君はどうして泣きそうなの
思い出すたびに近づくはずなのに、
近づくほど、澪はどこか遠くなっていく。
笑っているのに、泣きそうな顔をする理由。
湊はその痛みに、まだ名前をつけられずにいました。
第4ページ「君はどうして泣きそうなの」。
澪の抱える秘密が、少しずつ影を落とし始めます。
翌朝、湊は教室の窓際の席で、まだ誰も座っていない隣の席を見つめていた。
白峰澪の席。
昨日までなら、ただの空席だったはずの場所が、今ではそこに彼女がいないだけで少し寒く見えた。
窓の外では、朝の光がグラウンドを白く照らしている。体育館の方からはバスケットボールの弾む音が聞こえ、廊下では生徒たちの笑い声が重なっていた。
いつも通りの朝。
けれど湊の中だけは、昨日の夢の言葉がまだ消えずに残っていた。
――本当に思い出さなきゃいけないのは、私が消える理由。
消える。
その言葉を思い出すたび、胸の奥が冷たくなる。
澪は生きている。
昨日、確かに隣にいた。
白いワンピースを着て、夕焼けの屋上に立っていた。
手を取った時、その手は温かかった。
なのに、彼女はまるで自分がいずれ消えることを知っているように話す。
時間があまりない。
終わらせに来た。
消える理由。
ひとつひとつの言葉が、湊の中で不吉な形に繋がっていく。
「湊」
後ろの席から悠真が声をかけてきた。
「お前、朝からずっと白峰さんの席見てるぞ」
「見てない」
「いや、めっちゃ見てた。もう穴あくくらい見てた」
「気のせいだ」
「気のせいで席は見ない」
悠真は机に頬杖をつき、少しだけ真面目な顔になった。
「何かあった?」
湊はすぐには答えなかった。
悠真はふざけているようで、こういう時だけ妙に鋭い。
昨日の屋上のこと。
白いワンピースのこと。
十年前の事故のこと。
父から聞いた話のこと。
夢で澪が言った言葉のこと。
全部話してしまいたい気持ちもあった。
けれど、話したところで信じてもらえるだろうか。
夢に出ていた少女が転校してきて、十年前の友達で、事故の記憶を取り戻しつつあって、その子が消えるかもしれない。
自分で考えても、あまりにも現実離れしている。
湊は小さく首を振った。
「何でもない」
「またそれか」
悠真はため息をついた。
「お前の何でもないは、だいたい大事件なんだよ」
「大げさだ」
「大げさじゃねぇよ」
悠真の声が少し低くなった。
「お前さ、最近ちょっと顔が違う」
「顔?」
「うん。前より生きてる顔してる。でも、前より苦しそうでもある」
湊は言葉に詰まった。
悠真は何気なく言っているようで、湊の核心を突いてきた。
前より生きている。
確かに、澪と再会してから、湊の中で止まっていた何かが動き出した気がする。
でも、動き出したからこそ痛い。
凍っていた傷口が、温度を取り戻して疼き始めたみたいだった。
「白峰さんが関係してるんだろ」
悠真が言った。
湊は視線を逸らした。
「……分からない」
「否定しないんだな」
「本当に分からないんだ」
湊は窓の外を見た。
「僕は、あの子のことを知ってる。でも忘れてた。思い出したいのに、思い出すのが怖い」
悠真は黙った。
いつものように茶化さなかった。
「変なこと言ってるのは分かってる」
「いや」
悠真は静かに言った。
「変とは思わない」
湊は驚いて悠真を見た。
悠真は少し困ったように笑った。
「人間ってさ、忘れたいことほど忘れられなくて、本当に大事なことほど思い出せなかったりするじゃん」
「急にまともなこと言うな」
「俺だってたまには言う」
悠真は軽く笑ったあと、真剣な目で湊を見た。
「でも、一人で抱えんなよ。俺はお前の親友なんだから」
