君がいた夏を、思い出す
夏は、過ぎてから初めて眩しかったことに気づく。
アイスを食べた朝。
屋上で見た夕焼け。
花火の下で繋いだ手。
泣きながら交わした「またね」。
第12ページ「君がいた夏を、思い出す」。
湊と澪は、入院前の最後の時間を、記憶として残していきます。
澪の入院まで、あと三日になった。
その数字を意識した瞬間から、湊の中で一日の輪郭が変わった。
朝、目を覚ますこと。
制服に袖を通すこと。
公園の前を通ること。
校門で澪を見つけること。
隣の席に座ること。
昼休みに言葉を交わすこと。
放課後、同じ道を歩くこと。
昨日までは当たり前に思えていた一つ一つが、急に壊れやすい宝物のように見え始めた。
湊は学校へ向かう途中、あの児童公園の前で足を止めた。
ブランコが風に揺れている。
ぎい、と小さな音がした。
ここで澪とアイスを食べた。
バニラとソーダを交換した。
澪に昔のことを笑われた。
ブランコで負けた。
ほんの数日前のことなのに、もう遠い夏の記憶みたいだった。
「湊」
背後から声がした。
振り返ると、澪が立っていた。
少し息を弾ませている。
けれど、今日は顔色が悪くなかった。
「おはよう」
「おはよう」
澪は公園を見た。
「懐かしいね」
「つい最近だろ」
「でも、もう懐かしい」
澪はそう言って、ブランコへ歩いていった。
湊も後を追う。
二人は並んでブランコに座った。
朝の公園には誰もいない。
蝉の声だけが、遠くから響いていた。
「入院まであと三日」
澪が静かに言った。
湊はブランコの鎖を握った。
「数えるなよ」
「数えちゃうよ」
「怖くなるだろ」
「怖いよ」
澪は空を見上げた。
「でも、数えないふりをしても、日付は進むから」
湊は何も言えなかった。
澪は少し笑った。
「だから、残りの日をちゃんと覚えていたい」
「うん」
「今日も、明日も、明後日も」
「退院した後もある」
湊が言うと、澪は少しだけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「そうだね」
「勝手に終わりみたいに言うな」
「ごめん」
「謝るな」
「じゃあ、ありがとう」
湊は澪を見た。
澪は笑っていた。
泣きそうな顔ではなく、少しだけ未来を信じようとしている顔だった。
その表情を見て、湊もほんの少しだけ息がしやすくなった。
学校へ向かう道を、二人はいつもよりゆっくり歩いた。
澪が言った。
「今日、放課後に行きたい場所があるの」
「どこ?」
「この夏に行った場所、全部」
「全部?」
「うん。公園は今来たから、次は商店街。それから川沿い。最後に屋上」
「体力、大丈夫なのか」
澪は少し考えた。
「全部は無理かもしれない。でも、行けるところまで」
湊は迷った。
無理はさせたくない。
でも、澪が行きたいと言う気持ちも分かる。
この夏を、ちゃんと心に残したいのだ。
「分かった」
湊は頷いた。
「でも、しんどくなったらすぐ言うこと」
「分かった」
「本当に」
「うん」
「隠したら怒る」
澪は小さく笑った。
「湊、怒ると怖くなさそう」
「失礼だな」
「優しいから」
「怒るぞ」
「ほら、怖くない」
澪が笑う。
その笑い声を、湊は覚えておこうと思った。
教室に入ると、悠真がすぐに二人を見た。
「おはよう。何か今日、二人とも朝ドラみたいな空気してる」
「意味が分からない」
湊が言うと、悠真は肩をすくめた。
「爽やかだけど切ない感じ」
澪が笑った。
「柊くん、表現が上手いね」
「俺、小説家いける?」
「たぶん」
「やった」
湊は呆れたように言った。
「調子に乗るな」
悠真は笑っていたが、ふと澪の顔を見ると、少しだけ表情を引き締めた。
「白峰さん、今日大丈夫?」
「うん。今日は調子いい」
「そっか。ならよかった」
悠真は軽く言ったが、その声には本当に安心した響きがあった。
澪は「ありがとう」と言った。
