初めて会った気がしない
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい。
声も、横顔も、名前を呼ぶ響きさえも、
胸の奥にしまっていた記憶を揺らしていく。
第2ページ「初めて会った気がしない」。
湊と澪の距離が、少しずつ近づいていきます。
翌朝、湊はいつもより早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
カーテンの向こうはまだ白っぽく、夏の朝特有の湿った空気が部屋の中に沈んでいた。遠くで蝉が鳴き始めている。昨日までなら、その声を聞いただけでうんざりして、布団を頭までかぶっていただろう。
けれど、その朝の湊は違っていた。
眠りから覚めても、夢の余韻がまだ胸の奥に残っていた。
夕焼けの屋上。
白いワンピースの少女。
そして、白峰澪。
夢と現実が重なった昨日の放課後から、湊の中では何かがずっと鳴り続けていた。音ではない。声でもない。ただ、忘れていたはずの何かが、心の奥で小さく扉を叩いているような感覚だった。
――明日、屋上で。
夢の中の少女は、確かにそう言った。
それが澪なのか。
澪に似た誰かなのか。
それとも、湊自身の記憶が作り出した幻なのか。
分からなかった。
分からないのに、無視できなかった。
湊はベッドから起き上がり、机の上に置かれた古い写真立てを見た。
そこには、まだ母が生きていた頃の家族写真が入っていた。父、母、美咲、そして幼い湊。遊園地で撮った写真だ。湊は六歳くらいで、美咲はまだ母の腕に抱かれている。
母は笑っていた。
父も笑っていた。
美咲も笑っていた。
けれど、写真の中の湊だけは、どこか別の場所を見ている。
湊はその写真を見るたびに、いつも不思議に思っていた。
自分は何を見ていたのだろう、と。
写真には写っていない誰か。
あるいは、もう消えてしまった何か。
「兄ちゃん、今日は早いじゃん」
洗面所で顔を洗っていると、美咲が眠そうな顔で現れた。
「たまたま」
「変なの。昨日あんな顔して帰ってきたから、今日は絶対寝坊すると思った」
「どんな顔だよ」
「幽霊に取り憑かれた人みたいな顔」
「悠真と同じこと言うな」
美咲は歯ブラシをくわえながら、鏡越しに湊を見た。
「学校で何かあった?」
湊はタオルで顔を拭いた。
「別に」
「兄ちゃんの別には、だいたい別にじゃない」
「何もない」
「嘘つくの下手」
美咲はそう言って、口をゆすいだ。
湊は返事をしなかった。
澪のことを話したところで、うまく説明できる気がしなかった。
転校生が来た。
その子が夢に出てくる少女に似ていた。
その子は僕のことを知っているみたいだった。
屋上で、忘れた約束の話をされた。
そんなことを言えば、美咲はきっと本気で心配する。
いや、もしかしたら笑うかもしれない。
どちらにしても、湊はまだ誰かに話す気にはなれなかった。
朝食を食べながら、湊は何度も昨日の澪の言葉を思い出していた。
――忘れててもいいよ。私が覚えてるから。
その言葉は優しいはずなのに、なぜか痛かった。
忘れていてもいい。
それは、忘れたことを責めない言葉だ。
けれど同時に、忘れてしまった事実を突きつける言葉でもあった。
湊は何を忘れたのだろう。
澪は何を覚えているのだろう。
学校へ向かう道で、湊はいつもよりゆっくり歩いた。
空は青かった。
雲は薄く流れ、朝の光がアスファルトを白く照らしている。
通学路の途中に、小さな児童公園がある。
錆びたブランコ。
色あせた滑り台。
砂場の隅に置きっぱなしの黄色いバケツ。
いつもなら気にも留めず通り過ぎる場所だった。
けれどその日、湊はなぜか足を止めた。
胸の奥が、かすかに疼いた。
この公園を、知っている。
もちろん、地元なのだから知っていて当然だ。小さい頃に遊んだこともあるかもしれない。けれど、湊が感じたのは、そういう単純な懐かしさではなかった。
もっと深いところに沈んだ記憶が、泥の中から泡を立てるように浮かびかけていた。
ブランコに座る小さな女の子。
白い帽子。
泣きそうな顔。
自分の手の中にある、溶けかけたアイス。
一瞬、そんな映像が頭をよぎった。
湊は思わず額を押さえた。
今のは何だ。
記憶なのか。
夢なのか。
ただの想像なのか。
「朝倉くん?」
背後から声がした。
湊は振り返った。
そこに澪が立っていた。
