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「また君に会う夢を見た」  作者: あーちゃん


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11/15

消えそうな記憶の中で

覚えていることは、時に痛みになる。

けれど、忘れてしまうことは、もっと怖い。


澪の入院が近づく中、

湊は“思い出を残すこと”の意味を考え始めます。


第11ページ「消えそうな記憶の中で」。

二人の時間は、静かに終わりへ近づいていきます。

澪の入院が来週に早まったと知ってから、湊の中で時間の流れ方が変わった。


一日は同じ二十四時間のはずなのに、朝はあっという間に昼になり、昼は気づけば夕方になっている。


なのに、夜だけは長かった。


眠るのが怖かった。


夢の中で澪に会えることは嬉しい。

けれど最近の夢は、会うたびに何かを思い出させる。

思い出すたびに、澪の存在が近くなる。

そして近くなるほど、失うかもしれない怖さも濃くなる。


湊は朝、机の上に置いたノートを開いた。


そこには、これまで澪と一緒に取り戻してきた記憶が書かれていた。


アイスを食べたこと。

ブランコに乗ったこと。

屋上で夕焼けを見たこと。

白いワンピースを見たこと。

夏祭りで花火を見たこと。

病院で「またね」を言えたこと。


どれも小さなことだった。


けれど、その小さな一つ一つが、湊と澪を繋いでいた。


湊は新しいページを開き、上にこう書いた。


『澪を忘れないために』


書いた瞬間、胸が痛んだ。


忘れないために書く。


それは、忘れてしまう可能性を認めることでもあった。


湊はペンを握ったまま、しばらく動けなかった。


澪を忘れるなんて、もう絶対に嫌だった。


でも十年前も、きっとそう思っていたはずだ。


忘れない。

絶対忘れない。

大人になっても忘れない。


幼い自分はそう手紙に書いていた。


それでも忘れた。


だから怖かった。


人の心は、約束だけでは守れないことがある。


どれだけ大切でも、痛みが大きすぎると、心は勝手に扉を閉めてしまう。


湊はペンを置いた。


その時、スマホが震えた。


澪からだった。


『おはよう。今日は少し遅れて行くね』


湊はすぐ返信した。


『体調悪い?』


少し間が空いた。


『少しだけ。でも大丈夫』


大丈夫。


その言葉が、湊にはもう一番信用できない言葉になっていた。


澪の大丈夫は、たいてい大丈夫じゃない。


でも、問い詰めれば澪はきっと困った顔で笑う。


湊は深く息を吸って、返信した。


『無理しないで。学校で待ってる』


すぐに返事が来た。


『ありがとう。湊も無理しないで』


湊は画面を見つめた。


澪はいつも、湊の心配をする。


自分の方がつらいはずなのに。

これから入院を控えているのに。


その優しさが嬉しくて、苦しかった。


学校に着くと、澪の席は空いていた。


第1ページの頃と同じように、隣の空席を見つめてしまう。


けれど今は、あの頃とは違う。


何も知らずに見ていた空席ではない。


澪が来るまでの時間が不安で、怖くて、早く会いたくて、仕方なくて見ている。


悠真が後ろから声をかけた。


「白峰さん、休み?」


「遅れるって」


「そっか」


悠真はそれ以上茶化さなかった。


最近の悠真は、湊と澪のことを冗談にする時と、しない時の線引きがうまくなっていた。


「湊」


「何」


「お前、ちゃんと寝てる?」


湊は少し黙った。


「寝てる」


「嘘下手」


「少しは寝てる」


「飯は?」


「食べてる」


「本当に?」


「美咲に監視されてる」


悠真は少し笑った。


「なら安心」


それから真面目な声で言った。


「お前が倒れたら、白峰さんが余計心配するぞ」


「分かってる」


「ならいい」


湊は窓の外を見た。


空は青かった。


残酷なくらい、いつも通りの夏の空だった。


一時間目が終わる頃、教室の扉が開いた。


澪が入ってきた。


少し顔色が白い。


けれど、湊と目が合うと、いつものように微笑んだ。


「おはよう」


「……おはよう」


湊は声を抑えた。


澪は隣の席に座り、小さく息を吐いた。


「遅刻しちゃった」


「大丈夫なのか」


「うん。朝ちょっと動きにくかっただけ」


「動きにくかった?」


澪はしまったという顔をした。