それを見て、湊は思った。
澪はもう、自分だけの記憶ではない。
悠真も、美咲も、父も、澪の母も。
それぞれの形で、澪を覚えている。
そう思うと、少しだけ心強かった。
授業中、湊はノートの端に今日行く場所を書いた。
公園。
商店街。
川沿い。
屋上。
その横に、澪が小さく文字を書き足した。
アイス。
星。
花火。
夕焼け。
湊はそれを見て、小さく笑った。
澪が隣で囁く。
「ちゃんと記録して」
「してる」
「湊、字が雑」
「読めればいい」
「未来の私が読むかもしれないんだよ」
湊はペンを止めた。
未来の澪。
昨日書いた手紙を思い出す。
怖くなった時に読んで。
湊は少しだけ丁寧に文字を書き直した。
澪が満足そうに頷いた。
昼休み、二人は屋上ではなく中庭で弁当を食べた。
悠真も一緒だった。
「今日は俺も記憶に混ぜて」
悠真はそう言って、購買のパンを掲げた。
「何だそれ」
湊が聞くと、悠真は真面目な顔で言った。
「白峰さんが入院してる間、湊が一人でしんみりしすぎないようにする係として、俺もこの夏の登場人物になっておく」
澪は少し驚いて、それから笑った。
「もう十分、登場人物だよ」
「マジ?」
「うん。湊の大事な友達」
悠真は一瞬、照れたように目を逸らした。
「そういう真っ直ぐなの、ずるいな」
湊は小さく言った。
「本当のことだろ」
悠真が湊を見る。
「お前も言うようになったな」
「うるさい」
「はい、いつもの湊」
澪がくすくす笑った。
三人で過ごす昼休みは、思っていたより穏やかだった。
澪が病気のことを忘れているわけではない。
湊が不安を消せたわけでもない。
でも、悠真がいることで、空気は少し軽くなる。
くだらない話。
購買のパンの味。
宿題の愚痴。
夏休み明けのテストの話。
そういう日常の音が、澪の周りにあることが嬉しかった。
放課後。
澪と湊は、予定通り商店街へ向かった。
澪は昨日買った使い捨てカメラを持っていた。
「今日は撮る日」
「また撮るのか」
「うん。君がいた夏を残す日」
「君って僕?」
「湊も、私も」
澪は少し照れたように笑った。
「私たちがいた夏」
商店街は夕方の光に包まれていた。
夏祭りの日ほど賑やかではない。
けれど、店先には風鈴が鳴り、八百屋のおじさんが水をまき、パン屋から甘い匂いが流れてくる。
澪は雑貨屋の前でカメラを構えた。
「ここで便箋買ったね」
「うん」
「手紙、持ってきた?」
湊は鞄に手を当てた。
「持ってきた」
「私も」
二人はまだ交換していなかった。
交換する場所は、屋上にしようと決めていた。
商店街を歩きながら、澪は何枚も写真を撮った。
風鈴。
雑貨屋の看板。
星のチャームが並ぶ棚。
道端に咲いた小さな花。
湊の後ろ姿。
「後ろ姿撮るなよ」
「自然体」
「盗撮だろ」
「記録です」
澪は笑った。
その笑顔を見ていると、本当にこのまま何事もなく夏が続くような気がした。
けれど、澪が時々立ち止まって深く息をするたびに、現実は戻ってくる。
湊はそのたびに、何も言わずに歩く速度を落とした。
澪も気づいているのか、何も言わなかった。
次に、川沿いへ向かった。
夏祭りの夜、花火を見た場所。
昼間の川沿いは、あの夜とは違って静かだった。
水面は夕方の光を受けてきらきら光り、草むらから虫の声が聞こえる。
土手には人影も少なく、風が少し涼しかった。
澪は土手に座った。
湊も隣に座る。
「ここで花火見たね」
「うん」
「泣いたね」
「澪がな」
「湊も泣きそうだった」
「気のせい」
「まだ言う」
澪は笑った。
湊は川を見た。
あの夜、澪は入院のことを話した。
湊は怖いと言った。
澪も怖いと言った。
二人は、さよならではなくまたねを選んだ。
「花火、綺麗だったな」
湊が言うと、澪は頷いた。
「うん」
「でも、澪の顔ばっかり覚えてる」
言ってから、湊はしまったと思った。
澪が驚いてこちらを見る。