昨日と同じ制服姿。肩にかけた鞄。朝の光に透ける黒髪。彼女は少しだけ息を弾ませていた。走ってきたのかもしれない。
「白峰」
名前を呼ぶと、澪はほんの少し嬉しそうに笑った。
その表情を見ただけで、湊の胸はまた苦しくなった。
「おはよう」
「……おはよう」
初めて交わす朝の挨拶。
それなのに、まるで何度も繰り返してきたみたいに自然だった。
澪は湊の横に並び、公園の中を見た。
「ここ、懐かしいね」
湊は息を止めた。
「懐かしい?」
「うん」
澪はブランコを見つめたまま言った。
「昔、ここでよく遊んだ気がする」
「気がするって、君は昨日転校してきたんだろ」
「そうだね」
「この町にいたことがあるのか?」
澪は答えるまでに少し間を置いた。
「少しだけ」
「いつ?」
「ずっと昔」
「僕と会ったことがある?」
湊が聞くと、澪はゆっくりこちらを見た。
その瞳は、朝の光の中でもどこか夜みたいに静かだった。
「朝倉くんは、どう思う?」
質問を質問で返され、湊は言葉に詰まった。
どう思うか。
そんなの、分からない。
分からないけれど。
「初めて会った気がしない」
気づけば、そう口にしていた。
言った瞬間、自分でも驚いた。
澪も少し目を見開いた。
そして、泣きそうに笑った。
「そっか」
それだけだった。
けれど、その「そっか」には、長い時間を越えて届いた返事のような響きがあった。
二人は並んで学校へ向かった。
会話は多くなかった。
でも、不思議と沈黙が苦ではなかった。
普段なら、誰かと黙って歩く時間は気まずく感じる。何か話さなければいけない気がして、結局疲れてしまう。
けれど澪の隣は違った。
言葉がなくても、そこにいていいような気がした。
校門に着く少し手前で、悠真が後ろから駆けてきた。
「おーい、湊! って、え、何その青春登校」
湊は眉をひそめた。
「朝からうるさい」
「いやいやいや、昨日転校してきたばっかの白峰さんと並んで登校って、展開早くない?」
澪は困ったように笑った。
「途中で会っただけだよ」
「それを運命って言うんだよ」
「言わない」
湊が即答すると、悠真は大げさに肩を落とした。
「お前は本当に夢がないな」
その言葉に、湊は一瞬だけ固まった。
夢。
その単語が、今の湊には妙に重かった。
悠真はそれに気づかず、澪に向かって明るく話しかける。
「白峰さん、この町まだ慣れないでしょ? 分かんないことあったら俺に聞いて。こいつは無愛想だから役に立たない」
「余計なお世話だ」
「でも朝倉くん、昨日屋上の場所教えてくれたよ」
澪がそう言うと、悠真の顔から笑いが消えた。
「屋上?」
湊はしまったと思った。
悠真が眉を寄せる。
「屋上って、鍵かかってなかった?」
「昨日は開いてた」
「ふうん」
悠真は少しだけ考えるような顔をした。
「珍しいな。あそこ、基本立ち入り禁止だぞ」
「そうなの?」
澪が聞くと、悠真は頷いた。
「昔、事故があったとかでさ。詳しくは知らないけど、先生たちがあんまり行かせたがらない」
事故。
その言葉を聞いた瞬間、湊の耳の奥で何かが鳴った。
キン、と細い音。
視界が一瞬だけ揺れる。
道路に広がる雨水。
赤い傘。
誰かの叫び声。
小さな手を離した感覚。
「湊?」
悠真の声で、湊は我に返った。
「大丈夫か?」
「……平気」
澪が心配そうに湊を見ていた。
その目を見て、湊はなぜか恥ずかしくなり、視線を逸らした。
「行くぞ。遅れる」
教室に入ると、昨日と同じようにざわめきがあった。
けれど湊にとっては、昨日とはまるで違う教室に見えた。
隣の席に澪がいる。
ただそれだけで、世界の輪郭が少し変わったように感じた。
一時間目の現代文。
教師が黒板に「記憶と物語」と書いた。
偶然にしては出来すぎている、と湊は思った。
教師は教科書を読みながら言った。
「人は過去をそのまま覚えているわけではありません。思い出すたびに、少しずつ形を変えている。つまり、記憶とは過去そのものではなく、今の自分が作り直した物語でもあるわけです」
湊はシャープペンを握ったまま、ノートに何も書けなかった。
記憶とは、今の自分が作り直した物語。
では、自分が忘れているものは何なのだろう。
忘れたのではなく、思い出せないように作り直したのだとしたら。
それは、自分を守るためだったのか。
誰かを守るためだったのか。
隣を見ると、澪も黒板を見つめていた。
その横顔は静かだった。
けれど、膝の上で握られた手が、ほんの少し震えているのが見えた。
