夕焼けの屋上と白いワンピース
夢に出てくる屋上。
夕焼けに染まる空。
風に揺れる白いワンピース。
そして、名前を呼ぶ懐かしい声。
第3ページ「夕焼けの屋上と白いワンピース」。
湊は、夢の中で見続けてきた景色が、ただの幻ではなかったことを知っていきます。
朝倉湊は、その朝、いつもより早く学校に着いた。
校門の前にはまだ人影が少なく、グラウンドでは運動部の朝練の声が遠く響いているだけだった。湿った夏の空気が制服の襟元にまとわりつき、少し歩いただけで背中に汗が滲む。
けれど、湊の足取りは不思議と重くなかった。
昨日の夜、夢で思い出した。
白峰澪は、十年前に出会った女の子だった。
公園で泣いていた女の子。
アイスを全部あげた女の子。
「夢で会えばいい」と、自分が言った女の子。
そして、「忘れないでね」と約束した女の子。
そこまでは思い出した。
けれど、肝心な部分はまだ霧の中だった。
雨の日。
道路。
車のライト。
手を伸ばした自分。
そして、途切れた記憶。
その先に何があるのか、湊はまだ知らない。
知らないままでいたい気持ちもあった。
でも、もう逃げたくなかった。
夢の中で何度も会っていた少女が、現実に現れた。
澪は湊に何かを伝えようとしている。
ならば自分も、ちゃんと向き合わなければならない。
昇降口で靴を履き替えていると、背後から小さな声がした。
「早いね」
振り返ると、澪が立っていた。
昨日と同じ制服姿。
肩に鞄をかけ、少しだけ息を弾ませている。
朝の光の中に立つ澪は、夢の中の少女よりもずっと現実的だった。けれど、その現実感が逆に不思議だった。昨日までは夢でしか会えなかったはずの存在が、今こうして同じ校舎にいて、同じ朝を吸っている。
「白峰こそ」
湊が言うと、澪は微笑んだ。
「見せたいものがあるって言ったから」
「覚えてる」
「忘れてないんだ」
その言い方に、湊は少しだけ胸が痛んだ。
忘れていない。
その言葉が、自分にはひどく重く感じられた。
十年前の約束を、自分は忘れていた。
澪は覚えていた。
その事実が、湊の胸の奥に小さな棘のように残っている。
「昨日、少し思い出した」
湊が言うと、澪の目が静かに揺れた。
「何を?」
「公園。アイス。白い帽子。それから……夢で会うって約束したこと」
澪は息をのんだ。
ほんの一瞬、泣きそうな顔をした。
でもすぐに、いつもの穏やかな表情に戻った。
「そっか」
「それだけだけど」
「ううん。それだけでも、すごく大事」
澪はそう言って、階段の方へ歩き出した。
「行こう」
「どこに?」
「屋上」
湊は少し眉をひそめた。
「朝から?」
「朝じゃないと見せられないものもあるから」
澪の言葉には、不思議な確信があった。
湊は黙ってついていった。
校舎の中は、まだ朝の静けさに包まれていた。廊下の窓から差し込む光が、床に細長く伸びている。遠くの教室から、誰かが机を動かす音が聞こえた。
階段を上りながら、湊はふと思った。
この階段を、自分は昔も上ったことがあるのだろうか。
小さな体で。
澪と手を繋いで。
もしかしたら、母と一緒に。
この学校は高校だ。
十年前の自分たちが入れる場所ではないはずだ。
それでも、屋上の景色には見覚えがある。
夢の中だけでは説明できないほど、体が覚えている。
屋上へ続く扉は、今日も少しだけ開いていた。
まるで二人を待っていたみたいに。
澪は扉に手をかけ、振り返った。
「驚かないでね」
「何を」
「見れば分かる」
そう言って、澪は扉を開けた。
朝の風が吹き込んだ。
屋上に出た瞬間、湊は言葉を失った。
昨日まで見ていた夕焼けの屋上とは違う。
朝の屋上は、薄い青と白で満ちていた。
