最後の夢の続き
夢は、いつか覚める。
けれど、夢の中でしか言えなかった言葉を、
現実で言える日が来るのなら、
それはきっと、夢の続きなのだと思う。
第13ページ「最後の夢の続き」。
湊と澪は、入院前夜、最後の屋上へ向かいます。
澪の入院前日。
その日は朝から、空がやけに高かった。
夏の終わりが近づいているのだと、湊は思った。
まだ蝉は鳴いている。
アスファルトからは熱が立ちのぼっている。
制服の襟元には汗が滲む。
けれど、風の中にほんの少しだけ秋の匂いが混ざっていた。
季節は、誰の都合も待ってくれない。
湊がどれだけこの夏を引き止めたくても、澪がどれだけ普通の日を続けたいと願っても、時間は静かに前へ進む。
入院前日。
その言葉は、湊の胸に重く沈んでいた。
けれど、澪と約束した。
今日は最後の屋上へ行く。
十年前の約束が始まった場所。
夢の中で何度も会った場所。
白いワンピースの澪が立っていた場所。
忘れた記憶が戻り、言えなかった言葉を取り戻した場所。
そこで、ちゃんと話す。
澪も、湊も。
校門の前に着くと、澪はもう立っていた。
制服姿だった。
入院前日だというのに、彼女はいつも通り学校に来ていた。
少し顔色は白い。
でも、湊を見ると、柔らかく笑った。
「おはよう、湊」
「おはよう、澪」
その挨拶が、もう何度も交わしてきたもののように感じる。
でも、本当はまだ数えるほどしかない。
湊はそれが少し悔しかった。
もっと早く思い出していれば。
もっと早く会えていれば。
もっと早く、澪の名前を呼べていれば。
そんな考えが胸に浮かびかける。
けれど湊は、すぐにそれを止めた。
過去を悔やむために、今日があるわけじゃない。
今日、澪と会えている。
それをちゃんと見なければならない。
「体調は?」
湊が聞くと、澪は少し考えて言った。
「半分大丈夫」
「半分か」
「湊は?」
「半分大丈夫」
澪は笑った。
「おそろいだね」
「嬉しくないおそろいだな」
「でも、一人で大丈夫じゃないよりいい」
湊は頷いた。
「そうだな」
二人は並んで校舎へ向かった。
教室に入ると、悠真がすぐに二人を見た。
「おはよう」
いつもの軽さは少しだけ控えめだった。
澪が笑う。
「おはよう、柊くん」
悠真は机の上に置いていた小さな紙袋を澪へ差し出した。
「これ」
「え?」
「入院中、暇だったら食べて。いや、病院でお菓子いいのか知らんけど」
中には、小さな飴が入っていた。
いくつかの味が混ざった、コンビニで売っている普通の飴。
澪はそれを受け取り、目を細めた。
「ありがとう」
「たいしたもんじゃないけど」
「嬉しいよ」
悠真は少し照れたように頭をかいた。
「あとさ」
「うん」
「退院したら、また三人で購買行こうぜ。湊が白峰さんの前だと妙にかっこつけるのを観察したい」
「してない」
湊が即座に言うと、澪が笑った。
「してる時あるよ」
「澪まで」
悠真は笑った。
でも、その笑顔の奥には、ちゃんと寂しさがあった。
悠真なりの「またね」なのだと、湊は思った。
昼休み、美咲からメッセージが来た。
『白峰さんに渡して』
添付されていた写真には、はなびの水槽が写っていた。
赤い金魚が、光の中を泳いでいる。
湊は澪に見せた。
澪の顔がぱっと明るくなる。
「はなび、元気」
「美咲が撮った」
「美咲ちゃんにありがとうって言って」
「分かった」
澪は画面をじっと見つめた。
「入院中、写真送ってね」
「毎日送る」
「毎日は大変じゃない?」
「大変じゃない」
「忘れない?」
「忘れない」
澪は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、はなび日記だ」
「金魚の観察日記か」
「湊も一緒に写っていいよ」
「嫌だ」
「じゃあ手だけ」
「何で僕も写る必要が」
「湊が元気か確認するため」
湊は言葉に詰まった。
澪は入院しても、自分の心配をするつもりらしい。
湊は少し呆れながらも、胸が温かくなった。
「分かった。手くらいなら」
「約束」
「約束」
その日、授業はいつもより静かに過ぎていった。
湊は何度も、隣の澪を見た。
澪はノートを取っていた。
時々、窓の外を見る。
ペンを置いて、手元の飴の紙袋に触れる。
湊の視線に気づくと、少し笑う。
その全部が、湊の中に刻まれていった。
放課後。
教室のざわめきが少しずつ遠ざかる中、澪は鞄を持って立ち上がった。
