忘れてしまった約束
約束は、覚えている人がいる限り消えない。
けれど、忘れてしまった側は、
その約束が誰かをどれだけ支えていたのか分からない。
第5ページ「忘れてしまった約束」。
湊は、十年前の自分が澪に残した言葉を思い出し始めます。
湊は、夢の中で泣いていた。
それは、今の湊ではなかった。
八歳の自分だった。
雨に濡れた病院の廊下で、小さな湊は扉の前に立ち尽くしていた。白い壁。消毒液の匂い。蛍光灯の冷たい光。どこからか聞こえる看護師の足音。
その扉の向こうには、澪がいる。
そう分かっているのに、幼い湊は中に入れなかった。
手を伸ばせば、ドアノブに届く。
声を出せば、澪に聞こえるかもしれない。
それなのに、体が動かない。
『僕のせいだ』
小さな湊は、何度もそう呟いていた。
『僕が、澪ちゃんの手をちゃんと掴めなかったから』
違う。
夢の外側から、今の湊は叫んでいた。
違う。お前は助けたんだ。
父さんもそう言っていた。
澪だって、救われたと言っていた。
けれど、幼い湊にはその声が届かない。
幼い湊は、ただ震えながら立っている。
やがて、病室の扉が少し開いた。
中から、澪の母親らしき女性が出てきた。
目元が赤い。
でも、湊を見ると、無理に笑おうとした。
『湊くん』
幼い湊はびくりと肩を震わせた。
『ごめんなさい』
それが、幼い湊の最初の言葉だった。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』
何度も頭を下げる。
女性は泣きそうな顔で、湊の前にしゃがんだ。
『違うのよ。湊くんのせいじゃない』
『でも、澪ちゃんが』
『湊くんが助けてくれたの』
『違う』
幼い湊は首を振った。
『僕が一緒に行かなければよかった。僕が止めればよかった。僕がもっと強く掴んでたら、澪ちゃんは』
そこで声が詰まる。
女性は幼い湊の肩に手を置いた。
『澪はね、湊くんに会いたがってる』
幼い湊は顔を上げた。
『でも』
『会ってあげて』
『僕、会っちゃだめだ』
『どうして?』
『澪ちゃん、僕の顔見たら、事故のこと思い出しちゃう』
幼い湊は小さな拳を握りしめた。
『僕がいたら、澪ちゃんが苦しくなる』
その言葉を聞いた瞬間、今の湊は胸をえぐられたような痛みを感じた。
違う。
苦しくなっていたのは自分だった。
けれど幼い自分は、それを澪のためだと思い込んでいた。
澪を守るために会わない。
澪を傷つけないために消える。
そうやって、自分の心にも蓋をしたのだ。
夢の中の場面が変わる。
病室の中。
幼い澪はベッドに横になっていた。腕には包帯が巻かれ、頬には小さな傷がある。窓の外では雨が降っていた。
ベッドのそばには、小さな封筒が置いてあった。
澪は弱々しい手でそれを握りしめている。
『湊くん、来ないの?』
澪の声はかすれていた。
母親が優しく答える。
『今日は帰ったみたい』
『そっか』
澪は寂しそうに笑った。
『じゃあ、手紙書く』
『今は休みなさい』
『やだ。忘れちゃう前に書く』
『何を?』
澪は少しだけ考えて、それから小さく言った。
『約束』
その言葉で、夢が揺れた。
約束。
忘れてしまった約束。
夢の中の澪は、ベッドの上で鉛筆を握っていた。
震える手で、ゆっくり紙に文字を書いていく。
『湊くんへ』
そこまで見えた瞬間、湊は目を覚ました。
朝だった。
窓の外では蝉が鳴いている。
湊はベッドの上で荒く息をした。
胸が痛い。
夢なのに、病院の匂いがまだ鼻の奥に残っている気がした。
幼い澪が書いていた手紙。
湊くんへ。
あの手紙は、どこにあるのだろう。
本当に存在するのか。
夢の中だけなのか。
それとも、自分が忘れてしまった記憶のどこかに眠っているのか。
湊は制服に着替え、朝食もそこそこに家を出た。
学校へ向かう道を歩きながら、何度も夢の場面を思い返す。
澪は手紙を書いていた。
約束を忘れないために。
では、忘れたのは湊だけなのか。
いや、違う。
湊も何かを書いた気がする。
澪に何かを渡した気がする。
星の砂のキーホルダーだけではない。
もっと言葉に近いもの。
もっと、澪が十年間抱えていたもの。
校門の前で澪を見つけた。
彼女は一人で立っていた。
朝の光の中、澪はいつも通り静かに微笑んでいた。