湊は慌てて川の方を向いた。
「いや、変な意味じゃなくて」
「変な意味じゃなくて?」
澪の声が少し楽しそうになる。
「その……花火見てる澪が、ちゃんと笑ってたから」
澪は黙った。
湊が恐る恐る見ると、澪は頬を少し赤くしていた。
「そういうこと、急に言う」
「悪い」
「悪くない」
澪は膝を抱えた。
「嬉しい」
湊の胸が鳴った。
夕方の光が、澪の横顔を淡く照らしている。
その顔を見ていると、言葉にしたくなる。
好きだ。
そう言ってしまいそうになる。
でも、湊はまだ言えなかった。
この気持ちを恋と呼んでいいのか。
十年前の記憶と、今の澪への想いが混ざっているだけではないのか。
入院前の澪に、それを伝えることが負担にならないのか。
考えすぎだと分かっている。
でも、言葉は一度出したら戻らない。
湊が黙っていると、澪が小さく言った。
「湊」
「何」
「言いたいこと、ある?」
湊は息を止めた。
澪は川を見たまま続けた。
「最近、時々そういう顔してる」
「どんな顔」
「言葉を飲み込んでる顔」
湊は答えられなかった。
澪は少し笑った。
「無理に言わなくていいよ」
「澪」
「でも、いつか言いたくなったら聞く」
湊は胸が苦しくなった。
澪はいつも、こちらの逃げ道を残してくれる。
それが優しさであり、少しだけ寂しさでもあった。
「じゃあ、澪は?」
湊が聞くと、澪は瞬きをした。
「何が?」
「言いたいこと、あるんじゃないのか」
澪は少しだけ笑った。
「いっぱいあるよ」
「言えよ」
「今はまだ、全部言ったらもったいない」
「もったいない?」
「うん。残り三日で少しずつ言う」
湊は呆れたように笑った。
「計画的だな」
「大事に使いたいから」
その言葉が、胸に刺さった。
残りの時間。
残りの言葉。
残りの笑顔。
澪はそれを、大事に使おうとしている。
湊は空を見上げた。
夕焼けが始まっていた。
「屋上、行くか」
湊が言うと、澪は頷いた。
「うん」
学校へ戻る道は、少し静かだった。
放課後の校舎は人が少なく、廊下には夕方の光が長く伸びている。
二人は階段を上った。
一段ずつ。
澪は途中で少し息を整えた。
湊は何も言わずに待つ。
澪は小さく笑った。
「ありがとう」
「何もしてない」
「待ってくれてる」
「それくらいする」
「それくらいが嬉しい」
屋上の扉は、今日も少し開いていた。
澪がそれを見て言った。
「ここ、本当に不思議」
「何が」
「来たい時に開いてる」
「誰かが閉め忘れてるだけだろ」
「湊は現実的」
「澪が夢っぽすぎる」
澪は笑った。
扉を開けると、夕焼けが二人を迎えた。
空は橙と紫の境目にいた。
町の影は長く、遠くの窓が光っている。
澪はフェンスの前に立った。
湊は少し離れて、その姿を見た。
夢の中で何度も見た背中。
現実で何度も追いかけた背中。
消えそうで、でも確かにそこにある背中。
澪が振り返る。
「写真、撮って」
湊はカメラを受け取った。
澪は夕焼けを背に立った。
制服のまま。
白いワンピースではない。
けれど、湊には分かった。
今の澪を残すことが大事なのだ。
夢の中の少女ではなく、十年前の記憶の中の子でもなく、今ここにいる澪。
湊はシャッターを押した。
小さな音。
澪はその音を聞いて、少し安心したように笑った。
「残った?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「現像するまで分からないんだろ」
「そうだった」
二人はベンチに座った。
いよいよ、手紙を交換する時間だった。
澪は鞄から星柄の封筒を取り出した。
湊も同じ封筒を出す。
「同じだ」
澪が笑う。
「同じ店で買ったからな」
「でも、嬉しい」
湊は封筒を澪に差し出した。
「未来の澪へ」
澪は両手で受け取った。
「ありがとう」
澪も封筒を差し出す。
「未来の湊へ」
湊は受け取った。
封筒には、澪の字でこう書かれていた。
