さよならを言えなかった夜
さよならを言えなかった別れは、
心のどこかに置き去りになる。
十年前、湊と澪はちゃんと別れられなかった。
ありがとうも、ごめんも、またねも、全部途中で止まったままだった。
第10ページ「さよならを言えなかった夜」。
湊は、澪の現実と、過去の別れに向き合います。
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
黒板には数式が並び、教師の声が教室の前から聞こえている。
ノートを開いてはいた。
ペンも握っていた。
けれど、湊の意識はずっと隣の席に向いていた。
澪は静かに授業を受けていた。
いつも通りに見える。
背筋を伸ばし、ノートに文字を書き、教師の説明に頷いている。
けれど、湊には分かった。
澪の指先は時々止まる。
ペンを握る力が弱くなる。
水を飲む回数がいつもより多い。
ほんの少しだけ、呼吸が深い。
気にしすぎだと分かっている。
心配だけで澪を見ないで、と言われたばかりだ。
それでも、気づいてしまう。
澪が無理をしていることに。
午前の最後の授業が終わるチャイムが鳴ると、教室が一気に騒がしくなった。
昼休みに向かう生徒たち。
購買へ走る男子。
部活の話をする女子。
いつも通りの学校の音。
その中で、澪は静かに鞄を閉じた。
湊も立ち上がる。
「行こうか」
澪が言った。
その声は穏やかだった。
湊は頷いた。
「うん」
悠真が後ろの席から声をかけた。
「湊」
振り返ると、悠真はいつになく真面目な顔をしていた。
「行ってこい」
「うん」
「あとで、連絡しろよ」
「分かった」
悠真は澪にも目を向けた。
「白峰さんも、無理すんなよ」
澪は少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「ありがとう、柊くん」
「俺、こう見えて心配性だから」
「知ってる」
「え、ばれてた?」
澪が笑う。
その笑顔を見て、湊は少しだけ安心した。
教室を出ると、廊下の空気は少し暑かった。
窓から入る夏の光が、床に白く伸びている。
遠くで誰かが笑っている。
階段を降りる生徒たちの足音が響く。
学校という場所は、こんなにも日常に満ちているのに、湊と澪だけが別の時間へ向かっているようだった。
昇降口で靴を履き替える時、澪が少しだけふらついた。
湊は反射的に腕を支えた。
「大丈夫か」
澪はすぐに笑った。
「大丈夫。ちょっと立ちくらみ」
「休む?」
「ううん。病院行くし」
「そういう問題じゃないだろ」
湊の声が少し強くなった。
澪は湊を見た。
湊はすぐに視線を落とした。
「ごめん」
「謝らない」
「……うん」
澪は少し笑った。
「心配してくれてありがとう」
その言葉は優しかった。
でも、湊の胸は晴れなかった。
二人は駅へ向かった。
病院は電車で三駅先にあった。
車内は昼過ぎで比較的空いていた。
澪は窓側の席に座り、湊はその隣に座った。
電車が走り出す。
窓の外で、町の景色が流れていく。
住宅街。
小さな公園。
踏切。
遠くに見える青い空。
澪は窓の外を見ていた。
「湊」
「何」
「病院、苦手?」
湊は少し考えた。
「苦手だと思う」
「思う?」
「母さんの時以来、あまり行ってないから」
澪は湊を見た。
その表情が少し陰る。
湊は慌てて続けた。
「でも、大丈夫」
「無理してない?」
「怖いまま一緒にいるって言っただろ」
澪は少し笑った。
「覚えてる」
「だから、大丈夫じゃなくても行く」
「うん」
澪は窓に視線を戻した。
しばらく沈黙が続いた。
でも、その沈黙は気まずくなかった。
二人の間には、もう無理に言葉を埋めなくてもいい時間があった。
駅に着き、病院へ向かう道を歩く。
病院は大きな白い建物だった。
入口の自動ドアが開くと、冷房の空気と消毒液の匂いが流れてきた。
その匂いを吸った瞬間、湊の体が固まった。
夢の中の病院。
白い廊下。
雨の音。
幼い自分。