今日は、白いワンピースを持ってきている。
鞄の中に、丁寧に畳んで入れてあると、朝に教えてくれた。
悠真が湊の肩を軽く叩いた。
「行ってこい」
湊は頷いた。
「うん」
「白峰さん」
悠真が呼ぶ。
澪が振り返る。
「またな」
澪は少しだけ目を潤ませて、それでも笑った。
「うん。またね」
その言葉を聞いた時、湊の胸が痛んだ。
またね。
十年前に言えなかった言葉が、今はちゃんと口にできる。
それがどれだけ大切なことか、湊は知っている。
澪と二人で廊下を歩く。
学校の中は夕方の光に包まれていた。
階段を上る。
一段ずつ。
途中、澪が少し息を整えた。
湊は何も言わずに待った。
澪は少し笑った。
「待つの上手になったね」
「前は下手だったのか」
「うん。小さい頃の湊は、すぐ先に行って、振り返って待ってるタイプだった」
「結局待ってるじゃないか」
「でも、私は追いかけるの大変だった」
湊は苦笑した。
「今は合わせる」
「うん。今の湊は、隣を歩いてくれる」
その言葉が、湊の胸に残った。
屋上へ続く扉の前に着く。
今日も、扉は少しだけ開いていた。
澪はそれを見て、微笑んだ。
「やっぱり開いてる」
「偶然だろ」
「湊は最後まで現実的」
「澪は最後まで夢っぽい」
「いい組み合わせだね」
澪はそう言って、扉を開けた。
夕焼けが、屋上いっぱいに広がっていた。
まるで、この日のために空が色を用意してくれたみたいだった。
橙色。
金色。
薄紫。
遠くの町に沈んでいく太陽。
風に揺れるフェンス。
湊は息を呑んだ。
夢で何度も見た景色。
でも、今は現実だった。
澪は鞄をベンチに置いた。
「少し待ってて」
湊は頷いた。
澪は屋上の端にある階段室の陰へ入っていった。
数分後。
澪が戻ってきた。
白いワンピースを着ていた。
十年前の約束の服。
夢の中で何度も見た服。
夕焼けの光の中で、裾が風に揺れている。
湊は言葉を失った。
何度か見たはずなのに、今日はまったく違って見えた。
それは過去の再現ではなかった。
最後の夢の続きでもあり、今ここにいる澪の現実でもあった。
澪は少し照れたように笑った。
「どう?」
湊は息を吸った。
今度は、逃げなかった。
「似合ってる」
澪の表情が柔らかくなる。
「ありがとう」
「十年前も、今も」
澪の目が潤んだ。
「うん」
湊は続けた。
「ずっと、似合ってる」
澪は泣きそうに笑った。
「それ、十年前の湊くんに聞かせたい」
「十年前の僕は、普通って言うだろうな」
「言うね」
二人は少し笑った。
でも、笑いながら二人とも泣きそうだった。
澪はフェンスの前に立った。
夢と同じ場所。
湊も隣に並んだ。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしている。
「ここから始まったんだよね」
澪が言った。
「夢が?」
「うん。夢も、約束も、忘れたことも、思い出したことも」
湊は頷いた。
「たぶん、ここに戻ってくるためだったんだ」
澪は夕焼けを見つめたまま言った。
「私ね、入院するの怖い」
「うん」
「治療も怖いし、忘れるかもしれないのも怖いし、湊に会えない日が続くのも怖い」
「うん」
「でも、一番怖かったのは」
澪は湊を見た。
「湊に、またさよならを言えないまま離れること」
湊の胸が締めつけられた。
十年前の夜。
雨。
救急車。
届かなかった手。
言えなかったまたね。
「だから今日は、ちゃんと言う」
澪の声は震えていた。
「さよならじゃなくて、またねって」
湊は頷いた。
「僕も言う」
澪は深く息を吸った。
そして、鞄から小さな缶を取り出した。
十年前の思い出が入った水色の缶。
「これ、湊に預けたい」
「僕に?」
「うん」
澪は缶を開けた。
中には、星の砂のキーホルダー、花火大会のチラシ、小さな貝殻、二通の古い手紙が入っている。
「私が持っていると、入院中に心配になるから」
「心配?」
「なくしたらどうしようって」
澪は少し笑った。
「湊に持っていてほしい。私が戻ってくるまで」
湊は缶を受け取った。
小さな缶なのに、ずっしり重かった。
十年分の記憶が入っている。
「預かる」
湊は言った。
「でも、返すからな」
澪の瞳が揺れる。
「うん」
「澪が戻ってきたら、ちゃんと返す」
「約束?」
「約束」
澪は泣きそうに笑った。
「また約束が増えた」