湊はその表情を見逃さなかった。


「澪」


「本当に、今は大丈夫」


湊は言葉を飲み込んだ。


今は。


その言い方が怖かった。


「無理するなよ」


「うん」


「本当に」


「分かってる」


澪は少し笑った。


「湊、眉間にしわ寄ってる」


「誰のせいだよ」


「私かな」


「分かってるなら」


「でも、心配されるの嫌じゃないよ」


湊は黙った。


澪は小さな声で続けた。


「心配だけで見られるのは嫌。でも、心配してもらえるのは嬉しい」


「難しいな」


「私もそう思う」


澪は苦笑した。


「でも、湊なら分かってくれる気がする」


その信頼が、湊には少し重く、同時に嬉しかった。


昼休み、澪は屋上へ行きたいと言った。


湊は最初、今日は休んだ方がいいと思った。


けれど澪がどうしてもと言うので、二人でゆっくり階段を上った。


屋上の扉を開けると、夏の風が吹いた。


空は眩しいほど青かった。


澪はフェンスの前まで歩き、町を見下ろした。


「ここ、やっぱり好き」


「暑いのに」


「暑いのも含めて」


「変なの」


「湊に言われたくない」


二人はベンチに座った。


澪は鞄から小さなカメラを取り出した。


「それ」


「使い捨てカメラ」


「今どき?」


「いいでしょ」


澪は少し得意そうに言った。


「スマホの写真もいいけど、現像するまで分からない感じが好きなの」


「失敗してたら?」


「それも思い出」


湊は少し笑った。


澪はカメラを構えた。


「湊、こっち向いて」


「嫌だ」


「何で」


「写真苦手」


「知ってる。でも撮る」


「勝手だな」


「記憶に残すためだから」


その言葉に、湊は固まった。


記憶に残す。


澪も同じことを考えていたのだろうか。


澪はカメラを下ろし、静かに言った。


「私ね、最近少し怖いの」


「何が?」


「忘れちゃうこと」


湊の胸が跳ねた。


「湊がじゃなくて、私が」


澪は自分の手元を見た。


「治療の影響で、一時的に記憶がぼんやりするかもしれないって言われた。全部忘れるわけじゃないと思う。でも、入院中は体も心も不安定になるかもしれない」


湊は息を止めた。


「だから、写真を撮っておきたいの」


澪はカメラを見つめた。


「湊の顔も、屋上も、空も、ちゃんと残しておきたい」


湊は何も言えなかった。


忘れるのが怖いのは、自分だけではなかった。


澪も怖いのだ。


ずっと覚えてきた澪が、今度は自分が忘れるかもしれない恐怖を抱えている。


それはどれほど怖いことだろう。


「撮っていいよ」


湊は言った。


澪が顔を上げる。


「いいの?」


「うん」


「じゃあ、笑って」


「それは無理」


「じゃあ、いつもの顔でいい」


「どういう顔だよ」


「強がってるけど優しい顔」


湊は言い返せなかった。


澪は笑って、カメラを構えた。


シャッター音がした。


小さな音。


けれど湊には、その音が記憶を留める釘のように聞こえた。


澪は次に、屋上のフェンスを撮った。

空を撮った。

湊の手元の星のキーホルダーを撮った。

二人の影を撮った。


最後に、澪はカメラを湊へ渡した。


「私も撮って」


湊はカメラを受け取った。


レンズ越しに澪を見る。


フェンスの前に立つ澪。

制服のスカートが風に揺れ、髪が頬にかかっている。

青空の下で、少し眩しそうに目を細めている。


湊は息を止めた。


写真を撮るということは、その瞬間を切り取ることだ。


澪がここにいた証を残すことだ。


同時に、いつかその写真を見返す未来を想像してしまうことでもある。


澪が隣にいない未来を。


湊は手が震えそうになるのを堪えた。


「湊?」


澪が呼ぶ。


湊はカメラを構え直した。


「撮るよ」


「うん」


澪は笑った。


泣きそうではなく、ちゃんと笑った。


シャッターを押した。


その瞬間、湊は思った。


忘れない。


たとえ記憶が揺らいでも。

夢が薄れても。

写真が色あせても。


この瞬間の澪を、自分は覚えている。


屋上を出る前、澪は少しだけ立ち止まった。


「入院前に、もう一度ここへ来たい」


「夢でも言ってた」


「湊も見た?」


「うん」


澪は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「同じ夢だね」