空は高く、雲は柔らかく、町はまだ眠りの名残を抱えているように静かだった。フェンスの向こうに並ぶ建物の窓が、朝日を受けてきらきら光っている。
けれど、湊が息をのんだ理由は景色ではなかった。
フェンスの近くに、白いワンピースが掛けられていた。
風に揺れている。
まるで、誰かがそこに立っているみたいに。
湊の心臓が跳ねた。
夢の中の少女。
夕焼けの屋上。
白いワンピース。
揺れる裾。
何度も見た光景が、今、目の前にあった。
「これ……」
湊は声を絞り出した。
澪はワンピースの方へ歩き、そっと布に触れた。
「私のものじゃないよ」
「じゃあ、誰の?」
「十年前の私の」
湊は混乱した。
「十年前って……」
「正確には、私が着るはずだった服」
澪は少しだけ笑った。
その笑顔は、どこか遠くを見るようだった。
「夏祭りの日に着る予定だったの。お母さんが買ってくれて、すごく嬉しくて。朝倉くんに見せるって約束した」
夏祭り。
湊の頭の中で、昨日の夢が蘇る。
屋台の明かり。
太鼓の音。
星の砂のキーホルダー。
『今度、白いワンピース着てくるね』
そんな声が、遠くから聞こえた気がした。
湊は額に手を当てた。
「待って……何か、思い出しそう」
澪は何も言わず、そばに立っていた。
急かさない。
答えを押しつけない。
ただ、そこにいてくれる。
その沈黙が、湊にはありがたかった。
記憶の奥で、幼い澪が笑っている。
白い紙袋を抱えて、嬉しそうに跳ねるように歩いている。
『見て、湊くん』
『まだ見ちゃだめ』
『なんで?』
『夏祭りの日まで秘密』
『じゃあ楽しみにしてる』
『絶対来てね』
『行くよ』
『約束だよ』
『約束』
湊は小さく息を吐いた。
「夏祭りの日……」
澪がこちらを見る。
「思い出した?」
「少しだけ。君が、白いワンピースを見せるって言ってた」
澪の瞳が潤んだ。
「うん」
「でも、僕は見てない」
湊がそう言うと、澪は静かに目を伏せた。
その反応で、湊は分かってしまった。
自分は、その白いワンピース姿の澪を見られなかったのだ。
何かが起きたから。
約束が果たされなかったから。
だから夢の中で、澪はいつも白いワンピースを着ている。
見られなかった姿のまま。
叶わなかった約束のまま。
湊の喉が詰まった。
「どうして、ここにあるんだ」
「私のお母さんが、ずっと取っておいてくれたの」
「お母さん?」
澪は頷いた。
「この町に戻ってくる時、持たせてくれた。もう一度、ちゃんと終わらせてきなさいって」
「終わらせる?」
湊が聞くと、澪は答えなかった。
まただ。
澪はいつも、大事なところで言葉を止める。
でも、そのたびに湊は怒るより先に怖くなる。
その言葉の先に、自分が受け止めきれない真実がある気がするから。
「白峰」
湊はゆっくり言った。
「君は、本当に普通に転校してきたのか?」
澪は黙っていた。
「昨日も言ってた。時間があまりないって。それに、今の『終わらせる』って何だよ」
澪はワンピースから手を離した。
風が吹き、白い布がふわりと揺れる。
「朝倉くんは」
澪は静かに口を開いた。
「夢って、何だと思う?」
突然の問いに、湊は戸惑った。
「何って……寝てる時に見るものだろ」
「うん。でも、それだけかな」
「どういう意味だよ」
澪は空を見上げた。
「私はね、夢は、心が行けなかった場所に行くための道だと思ってる」
湊は黙って聞いていた。
「言えなかった言葉。守れなかった約束。会えなくなった人。そういうものに、もう一度会うための場所」
「それは、ただの願望だろ」
「そうかもしれない」
澪は微笑んだ。
「でも、願うことでしか繋げないものもあるよ」