「増やせばいい」
湊は言った。
「入院しても、治療しても、退院したらまたここに来る約束をする。はなびを見る約束もする。アイスを食べる約束もする」
澪の涙がこぼれた。
「そんなに?」
「もっと増やす」
湊は缶を握りしめた。
「約束がある方が、帰ってきやすいだろ」
澪は顔を歪めて泣いた。
「湊、ずるい」
「何が」
「そんなこと言われたら、帰ってくるしかない」
「そのつもりで言ってる」
澪は泣きながら笑った。
湊も少し笑った。
でも、その笑いはすぐに胸の痛みに変わった。
今日、湊には言わなければならないことがあった。
この夏の間、何度も飲み込んできた言葉。
川沿いで、澪に気づかれていた言葉。
今言わなければ、きっと後悔する。
湊は息を吸った。
「澪」
澪が顔を上げる。
「何?」
夕焼けの光が、彼女の涙を照らしていた。
湊の心臓は痛いほど鳴っていた。
「僕は、澪のことが好きだ」
言った瞬間、風が止まったような気がした。
澪は目を大きく開いた。
時間が、静かに止まる。
湊は続けた。
「十年前の思い出だけじゃない。夢の中の君だけじゃない。今、ここにいる澪が好きだ」
澪の唇が震える。
湊の声も震えていた。
「泣きそうな顔で笑うところも、すぐありがとうって言うところも、怖いのに強がるところも、アイスを大きく食べるところも、全部」
涙が湊の目にも浮かんだ。
「入院前に言うのはずるいかもしれない。負担になるかもしれない。でも、言わなかったら、僕はまた十年前みたいに後悔すると思った」
澪は何も言わなかった。
ただ涙を流していた。
湊は必死に言葉を続けた。
「返事はいらない」
澪が首を横に振った。
「いる」
その声は小さかった。
「返事、言わせて」
湊は息を止めた。
澪は涙を拭わず、湊を見つめた。
「私も、湊が好き」
湊の胸が強く震えた。
澪は泣きながら笑った。
「十年前の湊くんも、今の湊も。私を忘れてしまった湊も、思い出そうとしてくれた湊も、怖いって言いながら隣にいてくれる湊も、全部好き」
湊は言葉を失った。
澪は続けた。
「本当は、言うの怖かった。入院する前に好きなんて言ったら、湊を縛るみたいで」
「縛られたなんて思わない」
「うん」
澪は頷いた。
「でも、私も言わなかったら後悔すると思った」
二人は夕焼けの屋上で向き合っていた。
十年前、言えなかった言葉。
花火の下で言おうとしていたありがとう。
病室で届かなかった声。
夢の中で何度も繰り返したまたね。
そのすべての先に、今の言葉があった。
好き。
それは、別れを美しくするための言葉ではない。
これからも生きて、また会うための言葉だった。
澪が一歩近づいた。
「湊」
「うん」
「抱きしめてもいい?」
湊は答える代わりに、澪を抱きしめた。
白いワンピースの布が、腕の中で柔らかく揺れた。
澪は温かかった。
ちゃんと、生きていた。
夢ではない。
記憶ではない。
今、ここにいる。
湊はその温度を忘れないように、強く抱きしめた。
澪も湊の背中に手を回した。
「私、帰ってくる」
澪が胸元で言った。
「うん」
「治療、怖いけど、ちゃんと受ける」
「うん」
「夢じゃなくて、また現実で湊に会いたいから」
湊の涙が落ちた。
「待ってる」
「忘れない?」
「忘れない」
「泣きそうになったら?」
「手紙読む」
「一人で抱えそうになったら?」
「悠真や美咲に言う」
澪は少し笑った。
「偉い」
「澪も」
「うん?」
「怖くなったら、手紙読め」
「読む」
「会いたくなったら、連絡しろ」
「する」
「夢で会えたら」
澪は顔を上げた。
「現実で会うまでの約束」
湊は頷いた。
「うん」
夕焼けが沈みかけていた。
空の橙色が薄れ、紫が濃くなっていく。
澪は湊から少し離れ、フェンスの向こうを見た。
「夢の続きって、こういうことだったんだね」
「何が?」
「夢の中でしか言えなかったことを、現実で言うこと」
湊は頷いた。
「そうかもしれない」
澪は微笑んだ。
「最後の夢の続きが、現実でよかった」
その言葉に、湊の胸が熱くなった。
屋上で、二人はたくさん写真を撮った。
白いワンピースの澪。
水色の缶。
夕焼け。
二人の影。
繋いだ手。
最後に、澪はカメラを屋上のベンチに置き、タイマーで二人の写真を撮った。
湊は慣れないまま、澪の隣に立つ。
澪は笑っていた。
シャッターが切れる瞬間、澪が小さく湊の手を握った。