病室の扉。
記憶が一瞬で胸に押し寄せる。
澪が立ち止まった。
「湊?」
湊は息を整えた。
「平気」
「嘘」
「……少し、思い出した」
澪は湊の手をそっと握った。
「無理しないで」
「澪の方こそ」
「私は慣れてるから」
その言葉が、湊には痛かった。
慣れている。
病院に。
検査に。
不安に。
待つ時間に。
そんなものに慣れなければならなかった澪の十年を思うと、胸が苦しくなる。
受付の近くに、澪の母親がいた。
優しそうな女性だった。
けれど、目元には深い疲れが見える。
澪を見ると、ほっとしたように微笑んだ。
「澪」
「お母さん」
澪は少しだけ子どもの顔になった。
湊は緊張して頭を下げた。
「朝倉湊です」
澪の母は、湊を見た瞬間、息を呑んだ。
その目に、驚きと懐かしさと、少しの涙が浮かぶ。
「湊くん……」
十年前と同じ呼び方だった。
湊は胸が詰まった。
「ご無沙汰しています」
そう言うのが精一杯だった。
澪の母はしばらく湊を見つめ、それから深く頭を下げた。
「来てくれてありがとう」
湊は慌てた。
「いえ、そんな」
「澪がね、ずっと会いたがっていたの」
澪が少し照れたように目を伏せる。
湊は何も言えなかった。
澪の母は優しく続けた。
「十年前も、澪はずっと湊くんの話をしていたわ」
湊の胸が痛む。
「すみません」
また謝りそうになった。
けれど、澪の視線を感じて言葉を止めた。
謝らない。
湊は小さく息を吸って、言い直した。
「……会えてよかったです」
澪の母は目を細めた。
「私も」
診察まで少し時間があった。
三人は待合室に座った。
澪は母と受付へ行き、書類を書いている。
湊は少し離れた椅子に座り、周囲を見た。
病院の待合室には、いろいろな人がいた。
小さな子ども。
高齢の夫婦。
車椅子の男性。
点滴スタンドを押す女性。
誰もが何かを抱えてここにいる。
それぞれの不安。
それぞれの祈り。
それぞれの生活。
湊は、自分だけが特別に怖がっているわけではないのだと思った。
それでも怖いものは怖い。
病院の匂いは、母の最期を思い出させる。
澪の事故を思い出させる。
言えなかったさよならを思い出させる。
「湊くん」
澪の母が戻ってきた。
澪は看護師に呼ばれて、先に検査室へ向かったらしい。
湊は立ち上がった。
「澪は」
「検査に行ったわ。少し時間がかかるから、待っていてくれる?」
「はい」
澪の母は湊の隣に座った。
しばらく沈黙があった。
そして、彼女は静かに言った。
「十年前のこと、思い出した?」
湊は少し迷ってから頷いた。
「全部ではないです。でも、少しずつ」
「そう」
澪の母は目を伏せた。
「湊くんには、ずっと謝りたかった」
湊は驚いた。
「どうしてですか」
「澪が入院していた時、あなたも傷ついていたのに、私は澪のことで精一杯で、あなたのことまで気にかけてあげられなかった」
「そんな」
「あなたは何も悪くなかったのに」
その言葉に、湊の胸が締めつけられた。
何度も聞いた言葉。
父からも。
澪からも。
澪の母からも。
それでも、心の奥の幼い自分はまだ完全には信じられていない。
「僕は、澪を忘れました」
湊は正直に言った。
「澪が覚えていてくれたのに、僕は」
「湊くん」
澪の母は優しく遮った。
「忘れることは、裏切りじゃないわ」
湊は顔を上げた。
「子どもだったあなたに、あの出来事は大きすぎたのよ。忘れることでしか、自分を守れなかったんだと思う」
その言葉は、湊が自分に書いた手紙と同じだった。
でも、大人の口から聞くと、また別の重さがあった。
「澪もね、最初は泣いていたわ」
澪の母は続けた。
「湊くんが来ないって。手紙を渡したいって。でも、そのうち言うようになったの」
「何をですか」
「湊くんが忘れたなら、それは湊くんが生きるためだから、怒らないって」
湊の目が熱くなった。
澪は、そんなふうに思っていたのか。
まだ子どもだったはずなのに。
自分だって痛くて、寂しくて、怖かったはずなのに。