その言葉は、湊の胸に静かに沈んだ。
夢は、心が行けなかった場所に行くための道。
だから自分は、何度もあの屋上へ行っていたのだろうか。
会えなかった澪に会うために。
見られなかった白いワンピースを見るために。
果たせなかった約束を、もう一度やり直すために。
「私は、朝倉くんに見てもらいたかった」
澪が小さく言った。
「この服を着た私を」
「今から着ればいいだろ」
言ってから、湊は自分でも驚いた。
澪も驚いたように湊を見た。
「え?」
「十年前に見られなかったなら、今見ればいい」
湊は少し乱暴に言った。
「それで、約束は果たせるんじゃないのか」
澪はしばらく湊を見つめていた。
そして、ゆっくり笑った。
「朝倉くんらしいね」
「昔の僕を知ってるみたいに言うな」
「知ってるもん」
「……そうだったな」
澪はワンピースを両手で抱えた。
「じゃあ、放課後。夕焼けの時間に、またここへ来て」
「今じゃないのか」
「朝じゃだめ」
「何で」
澪は少し照れたように笑った。
「夢と同じ景色じゃないと、意味がないでしょ」
その笑顔を見て、湊は言葉を失った。
普通の女の子みたいだった。
いや、澪は普通の女の子なのだ。
謎めいた言葉を言うけれど。
湊の忘れた過去を知っているけれど。
時々消えてしまいそうな顔をするけれど。
それでも、こうして笑う澪は、ただの高校生だった。
十年前に叶わなかった約束を、今さら恥ずかしがりながら果たそうとしている女の子だった。
「分かった」
湊は言った。
「放課後、来る」
「約束ね」
澪がそう言った瞬間、湊の胸が強く痛んだ。
約束。
その言葉は、二人の間で何度も繰り返されてきたのだろう。
守れた約束も。
守れなかった約束も。
忘れてしまった約束も。
湊は小さく頷いた。
「約束する」
澪は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、夢の中で見たものとよく似ていた。
けれど、光に溶けてはいなかった。
ちゃんと、目の前にあった。
教室に戻ると、悠真がすぐに気づいた。
「お前ら、朝からどこ行ってたんだよ」
「別に」
湊が答えると、悠真は大げさにため息をついた。
「はい出ました、別に。白峰さん、こいつといると会話が全部『別に』で終わるから気をつけて」
澪は笑った。
「でも、朝倉くん、けっこう話してくれるよ」
「え、マジで?」
悠真が湊を見る。
「お前、俺には全然話さないくせに」
「うるさい」
「それそれ。俺への返事、だいたいそれ」
澪はくすくす笑っていた。
その笑い声を聞いて、湊は少しだけ胸が軽くなった。
教室の中で澪が笑う。
それだけで、世界がほんの少し優しく見える。
午前中の授業は、湊にとって長かった。
黒板の文字も、教師の声も、窓の外の蝉の声も、どこか遠い。頭の中は放課後の屋上のことでいっぱいだった。
白いワンピースを着た澪。
夢で何度も見た姿。
けれど、現実で見るのは初めてだ。
それを見た時、自分は何を思い出すのだろう。
また何かが壊れるのだろうか。
それとも、欠けていたものが戻るのだろうか。
昼休み、湊は一人で購買へ向かった。
教室にいると、澪の方ばかり見てしまいそうだったからだ。
廊下を歩いていると、掲示板の隅に古い写真が貼られているのが目に入った。
「創立記念展示のお知らせ」
古い学校行事の写真が何枚か並んでいた。
その中の一枚に、屋上が写っていた。
今よりずっと昔の屋上。
フェンスは新しく、床も綺麗だった。
写真の下には、小さく文字が書かれている。
「地域交流夏祭り 十年前」
湊は足を止めた。
十年前。
この学校で、夏祭りがあった?
高校なのに、地域交流?