湊は小さな声で言った。
「白峰」
澪がこちらを見る。
「大丈夫か」
そう聞いた瞬間、澪は驚いた顔をした。
そして、すぐに笑った。
「朝倉くんこそ」
「僕は別に」
「また別にって言った」
昨日会ったばかりなのに、もう見抜かれている。
湊は少しだけ居心地が悪くなった。
昼休み、澪は女子たちに囲まれていた。
どこの学校から来たのか。
好きな食べ物は何か。
部活は入るのか。
彼氏はいるのか。
質問攻めにされても、澪は嫌な顔をせず、ひとつひとつ丁寧に答えていた。
湊は自分の席で弁当を広げながら、その様子をぼんやり眺めていた。
「気になる?」
悠真がにやにやしながら隣に座った。
「何が」
「白峰さん」
「別に」
「出た、別に」
悠真はパンの袋を開けながら言った。
「でもさ、あの子、なんか不思議だよな」
「何が」
「うまく言えないけど、転校生っぽくないっていうか。昨日来たばっかなのに、この教室に前からいたみたいな感じしない?」
湊は箸を止めた。
悠真も同じことを感じているのか。
「それに」
悠真は声を少し落とした。
「白峰さん、湊のこと見すぎ」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃない。俺、そういうの敏感だから」
「恋愛脳なだけだ」
「否定はしない」
悠真は笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「でも、お前も気をつけろよ」
「何を」
「なんか、無理してる顔してる」
湊は何も言えなかった。
悠真は普段ふざけているくせに、時々こういうところだけ鋭い。
「昨日から変だぞ。屋上の話の時もそうだったし」
「大丈夫だ」
「大丈夫って言う奴ほど、大丈夫じゃないんだよ」
湊は弁当箱の蓋を閉めた。
「お前、たまに面倒くさいな」
「親友だからな」
悠真は当たり前のように言った。
その言葉に、湊は少しだけ救われた気がした。
放課後。
湊は授業が終わるとすぐに席を立った。
今日は屋上に行く。
そう決めていた。
澪に言われたからだけではない。
夢の中の少女にも言われたからだ。
教室を出ようとした時、澪が鞄を持って近づいてきた。
「行く?」
まるで約束していたみたいな言い方だった。
湊は少し迷ってから頷いた。
「行く」
二人は並んで廊下を歩いた。
放課後の学校は、昼間とは違う音をしている。
部活へ向かう生徒たちの声。
吹奏楽部の音階練習。
体育館から響くボールの音。
窓の外では、蝉の声がまだ残っている。
全部が夏の音だった。
階段を上るたび、湊の鼓動が速くなる。
屋上へ続く最後の踊り場に着くと、昨日と同じように扉は少し開いていた。
「やっぱり開いてる」
湊が呟くと、澪は小さく頷いた。
「開いてる時しか、ここには来られないから」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
澪は扉を押した。
夕方の風が二人を包んだ。
屋上には、昨日と同じ夕焼けが広がっていた。
いや、同じではない。
空の色も、雲の形も、町の明かりも昨日とは違う。
それでも、湊には同じ場所に見えた。
何度も夢で来た場所。
何度も失った場所。
澪はフェンスの前まで歩き、町を見下ろした。
「ここから見る夕焼け、昔から好きだった」
「昔から?」
湊が聞くと、澪は少しだけ笑った。
「うん。たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「確かなことほど、言葉にすると壊れそうだから」
湊にはその意味が分からなかった。
でも、澪が嘘をついているようには見えなかった。
湊はフェンスの隣に立った。
二人の間には、拳ひとつ分ほどの距離があった。
近いのに、遠い。
澪は鞄の中から小さなものを取り出した。
それは、古びたキーホルダーだった。
透明なプラスチックの中に、小さな星の砂が入っている。端の部分は少し欠けていて、金具は錆びていた。
湊はそれを見た瞬間、息が止まった。
知っている。
まただ。
また、知っている。
「これ」
澪が手のひらに乗せたまま言った。
「覚えてる?」
湊は震える手でそれを受け取った。
指先に触れた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
夏祭り。
屋台の明かり。
