夢の中で、君は笑っていた
これは、忘れてしまった約束を思い出すための物語です。
夢の中でだけ会える誰か。
目が覚めるたびに消えてしまう顔。
それでも胸の奥に残り続ける、懐かしい痛み。
第1ページ「夢の中で、君は笑っていた」。
ここから、朝倉湊の夏が始まります。
夢の中で、君はいつも笑っていた。
夕焼け色に染まった屋上で、古びたフェンスの向こう側に広がる町を見下ろしながら、白いワンピースの裾を風に揺らして、君は僕の方を振り返る。
その顔は、いつも光の中に溶けていた。
笑っていることだけは分かる。
けれど、目の形も、髪の長さも、声の高さも、目覚めた瞬間には全部こぼれ落ちてしまう。
ただ一つだけ、忘れられない言葉があった。
「またね、湊」
その声を聞くたび、胸の奥がきゅっと痛む。
懐かしいような。
悲しいような。
大切なものを、どこかに置き忘れてきたような。
僕は夢の中でいつも、その少女に手を伸ばす。
待って。
行かないで。
君は誰なんだ。
そう叫ぼうとするのに、声は出ない。
少女は笑ったまま、夕焼けの向こうへ歩いていく。
フェンスの向こうへ消えるわけでも、階段を降りるわけでもない。
ただ、光の中へ溶けていく。
そして最後に、必ずこう言う。
「今度こそ、思い出してね」
そこで夢は終わる。
目が覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
蝉の声が、うるさいくらいに鳴いている。
僕はベッドの上でしばらく天井を見つめていた。
心臓が少しだけ速く打っている。
頬には涙の跡があった。
まただ。
また、同じ夢を見た。
中学に入った頃から、僕は何度もあの夢を見るようになった。
最初は、ただの夢だと思っていた。
けれど、何度も何度も繰り返すうちに、ただの夢ではない気がしてきた。
夢の中の屋上。
白いワンピースの少女。
夕焼け。
そして、僕の名前を呼ぶ声。
全部があまりにも鮮明で、あまりにも懐かしかった。
でも、僕にはその少女の記憶がなかった。
知っているはずなのに、知らない。
会ったことがある気がするのに、思い出せない。
まるで心の中の一部だけが、誰かにそっと切り取られてしまったみたいだった。
「兄ちゃん、起きてる?」
ドアの向こうから妹の美咲の声がした。
「起きてる」
僕が答えると、間もなくドアが少しだけ開いた。
「朝ごはん冷めるよ。あと、今日始業式でしょ」
「分かってる」
「分かってる人の声じゃないんだけど」
美咲は呆れたように言いながら、部屋の中を覗いた。
中学二年生の妹は、僕よりずっとしっかりしている。
母さんがいなくなってから、家の中の空気を明るくしようとしてくれているのも分かっていた。
分かっているのに、僕はうまく笑えない。
「また変な夢?」
美咲が小さな声で言った。
僕は答えなかった。
答えなかったことで、答えたようなものだった。
美咲は少しだけ眉を下げた。
「病院とか、行った方がいいんじゃない?」
「ただの夢だよ」
「ただの夢で、毎回泣く?」
僕は頬を手の甲で拭った。
美咲はそれ以上何も言わなかった。
昔から、僕は泣くのが嫌いだった。
泣いても何も戻らないと知っていたから。
母さんが死んだ日も、僕は泣かなかった。
いや、正確には泣けなかった。
病室の白い天井。
消毒液の匂い。
父さんの震える背中。
美咲の泣き声。
全部覚えている。
でも、その日の記憶の一部だけがぼやけている。
母さんが最後に何を言ったのか。
僕が何を返したのか。
そこだけ、霞がかかったように思い出せない。
夢の少女と同じだ。
大切なところだけ、いつも消えている。
洗面所で顔を洗うと、鏡の中の自分と目が合った。
寝不足の顔。
少し伸びた前髪。
笑い方を忘れたみたいな口元。
高校三年の夏。
普通なら、進路だの受験だの最後の文化祭だの、そういうものに胸をざわつかせる時期なのだろう。
けれど、僕には何もなかった。
行きたい大学もない。
なりたい職業もない。
忘れられない夢だけがある。
朝食の席には、父さんがいなかった。
仕事で早く出たらしい。
テーブルの上には、美咲が焼いた目玉焼きとトーストが並んでいた。