湊は写真に顔を近づけた。
屋上に提灯が吊られ、子どもたちが走っている。保護者らしき大人たちもいる。屋台のようなものも出ている。
その中に、小さな男の子と女の子が写っていた。
遠くて顔はよく分からない。
けれど、男の子は見覚えのあるTシャツを着ていた。
幼い頃の自分がよく着ていた、青い恐竜のシャツ。
そして女の子は、白い帽子をかぶっていた。
湊は息を止めた。
ここだった。
夢の屋上は、この高校の屋上であり、十年前の夏祭りの場所でもあった。
なぜ忘れていたのだろう。
自分は確かにここに来ていた。
澪と一緒に。
その時、背後から声がした。
「あれ、朝倉?」
振り返ると、担任の佐伯が立っていた。
「あ、すみません」
「いや、別に見るのは構わんぞ。懐かしい写真だろ」
「先生、この夏祭りって何ですか」
湊が聞くと、佐伯は少し意外そうな顔をした。
「知らないか? 昔はこの学校、地域に屋上を開放して夏祭りみたいなことをやってたんだよ。近所の子どもも来てた」
「今はやってないんですか」
「ああ。十年前を最後に中止になった」
湊の喉が鳴った。
「どうして」
佐伯は少しだけ表情を曇らせた。
「事故があったんだ」
また、その言葉。
事故。
湊の指先が冷たくなる。
「どんな事故ですか」
佐伯はすぐには答えなかった。
「朝倉、お前……」
何かを言いかけて、口を閉じる。
その反応で、湊は分かった。
先生は何か知っている。
自分に関係する何かを。
「先生、教えてください」
湊が言うと、佐伯は困ったように頭をかいた。
「詳しいことは、俺の口からは言えない。お前の家の事情もあるだろうしな」
「家?」
「気になるなら、お父さんに聞いてみろ」
父さん。
湊は胸の奥が重くなるのを感じた。
父は、母が亡くなってからあまり過去の話をしなくなった。特に湊の幼い頃の話になると、曖昧に笑って話題を変えることが多かった。
十年前の夏のことも、きっと知っている。
知っていて、黙っている。
「朝倉」
佐伯が真面目な声で言った。
「あまり無理に思い出そうとするなよ」
湊は顔を上げた。
「どうしてですか」
「忘れたままの方がいいこともある」
その言葉に、湊の胸がざわついた。
忘れたままの方がいい。
みんな、同じことを言う。
澪も。
先生も。
たぶん父も。
でも、忘れているのは自分だ。
忘れたまま苦しんでいるのも、自分だ。
ならば、思い出すかどうかを決めるのも、自分でありたい。
「それでも」
湊は小さく言った。
「忘れたままじゃ、進めない気がするんです」
佐伯は何も言わなかった。
しばらく湊を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「そうか」
それだけだった。
午後の授業が終わる頃、空は少しずつ夕方の色に変わり始めていた。
湊は机の中から鞄を取り出し、隣を見る。
澪はまだ席に座っていた。
目が合うと、彼女は少しだけ頷いた。
それだけで、屋上へ行く約束を確認したようだった。
悠真が二人を交互に見て、にやりと笑う。
「何その無言の会話。俺だけ置いてけぼり?」
「部活行け」
湊が言うと、悠真は肩をすくめた。
「はいはい。邪魔者は消えますよ。でも湊」
「何」
「無理すんなよ」
その言葉だけは、冗談ではなかった。
湊は一瞬黙り、短く答えた。
「分かってる」
本当は、分かっていなかった。
無理をしているのかどうかさえ、自分では分からなかった。
澪と二人で階段を上る。
朝と同じ道。
けれど、夕方の光が差し込むだけで、廊下はまるで別の場所に見えた。
屋上の扉の前で、澪が立ち止まった。
「少しだけ、待ってて」
「分かった」
澪は白いワンピースを抱えて、屋上へ先に出た。
湊は階段の踊り場で待った。