けれど湊にはもう分かる。
その笑顔の奥には、泣きそうな気持ちが隠れている。
「白峰」
湊が声をかけると、澪は振り返った。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通りの挨拶。
でも、今日はそれだけでは終われなかった。
「昨日、夢を見た」
澪の表情が少し変わる。
「どんな夢?」
「病院の夢。事故のあと、僕が君の病室の前にいた」
澪は目を伏せた。
「そっか」
「君は手紙を書いてた」
澪の指先が小さく震えた。
それを見て、湊は確信した。
あの夢は、ただの夢ではない。
「本当にあるんだな」
澪は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「あるよ」
「どこに?」
「私が持ってる」
湊は息を止めた。
「見せてほしい」
澪はすぐには答えなかった。
校門を通り過ぎる生徒たちの声が、二人の間を流れていく。
澪は鞄の紐を握ったまま、静かに言った。
「今日の放課後、屋上で」
「また屋上か」
「うん」
澪は少しだけ笑った。
「私たち、大事な話はいつも屋上だね」
その言葉に、湊の胸が疼いた。
私たち。
澪がそう言うたび、失った十年の空白が少しだけ埋まる気がする。
教室に入ると、悠真がすぐに二人を見た。
「おはよう、青春組」
「その呼び方やめろ」
「じゃあ、屋上組?」
湊は固まった。
悠真は眉を上げる。
「図星かよ」
澪が小さく笑う。
「柊くん、勘がいいね」
「俺、恋と友情と危機察知だけは得意だから」
「勉強は?」
「聞かないで」
澪は笑った。
その笑顔は、昨日より少し自然だった。
湊はそれを見て、少し安心した。
けれど同時に、放課後が近づくのが怖かった。
澪が持っている手紙。
そこに何が書かれているのか。
十年前の約束とは何なのか。
それを読めば、また何かを思い出すだろう。
そしてそれは、きっと優しいだけの記憶ではない。
授業中、湊はほとんど集中できなかった。
ノートの端に、無意識に「約束」と何度も書いていた。
約束。
夢で会う約束。
白いワンピースを見る約束。
夏祭りに行く約束。
そのどれもが大切だった。
けれど、澪が十年間抱えていた約束は、もっと別のものなのだろう。
昼休み、湊は図書室へ向かった。
何かを調べるつもりだったわけではない。
ただ、教室にいると落ち着かなかった。
図書室は涼しかった。
本の匂いと、エアコンの静かな音。
窓際の席には数人の生徒が座っているだけで、教室よりずっと静かだった。
湊は郷土資料の棚の前に立った。
十年前の地域交流夏祭り。
事故。
学校の屋上。
何か記録があるかもしれないと思った。
古い地域新聞のファイルを開く。
ページをめくると、十年前の記事が出てきた。
「地域交流夏祭り、突然の豪雨で中止」
その下に、小さな記事があった。
「帰宅途中の児童二名、交通事故に巻き込まれる。一名軽傷、一名重傷」
湊は息を呑んだ。
児童二名。
一名軽傷。
一名重傷。
軽傷が自分。
重傷が澪。
指先が冷たくなる。
記事には名前は載っていなかった。
けれど、間違いなかった。
湊は記事を見つめたまま、動けなくなった。
その時、隣に誰かが立った。
澪だった。
「ここにいると思った」
湊は驚いて顔を上げた。
「どうして」
「朝倉くん、考えすぎると静かな場所に行きそうだから」
「僕のこと、分かりすぎだろ」
「十年分、観察してないから、まだまだだよ」
冗談のように言ったが、その声には少し寂しさがあった。
湊は新聞の記事を閉じた。
澪はそれを見て、小さく言った。
「読んだんだ」
「少しだけ」
「怖くなった?」
湊は正直に頷いた。
「怖い」
澪は責めなかった。
ただ隣の椅子に座った。
湊も向かいに座る。
「私も怖い」
澪が言った。
「自分のことなのに?」
「うん。自分のことだから」
湊は黙っていた。
澪は机の上に手を置き、ゆっくり続けた。
「あの日のことを思い出すと、痛みより先に、湊くんの顔が浮かぶの」
「僕の顔?」
「うん。泣きそうなのに泣けなくて、全部自分が悪いって顔」
湊は胸が苦しくなった。
澪は続けた。
「だから私、ずっと伝えたかった。湊くんのせいじゃないよって」
「それが約束?」