「焦げてるけど文句言わないで」
「言ってない」
「顔が言ってる」
「うまそうだと思ってた」
「嘘くさ」
美咲はそう言いながらも、少し笑った。
僕はトーストをかじった。
少し焦げていて、少し苦かった。
それでも、温かかった。
学校へ向かう道は、夏の匂いで満ちていた。
アスファルトから立ちのぼる熱。
遠くから聞こえる蝉の声。
自転車で通り過ぎていく制服姿の生徒たち。
全部が、いつも通りだった。
なのに、僕だけがどこか違う場所にいるような気がした。
校門の前で、親友の柊悠真が手を振っていた。
「湊! お前、また死人みたいな顔してんな」
「朝からうるさい」
「褒めてる」
「どこが」
「幽霊にしては足がある」
「それは褒め言葉じゃない」
悠真は昔から、空気を軽くするのがうまかった。
僕が黙っていても、勝手に話し続ける。
僕が笑わなくても、勝手に笑っている。
そういう奴だった。
「今日、転校生来るらしいぞ」
教室へ向かう廊下で、悠真が言った。
「この時期に?」
「らしい。しかも女子」
「ふうん」
「反応薄っ。もっとこう、青春っぽくさ、ワクワクしろよ」
「受験生だぞ」
「受験生でも恋はする」
「お前だけしてろ」
「俺は常にしてる」
悠真は胸を張った。
くだらない会話だった。
でも、そういうくだらなさに、僕は何度も救われている。
教室に入ると、夏休み明け特有のざわめきが広がっていた。
日焼けした奴。
髪型が少し変わった奴。
宿題の話で騒ぐ奴。
僕は窓際の席に座り、ぼんやり外を見た。
青すぎる空だった。
あの夢の夕焼けとは違う。
けれど、なぜか胸がざわついた。
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。
「席につけー。夏休み気分は今日で終わりだぞ」
教室が少しずつ静かになる。
担任は出席簿を机に置くと、少しだけ表情を和らげた。
「今日は転校生を紹介する」
その瞬間、教室が一気にざわめいた。
悠真が後ろの席から僕の背中をつつく。
「来たぞ、青春」
僕は振り返らずに言った。
「黙ってろ」
担任が廊下に向かって声をかける。
「入っていいぞ」
教室の扉が開いた。
その瞬間、風が入ってきた。
本当にそう感じた。
窓は開いていない。
エアコンの風でもない。
でも、僕の胸の中を、何かが通り抜けた。
入ってきたのは、ひとりの女子生徒だった。
白い肌。
肩のあたりで揺れる黒髪。
静かな目。
彼女は教壇の横に立つと、ゆっくりと頭を下げた。
「白峰澪です。よろしくお願いします」
その声を聞いた瞬間、僕の呼吸が止まった。
知っている。
そう思った。
初めて聞く声のはずなのに。
初めて見る顔のはずなのに。
心の奥のどこかが、はっきりと震えた。
夢の中で聞いた声と同じだった。
「白峰はしばらくこのクラスで過ごすことになる。みんな仲良くしてやってくれ」
担任がそう言うと、教室のあちこちから小さな拍手が起こった。
白峰澪は静かに顔を上げた。
その視線が、教室をゆっくり巡る。
そして、僕のところで止まった。
目が合った。
時間が止まったような気がした。
彼女は驚いた顔をしなかった。
むしろ、やっと見つけたものを見るように、ほんの少しだけ目を細めた。
そして、微かに笑った。
夢の中の少女みたいに。
胸が痛んだ。
ひどく懐かしい痛みだった。
「席は……朝倉の隣が空いてるな。白峰、そこへ」
担任の声で、僕は現実に引き戻された。
白峰澪は静かに歩いてきて、僕の隣の席に座った。
机の脚が床を擦る小さな音がした。
僕は前を向いたまま動けなかった。
隣から、ふわりと石鹸のような匂いがした。
どこかで知っている匂いだった。
授業が始まっても、僕は黒板の文字をほとんど追えなかった。
隣にいる彼女の存在だけが、やけに大きかった。
夢と現実の境目が、少しずつ曖昧になっていく。
昼休みになると、悠真がすぐに僕の席へ来た。
「おい湊、奇跡だぞ。転校生の隣とか、主人公じゃん」
「うるさい」
「白峰さん、よろしく。俺、柊悠真。こいつの親友」
白峰は少しだけ笑った。
「よろしくお願いします」