「同じだけど、同じじゃない夢」


「うん」


澪は空を見上げた。


「その日、ちゃんと話す」


湊は頷いた。


「分かった」


放課後、湊は澪を家の近くまで送った。


澪は少し疲れていたが、途中で小さな雑貨屋に寄りたいと言った。


「今日はもう帰った方が」


「少しだけ」


澪の目が真剣だったので、湊は頷いた。


雑貨屋に入ると、涼しい風が二人を包んだ。


澪は便箋の棚の前で立ち止まった。


花柄。

星柄。

無地。

淡い青。

白。


澪は小さな星の模様が入った便箋を手に取った。


「手紙、書こうと思って」


「誰に?」


湊が聞くと、澪は少し笑った。


「未来の湊に」


湊の胸がざわついた。


「未来の僕?」


「うん」


澪は便箋を見つめながら言った。


「もし私が入院中に、うまく言葉にできなくなったら。もし会えない日が続いたら。もし湊がまた一人で苦しくなったら、読んでほしい手紙」


湊は喉が詰まった。


「そんなの」


「縁起でもない?」


澪は静かに聞いた。


湊は答えられなかった。


澪は続けた。


「でも、私は残しておきたい」


「澪」


「消えそうになるのが怖いから」


その言葉に、湊は何も言えなくなった。


澪は便箋を胸に抱いた。


「私の言葉が残っていたら、少し安心できる気がする」


湊はゆっくり頷いた。


「分かった」


「湊も書いて」


「僕も?」


「うん。未来の私に」


澪は少し照れたように笑った。


「もし私が弱くなった時、読めるように」


湊は便箋を手に取った。


青い星柄。


「分かった」


二人は同じ便箋を一つずつ買った。


帰り道、澪はそれを大事そうに鞄にしまった。


「手紙ばっかりだね、私たち」


「十年前に渡せなかったからだろ」


「そっか」


澪は少し笑った。


「今度は、ちゃんと渡そうね」


「うん」


駅前で別れる時、澪は少しだけ不安そうだった。


「湊」


「何」


「明日、もし私が休んでも、心配しすぎないでね」


「それは無理だろ」


「じゃあ、心配してもいいけど、自分を責めないで」


湊は黙った。


澪は一歩近づいた。


「私の体調が悪いのは、湊のせいじゃない」


「分かってる」


「本当に?」


「……分かろうとしてる」


澪は柔らかく笑った。


「それでいい」


「澪も」


「うん?」


「忘れそうになっても、怖がりすぎるな」


澪の瞳が揺れた。


「僕が覚えてる」


言った瞬間、湊の胸も震えた。


これは、澪がずっとしてくれていたことだ。


湊が忘れていた十年間、澪が覚えていてくれた。

今度は自分が覚える番なのだ。


澪は泣きそうに笑った。


「それ、すごく心強い」


「本当?」


「うん」


澪は小さく頷いた。


「じゃあ、怖くなったら湊に聞くね。私は何を忘れてない?って」


「答えるよ」


「全部?」


「全部」


澪は笑った。


「大変だね」


「大変でもやる」


「ありがとう」


澪はそう言って、駅の改札へ向かった。


途中で振り返り、手を振る。


湊も手を振った。


その姿が人混みに消えるまで、湊はずっと見送っていた。


家に帰ると、美咲が金魚の水槽を覗いていた。


「はなび、元気だよ」


「そうか」


「白峰さんの金魚?」


湊は頷いた。


美咲は水槽を見つめながら言った。


「兄ちゃん、ちゃんと預かってるね」


「まあな」


「金魚だけじゃなくて、いろいろ預かってる顔してる」


湊は驚いて美咲を見た。


美咲は少し照れくさそうに笑った。


「何となく」


湊は水槽の中の金魚を見た。


赤い小さな体が、水の中をゆっくり泳いでいる。


はなび。


澪がつけた名前。


消える花火ではなく、生きている花火。


湊はスマホで写真を撮り、澪に送った。


『はなび、元気』


すぐに返事が来た。


『よかった。湊も元気?』


湊は少し笑って返信した。


『僕も元気』


澪から返事。


『嘘じゃない?』


『半分本当』


『半分か』


『澪もだろ』


少し間が空いた。


『半分本当』


湊は画面を見つめた。


半分本当。


二人とも、完全に大丈夫ではない。

でも、完全にだめでもない。


その半分ずつの本当を持ち寄って、一緒にいる。


それでいいのかもしれない。


夜、湊は買った便箋を机に広げた。


未来の澪へ。


そう書こうとして、手が止まった。


未来の澪。