澪は首を横に振った。
「それもある。でも、それだけじゃない」
その先を言おうとして、澪は口を閉じた。
「放課後に話す」
湊は頷いた。
「分かった」
放課後までの時間は、異様に長かった。
チャイムが鳴るたびに、湊の心臓が揺れる。
最後の授業が終わると、教室が一気に騒がしくなった。
部活へ向かう者。
友達と遊びに行く相談をする者。
スマホを見ながら笑う者。
その中で、澪だけが静かに鞄を持った。
湊も立ち上がる。
悠真が二人を見て、何か言いかけた。
でも、今日は茶化さなかった。
「湊」
「何」
「あとで連絡しろよ」
湊は少し驚いた。
悠真は笑っていなかった。
「何かあったら、ちゃんと言え」
湊は短く頷いた。
「分かった」
屋上へ向かう階段は、いつもより長く感じた。
澪は前を歩いていた。
その背中は細くて、今にも夕焼けの中に溶けてしまいそうだった。
湊は思わず声をかけた。
「白峰」
澪が振り返る。
「何?」
「消えないよな」
澪は一瞬だけ目を見開いた。
そのあと、困ったように笑った。
「今は、消えないよ」
また、答えになっていない答え。
でも、湊はそれ以上問い詰めなかった。
今日の約束は、急がないことだったから。
屋上の扉を開けると、夕焼けが広がっていた。
空は赤く、雲の端が金色に光っている。
風は昨日より少し涼しかった。
澪はフェンスの近くへ行かず、古いベンチに座った。
湊も隣に座る。
澪は鞄から、小さな缶を取り出した。
淡い水色の缶だった。
表面には、ところどころ傷があり、角は少しへこんでいる。
「これ」
澪は缶を膝の上に置いた。
「十年前から、ずっと持ってた」
湊はその缶を見つめた。
見覚えがある。
小さな菓子缶。
中に宝物を入れるために、二人で選んだ気がする。
「開けてもいい?」
湊が聞くと、澪は頷いた。
「うん」
湊は慎重に蓋を開けた。
中には、いくつかのものが入っていた。
星の砂のキーホルダーと同じシリーズの、もう一つのキーホルダー。
色あせた花火大会のチラシ。
小さな貝殻。
そして、折りたたまれた二通の手紙。
澪はそのうち一通を手に取った。
「これは、私が病院で書いた手紙」
湊は息を呑んだ。
澪はそれを湊に差し出した。
「読んで」
湊は震える手で受け取った。
紙は古く、折り目が柔らかくなっていた。
子どもの字で、少し歪んだ文字が並んでいる。
湊はゆっくり読み始めた。
『湊くんへ
きょうは、来てくれてありがとう。
でも、部屋に入らなかったね。
お母さんから、湊くんが泣いていたって聞きました。
私は、湊くんが泣くのがいやです。
私は、痛かったけど、湊くんが手をのばしてくれたのをおぼえています。
湊くんがいなかったら、私はもっとこわかったと思います。
だから、ごめんねって言わないでください。
私は、湊くんにありがとうって言いたいです。
退院したら、また公園でアイスを食べたいです。
今度は半分じゃなくて、ちゃんと二つ買ってください。
あと、夢で会う約束、忘れないでね。
もし会えなくなっても、夢なら会えるって湊くんが言いました。
だから私は、夢で待っています。
澪より』
読み終えた時、湊の視界は滲んでいた。
涙が落ちそうになるのを、必死に堪える。
澪は何も言わなかった。
ただ、湊の横顔を静かに見ていた。
「僕は」
湊の声が震えた。
「この手紙を読んだのか?」
澪は首を横に振った。
「渡せなかった」
「どうして」
「私たち、すぐに引っ越すことになったから。それに、お母さんが朝倉くんの家に連絡した時、湊くんは高熱で寝込んでいるって聞いた」
「それで?」
「そのあと、湊くんが私のことを忘れたって聞いた」
澪の声が小さくなる。
「だから、渡せなかった」
湊の胸が締めつけられた。
もし、この手紙を読んでいたら。
幼い自分は救われただろうか。
澪を忘れずにいられただろうか。
十年も空白を作らずに済んだのだろうか。
そんな“もしも”が、湊の中でいくつも浮かんでは消えた。
でも、過去は変えられない。
手紙は届かなかった。
湊は忘れた。
澪は覚えていた。
それが現実だった。
「もう一通は?」
湊が聞くと、澪は少し迷った。
そして、もう一通の手紙を手に取った。
「これは、朝倉くんが書いた手紙」
湊は息を止めた。