その言葉に、湊は胸が少しだけ温かくなった。
親友。
普段は照れくさくて口に出せないその言葉を、悠真は簡単に言ってくる。
その軽さに、何度救われてきただろう。
湊が何か言おうとした時、教室の扉が開いた。
澪が入ってきた。
その瞬間、湊の心臓が強く打った。
澪はいつも通りの制服姿だった。
白いワンピースではない。
夢の中の少女でもない。
けれど湊には、昨日の夕焼けの光がまだ彼女の周りに残っているように見えた。
澪は教室に入ると、何人かの女子に挨拶され、穏やかに笑って応じた。
そして自分の席へ来る。
「おはよう」
「おはよう」
湊が返すと、澪は少しだけ目を細めた。
「眠れた?」
その問いに、湊は思わず固まった。
「どうして」
「顔に出てる」
「そんなに?」
「うん。ちょっと怖い夢を見た人の顔」
湊は息をのんだ。
澪はやっぱり、何かを知っている。
「白峰」
湊は声を低くした。
「昨日の夢で、君が言ったんだ」
澪の表情が微かに変わった。
「何を?」
「私が消える理由を思い出してって」
澪は視線を伏せた。
その反応が、答えだった。
「やっぱり知ってるんだな」
「……夢の中の私は、少し正直すぎるね」
「じゃあ現実の君は嘘をついてるのか」
湊が言うと、澪は悲しそうに笑った。
「嘘はついてないよ。ただ、全部は言ってないだけ」
「それを嘘って言うんじゃないのか」
自分でも少しきつい言い方だと思った。
澪の肩が小さく震えた。
湊はすぐに後悔した。
「ごめん」
澪は首を横に振った。
「朝倉くんが怒るの、当たり前だよ」
「怒ってるわけじゃない」
「うん」
「ただ……怖いんだ」
その言葉は、湊の口からほとんど勝手にこぼれた。
澪が顔を上げる。
「君がまたいなくなる気がして」
教室のざわめきが、遠くなった。
澪は湊を見つめたまま、何も言わなかった。
その目が揺れていた。
今にも涙が落ちそうだった。
湊はその顔を見て、胸が締めつけられた。
「どうして」
湊は小さく言った。
「君は、どうしていつも泣きそうなの」
澪は答えなかった。
その代わり、ほんの少しだけ笑った。
笑わなくていいのに、と湊は思った。
泣きたいなら泣けばいい。
苦しいなら苦しいと言えばいい。
自分の前でくらい、無理に笑わなくていい。
そう思うのに、言葉にならない。
授業が始まり、二人の会話は途切れた。
けれど湊は、黒板を見ることができなかった。
隣の澪が、いつもより静かだった。
シャープペンを握る指先が少し白い。
ノートには文字がほとんど書かれていない。
教師に指名されても、返事が少し遅れた。
湊は何度も声をかけようとした。
でも、何を言えばいいのか分からなかった。
昼休みになると、澪は「少し用事がある」と言って教室を出た。
湊は弁当箱を開けたが、ほとんど食べる気になれなかった。
悠真が前の席に座る。
「追いかけないのか」
「何で」
「追いかけたい顔してるから」
湊は箸を置いた。
「……僕、あいつを傷つけたかもしれない」
「何言ったんだよ」
「嘘をついてるのかって」
悠真は少し顔をしかめた。
「そりゃ、ちょっと刺さるな」
「分かってる」
「でも、本音だったんだろ」
湊は黙った。
本音だった。
澪が隠しごとをしているのが苦しい。
でも、それ以上に、澪が一人で苦しんでいるのが苦しい。
湊は立ち上がった。
悠真が小さく笑う。
「行ってこい」
「別に追いかけるわけじゃ」
「はいはい」
湊は教室を出た。
廊下を歩きながら、澪が行きそうな場所を考える。
屋上。
図書室。
保健室。
中庭。
その中で、一番胸がざわついたのは屋上だった。