数分が、とても長く感じた。
心臓の音がやけに大きい。
なぜこんなに緊張しているのか、自分でも分からなかった。
ただ、これから見るものが、自分の中の何かを大きく変えてしまうことだけは分かっていた。
「朝倉くん」
扉の向こうから、澪の声がした。
「来ていいよ」
湊はゆっくり扉を開けた。
夕焼けが、目に飛び込んできた。
赤と橙と薄紫が混ざった空。
遠くに沈みかける太陽。
フェンスの影。
風に揺れる髪。
そして、白いワンピースを着た澪がそこに立っていた。
夢の中と同じだった。
いや、違う。
夢の中の少女は、いつも光に溶けて顔が見えなかった。
でも今は見える。
澪の顔が。
少し恥ずかしそうに目を伏せる表情が。
緊張したように指先で裾を握る仕草が。
夕焼けに照らされて赤く染まる頬が。
全部、見える。
湊は声を失った。
澪は少し困ったように笑った。
「変、かな」
湊はすぐに首を横に振った。
「変じゃない」
「ほんと?」
「うん」
言葉がうまく出てこない。
綺麗だ、と思った。
でも、それを口にするのは恥ずかしすぎた。
それに、ただ綺麗という言葉だけでは足りなかった。
懐かしい。
切ない。
苦しい。
嬉しい。
いくつもの感情が胸の中で重なって、ひとつの言葉にならない。
澪はフェンスの前に立った。
夢の中と同じ場所。
湊の視界が揺れた。
夕焼け。
白いワンピース。
澪の笑顔。
その瞬間、記憶が流れ込んできた。
十年前の屋上。
提灯が揺れている。
夜店の明かりが並んでいる。
大人たちの声。
子どもたちの笑い声。
幼い湊は、屋上の端で待っていた。
『遅いな』
手には星の砂のキーホルダー。
澪に渡すためのもの。
やがて、階段の方から澪が走ってくる。
白いワンピース。
白い帽子。
嬉しそうな笑顔。
『湊くん!』
幼い澪がくるりと回る。
『どう?』
幼い湊は照れて、視線を逸らす。
『普通』
『普通って何!』
『似合ってる』
『最初からそう言ってよ』
澪が笑う。
その笑顔は、今の澪と同じだった。
湊の胸が熱くなる。
そうだ。
見ていた。
自分は確かに、白いワンピースの澪を見ていた。
夢の中の景色は、見られなかった約束ではなかった。
見たのに、忘れてしまった景色だった。
「思い出した」
湊は震える声で言った。
澪が息を止める。
「君は、夏祭りでその服を着てた」
澪の瞳に涙が浮かんだ。
「うん」
「僕は、似合ってるって言った」
「うん」
「最初は普通って言って、君に怒られた」
澪は泣きながら笑った。
「そう。ひどかった」
湊も少し笑った。
でも、その笑いはすぐに胸の痛みに変わった。
記憶はそこで終わらなかった。
夏祭りの夜。
提灯の明かり。
花火の音。
澪の手。
『次は下の公園行こう』
『もう遅いよ』
『少しだけ』
『お母さんに怒られる』
『じゃあ、私ひとりで行く』
『待ってよ』
走り出す澪。
追いかける湊。
階段を降りる。
学校の外へ出る。
空から雨が降り始める。
さっきまで晴れていたのに、急な夕立だった。
澪の白いワンピースが雨に濡れる。
『澪ちゃん、危ない!』
道路。
車のライト。
赤い傘。
叫び声。
湊は頭を抱えた。
「うっ……」
「朝倉くん!」
澪が駆け寄る。
「大丈夫、無理しないで」
「違う……もう少しで……」
思い出せそうだった。
でも、その先へ行こうとすると、頭が割れるように痛む。
まるで誰かが必死に扉を押さえているみたいだった。
澪は湊の腕を掴んだ。
「もういい。今日はここまででいい」
「よくない」
「朝倉くん」
「僕は、何をした?」
湊は顔を上げた。
「雨の日、僕は君を助けようとしたんだろ。その後、何があった?」
澪の顔が青ざめた。
「まだ、言えない」
「どうして!」
湊の声が屋上に響いた。
澪はびくりと肩を震わせた。
