また君に会う夢を見た
入院の日。
現実の澪は、白い病院の扉の向こうへ行く。
けれど湊の胸には、まだ夕焼けの屋上が残っていた。
第14ページ「また君に会う夢を見た」。
湊は、離れたあとも澪と繋がっていることを知ります。
澪の入院の日の朝、湊は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
部屋の中はまだ薄暗く、カーテンの隙間から青白い光が差し込んでいた。夏の朝なのに、空気は少しだけ冷えているように感じた。
机の上には、水色の小さな缶が置かれている。
星の砂のキーホルダー。
花火大会のチラシ。
小さな貝殻。
十年前の手紙。
澪から預かった、大切な記憶。
その隣には、澪から受け取った封筒があった。
『未来の湊へ ひとりで泣きそうになった時に読んで』
まだ開けていない。
開けたら、何かが本当に始まってしまう気がした。
あるいは、何かが本当に終わってしまう気がした。
湊は封筒に触れた。
紙越しに、澪の字が少し盛り上がっているように感じる。
「まだ大丈夫」
湊は自分に言い聞かせた。
ひとりで泣きそうになった時に読む。
今はまだ、ひとりじゃない。
これから澪に会いに行く。
湊は制服ではなく、私服に着替えた。昨日、澪に「病院に制服で来ると学校帰りみたいで変だから」と笑われたからだ。
白いシャツに、黒いズボン。
鏡の中の自分は、少し眠そうで、少し緊張していて、少し泣きそうだった。
美咲が廊下から顔を出した。
「兄ちゃん、もう行くの?」
「うん」
「ご飯、少しでも食べなよ」
湊は首を振りかけたが、美咲の顔を見て止めた。
澪にも、悠真にも、父にも言われた。
一人で抱え込むな。
ちゃんと食べろ。
自分も大事にしろ。
湊は小さく頷いた。
「少し食べる」
美咲は安心したように笑った。
朝食は、トーストと目玉焼きだった。
少し焦げていた。
湊がそれを見ていると、美咲が言った。
「文句ある?」
「ない」
「顔が言ってる」
「懐かしいなと思ってた」
「何が?」
「前もそんな会話した」
美咲は少し笑った。
「兄ちゃん、最近よく覚えてるね」
湊はトーストをかじった。
焦げた部分が少し苦い。
でも、温かかった。
家を出る前、父が玄関まで来た。
「湊」
「何」
父は少し迷ったあと、言った。
「ちゃんと、行ってきなさい」
湊は頷いた。
「うん」
「澪ちゃんにも、お母さんにも、よろしく伝えてくれ」
「分かった」
父はもう一度、湊を見た。
「怖くなったら、帰ってきてもいい」
湊は少し笑った。
「帰らないよ」
父も少し笑った。
「そう言うと思った」
玄関を出ると、朝の光が眩しかった。
公園の前を通る。
ブランコは静かに揺れていた。
商店街はまだ店を開け始めたばかりで、風鈴の音だけがかすかに響いていた。
駅へ向かう道で、湊は何度もスマホを見た。
澪からメッセージが来ていた。
『おはよう。駅で待ってるね』
湊はすぐに返した。
『今向かってる』
少しして返事。
『泣いてない?』
湊は立ち止まり、苦笑した。
『まだ』
澪から返事。
『私もまだ』
その「まだ」に、胸が詰まった。
駅に着くと、澪は改札の前にいた。
今日は白いブラウスに淡い青のスカートだった。髪はいつも通りに下ろしていて、肩には小さな鞄をかけている。
入院する人には見えなかった。
ただ、少し遠くへ出かける女の子に見えた。
湊を見ると、澪は笑った。
「おはよう、湊」
「おはよう、澪」
その声が、いつもより少しだけ震えていることに、二人とも気づいていた。
でも、何も言わなかった。