『未来の湊へ ひとりで泣きそうになった時に読んで』
その文字を見ただけで、胸が詰まった。
「読むのは今じゃないのか?」
湊が聞くと、澪は首を横に振った。
「今じゃない」
「いつ?」
「必要になった時」
湊は封筒を見つめた。
必要になった時。
それがいつなのか、考えるのが怖かった。
「澪は?」
「私も、必要になった時に読む」
澪は湊の手紙を大事そうに鞄にしまった。
「でも、持ってるだけで少し安心する」
「僕も」
二人は夕焼けを見た。
しばらく言葉はなかった。
風が吹き、フェンスが小さく鳴る。
澪が静かに口を開いた。
「湊」
「うん」
「この夏、楽しかった」
湊は澪を見た。
澪は夕焼けから目を離さなかった。
「最初はね、怖かったの。湊が私を思い出さなかったらどうしようって。思い出しても、苦しませるだけだったらどうしようって」
「うん」
「でも、会いに来てよかった」
澪の声が震える。
「湊ともう一度話せて、アイス食べて、花火見て、手紙を書いて、夢で扉を開けて」
澪は笑った。
「全部、宝物みたい」
湊は胸が熱くなった。
「僕も」
「本当?」
「うん」
湊は澪を見た。
「澪がいたから、この夏をちゃんと覚えていたいと思えた」
澪の目が潤む。
「それ、嬉しい」
「今まで、毎日はただ過ぎていくだけだった。でも、澪と会ってから、何でもない日が残したい日に変わった」
澪は涙をこぼした。
「湊、また急にそういうこと言う」
「悪い」
「悪くない」
澪は泣きながら笑った。
「すごく嬉しい」
夕焼けが濃くなる。
湊は思った。
今なら言えるかもしれない。
言いたいこと。
飲み込んでいた言葉。
けれど澪が先に言った。
「湊」
「何」
「最後の屋上の日、明後日にしよう」
湊の心臓が強く打った。
明後日。
入院の前日。
「分かった」
声が少し震えた。
「その日は、白いワンピースを着てくる」
澪はそう言った。
夢の中の少女。
十年前の約束。
夕焼けの屋上。
白いワンピース。
すべてが、そこに繋がっていく。
「そこで、ちゃんと言いたいことを言う」
澪の瞳はまっすぐだった。
「湊も、言いたいことがあったら言って」
湊は黙った。
澪は優しく笑った。
「無理にじゃなくていい。でも、後悔しないように」
後悔しないように。
その言葉が、湊の胸に深く刺さった。
十年前の二人は、言えなかった。
だから今、言葉を残している。
ありがとう。
ごめん。
またね。
忘れない。
生きたい。
会いたい。
そして、まだ言えていない言葉がある。
湊は頷いた。
「分かった」
澪は安心したように笑った。
屋上を出る前、澪はフェンスに触れた。
「この場所も、覚えておいてね」
「覚えてる」
「夕焼けの色も」
「うん」
「私が泣いたことも」
「泣きすぎだから忘れない」
澪は少しむくれた。
「そこは優しく言って」
「澪が笑ったことも覚えてる」
澪の表情が柔らかくなった。
「うん」
帰り道、二人はまた川沿いを歩いた。
夏の夕方は、少しずつ夜へ変わっていく。
澪は疲れていたが、湊に寄りかかることはしなかった。
ただ、歩幅を合わせて歩いた。
駅前で別れる時、澪は言った。
「明日、もう一日普通に過ごそう」
「うん」
「明後日は、最後の屋上」
「うん」
「でも、さよならじゃない」
湊は頷いた。
「またね」
澪は笑った。
「また明日」
「また明日」
澪が改札の向こうに消える。
湊はその姿を見送った。
今日の澪。
公園の澪。
商店街の澪。
川沿いの澪。
屋上の澪。
全部を覚えていたい。
家に帰ると、はなびが水槽の中を泳いでいた。
湊は水槽の前に座った。
赤い金魚は、静かに尾を揺らしている。
「澪は今日も笑ってたよ」
誰に言うでもなく、湊は呟いた。
美咲が部屋の入口から顔を出した。
「金魚に報告?」
「悪いか」
「悪くない」
美咲は湊の隣に座った。
「白峰さん、入院するんだよね」
湊は驚いた。