その反応を見て、湊はすぐに後悔した。
「ごめん」
声が小さくなる。
「怒鳴るつもりじゃなかった」
澪は首を横に振った。
「私こそ、ごめん」
「白峰が謝ることじゃない」
「でも、私が朝倉くんを苦しめてる」
「違う」
湊は強く言った。
「苦しいのは、忘れてるからだ」
澪は何も言わなかった。
夕焼けが、少しずつ夜に沈んでいく。
白いワンピースの裾が風に揺れる。
その姿は夢の中の少女そのものなのに、今の湊にはもう、顔の見えない幻ではなかった。
白峰澪だ。
十年前に出会った、大事な友達。
忘れてしまった約束の相手。
そして今、目の前で泣きそうになっている女の子。
「白峰」
湊は静かに言った。
「君は、僕に何を思い出してほしい?」
澪はゆっくり湊を見た。
「全部」
「全部?」
「うん。楽しかったことも、悲しかったことも。私のことも、朝倉くん自身のことも」
「思い出したら、君はどうなる?」
澪は答えなかった。
湊はその沈黙で、また胸が冷たくなった。
「白峰」
「朝倉くん」
澪は湊の言葉を遮るように言った。
「もし、全部思い出しても」
風が吹いた。
「自分を責めないで」
その声は、祈りみたいだった。
湊は何も返せなかった。
自分を責めるなと言われるたび、逆に怖くなる。
つまり、自分は責めるようなことをしたのだ。
十年前、澪に何かが起きた。
そして湊は、それを自分のせいだと思った。
だから忘れた。
忘れることでしか、生きられなかった。
そんな気がした。
澪は涙を拭い、少し笑った。
「ごめんね。せっかく見せたのに、こんな空気にしちゃった」
「白峰のせいじゃない」
「でも、似合ってるって言ってもらえたから、いいや」
「……似合ってる」
湊は今度こそ、はっきり言った。
澪が目を丸くした。
「え?」
「白いワンピース、似合ってる」
言った瞬間、顔が熱くなった。
澪は驚いたあと、静かに笑った。
涙の跡が残ったままの笑顔だった。
「ありがとう」
その笑顔を見た瞬間、湊の胸に一つの記憶が戻った。
十年前の澪も、同じように言っていた。
『ありがとう、湊くん』
あの時も、湊は照れて、そっぽを向いた。
何も変わっていない。
十年経っても、忘れていても、心の奥では何かが続いていた。
屋上を出る頃には、空はすっかり群青色に変わっていた。
澪は制服に着替え直し、白いワンピースを丁寧に畳んで鞄にしまった。
階段を降りる途中、湊はふと聞いた。
「白峰は、怖くないのか」
「何が?」
「思い出すこと」
澪は少し考えてから答えた。
「怖いよ」
「そうなのか」
「うん。でも、忘れられる方がもっと怖かった」
湊は足を止めた。
澪も少し下の段で立ち止まり、振り返る。
「誰かの中から自分が消えてしまうのって、きっとすごく寂しいから」
湊の胸が締めつけられた。
「僕は……君を消したかったわけじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「うん」
澪は優しく笑った。
「朝倉くんは、忘れたんじゃなくて、守ってたんだと思う」
「何を」
「自分の心」
その言葉は、湊の胸に深く刺さった。
自分の心を守るために、澪を忘れた。
それは仕方ないことだったのかもしれない。
でも、澪にとってはどうだったのだろう。
忘れられたまま十年を過ごした澪は、どんな気持ちだったのだろう。
「ごめん」
湊は小さく言った。
澪は首を横に振った。
「謝らないで」
「でも」
「じゃあ、これから思い出して」
澪は階段の途中で、湊に手を差し出した。
「少しずつでいいから」
湊はその手を見た。
夢の中で何度も掴めなかった手。
雨の日に離れてしまったかもしれない手。
今、目の前にある手。
湊はゆっくり、その手を取った。
澪の手は温かかった。