電車に乗る。
朝の車内は少し混んでいた。
湊と澪は並んで立った。
つり革を持つ湊の横で、澪は窓の外を見ていた。
住宅街が流れていく。
踏切を越える。
小さな川を渡る。
遠くに病院の白い建物が見え始める。
澪が小さく息を吸った。
「湊」
「何」
「手、繋いでもいい?」
湊は答える前に、澪の手を握った。
澪の手は少し冷たかった。
湊は強く握りすぎないように、でも離れないように、そっと包んだ。
「怖い?」
湊が聞くと、澪は正直に頷いた。
「怖い」
「僕も」
「湊も?」
「うん」
澪は少しだけ笑った。
「じゃあ、半分ずつだね」
「何を」
「怖さ」
湊は頷いた。
「半分ずつ」
病院に着くと、澪の母が入口で待っていた。
澪を見つけると、ほっとしたように笑った。
そして湊にも頭を下げた。
「湊くん、来てくれてありがとう」
「いえ」
湊は深く頭を下げた。
病院の中へ入る。
自動ドアが開き、冷たい空気と消毒液の匂いが流れてきた。
湊の胸が一瞬きゅっと縮む。
けれど、今日は足を止めなかった。
澪の手を握っているから。
受付を済ませる間、湊は待合室で待った。
澪は母と話しながら、時々こちらを見る。
湊が視線を返すと、澪は少し笑った。
その笑顔は、いつもより小さかった。
でも、ちゃんと湊に届いた。
病室へ案内される。
白い壁。
白いカーテン。
窓際のベッド。
小さな机。
折りたたまれた病院着。
湊は十年前の夢を思い出した。
幼い澪が横になっていた病室。
扉の前で泣いていた幼い自分。
言えなかったありがとう。
届かなかったまたね。
けれど、今日は違う。
湊は病室の中にいる。
澪の隣にいる。
それだけで、十年前の自分に少し胸を張れる気がした。
澪は荷物をベッドの脇に置いた。
鞄の中から、白いワンピースを取り出して、丁寧に畳み直す。
「持ってきたんだ」
湊が言うと、澪は頷いた。
「うん。お守り」
「似合ってた」
「昨日も言ってくれた」
「何度でも言う」
澪は少し顔を赤くした。
「そういうの、入院の日に言うのずるい」
「澪も昨日好きって言った」
「それは湊も言った」
「じゃあ、お互いさまだ」
澪は笑った。
その笑顔を見て、湊は少しだけ安心した。
病室の机に、澪は湊からもらった封筒を置いた。
『未来の澪へ 怖くなった時に読んで』
湊はそれを見て、胸が熱くなった。
「持ってきてくれたんだ」
「もちろん」
澪は指先で封筒をなぞった。
「まだ読んでない」
「怖くなった時に」
「うん。でも、持ってるだけで少し勇気が出る」
湊は頷いた。
澪の母が手続きのために一度病室を出ると、二人きりになった。
白い病室の中に、少しだけ静けさが降りる。
澪はベッドに腰かけた。
湊はその横の椅子に座る。
「変な感じ」
澪が言った。
「何が?」
「ここにいるのに、湊がいる」
「普通は?」
「病院は、私とお母さんと先生たちの場所だった」
澪は窓の外を見た。
「でも今日は、湊がいる」
「嫌?」
澪はすぐに首を振った。
「嬉しい」
その言葉だけで、湊は来てよかったと思った。
「湊」
「うん」
「お願いがあるの」
「何」
「退院するまで、はなびの写真送って」
「毎日送る」
「あと、屋上の写真も」
「学校の?」
「うん。行ける時でいいから」
「分かった」
「あと、アイス食べたら報告して」
「一人で食べるのか?」
「私の代わりに」
「じゃあバニラも買う」
澪は笑った。
「湊、ソーダでしょ」
「一口交換できないから、両方食べる」
「お腹壊すよ」
「努力する」
澪は楽しそうに笑った。
でも、その笑顔のあと、ふっと表情が揺れた。