湊を責めるより先に、湊が生きるためならと受け止めようとしていた。
「澪は、強すぎます」
湊が呟くと、澪の母は寂しそうに笑った。
「強いんじゃないのよ」
その言葉は、湊が以前思ったことと同じだった。
「強くならざるを得なかったの」
湊は黙った。
澪の母は遠くを見るような目をした。
「だから、湊くんが隣にいてくれるのは、澪にとって本当に嬉しいことだと思う」
「僕に、何ができるんでしょうか」
湊は小さく聞いた。
「澪は、ただ隣にいてほしいって言います。でも、それだけでいいのか分からなくて」
澪の母は湊を見た。
「それだけ、が一番難しいのよ」
「え?」
「治してあげることはできない。代わってあげることもできない。正しい言葉をいつも選べるわけでもない。だからこそ、逃げずに隣にいることは、とても難しい」
湊は息を呑んだ。
「湊くんがそれをしようとしてくれているなら、それはもう十分すごいことよ」
湊は膝の上で拳を握った。
隣にいる。
それは簡単な言葉だけれど、簡単なことではない。
怖くても、無力でも、逃げずに隣にいる。
泣きそうな澪のそばで、無理に笑わせようとしない。
大丈夫と決めつけず、ただ一緒に怖がる。
それが、今の湊にできることなのかもしれない。
検査は長かった。
時計の針が、やけにゆっくり進む。
湊は何度もスマホを見た。
悠真からメッセージが来ていた。
『どう?』
湊は短く返す。
『検査中』
すぐに返事。
『無理すんなよ』
湊は画面を見て、少しだけ笑った。
『分かってる』
今度は美咲からもメッセージが来た。
『兄ちゃん、ちゃんとご飯食べた?』
湊は思わず苦笑した。
『まだ』
『食べなさい』
『はい』
自分を心配してくれる人がいる。
そのことが、今日はやけに心に染みた。
やがて、澪が戻ってきた。
少し顔色が悪い。
湊は立ち上がった。
「澪」
澪は湊を見ると、少しだけ笑った。
「待っててくれたんだ」
「当たり前だろ」
「そっか」
その笑顔は疲れていた。
でも、湊を見て安心したようでもあった。
澪は母に支えられながら椅子に座った。
「大丈夫?」
湊が聞くと、澪は頷いた。
「少し疲れただけ」
「少しって顔じゃない」
「湊は心配性」
「今は心配するだろ」
澪は小さく笑った。
「うん。今はしていい」
その言葉に、湊は少しだけ救われた。
結果の説明は、家族と本人だけが聞くことになり、湊は待合室に残った。
澪が診察室に入る前、湊を振り返る。
その目が少し不安そうだった。
湊は言った。
「ここにいる」
澪は小さく頷いた。
「うん」
診察室の扉が閉まる。
湊はまた一人になった。
病院の待合室。
閉じた扉。
十年前と同じ構図。
でも、今は違う。
湊は扉の前で逃げていない。
待っている。
澪が戻ってくる場所に、自分からいる。
それだけで、十年前とは違うのだと思いたかった。
しばらくして、診察室の扉が開いた。
澪と母が出てくる。
澪の表情は、読めなかった。
湊は立ち上がる。
「澪」
澪は湊の前まで歩いてきた。
少しだけ無理しているように見えた。
「入院、早まった」
湊の胸が凍った。
「いつ?」
「来週」
来週。
思っていたよりずっと近い。
湊は言葉を失った。
澪は少し笑った。
「夏休み、最後までいられると思ったんだけどな」
その笑顔が痛かった。
湊は何も言えない。
言葉を探しても、見つからない。
大丈夫。
きっとよくなる。
頑張れ。
どれも違った。
澪が欲しい言葉ではない気がした。
湊はただ、澪の手を取った。
「帰ろう」
澪は少し驚いた。
「何も聞かないの?」
「聞きたい」
湊は正直に言った。
「でも、今は帰ろう。疲れてるだろ」
澪の目が潤んだ。
「うん」
病院を出ると、空は夕方に変わっていた。
白い建物の外に出た瞬間、夏の熱気が二人を包んだ。
澪の母は少し先を歩いていた。
湊と澪は、ゆっくり並んで歩く。
「ごめんね」
澪が言った。
湊は立ち止まった。
「何で謝る」