湊は階段を上った。
屋上へ続く扉は、今日も少しだけ開いていた。
押し開けると、昼の強い光が目に飛び込んできた。
夕焼けではない屋上は、夢の場所というより、ただの学校の屋上に見えた。
フェンス。
貯水タンク。
古いベンチ。
夏の熱を吸ったコンクリート。
澪はそこにいた。
フェンスの近くではなく、日陰になった壁際に座っていた。
膝を抱え、空を見上げている。
湊に気づくと、少し驚いた顔をした。
「朝倉くん」
「探した」
言ってから、湊は自分で少し驚いた。
そんな真っ直ぐな言葉を、自分が言うとは思わなかった。
澪は目を細めた。
「そっか」
湊は澪の隣に腰を下ろした。
少し距離を空けて。
しばらく二人は何も言わなかった。
昼の屋上は暑かった。
遠くから部活の掛け声が聞こえる。
風はあるのに、熱を含んでいて涼しくはない。
それでも、澪の隣にいると、不思議と落ち着いた。
「さっきは、ごめん」
湊が言った。
澪は膝に顔を埋めたまま、首を横に振った。
「私も、ごめん」
「白峰は謝りすぎだ」
「朝倉くんもね」
「そうか?」
「うん。心の中で、たぶん何回も謝ってる」
湊は黙った。
図星だった。
母に。
父に。
美咲に。
澪に。
昔の自分に。
湊はいつも、心の中で誰かに謝っている。
でも、何に対して謝っているのか、自分でも分からないことが多かった。
「白峰」
「うん」
「君が全部言えない理由は、僕のため?」
澪は少しだけ考えた。
「半分は」
「残りの半分は?」
「私のため」
湊は澪を見た。
澪は膝から顔を上げて、遠くの空を見つめていた。
「私も、怖いの」
「何が」
「朝倉くんが全部思い出した時、私をどんな目で見るのか」
「どんな目って」
「可哀想な人を見る目」
湊は息を止めた。
澪は静かに続けた。
「助けられた子。事故に遭った子。かわいそうな子。そういうふうに見られるのが、少し怖い」
「僕はそんなふうに」
「分かってる。朝倉くんはきっと、そんなつもりじゃない。でも、私自身がそう思ってるのかもしれない」
澪は苦笑した。
「私、意外と面倒くさいでしょ」
「そんなことない」
即答していた。
澪が驚いたように湊を見る。
湊は少し視線を逸らした。
「面倒くさいのは、たぶん僕の方だ」
「そうかな」
「そうだよ。何も知らないのに焦って、勝手に怖がって、君にきついこと言った」
「でも、知りたいって思ってくれた」
澪は柔らかく言った。
「それだけで、私は嬉しいよ」
湊の胸が痛んだ。
澪はいつもそうだ。
自分が傷ついているはずなのに、湊の気持ちを先に拾おうとする。
それが優しさなのか。
癖なのか。
それとも、何かを諦めているからなのか。
分からない。
ただ、その笑顔が痛かった。
「泣きそうな顔で笑うなよ」
湊が言うと、澪は固まった。
「え?」
「笑ってるのに、いつも泣きそうに見える」
澪の瞳が揺れた。
「そんな顔、してる?」
「してる」
「そっか」
澪は自分の頬に触れた。
「癖になってるのかも」
「泣きたいなら、泣けばいい」
湊は自分でも驚くほど真剣に言った。
「僕の前でくらい」
澪は湊を見つめた。
その目に涙が溜まっていく。
けれど、澪はそれをこぼさないように、必死に瞬きをした。
「泣いたら、止まらなくなりそう」
「止まるまでいればいい」
「授業、始まるよ」
「サボればいい」
澪は少し笑った。
「朝倉くん、そんなこと言う人だった?」
「たぶん、君のせいで変になってる」
「私のせいなんだ」
「そうだよ」
澪は笑った。
今度の笑顔は、少しだけ本物に近かった。
でも次の瞬間、その目から涙が一粒落ちた。
澪は慌てて拭おうとした。