「敬語じゃなくていいよ。同級生だし」
「じゃあ、よろしく」
その笑い方は穏やかだった。
でも、どこか寂しそうでもあった。
悠真は僕の顔を覗き込む。
「で、湊。お前なんでそんな固まってんの?」
「別に」
「別にって顔じゃないぞ」
僕は何も言えなかった。
すると、白峰が僕の方を向いた。
「朝倉くん」
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねた。
「何?」
僕がやっと答えると、彼女は少しだけ首を傾げた。
「前に、どこかで会ったことある?」
その言葉に、悠真が「おお」と変な声を出した。
僕は白峰を見た。
彼女の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
むしろ、本気で確かめているみたいだった。
「……分からない」
僕はそう答えた。
本当は「ある気がする」と言いたかった。
でも、それを言ってしまったら、何かが壊れてしまう気がした。
白峰は少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
その笑顔を見た瞬間、また胸が痛んだ。
どうしてそんな顔をするんだ。
どうして、僕が忘れていることを知っているような顔をするんだ。
放課後、僕は逃げるように教室を出た。
廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に長く伸びていた。
今日は部活もない。
用事もない。
まっすぐ帰ればいい。
そう思ったのに、足はなぜか階段へ向かっていた。
屋上へ続く階段。
普段は鍵がかかっているはずだった。
けれど、その日はなぜか扉が少しだけ開いていた。
僕は息をのんだ。
夢の中の景色が、頭の中に浮かぶ。
夕焼け。
フェンス。
白いワンピースの少女。
僕はゆっくり扉を押した。
金属の軋む音がして、屋上に出る。
風が強かった。
夕焼けが、町を赤く染めていた。
夢と同じだった。
いや、完全に同じではない。
フェンスの錆び方も、床のひび割れも、置かれた古いベンチも、夢とは少し違う。
それでも、僕はそこに立った瞬間、分かった。
ここだ。
僕はこの場所を知っている。
知らないはずなのに、知っている。
フェンスの近くに、人影があった。
白峰澪だった。
白いワンピースではなく、制服を着ていた。
けれど、風に揺れる髪も、夕焼けの中に立つ姿も、夢の少女そのものだった。
彼女は振り返った。
そして、僕を見ると、静かに笑った。
「来てくれたんだ」
僕はその場から動けなかった。
「どうして、ここにいるんだ」
声が震えていた。
白峰はフェンスに手を置いたまま、遠くの町を見た。
「ここに来れば、思い出せるかなって思ったから」
「何を」
「朝倉くんが、忘れてしまったこと」
僕の喉が乾いた。
「君は、僕を知ってるのか」
白峰はすぐには答えなかった。
夕焼けの光が、彼女の横顔を淡く照らしていた。
その横顔を見ていると、なぜか涙が出そうになった。
「知ってるよ」
やがて彼女は言った。
「ずっと、知ってる」
風が吹いた。
僕の中で、何かが音を立てて揺れた。
「でも、僕は君を知らない」
「うん」
「なのに、夢に出てくる」
白峰がゆっくりと僕を見た。
「どんな夢?」
僕は答えるべきか迷った。
でも、もう隠せなかった。
「夕焼けの屋上に、君に似た女の子がいる。白いワンピースを着てて、僕に言うんだ。またねって。今度こそ思い出してねって」
白峰の瞳が揺れた。
それはほんの一瞬だった。
けれど、僕は見逃さなかった。
「やっぱり」
彼女は小さく呟いた。
「やっぱり、まだ見てるんだね」
「まだ?」
僕が聞き返すと、白峰は口を閉じた。
その沈黙が、何よりも答えのようだった。
「白峰」
僕は一歩近づいた。
「君は誰なんだ」
彼女は困ったように笑った。
夢の中と同じ笑顔だった。
でも、その笑顔の奥に、今にも泣き出しそうな痛みが見えた。
「今はまだ、言えない」
「どうして」
「言ったら、きっと朝倉くんは逃げるから」
「逃げない」
「逃げるよ」