「せっかく、夏の続きを始めたのに」
「謝るな」
湊の声は思ったより強かった。
澪が驚いて見る。
湊は息を吸った。
「澪が謝ることじゃない」
「でも」
「謝ったら、僕も謝りたくなる」
澪は黙った。
「十年前と同じになる。澪が謝って、僕も謝って、お互いに自分のせいだって思って、また何も言えなくなる」
湊の声が震える。
「それは嫌だ」
澪の瞳から涙がこぼれた。
「私も嫌だ」
湊は頷いた。
「じゃあ、謝らない」
「うん」
「その代わり、言いたいことを言う」
「うん」
湊は澪を見た。
「怖い」
澪の涙が増えた。
「私も」
「来週なんて早すぎる」
「うん」
「もっと一緒にいたい」
澪は声を詰まらせた。
「私も」
「まだ行きたい場所がある。まだ話したいことがある。まだ、澪のことを全然知らない」
言いながら、湊の目にも涙が浮かんだ。
「だから、入院しても会いに行く」
澪は泣きながら頷いた。
「うん」
「メッセージも送る」
「うん」
「夢だけにしない」
澪は顔を歪めて泣いた。
「うん」
湊は澪の手を握った。
「さよならじゃない」
澪は何度も頷いた。
「さよならじゃない」
十年前、二人はちゃんと別れられなかった。
ありがとうも、またねも、さよならも言えなかった。
そのまま時間だけが過ぎた。
だから、今は言葉にする。
これは終わりじゃない。
さよならじゃない。
また会うための約束だ。
駅まで歩く途中、澪は少し落ち着いた。
母は先に駅のベンチで待ってくれていた。
澪は湊と少しだけ離れた場所に立った。
「湊」
「何」
「十年前、私たち、さよなら言えなかったね」
湊は頷いた。
「うん」
「言えなかったから、ずっと夢で会ってたのかな」
「そうかもしれない」
澪は少し笑った。
「じゃあ今度は、ちゃんと言おう」
湊の胸が痛んだ。
「さよならを?」
澪は首を横に振った。
「またねを」
湊は息を吐いた。
「うん」
澪はまっすぐ湊を見た。
「またね、湊」
その言葉は、夢の中で何度も聞いたものだった。
けれど今は、現実の澪が言っている。
湊は返した。
「また明日、澪」
澪は嬉しそうに笑った。
「うん。また明日」
その夜、湊は家に帰ると、自分の部屋でしばらく動けなかった。
来週。
澪の入院が早まった。
残された時間は、思っていたよりずっと少ない。
湊は机の上のノートを開いた。
昨日書いた手紙の次のページに、新しく文字を書く。
『さよならを言えなかった夜へ』
ペン先が震える。
湊はゆっくり書き始めた。
『十年前の夜、僕たちはさよならを言えなかった。
雨が降って、車のライトが光って、病院の匂いがして、気づいたら全部が終わっていた。
僕は澪に会いに行けなかった。
澪は僕に手紙を渡せなかった。
だから、僕たちはずっと同じ夢を見ていたのかもしれない。
さよならを言えなかったから、またねだけが残った。
でも今は分かる。
さよならが言えなかったことは、全部が終わったという意味じゃない。
言えなかった言葉は、あとからでも届けられる。
ありがとうも、ごめんも、またねも。
僕は今日、病院へ行った。
怖かった。
でも、澪がいた。
澪のお母さんがいた。
僕は逃げなかった。
十年前の僕へ。
あの夜、言えなかった言葉を、今の僕が言う。
澪は生きている。
僕も生きている。
怖くても、また会える。
だから、あの夜で止まらなくていい。
さよならじゃない。
またね、だ。』
書き終えた時、湊は深く息を吐いた。
涙は出なかった。
でも、胸の奥が熱かった。
その夜、湊は夢を見た。
雨の夜だった。
夏祭りの帰り道。
提灯の光が遠くに滲んでいる。
道路は雨で濡れ、車のライトが長く伸びている。
幼い湊と幼い澪が、道路の端に立っていた。
事故の直前ではない。
その少し後。
救急車の赤い光。
大人たちの声。
泣き叫ぶ誰か。
雨音。
幼い湊は、濡れた道路に座り込んでいた。
腕に傷があり、頬にも泥がついている。
少し離れた場所で、幼い澪が救急隊員に抱えられていた。