湊は何も言わなかった。
ただ、隣に座っていた。
澪は声を出さずに泣いた。
静かな涙だった。
肩を震わせることもなく、嗚咽を漏らすこともなく、ただ涙だけが頬を伝っていく。
それが余計に苦しかった。
どれだけ我慢してきたのだろう。
十年前から。
事故のあとから。
忘れられた時間の中で。
湊は拳を握った。
何かしてやりたいのに、何もできない。
言葉を探しても、どれも軽すぎる。
大丈夫。
分かるよ。
つらかったね。
そんな言葉は、きっと澪の抱えているものには届かない。
だから湊は、ただ言った。
「ここにいる」
澪が小さく息を呑んだ。
「何も分からないけど、今はここにいる」
澪は顔を伏せたまま、小さく頷いた。
「ありがとう」
その声は、風に消えそうなくらい小さかった。
午後の授業に二人は少し遅れて戻った。
教師に注意されたが、澪が「保健室にいました」と言うと、それ以上追及されなかった。
悠真は湊の顔を見るなり、何か言いたそうにしたが、何も言わなかった。
その優しさがありがたかった。
放課後、澪はすぐには帰らなかった。
湊も帰らなかった。
二人は自然と屋上へ向かった。
夕焼けの時間には少し早かったが、空はもう薄く色づき始めていた。
澪はフェンスの前に立ち、町を見下ろした。
湊はその隣に並ぶ。
「今日、少しだけ話してもいい?」
澪が言った。
湊は頷いた。
「私ね、事故のあと、長い間病院にいたの」
「父さんから少し聞いた」
「そっか」
澪は驚かなかった。
「体は少しずつ良くなった。でも、元に戻ったわけじゃなかった」
湊の胸が締めつけられる。
「どこか悪いのか」
澪はすぐには答えなかった。
「今は普通に見えるでしょ」
「うん」
「でも、普通に見えることと、普通に生きられることは違うんだって、その時知った」
その言葉は、湊にも少し分かる気がした。
湊もまた、普通に見えるように生きてきた。
学校に行き、友達と話し、家に帰る。
でも心のどこかはずっと止まっていた。
普通に見えることと、普通に生きることは違う。
澪は続けた。
「入院している間、私はずっと朝倉くんのことを考えてた」
「僕の?」
「うん。湊くんは大丈夫かなって」
湊は言葉を失った。
事故に遭ったのは澪だ。
痛かったのも、苦しかったのも澪のはずだ。
なのに澪は、湊の心配をしていた。
「だって、最後に見た朝倉くんの顔が、すごく怖かったから」
「怖い?」
「自分が壊れてしまったみたいな顔」
湊は息を止めた。
幼い自分が、そんな顔をしていたのか。
「私、何度も手紙を書こうとした。でも、書けなかった。何を書いても、朝倉くんを余計に苦しめそうで」
澪の声が震えた。
「それで、気づいたら十年経ってた」
十年。
言葉にすると短い。
でも、その中には澪の孤独が詰まっている。
湊は胸が苦しかった。
「ごめん」
また謝ってしまった。
澪はやっぱり首を横に振る。
「謝らないでって言ったのに」
「でも、僕は忘れてた」
「忘れたことを責めたいわけじゃない」
「じゃあ、どうして戻ってきたんだ」
澪は湊を見た。
夕焼けの光が、その瞳に揺れている。
「最後に、ちゃんと会いたかったから」
湊の心臓が止まりそうになった。
「最後って何だよ」
澪は口を閉じた。
「白峰」
「まだ、言えない」
「また?」
湊の声が掠れた。
「消える理由も、最後って言葉の意味も、まだ言えないのか」
澪の目にまた涙が浮かぶ。
「言ったら、朝倉くんは今の私じゃなくて、消える私だけを見るようになる」
「そんなこと」
「あるよ」
澪は静かに言った。
「人は、いなくなるって分かった相手を見ると、優しくなりすぎる」