それは、治療を終えた澪なのか。

病室で不安に震えている澪なのか。

記憶が少しぼやけてしまった澪なのか。

それとも、もう会えない未来の澪なのか。


考えただけで胸が苦しくなった。


でも、書かなければならないと思った。


言葉は、残せる。


十年前に渡せなかった手紙が今の二人を繋いだように。

今書く手紙も、未来のどこかで澪を支えるかもしれない。


湊はペンを持った。


『未来の澪へ』


そこまで書いて、深く息を吸う。


『もし、この手紙を読んでいる澪が不安な場所にいるなら、最初に言っておく。


僕はここにいる。


病室の外でも、学校の屋上でも、夢の中でも、どこかで必ず澪のことを覚えている。


澪が忘れそうになったら、僕が話す。


公園でアイスを食べたこと。

ブランコで僕が負けたこと。

屋上で白いワンピースを見たこと。

夏祭りで花火を見たこと。

はなびという金魚をすくったこと。

澪が泣きながらありがとうと言ってくれたこと。


全部、僕が覚えている。


だから、もし少し怖くなったら、僕に聞いてほしい。


私は何を忘れてない?って。


僕は何度でも答える。


澪は忘れてない。


湊と出会ったことも、笑ったことも、泣いたことも、ちゃんと残ってる。


そして何より、澪は一人じゃない。』


湊はそこで一度ペンを止めた。


胸が熱かった。


続きを書く。


『僕は、十年前に澪を忘れた。


でも今は、忘れないために生きたいと思ってる。


これは澪のためだけじゃない。


僕自身が、もう大切なものから逃げたくないから。


治療が怖いなら、怖いって言っていい。

泣きたいなら泣いていい。

弱くなってもいい。

笑えない日があってもいい。


それでも、澪は澪だ。


僕が会いたい澪だ。


だから、未来の澪へ。


また会おう。


夢じゃなくても。

夢の中でも。

病院でも。

屋上でも。


僕は、澪にまた会いに行く。』


書き終えた時、湊の手は少し震えていた。


でも、不思議と心は静かだった。


言葉にすることで、恐怖の輪郭が少しだけはっきりした。


恐怖は消えない。

でも、何を怖がっているのか分かれば、少しだけ向き合える。


湊は手紙を封筒に入れた。


表にはこう書いた。


『未来の澪へ 怖くなった時に読んで』


その夜、湊はまた夢を見た。


夕焼けの屋上だった。


でも、いつもより景色が薄かった。


フェンスの線がぼやけ、空の色も淡い。

風の音も遠い。


澪がいた。


白いワンピース姿で、フェンスの前に立っている。


けれど、その姿は少し透けて見えた。


「澪!」


湊は走り寄った。


澪は振り返った。


「湊」


声も少し遠かった。


「どうしたんだ」


「分からない」


澪は自分の手を見た。


「夢が、少し薄いね」


湊の胸が冷たくなる。


「消えるのか」


澪はすぐに首を横に振った。


「まだ消えない」


「まだって言うな」


澪は困ったように笑った。


その笑顔さえ、少し揺れていた。


「記憶って、不思議だね」


「何が」


「大事にしようとすると、余計に怖くなる」


湊は黙った。


澪は続けた。


「忘れたくないって思うほど、忘れた時のことを考えちゃう」


「僕もそうだ」


「湊も?」


「うん」


湊は澪の隣に立った。


「怖い。もう一度忘れたらどうしようって」


澪は静かに湊を見る。


「でも、湊は忘れても思い出してくれた」


「十年かかった」


「それでも」


澪は微笑んだ。


「思い出してくれた」


湊は唇を噛んだ。


夢の屋上がさらに薄れていく。


湊は焦った。


「澪、手紙を書いた」


「未来の私に?」


「うん」


「ありがとう」


「まだ渡してない」


「明日、渡して」


「うん」


澪は目を細めた。


「私も書いたよ」


「僕に?」


「うん。未来の湊に」


「何て?」


澪は少し笑った。


「まだ秘密」


「秘密多いな」


「女の子なので」


湊は笑おうとした。


でも、うまく笑えなかった。


澪の姿がまた揺れる。


湊は思わず手を伸ばした。


「消えるな」


声が震えた。


澪は湊の手を取った。


夢の中の手は、少し冷たかった。


でも、確かに触れられた。


「湊」


「何」


「もし夢で会えなくなっても」


「やめろ」


「聞いて」


澪の声は優しかった。


「もし夢で会えなくなっても、現実で残したものを見て」