「僕が?」
「うん」
澪はその手紙を見つめた。
「事故の前、夏祭りの日にくれた」
「僕、何を書いたんだ」
澪はすぐには渡さなかった。
「読む?」
「読みたい」
澪は頷き、湊に手紙を渡した。
紙はさらに古く、角が少し破れていた。
子どもの字で、短い文章が書かれていた。
『澪ちゃんへ
もし、澪ちゃんがどこかに行っても、ぼくは忘れません。
夢で会うって約束したからです。
泣きたい時は、夢の中でぼくを呼んでください。
ぼくも、寂しい時は澪ちゃんを呼びます。
大人になっても、また会えます。
その時は、屋上で夕焼けを見ます。
ぼくが先に忘れそうになったら、澪ちゃんが思い出させてください。
ぼくも、澪ちゃんが忘れそうになったら、思い出させます。
約束です。
湊より』
湊は、読み終えても紙から目を離せなかった。
これが、忘れてしまった約束。
夢で会う。
大人になってもまた会う。
屋上で夕焼けを見る。
忘れそうになったら、思い出させる。
その全部を、自分は忘れていた。
澪だけが、ずっと覚えていた。
「ごめん」
湊は呟いた。
澪は何も言わなかった。
「僕が、思い出させてって書いたのに」
声が震える。
「僕が忘れた」
澪は静かに首を横に振った。
「でも、思い出してくれてる」
「遅すぎる」
「遅くない」
「十年だぞ」
湊は手紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。
「十年、君は一人で覚えてたんだろ。僕が忘れた約束を、ずっと」
澪は夕焼けを見た。
「一人じゃなかったよ」
「え?」
「夢で会ってたから」
湊は言葉を失った。
澪は少し照れたように笑った。
「朝倉くんは覚えてないかもしれないけど、私は何度も夢で会ったよ」
「僕と?」
「うん。小さい頃の湊くんだったり、今くらいの湊くんだったり、顔が見えない時もあったけど」
湊の胸が震えた。
夢は、自分だけが見ていたものではなかった。
澪も見ていた。
二人はずっと、夢の中で繋がっていた。
「でも、最近の夢の朝倉くんは、私の顔を思い出せないみたいだった」
澪は苦笑した。
「だから、そろそろ会いに行かなきゃって思った」
「それで戻ってきたのか」
「うん」
澪は頷いた。
「約束を、終わらせるために」
その言葉に、湊はまた不安を覚えた。
「終わらせるって、どういう意味だ」
澪は沈黙した。
風が吹いた。
手紙が湊の手の中で小さく揺れる。
「白峰」
「朝倉くん」
澪は湊を見た。
「約束って、守るためだけにあるんじゃないと思う」
「どういうこと?」
「守れなかった時に、ちゃんと悲しむためにもあるんだと思う」
湊は眉をひそめた。
「悲しむため?」
「うん」
澪は手紙を見つめる。
「私たちは、十年前にたくさん約束した。でも、守れなかったものもあった。会えなかった。手紙も渡せなかった。大人になるまで、一緒にいられなかった」
湊は黙って聞いた。
「でも、それをなかったことにしたら、私たちが大事に思っていた気持ちまで消えてしまう気がしたの」
澪の声が震える。
「だから、ちゃんと思い出したかった。守れなかった約束も、悲しかったことも、楽しかったことも」
湊は手紙を見つめた。
幼い自分の字。
不格好で、まっすぐで、何も疑っていない言葉。
大人になっても、また会えます。
その言葉が、今の湊には痛かった。
会えた。
確かに会えた。
でも、澪は「最後に」と言った。
「時間がない」と言った。
「消える理由」と言った。
つまり、この再会は永遠ではない。
湊はそれを認めたくなかった。
「僕は、まだ終わらせたくない」
気づけば、そう言っていた。
澪が驚いたように湊を見る。
「約束を終わらせるために会いに来たんだとしても、僕はまだ終わらせたくない」
湊は真っ直ぐ澪を見た。
「今さらでも、遅くても、僕は君との時間を始めたい」
澪の瞳が揺れた。
涙が浮かぶ。
「朝倉くん」
「夢じゃなくて、現実で会いたい。屋上だけじゃなくて、公園にも行きたい。アイスも食べたい。夏祭りも行きたい」
言葉が止まらなかった。
「十年前にできなかったこと、全部やりたい」
澪は泣きそうな顔で笑った。
「欲張りだね」
「悪いか」
「ううん」
澪は首を横に振った。
「嬉しい」