湊は何も言えなかった。
「私は、可哀想だから優しくされたいわけじゃない」
澪は震える声で続けた。
「十年前みたいに、普通に隣にいてほしい。普通に喧嘩して、普通に笑って、普通に放課後を過ごしたい」
湊の胸が熱くなった。
澪が欲しかったものは、特別な救いではなかった。
ただの時間。
ただの会話。
ただ隣にいること。
失った十年の中で、一番欲しかった普通。
「だったら」
湊は言った。
「そうする」
澪が顔を上げる。
「君が話したくなるまで聞かない。無理に思い出そうともしない」
「でも」
「その代わり、普通に過ごす」
湊は少し照れながら続けた。
「明日も一緒に帰る。購買でパン買う。屋上にも来る。くだらない話もする」
澪の目から涙がこぼれた。
「それ、普通なの?」
「たぶん」
「朝倉くん、普通下手そう」
「うるさい」
澪は泣きながら笑った。
その笑顔を見て、湊も少しだけ笑った。
夕焼けが二人を包んでいた。
その日、二人は約束した。
真実を急がないこと。
残された時間を、悲しみだけで埋めないこと。
十年前に止まった友達の時間を、少しずつ取り戻すこと。
それは小さな約束だった。
でも湊にとっては、何よりも大切な約束に思えた。
帰り道、澪は湊の隣を歩いた。
夏の夕方の匂いがした。
アスファルトの熱。
遠くの夕飯の匂い。
風鈴の音。
自転車のベル。
何でもない景色が、澪といるだけで少し特別になる。
「朝倉くん」
「何」
「明日、アイス食べたい」
「急だな」
「十年前、全部もらったから」
「覚えてるのか」
「覚えてるよ。すごく溶けてた」
「じゃあ、今度は溶けてないやつを買う」
「半分くれる?」
「全部はやらない」
澪は笑った。
「昔よりケチになった」
「成長したんだ」
「そういう成長、いらない」
くだらない会話だった。
けれど湊は、その時間が永遠に続けばいいと思った。
澪が泣きそうな顔をしないで済むなら。
消える理由なんて知らなくていいと思ってしまうくらいに。
でも、そんな願いが長く続かないことを、湊はどこかで分かっていた。
その夜、湊は夢を見なかった。
久しぶりに深く眠った。
朝になり、目が覚めた時、涙は流れていなかった。
代わりに、胸の奥に小さな不安があった。
夢を見なかったことが、少し怖かった。
夢で会えないということは、澪が遠ざかったように感じたからだ。
学校へ行くと、澪はまだ来ていなかった。
湊は隣の席を見る。
昨日と同じ空席。
けれど今日は、不安が胸の中で膨らんでいく。
チャイムが鳴る直前、澪が教室に入ってきた。
湊はほっと息を吐いた。
澪はそれに気づいたのか、席に着きながら小さく笑った。
「心配した?」
「してない」
「嘘」
「少しだけ」
澪は嬉しそうに笑った。
その笑顔は昨日より明るかった。
少なくとも、湊にはそう見えた。
昼休み、二人は約束通り購買へ行った。
悠真も当然のようについてきた。
「俺も混ぜろよ。青春観察したい」
「帰れ」
「購買に帰る場所はない」
三人でアイスを買い、中庭のベンチに座った。
澪はバニラ。
湊はソーダ。
悠真はチョコ。
「白峰さん、湊のどこがいいの?」
悠真が急に聞いた。
澪はきょとんとした。
湊はむせた。
「何聞いてんだ!」
「いや、純粋な疑問」
「黙れ」
澪は少し考えたあと、笑って言った。
「隣にいてくれるところ」
その答えに、湊は何も言えなくなった。
悠真も一瞬黙った。
それから、茶化すことなく言った。
「そっか。いいじゃん」
澪はアイスを食べながら、空を見上げた。
「うん。すごく」
湊はその横顔を見た。
やっぱり、少し泣きそうだった。