綿あめ。
ヨーヨー。
小さな女の子の笑顔。
『半分こしよう』
『キーホルダーは半分にできないよ』
『じゃあ、同じの持とう』
『それなら、なくさない?』
『なくさない。絶対』
幼い自分の声が聞こえた気がした。
湊は思わず膝をつきそうになった。
「朝倉くん!」
澪が支えようと手を伸ばす。
その手に触れた瞬間、さらに記憶が揺れた。
小さな手。
雨で濡れた手。
離れていく手。
湊は反射的に澪の手を振り払ってしまった。
「ごめん」
すぐに謝った。
澪は驚いた顔をしたが、怒らなかった。
「無理しないで」
「今の……何だよ」
湊はキーホルダーを握りしめたまま言った。
「僕は、これを知ってる」
「うん」
「君が持ってる理由は?」
澪は静かに答えた。
「朝倉くんが、私にくれたから」
風が吹いた。
湊は言葉を失った。
「僕が?」
「うん」
「いつ」
「十年前」
十年前。
湊が八歳の頃。
その頃の記憶は、ところどころ抜け落ちている。
母が病気になる前。
美咲がまだ小さくて。
父が今よりよく笑っていた頃。
そして、その夏の記憶だけが、妙に空白になっている。
「僕と君は、昔会っていたのか」
澪は頷いた。
「会ってた」
「友達だった?」
「うん」
「どうして僕は忘れてる」
澪の表情が曇った。
その顔を見た瞬間、湊は聞いてはいけないことを聞いたのだと分かった。
でも、もう止まれなかった。
「何があった?」
澪はフェンス越しの夕焼けを見た。
長い沈黙が落ちた。
そして彼女は言った。
「朝倉くんは、私を助けようとした」
湊の心臓が強く打った。
「助ける?」
「雨の日だった」
澪の声は震えていた。
「私が、道路に飛び出したの」
雨。
道路。
赤い傘。
叫び声。
湊の頭に、朝の断片が蘇る。
「その時、朝倉くんが私の手を掴んだ」
澪は続けた。
「でも……」
彼女は言葉を切った。
湊は続きを聞きたかった。
でも、聞くのが怖かった。
「でも?」
澪は振り返った。
夕焼けの光が、彼女の瞳を濡らしていた。
「全部は、まだ言えない」
「またそれか」
湊の声が少し荒くなった。
「君は知ってるんだろ。僕が忘れてることを。だったら教えてくれよ」
「急に思い出したら、朝倉くんが壊れちゃう」
「壊れるって何だよ」
「昔もそうだった」
澪は小さく言った。
「朝倉くんは、自分を責めた」
湊の胸が締めつけられた。
責めた。
何を。
誰のせいで。
誰を失った。
「白峰」
湊は必死に声を絞り出した。
「君は、生きてるんだよな」
その問いに、澪はすぐ答えなかった。
その一瞬の沈黙が、湊を冷たくした。
「答えろよ」
澪は少しだけ笑った。
悲しい笑顔だった。
「今は、ここにいるよ」
それは答えになっていなかった。
けれど、湊はそれ以上聞けなかった。
聞いてしまったら、戻れなくなる気がした。
夕焼けが濃くなっていく。
澪は湊の手の中のキーホルダーを見た。
「それ、持ってて」
「君のだろ」
「ううん。もともと、朝倉くんのだから」
「でも僕が君にあげたんじゃ」
「だから、返しに来たの」
返しに来た。
その言葉が妙に引っかかった。
まるで彼女は、長い旅の終わりにここへ来たみたいだった。
「白峰は、どうして今この町に戻ってきたんだ」
澪は少しだけ目を伏せた。
「時間が、あまりないから」
湊の背中に冷たいものが走った。
「時間?」
「うん」
「どこかへ行くのか」
「たぶん」
「いつ」
澪は答えなかった。
また沈黙。
湊はその沈黙に苛立った。
でも同時に、怖かった。
澪が何かを隠しているのは分かる。
それが湊のためだということも、何となく分かる。
けれど、隠されるほど、湊の中の不安は大きくなった。
「私はね」
澪が静かに口を開いた。
「朝倉くんに、思い出してほしい。でも、苦しんでほしいわけじゃない」
「そんな都合のいいこと」
「分かってる」
澪は頷いた。
「でも、どうしても言いたいことがあるの」
「何を」
「ありがとうって」
湊は眉を寄せた。
「何で」
「朝倉くんが、私を忘れても」
澪は湊を見た。
「私は、朝倉くんに救われたから」
その言葉は、夕焼けよりも静かに湊の胸へ落ちた。
救われた。
自分が誰かを救った記憶なんてない。
むしろ湊は、ずっと何も救えなかった人間だと思っていた。
母を救えなかった。
美咲の寂しさも救えなかった。
父の沈黙も救えなかった。
自分自身さえ、どうにもできなかった。
そんな自分が、澪を救った?