「何で」
「兄ちゃんとお父さんの話、少し聞こえた」
「そっか」
美咲は水槽を見つめた。
「兄ちゃん、大丈夫?」
湊はすぐには答えられなかった。
大丈夫ではない。
怖い。
苦しい。
泣きそうになる。
澪がいなくなることを考えるだけで、息が詰まる。
でも、それだけではない。
「大丈夫じゃないけど」
湊はゆっくり言った。
「一人じゃないから」
美咲は少し笑った。
「そっか」
「心配かけてるな」
「妹だから心配します」
「偉そうだな」
「偉いので」
湊は少し笑った。
美咲は立ち上がる時、ぽつりと言った。
「白峰さん、きっと兄ちゃんに会えてよかったと思ってるよ」
湊は何も言えなかった。
美咲は照れたように部屋を出ていった。
その夜、湊は澪からもらった封筒を机の上に置いた。
『未来の湊へ ひとりで泣きそうになった時に読んで』
まだ開けない。
必要になった時。
湊は封筒に触れた。
その紙の向こうに、澪の言葉がある。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
眠る前、スマホが震えた。
澪からメッセージ。
『今日はありがとう。君がいた夏を、ちゃんと思い出せそう』
湊は返信した。
『僕も。澪がいた夏を忘れない』
澪からすぐ返事が来た。
『明日も思い出を作ろうね』
湊は画面を見つめた。
明日。
普通に過ごす最後の日。
明後日。
最後の屋上。
その先は、入院。
湊は怖かった。
でも、もう逃げなかった。
『明日も会おう』
そう送ると、澪から返事が来た。
『うん。また明日』
その夜、湊は夢を見た。
夕焼けの屋上ではなかった。
公園だった。
商店街だった。
川沿いだった。
屋上だった。
この夏に歩いた場所が、次々と夢の中に現れた。
公園では、澪がアイスを持って笑っていた。
『湊、また顔しかめてる』
商店街では、澪が星のチャームを見つめていた。
『今は、持ってる星で十分』
川沿いでは、澪が花火を見上げていた。
『ありがとうって言えてよかった』
屋上では、澪がカメラを構えていた。
『残しておきたいの』
夢の中の澪は、どの場所でも笑っていた。
泣いている場面もあった。
でも最後には笑っていた。
湊はその全部を見ていた。
まるで、この夏の記憶を一つずつ箱にしまっていくみたいだった。
最後に、夕焼けの屋上が現れた。
白いワンピースの澪が立っている。
「湊」
「何」
「君がいた夏を、思い出してくれる?」
湊は首を振った。
「違う」
澪が少し驚く。
「澪がいた夏を、僕は生きていく」
澪の瞳が揺れた。
「思い出にするだけじゃない。これからの僕の中に、ちゃんと連れていく」
澪は泣きそうに笑った。
「それ、すごくいいね」
湊は頷いた。
「だから、終わりじゃない」
「うん」
「また明日」
澪は微笑んだ。
「また明日」
目が覚めると、朝だった。
湊は頬を拭った。
涙は少しだけだった。
机の上には、澪からの封筒がある。
鞄の中には、湊が書いた澪への手紙がある。
水槽には、はなびが泳いでいる。
窓の外には、夏の空が広がっている。
湊は思った。
君がいた夏。
それは、もう過去だけのものではない。
これからの自分を支えるものになる。
楽しかったことも。
怖かったことも。
泣いたことも。
笑ったことも。
全部抱えて、明日へ行く。
湊は制服に袖を通した。
今日も、澪に会いに行く。
残された時間を数えるためではなく、
一緒に生きた時間を増やすために。
第12ページを読んでくださり、ありがとうございます。
湊と澪は、この夏に歩いた場所を巡りながら、思い出を一つずつ残していきました。
公園、商店街、川沿い、屋上。
澪がいた夏は、ただの過去ではなく、これからの湊を支える記憶になっていきます。
次の第13ページ「最後の夢の続き」では、入院前夜、二人が最後の屋上へ向かい、夢と現実が重なる大切な時間を迎えます。