白峰は静かに言った。
「だって、あなたは昔から、大切なものほど見ないふりをする人だから」
その言葉は、胸に刺さった。
怒りより先に、痛みが来た。
まるで、自分でも知らない傷口を指で押されたみたいだった。
「勝手なこと言うなよ」
僕は低い声で言った。
白峰は謝らなかった。
ただ、悲しそうに僕を見ていた。
「ごめんね」
少し遅れて、彼女はそう言った。
「でも、会いたかった」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
会いたかった。
初対面の相手に言われるには、あまりにも重い言葉だった。
なのに、僕の心はそれを拒めなかった。
むしろ、ずっとその言葉を待っていたような気さえした。
夕焼けが少しずつ薄れていく。
町に明かりが灯り始める。
白峰はフェンスから手を離した。
「朝倉くん」
「何」
「明日も、ここに来て」
「どうして」
「思い出してほしいことがあるから」
「だから、それは何なんだよ」
白峰は答えなかった。
代わりに、僕に向かってゆっくり歩いてきた。
すれ違う瞬間、彼女は小さな声で言った。
「約束、したから」
僕は振り返った。
「約束?」
白峰は屋上の扉の前で立ち止まった。
そして、夕焼けの残り光の中で、少しだけ笑った。
「忘れててもいいよ。私が覚えてるから」
そう言って、彼女は階段へ消えていった。
ひとり残された屋上で、僕はしばらく動けなかった。
約束。
その言葉が、頭の中で何度も響いた。
忘れていたはずの何かが、胸の奥で疼く。
幼い頃の夏。
小さな手。
花火の音。
誰かの泣き声。
雨に濡れた道路。
白いリボン。
断片だけが、一瞬だけ浮かんでは消えた。
僕はフェンスを握りしめた。
冷たい鉄の感触が、掌に残る。
空を見上げると、夕焼けはもうほとんど消えていた。
夜が来る。
夢を見る時間が、また近づいてくる。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
ベッドに横になっても、白峰澪の言葉が頭から離れない。
知ってるよ。
ずっと、知ってる。
会いたかった。
約束、したから。
僕は本当に彼女を知っているのだろうか。
もし知っているなら、なぜ忘れているのだろう。
忘れなければ生きていけないほどの何かが、過去にあったのだろうか。
考えれば考えるほど、胸が苦しくなった。
いつの間にか眠っていた。
そして、また夢を見た。
夕焼けの屋上。
いつもの場所。
白いワンピースの少女が、フェンスの前に立っている。
僕は今度こそ、彼女の顔を見ようとした。
けれど、光が邪魔をする。
「待って」
夢の中で、初めて声が出た。
少女が振り返る。
「君は、白峰なのか?」
少女は答えなかった。
ただ、少し困ったように笑った。
「思い出して、湊」
「何を?」
「私たちが、最後にした約束」
風が吹いた。
少女の髪が揺れる。
僕は手を伸ばした。
今度こそ届くと思った。
けれど、指先が触れる直前、景色が滲み始める。
「待って!」
僕は叫んだ。
少女は消えかけながら、最後に言った。
「明日、屋上で」
目が覚めた。
朝だった。
蝉が鳴いていた。
頬は、また濡れていた。
でも、その朝だけは、いつもと違っていた。
夢の中の少女の声が、まだ耳に残っていた。
そして僕は初めて、思った。
あの夢は、ただの夢じゃない。
白峰澪は、きっと僕の過去を知っている。
僕が忘れてしまった何かを。
僕が忘れてはいけなかった誰かを。
その日から、僕の夏は静かに変わり始めた。
夢の中で笑っていた君が、
現実の僕の前に現れた。
そして僕はまだ知らなかった。
この出会いが、
忘れていた記憶の扉を開けること。
そしてその先に、
もう一度失う痛みが待っていることを。
第1ページを読んでくださり、ありがとうございます。
夢の中にだけ現れていた少女・澪が、ついに現実の湊の前に現れました。
けれど、澪は湊を知っているのに、湊は彼女を思い出せない。
次の第2ページ「初めて会った気がしない」では、二人の距離が少しずつ近づきながら、湊の中に眠っていた記憶が揺れ始めます。