信じられなかった。
「僕は、そんな人間じゃない」
湊は呟いた。
澪は首を横に振った。
「そうやって、すぐ自分を悪く言うところは変わってない」
「僕を知ったようなこと言うな」
「知ってるよ」
澪の声が少し強くなった。
「朝倉くんは、自分の痛みには鈍いくせに、人の痛みにはすぐ気づく人だった」
湊は何も言えなかった。
「小さい頃もそうだった。私が泣いてると、何も聞かずに隣に座ってくれた。私が寂しいって言えない時も、分かってるみたいにアイスを半分くれた。私が帰りたくないって言った時、じゃあもう少しだけここにいようって言ってくれた」
澪の声が震えていく。
「そういうこと、朝倉くんは忘れてるかもしれないけど、私は全部覚えてる」
湊は息ができなかった。
知らない自分の話を聞いているはずなのに、なぜか胸が熱くなる。
その光景を、自分もどこかで覚えている気がした。
夏の公園。
溶けるアイス。
泣いている女の子。
隣に座る幼い自分。
あれは澪だったのか。
「私にとって朝倉くんは」
澪は言いかけて、口を閉じた。
そして少し笑った。
「大事な友達だった」
友達。
その言葉に、湊はなぜか少しだけ寂しくなった。
なぜ寂しいのか、自分でも分からなかった。
「だった、って過去形なんだな」
湊が言うと、澪は驚いたようにこちらを見た。
それから、柔らかく笑った。
「じゃあ、今も」
「今も?」
「大事な友達」
湊は視線を逸らした。
顔が熱くなっているのが分かった。
澪はそんな湊を見て、少しだけ楽しそうに笑った。
その笑顔は、昨日までの悲しげなものとは違っていた。
普通の高校生みたいな笑顔だった。
その瞬間、湊は初めて思った。
澪にも、こんなふうに笑っていてほしい。
泣きそうな顔ではなく。
消えてしまいそうな顔でもなく。
ただ普通に、笑っていてほしい。
「明日」
澪が言った。
「学校、少し早く来られる?」
「何で」
「見せたいものがある」
「また記憶関係?」
「たぶん」
「たぶんって」
「でも、怖いものじゃないよ」
澪はそう言って、屋上の扉へ向かった。
湊もその後を追う。
階段を降りる前に、澪が振り返った。
「朝倉くん」
「何」
「今日、初めて会った気がしないって言ってくれて、嬉しかった」
湊は答えに困った。
それは本音だった。
けれど、改めて言われると恥ずかしい。
「別に、思ったことを言っただけだ」
「うん」
澪は微笑んだ。
「それが嬉しかった」
その日の夜、湊は机の上にキーホルダーを置いた。
透明なプラスチックの中の星の砂が、部屋の明かりを受けて小さく光っている。
十年前、自分が澪に渡したもの。
どうして忘れていたのだろう。
大事な友達だったはずなのに。
湊はスマホで昔の写真を探した。
家族写真。
運動会。
夏祭り。
誕生日。
古いアルバムアプリの奥に、見覚えのない写真が一枚あった。
撮影日は十年前の八月。
場所は、おそらくあの公園。
そこには、幼い湊が写っていた。
そして隣に、白い帽子をかぶった女の子がいた。
顔は少しぼやけている。
けれど、分かった。
澪だ。
幼い澪が、湊の隣で笑っていた。
湊はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
本当に会っていた。
本当に友達だった。
なのに、どうして忘れた。
その時、画面の中の幼い澪の手元に、小さなキーホルダーが映っていることに気づいた。
今日、澪が返してくれたものと同じだった。
湊の胸がまた痛んだ。
記憶は戻りかけている。
でも、肝心な部分だけが見えない。
雨の日。
事故。
手を掴んだ。
でも、そのあと何が起きた?