「嫌だ」


「写真、手紙、金魚、屋上、公園」


「澪」


「私は、そこにいるから」


湊の目に涙が浮かんだ。


「それじゃ足りない」


澪も泣きそうに笑った。


「私も足りないよ」


その言葉が、湊の胸を打った。


澪だって足りない。


残された写真や手紙だけで満足しているわけではない。

生きたい。

会いたい。

隣にいたい。


それでも、もしもの時のために言葉を残そうとしている。


消えるためではなく、繋がるために。


湊は澪の手を強く握った。


「足りないなら、足りないって言えよ」


澪の瞳が揺れる。


「もっと生きたいって言えよ」


涙がこぼれた。


「もっと会いたいって、もっと怖いって、ちゃんと言えよ」


澪は顔を歪めた。


「言っていいの?」


「いいに決まってる」


「困らせるよ」


「困るよ」


湊は泣きながら言った。


「でも、言ってほしい」


澪の涙が落ちた。


「もっと生きたい」


小さな声だった。


「湊ともっと一緒にいたい」


夢の屋上が震える。


澪は泣きながら続けた。


「まだ行きたい場所がある。まだ話したいことがある。まだ朝倉くんじゃなくて、湊って呼びたい。まだ名前を呼ばれたい。まだ、忘れられたくない」


湊は澪を抱きしめた。


夢の中で初めて、澪を抱きしめた。


澪は消えなかった。


むしろ、少しだけ輪郭が濃くなった。


「忘れない」


湊は何度も言った。


「忘れない。忘れないから」


澪は湊の胸元で泣いていた。


夢の中なのに、その涙は熱かった。


やがて屋上の景色が少しずつ戻ってきた。


夕焼けが濃くなる。

フェンスの線がはっきりする。

風の音が戻る。


澪は涙を拭い、少し恥ずかしそうに笑った。


「ごめん、いっぱい言った」


「もっと言え」


「今はもう十分」


「そうか」


「うん」


澪は湊を見た。


「明日、手紙交換しよう」


「うん」


「屋上で」


「分かった」


「それから、最後の屋上の日を決めよう」


湊は息を呑んだ。


最後。


その言葉はやっぱり痛い。


けれど、湊は逃げなかった。


「分かった」


澪は頷いた。


「さよならじゃなくて、またねを言うために」


「うん」


夢が薄れていく。


今度は怖くなかった。


澪の姿は消えそうだったけれど、その声はちゃんと残っていた。


「湊」


「何」


「明日も会おうね」


「会う」


「現実で」


「現実で」


澪は笑った。


「また明日」


湊も答えた。


「また明日」


目が覚めると、朝だった。


頬は濡れていた。


でも、胸の中には昨夜とは違う温かさがあった。


澪が言った。


もっと生きたい。

もっと一緒にいたい。

忘れられたくない。


その本音を聞けたことが、湊には何より大切だった。


澪は強いだけの子ではない。

諦めている子でもない。

ちゃんと怖がって、ちゃんと願っている。


なら、湊もちゃんと願おうと思った。


澪に生きてほしい。

もっと会いたい。

もっと一緒にいたい。


それを遠慮せずに願おう。


湊は机の上の封筒を鞄に入れた。


『未来の澪へ 怖くなった時に読んで』


今日はこれを渡す。


消えそうな記憶の中で、二人が互いを見失わないように。


湊は制服に袖を通し、家を出た。


夏の朝の匂いがした。


公園の前を通ると、ブランコが静かに揺れていた。


校門の前には、澪がいた。


少し顔色は白かった。


でも、湊を見ると笑った。


「おはよう、湊」


「おはよう、澪」


湊はその声を、表情を、朝の光を、全部覚えようと思った。


消えそうな記憶の中でも、

何度でも思い出せるように。


二人は並んで校舎へ向かった。


今日も、同じ夏が始まる。


けれど、その一日がもう二度と戻らないことを、

二人とも静かに知っていた。

第11ページを読んでくださり、ありがとうございます。


澪は、自分の記憶がぼやけてしまうかもしれない恐怖を湊に打ち明けました。

そして湊もまた、「忘れないために」言葉や写真を残すことを選びます。


消えそうな記憶の中で、二人は互いの存在を必死に繋ぎ止めようとしています。


次の第12ページ「君がいた夏を、思い出す」では、入院前の最後の日々に、二人がこの夏の記憶を一つずつ振り返っていきます。

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