その温かさに、湊は少しだけ安心した。
まだ、ここにいる。
澪はちゃんと、ここにいる。
そう思いたかった。
その夜、湊は父を待った。
父はいつもより遅く帰ってきた。玄関のドアが開く音がして、疲れた足音が廊下に響く。
美咲はすでに寝ていた。
湊はリビングで座ったまま、父が入ってくるのを待った。
「まだ起きてたのか」
父は驚いたように言った。
「話がある」
湊の声に、父の表情が少し変わった。
「何だ」
「十年前の夏祭りのこと」
父の手が止まった。
鞄を置こうとしていた姿勢のまま、父はしばらく動かなかった。
その反応だけで、湊は確信した。
父は知っている。
「学校の屋上で夏祭りがあったんだろ」
湊は続けた。
「そこで、僕は白峰澪って女の子と一緒にいた」
父の顔色が変わった。
「湊」
「知ってるんだね」
父は深く息を吐いた。
「誰から聞いた」
「思い出した」
父は苦しそうに目を閉じた。
その顔を見て、湊は胸が痛んだ。
父もまた、この記憶に苦しんできたのかもしれない。
「父さん」
湊はゆっくり聞いた。
「十年前、何があったの」
リビングに沈黙が落ちた。
時計の針の音だけが聞こえる。
父はしばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「お前は、あの日から三日間、熱を出した」
「え?」
「事故のあとだ。目を覚ましても、澪ちゃんのことばかり呼んでいた」
湊の心臓が強く打った。
澪ちゃん。
幼い自分が、その名前を呼んでいた。
「でも、退院してしばらくしたら、お前はその子のことを話さなくなった」
「忘れたから?」
父は頷いた。
「医者は、強いショックで記憶に蓋をしたのかもしれないと言っていた」
「澪は……」
湊は声が震えた。
「澪はどうなったの」
父は答えなかった。
その沈黙が怖かった。
「父さん」
「湊」
父は苦しそうに言った。
「今さら思い出して、どうする」
「どうするって……」
「お前はやっと普通に生きられるようになったんだ」
湊は思わず笑いそうになった。
普通に?
自分が?
夢で泣いて目覚める毎日が普通だというのか。
大切なものが欠けたまま、何も望めずに生きていることが普通だというのか。
「普通になんか、生きてないよ」
湊は言った。
父は何も言えなくなった。
「僕はずっと、何かを失くしたまま生きてた。でも、それが何か分からなかった。だから苦しかった」
湊は拳を握った。
「思い出したら苦しいかもしれない。でも、思い出さないままでも苦しいんだ」
父は目を伏せた。
長い沈黙のあと、父はぽつりと言った。
「あの日、雨が降った」
湊は息を止めた。
「夏祭りの帰りだった。急な雨で、みんな慌てて帰ろうとしていた。澪ちゃんが道路に飛び出して、お前が追いかけた」
そこまでは思い出している。
問題はその先だ。
「お前は澪ちゃんを突き飛ばした」
湊の頭が真っ白になった。
「突き飛ばした……?」
「車から守るためだ」
父の声が震えた。
「お前は、あの子を助けた」
助けた。
澪も同じことを言っていた。
朝倉くんに救われた、と。
「じゃあ、澪は……」
父は唇を噛んだ。
「命は助かった」
湊は大きく息を吐いた。
全身から力が抜けそうになった。
「でも」
父の声が続く。
「その事故で、澪ちゃんは長い間入院することになった。家族もこの町を離れた。お前は、自分のせいで澪ちゃんがいなくなったと思い込んだ」
湊の視界が滲んだ。
「僕のせいじゃ……」
「違う」
父は強く言った。
「違うんだ、湊。お前はあの子を助けた。誰もお前を責めていない」
誰も責めていない。
でも、幼い自分は自分を責めた。
澪を失ったと思った。
約束を破ったと思った。
手を離したと思った。
だから、忘れた。
