し始めました。
アイスを食べること、ブランコに乗ること、隣を歩くこと。
何気ない夏の一日が、二人にとっては失った時間を埋める大切な記憶になっていきます。
次の第7ページ「花火が消える前に伝えたいこと」では、夏祭りの夜が訪れ、二人の記憶と想いが大きく動き始めます。