写真にどんな顔で写ったのかは分からない。
でも、湊はその瞬間を覚えていた。
日が沈み、空が暗くなってから、二人は屋上を出た。
澪は制服に着替え直した。
白いワンピースは、湊が預かった缶と一緒に澪の鞄へ戻された。
「これは持っていく」
澪が言った。
「入院中、見たら頑張れる気がするから」
湊は頷いた。
「うん」
階段を降りる時、澪は少し疲れていた。
湊はそっと手を差し出した。
澪は迷わずその手を取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
校門の外に出ると、夜の風が吹いていた。
二人は駅まで歩いた。
話すことはたくさんあるはずなのに、言葉は少なかった。
でも、沈黙は悲しくなかった。
言うべきことを言えた後の沈黙だった。
駅前に着く。
澪は立ち止まった。
「明日、病院に行く前に会える?」
「行く」
「朝早いよ」
「行く」
澪は笑った。
「じゃあ、駅で」
「うん」
澪は湊を見た。
「また明日」
湊は頷いた。
「また明日」
澪は改札の向こうへ行った。
途中で振り返る。
手を振る。
湊も手を振った。
その姿が見えなくなるまで、湊はずっと見ていた。
家に帰ると、湊は預かった水色の缶を机の上に置いた。
星の砂のキーホルダー。
手紙。
貝殻。
花火のチラシ。
そして、新しく撮った写真はまだ現像前だった。
湊は缶に手を置いた。
「預かったからな」
小さく呟く。
水槽の中では、はなびが静かに泳いでいた。
スマホが震えた。
澪からだった。
『今日はありがとう。好きって言えてよかった』
湊は胸が熱くなった。
返信する。
『僕も言えてよかった』
澪から返事。
『明日、泣かないように頑張る』
湊は少し笑った。
『泣いてもいい』
すぐ返事。
『湊もね』
湊は画面を見つめた。
『うん』
その夜、湊は夢を見た。
夕焼けの屋上。
でも、いつもと違った。
澪は白いワンピースではなく、今日の制服姿だった。
そして、夢の屋上にはもう一つベンチがあった。
そこに、幼い湊と幼い澪が座っていた。
二人はアイスを食べながら笑っている。
その隣に、今の湊と澪が立っている。
幼い澪が今の澪を見て言った。
『湊くんに言えた?』
澪は泣きそうに笑った。
「言えたよ」
幼い湊が今の湊を見る。
『ちゃんと好きって言った?』
湊は少し照れながら頷いた。
「言った」
幼い湊は満足そうに笑った。
『じゃあ、もう大丈夫だね』
湊はその言葉に胸が詰まった。
大丈夫。
本当は、大丈夫ではない。
明日、澪は入院する。
治療は怖い。
未来は分からない。
でも、十年前の二人は少しだけ救われたのかもしれない。
言えなかった言葉を、今の二人が言えたから。
夢の中で、幼い澪が手を振った。
『またね』
幼い湊も手を振る。
『またね』
その姿が光に包まれていく。
澪が湊の隣で呟いた。
「夢が、終わるのかな」
湊は首を横に振った。
「終わるんじゃない」
「じゃあ?」
「続きが現実に移るんだ」
澪は嬉しそうに笑った。
「そっか」
夕焼けが薄れていく。
夢の屋上が遠ざかる。
最後に澪が言った。
「明日、ちゃんとまたねって言おうね」
湊は答えた。
「うん」
目が覚めると、まだ夜明け前だった。
湊はしばらく天井を見つめていた。
胸は苦しかった。
でも、不思議と後悔はなかった。
言えた。
好きだと。
待っていると。
忘れないと。
湊は机の上の缶を見た。
預かった記憶。
返す約束。
これからの未来。
入院の日が来る。
怖い。
でも、もうさよならを言えなかった夜ではない。
またねを言える朝へ向かうのだ。
湊は目を閉じた。
夢の続きは、もう夢だけのものではない。
澪と一緒に、現実で続きを歩く。
たとえ明日から病院の白い壁の中でも。
たとえ会えない日が続いても。
たとえ夢で会えなくなったとしても。
二人が言葉を残した限り、約束は消えない。
最後の夢の続きは、
これから始まる現実の中にある。
第13ページを読んでくださり、ありがとうございます。
最後の屋上で、湊と澪はついに互いの想いを伝え合いました。
「好き」という言葉は、別れのためではなく、また会うための約束になりました。
夢の中で言えなかったことを、現実で言えた二人。
次の第14ページ「また君に会う夢を見た」では、澪の入院の日を迎え、湊は現実と夢の境目で、もう一度澪に会うことになります。