湊はベッドに横になった。
眠るのが怖かった。
また夢を見るかもしれない。
夢の中で、今度こそ何かを思い出してしまうかもしれない。
でも同時に、会いたかった。
夢の中の少女に。
澪に。
忘れてしまった過去に。
目を閉じると、すぐに夕焼けの色が浮かんだ。
そして、夢が始まった。
今度の夢は、屋上ではなかった。
公園だった。
夕方の児童公園。
ブランコが揺れている。
遠くで夏祭りの太鼓の音がする。
幼い湊が、ベンチに座っている。
その隣で、小さな女の子が泣いていた。
白い帽子。
細い肩。
膝の上で握りしめた手。
『帰りたくない』
女の子が言った。
幼い湊は困った顔で、溶けかけたアイスを差し出した。
『じゃあ、半分あげる』
『半分じゃ足りない』
『じゃあ、僕の全部あげる』
女の子は泣きながら笑った。
『湊くんって変』
『澪ちゃんの方が変だよ』
澪ちゃん。
夢の中で、幼い自分が確かにそう呼んだ。
湊は夢の中でそれを見ていた。
自分の記憶なのに、映画を見ているようだった。
幼い澪はアイスを受け取り、小さな声で言った。
『私ね、いなくなっちゃうかもしれない』
幼い湊は首を傾げた。
『どこに?』
『遠いところ』
『じゃあ、会いに行く』
『場所、分からないよ』
『夢で会えばいいじゃん』
幼い湊は当たり前のように言った。
『夢なら、どこでも行けるってお母さんが言ってた』
幼い澪は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
『じゃあ、約束ね』
『うん』
『忘れないでね』
『忘れない』
『絶対?』
『絶対』
その瞬間、景色が滲んだ。
公園の夕焼けが、雨の匂いに変わる。
空が暗くなる。
地面が濡れる。
車のライトが眩しく光る。
幼い澪が道路の向こうにいる。
泣いている。
湊の体が動かない。
『澪ちゃん!』
幼い自分の叫び声。
走り出す足。
伸ばした手。
触れた指先。
そして――
そこで夢は途切れた。
湊は飛び起きた。
息が荒い。
心臓が破れそうなほど鳴っている。
部屋は暗かった。
まだ夜明け前だった。
湊は震える手で、机の上のキーホルダーを見た。
星の砂が、月明かりの中で小さく光っていた。
思い出した。
全部ではない。
でも、確かに一つ思い出した。
澪は、昔の友達だった。
そして自分は、彼女と約束した。
夢で会うと。
忘れないと。
なのに、忘れていた。
湊は胸を押さえた。
痛かった。
けれど、その痛みの奥に、少しだけ温かいものがあった。
初めて会った気がしない。
そう感じた理由が、やっと分かった。
初めてではなかったのだ。
自分たちは、ずっと前に出会っていた。
夏の公園で。
夕焼けの屋上で。
夢の中で。
そしてたぶん、まだ終わっていない約束の中で。
翌朝、湊は決めた。
もう逃げない。
澪が何を隠していても。
自分が何を忘れていても。
ちゃんと向き合う。
夢の中で君に会うだけではなく、
現実の君に、もう一度会いに行く。
そう決めて、湊は制服に袖を通した。
第2ページを読んでくださり、ありがとうございます。
澪と湊は、初対面ではありませんでした。
十年前、二人は確かに出会い、友達になり、そして何か大切な約束を交わしていました。
次の第3ページ「夕焼けの屋上と白いワンピース」では、夢に出てくる屋上の意味と、澪が抱えている秘密にさらに近づいていきます。