その言葉を聞いて、湊の胸が熱くなった。
澪は缶の中の貝殻を手に取った。
「これはね、昔二人で拾ったの」
「海なんて近くにないのに?」
「夏祭りの屋台で買った小さな水槽に入ってた」
「それ拾ったって言うのか」
「思い出の中では拾ったことになってるの」
湊は少し笑った。
澪も笑った。
その笑顔が愛おしいと思った。
友達としてなのか。
それ以上なのか。
湊にはまだ分からなかった。
ただ、失いたくないと思った。
その気持ちだけは、はっきりしていた。
「明日」
澪が言った。
「公園に行こう」
「朝の通学路の?」
「うん。十年前にアイスを食べた場所」
「分かった」
「あと、週末に夏祭りがあるの」
「この町で?」
「商店街の小さいやつだけど」
澪は少し照れたように笑った。
「行きたい」
「行こう」
湊は即答した。
澪は驚いて、それから嬉しそうに笑った。
「約束ね」
「約束」
その言葉は、もう怖いだけのものではなかった。
過去に縛る鎖ではなく、明日に向かう小さな橋のように感じた。
夕焼けが濃くなる。
二人はベンチに並んで座り、缶の中の思い出を一つずつ見た。
花火大会のチラシ。
星の砂のキーホルダー。
小さな貝殻。
手紙。
どれも古びていた。
でも、捨てられてはいなかった。
澪が十年間、守ってくれていた。
湊はその事実に、何度も胸が熱くなった。
帰り道、澪はいつもより少し明るかった。
「朝倉くん、明日アイス二つ買ってね」
「覚えてるよ」
「ソーダ味?」
「僕はソーダ。白峰はバニラ?」
「うん。でも一口交換したい」
「子どもか」
「十年前の続きだから、子どもでいいの」
湊は少し笑った。
「分かった」
澪は嬉しそうに歩いていた。
その横顔を見て、湊は願った。
どうか、この時間が続きますように。
どうか、約束を終わらせるためではなく、増やすための夏になりますように。
けれど、その夜。
湊はまた夢を見た。
夕焼けの屋上。
澪がフェンスの向こう側に立っている。
白いワンピース。
風に揺れる髪。
泣きそうな笑顔。
「澪!」
湊は走った。
けれど、足が進まない。
澪は静かに言った。
「約束、思い出してくれてありがとう」
「終わったみたいに言うな」
「でもね、湊」
澪の声が悲しく響く。
「約束には、最後の一つがあるの」
「最後?」
澪は頷いた。
「私がいなくなったあとも、湊が生きていくこと」
湊の血の気が引いた。
「何言ってるんだ」
「それが、私たちの一番大事な約束」
「そんな約束、知らない」
「まだ思い出してないだけ」
澪は笑った。
「大丈夫。ちゃんと思い出せるよ」
「嫌だ」
湊は叫んだ。
「そんな約束、思い出したくない!」
澪の顔が悲しげに歪んだ。
「それでも、思い出して」
夕焼けが崩れる。
澪の姿が光に溶けていく。
「湊が、自分を責めないで生きていくために」
目が覚めた。
湊は荒く息をしていた。
部屋は暗い。
机の上には、澪から預かった手紙と、星の砂のキーホルダーが置かれている。
湊は震える手でそれを握った。
最後の約束。
澪がいなくなったあとも、生きていくこと。
そんな約束を、幼い自分は本当にしたのだろうか。
もしそうなら。
澪は最初から、自分がいなくなることを知っていたのだろうか。
湊は胸を押さえた。
怖かった。
思い出すことが。
知ることが。
澪を失う未来が。
それでも、明日公園へ行く約束をした。
アイスを食べる約束をした。
夏祭りへ行く約束をした。
終わりに向かっているとしても、その途中にある時間を捨てたくなかった。
湊は小さく呟いた。
「忘れない」
今度こそ。
楽しい約束も。
悲しい約束も。
君が笑ったことも。
君が泣いたことも。
全部、忘れない。
朝が来たら、澪に会いに行こう。
十年前の続きを始めるために。
そして、忘れてしまった約束の本当の意味を、ちゃんと受け止めるために。
第5ページを読んでくださり、ありがとうございます。
湊と澪が十年前に交わした「夢で会う約束」。
そして、澪がずっと守っていた手紙。
忘れていた約束は、二人を過去に縛るものではなく、もう一度向き合うための扉でした。
次の第6ページ「夏の匂い、君の隣」では、二人が十年前の続きを取り戻すように、普通の夏の時間を過ごしていきます。