でも今度は、悲しいだけの顔ではなかった。
嬉しさを信じるのが怖い人の顔だった。
放課後、湊と澪はまた屋上へ行った。
昨日よりも自然に。
何も約束しなくても、足が向かった。
夕焼けはまだ遠く、空は青かった。
澪はフェンスにもたれて、目を細めた。
「今日、楽しかった」
「アイス食べただけだろ」
「そういうのが楽しいんだよ」
湊は黙った。
澪が言うと、本当にそう思える。
特別なことなんてなくていい。
ただ一緒にアイスを食べて、くだらない話をして、同じ夕方を迎える。
それだけで、失った十年の一部を取り戻せるような気がした。
「朝倉くん」
澪がふいに言った。
「もし私がまた泣きそうな顔してたら、言ってね」
「何を」
「また泣きそうって」
「言ったら泣くだろ」
「うん。でも、泣いていいって思えるから」
湊は澪を見た。
澪は笑っていた。
でも、その目はやっぱり少し濡れていた。
湊は小さく息を吐いた。
「白峰」
「うん」
「君は今、泣きそうだ」
澪は一瞬驚いて、それからくしゃっと笑った。
そして、本当に少し泣いた。
湊は隣にいた。
何も言わずに。
今度は、澪が泣き止むまで。
夕焼けが屋上を染める頃、澪は涙を拭いて言った。
「ありがとう」
湊は空を見ながら答えた。
「どういたしまして」
その言葉が、十年前の自分にも届けばいいと思った。
泣いていた澪の隣に座っていた小さな自分。
何もできないと思っていた自分。
誰かを救えなかったと思い込んでいた自分。
違うよ。
お前は、ちゃんと隣にいた。
それだけで救われる人もいるんだ。
湊はそう伝えたかった。
その夜、湊はまた夢を見た。
夕焼けの屋上ではなく、病室だった。
白いカーテン。
消毒液の匂い。
窓辺の花。
ベッドに横たわる幼い澪。
幼い湊は、病室の外に立っていた。
でも、中に入れない。
扉の前で、泣きながら首を振っている。
『僕のせいだ』
幼い湊が呟く。
『僕が手を離したから』
違う。
今の湊は夢の中で叫ぼうとした。
違う。お前は助けたんだ。
でも声は届かない。
病室の中で、幼い澪が目を開ける。
そして、窓の方を見ながら小さく言う。
『湊くん、泣いてないかな』
その言葉に、湊は胸を締めつけられた。
自分のことより、湊の心配をしている。
十年前から、澪はそうだった。
夢の中の景色が滲む。
病室が夕焼けに変わる。
白いワンピースの澪が立っていた。
「湊」
澪は言った。
「泣いてもいいんだよ」
その言葉で目が覚めた。
朝の光が部屋に差し込んでいた。
湊の頬には涙が流れていた。
でも、その涙は昨日までのものとは少し違っていた。
悲しいだけではない。
ずっと閉じ込めていた幼い自分が、ようやく泣けたような涙だった。
湊は手で涙を拭いながら、小さく呟いた。
「澪」
君はどうして泣きそうなの。
そう聞いたはずなのに。
本当は、自分の方がずっと泣きたかったのかもしれない。
澪はそれに、十年前から気づいていたのかもしれない。
だから、いつも泣きそうな顔で笑っていた。
湊の代わりに泣くみたいに。
湊は机の上のキーホルダーを握った。
星の砂が朝の光にきらめく。
今日も、学校へ行こう。
澪に会いに行こう。
泣きそうな君の隣にいるために。
そして、泣けなかった僕自身を、少しずつ取り戻すために。
第4ページを読んでくださり、ありがとうございます。
澪が泣きそうな顔をしていた理由。
それは、湊を責めていたからではなく、湊がずっと泣けなかったことを知っていたからでした。
次の第5ページ「忘れてしまった約束」では、十年前に二人が交わした約束の本当の意味が、さらに明らかになっていきます。