自分を守るために。
生きるために。
でも、澪は覚えていた。
十年間。
湊は唇を噛んだ。
「澪は、どうして今戻ってきたの」
父は少し驚いた顔をした。
「会ったのか?」
「学校に転校してきた」
父の表情が明らかに揺れた。
「そうか……」
「父さんは知ってた?」
「いや」
父は首を横に振った。
「白峰さん一家とは、事故のあと少しだけ連絡を取っていた。でも、いつの間にか途絶えてしまった」
「澪は、時間がないって言ってた」
父が眉をひそめる。
「時間?」
「何か知ってる?」
「いや……」
父は本当に知らないようだった。
湊の不安がまた膨らむ。
澪は何を隠しているのか。
事故で命は助かった。
なら、なぜあんなに消えそうな顔をするのか。
なぜ“終わらせる”と言ったのか。
その夜、湊はなかなか眠れなかった。
父から聞いた話が、頭の中をぐるぐる回っている。
自分は澪を助けた。
でも、澪は入院し、町を離れた。
幼い湊は、それを自分のせいだと思い込んだ。
思い出したことで少し楽になったはずなのに、胸の奥にはまだ大きな穴が残っていた。
なぜなら、澪の秘密はまだ何も分かっていないから。
湊は机の上のキーホルダーを手に取った。
星の砂が、暗い部屋の中で微かに光る。
「忘れない」
湊は小さく呟いた。
今度こそ、忘れない。
澪のことも。
約束も。
自分が感じた痛みも。
その夜、湊はまた夢を見た。
夕焼けの屋上。
白いワンピースの澪が立っている。
今度は、顔がはっきり見えた。
澪は泣いていた。
「湊」
夢の中で、彼女は言った。
「思い出してくれて、ありがとう」
湊は手を伸ばした。
「澪、待って」
澪は首を横に振った。
「まだだよ」
「何が」
「まだ、全部じゃない」
風が強く吹く。
白いワンピースが揺れる。
「本当に思い出さなきゃいけないのは」
澪の声が遠ざかっていく。
「私が消える理由」
湊は息をのんだ。
「消える?」
澪は悲しそうに笑った。
「また明日ね」
夢が崩れる。
夕焼けが滲み、白いワンピースが光の中に溶けていく。
湊は叫んだ。
「澪!」
目が覚めた時、窓の外はまだ暗かった。
胸が苦しい。
湊は起き上がり、スマホを手に取った。
澪に連絡しようとして、連絡先を知らないことに気づいた。
こんなに近くにいるのに。
こんなに大事な記憶を共有しているのに。
まだ、澪のことを何も知らない。
好きな食べ物も。
今住んでいる場所も。
どうして戻ってきたのかも。
そして、なぜ消えると言ったのかも。
湊は窓の外を見た。
夜明け前の空は、深い青をしていた。
昨日の夕焼けの屋上で見た白いワンピースが、まだ瞼の裏に残っている。
夢の中だけの幻だったものが、現実になった。
けれど現実になったことで、湊は初めて知った。
夢よりも現実の方が、ずっと怖い。
夢なら、目が覚めれば終わる。
でも現実で失ったものは、目を覚ましても戻らない。
それでも湊は、もう逃げないと決めた。
澪が消える理由を知る。
彼女が何を抱えて戻ってきたのかを知る。
そして、十年前の約束の続きを、今度こそ最後まで見届ける。
夕焼けの屋上と白いワンピース。
それは、夢の始まりではなく、
忘れていた現実の扉だった。
湊はその扉を、もう一度開けてしまった。
そしてその先には、
まだ知らない別れの気配が、
静かに待っていた。
第3ページを読んでくださり、ありがとうございます。
夢に出てきた白いワンピースは、十年前に澪が湊へ見せたかった服でした。
そして湊は、夏祭りの屋上で確かに澪と過ごしていたことを思い出します。
けれど、澪が口にした「消える理由」という言葉が、新たな不安を残します。
次の第4ページ「君はどうして泣きそうなの」では、澪の隠している本当の痛みに、湊が少しずつ触れていきます。