幼い澪は、湊に向かって手を伸ばしている。
『湊くん!』
幼い湊も手を伸ばそうとする。
でも、大人に止められる。
『澪ちゃん!』
二人の声は雨に消える。
そこで、過去は途切れていたのだ。
さよならも言えず。
またねも言えず。
手も届かず。
湊は夢の中で、その光景を見ていた。
隣には、今の澪が立っている。
「ここが、さよならを言えなかった夜」
澪が言った。
湊は頷いた。
「うん」
「怖いね」
「怖い」
雨が降っている。
夢の中なのに、冷たい。
湊は幼い自分へ歩いた。
幼い湊は泣きながら、澪の方へ手を伸ばしている。
「行きたかったんだよな」
湊が言うと、幼い湊が顔を上げる。
「澪のところへ」
幼い湊は泣きながら頷いた。
『でも、行けなかった』
「うん」
『さよなら、言えなかった』
「うん」
『またねも』
「今から言えばいい」
幼い湊は驚いたように湊を見る。
「遅くない」
湊は言った。
「言えなかった言葉は、あとからでも届く」
その瞬間、雨の向こうから幼い澪がこちらを見た。
幼い澪は震えながら、それでも笑おうとしていた。
『湊くん』
幼い湊は立ち上がった。
今度は誰も止めなかった。
幼い湊は雨の中を走る。
幼い澪も救急隊員の腕の中から手を伸ばす。
二人の手は届かない。
でも、声は届いた。
『またね!』
幼い澪が叫んだ。
幼い湊も叫んだ。
『またね!』
その言葉が、雨の夜に響いた。
すると、暗かった道路に小さな光が灯った。
提灯の光ではない。
車のライトでもない。
花火でもない。
星のような、小さな光。
湊は涙を流していた。
澪も隣で泣いていた。
「やっと言えたね」
澪が言った。
「うん」
「十年遅れの、またね」
湊は頷いた。
雨の景色が少しずつ薄れていく。
道路は屋上に変わった。
夕焼けではなく、夜の屋上。
空には星が出ていた。
澪は白いワンピースで、フェンスの前に立っている。
「湊」
「何」
「来週、入院する前に、もう一度だけ行きたい場所がある」
「どこ?」
澪は星空を見上げた。
「十年前の夏祭りがあった、学校の屋上」
湊は頷いた。
「行こう」
「そこで、ちゃんと話したい」
「分かった」
澪は少しだけ不安そうに笑った。
「怖くても?」
「怖くても」
「泣いても?」
「泣いても」
「さよならじゃなくて?」
湊は澪を見た。
「またねを言うために」
澪は泣きながら笑った。
その笑顔を最後に、夢は消えた。
目が覚めると、朝だった。
湊の頬には涙が流れていた。
けれど、胸の中には不思議な静けさがあった。
十年前の夜に、ようやく「またね」を言えた。
それは過去を変えたわけではない。
澪が傷ついた事実も、二人が離れた十年も消えない。
でも、あの夜で止まっていた心が、少しだけ動いた。
湊はスマホを手に取った。
澪からメッセージが来ていた。
『昨日、雨の夢を見た』
湊は返信する。
『僕も』
澪から返事。
『またねって言えたね』
湊は画面を見つめ、ゆっくり打った。
『うん。今度は現実でも言おう』
既読がつく。
少しして、澪から返ってきた。
『さよならじゃなくてね』
湊は微笑んだ。
『またね』
その言葉を送信して、湊は立ち上がった。
今日も学校へ行く。
澪に会う。
残された時間は少ない。
でも、少ないからこそ、数えるだけではなく、ちゃんと生きたい。
さよならを言えなかった夜を越えて、
またねと言える朝へ。
湊は制服に袖を通し、ポケットに星のキーホルダーを入れた。
そして、家を出た。
夏の朝の光が眩しかった。
第10ページを読んでくださり、ありがとうございます。
澪の入院が早まり、湊は“残された時間”の少なさを知りました。
けれど、十年前に言えなかった言葉は、今からでも届けられる。
「さよなら」ではなく、「またね」。
次の第11ページ「消えそうな記憶の中で」では、澪の体調と記憶、夢の世界がさらに不安定になり、二人は最後の屋上へ向かう準備を始めます。