「本当は、一緒に食べたい」
湊は胸が詰まった。
「退院したら食べよう」
「うん」
「公園で」
「うん」
「ブランコも乗る」
「湊、また負けるよ」
「次は勝つ」
「無理だと思う」
「決めつけるな」
澪は笑った。
それから、少しずつ涙を浮かべた。
「未来の話、できるの嬉しい」
湊はそっと澪の手を握った。
「これからもする」
「うん」
「退院したら何をするか、たくさん決めよう」
「うん」
澪は涙を拭った。
「じゃあ、退院したら、まず水色の缶を返してもらう」
「それは返す」
「それから、はなびに会う」
「うん」
「それから、写真を現像する」
「どんな顔で写ってるかな」
「湊、たぶんぎこちない顔」
「澪は泣きそうな顔」
「ひどい」
「でも笑ってる」
澪は少し笑った。
「そうだね」
看護師が来て、検査の説明をした。
澪は頷きながら聞いていた。
湊はその横で、言葉の一つ一つを理解しようとしたが、医療の詳しいことは分からなかった。
ただ、明日から本格的な治療が始まること。
しばらく面会できない日もあること。
体調によっては連絡が難しい日もあること。
その説明だけは、胸に重く残った。
看護師が出ていった後、澪は湊を見た。
「連絡できない日があっても、心配しすぎないでね」
「無理だと思う」
「じゃあ、心配してもいいけど、悪い方に決めつけないで」
湊は頷いた。
「分かった」
「はなびの写真は送っておいて。あとで見るから」
「送る」
「湊の手も」
「忘れてない」
「よかった」
澪は安心したように笑った。
昼過ぎになり、澪の母が戻ってきた。
「そろそろ、湊くんも休んだ方がいいわ」
湊はまだいたかった。
けれど、澪も疲れているのが分かった。
澪はベッドの上で、少し眠そうにしている。
「帰るよ」
湊が言うと、澪の顔が少し寂しそうに変わった。
でも、すぐに笑った。
「うん」
湊は立ち上がった。
言いたいことは、たくさんあった。
頑張れ。
怖くなったら連絡して。
好きだ。
待ってる。
忘れない。
また会いに来る。
どの言葉も大事で、どの言葉も足りなかった。
澪が手を差し出した。
湊はその手を握る。
「湊」
「うん」
「またね」
澪の声は震えていた。
湊はその手を握り返した。
「またね、澪」
澪の目から涙が落ちた。
湊も泣きそうになった。
でも、今日は泣いてもいい。
そう思っていたのに、涙は落ちなかった。
胸の奥で、熱いものがずっと震えているだけだった。
澪は泣きながら笑った。
「泣かないの?」
「あとで泣く」
「ひとりで?」
湊は首を横に振った。
「手紙読む」
澪は安心したように笑った。
「うん」
湊は病室を出た。
扉の前で、一度だけ振り返る。
澪はベッドの上で手を振っていた。
十年前とは違う。
今度は、扉の外で逃げているわけではない。
今度は、ちゃんと言えた。
またね。
湊も手を振った。
病室の扉がゆっくり閉まる。
白い廊下に立った湊は、深く息を吐いた。
澪の母がそばに立っていた。
「ありがとう、湊くん」
湊は首を振った。
「僕が会いたかったんです」
澪の母は目を潤ませて微笑んだ。
「また来てあげてね」
「はい」
病院を出ると、空は青かった。
信じられないくらい普通の空だった。
澪が病室にいるのに。
湊の胸はこんなに痛いのに。
世界はいつも通り動いている。
それが少し悔しかった。
駅へ向かう途中、湊はスマホを取り出した。
水槽の写真を送るにはまだ早い。
でも、何か送りたかった。
湊は空の写真を撮った。
青い空。
そして澪に送った。
『外、晴れてる』
すぐには返事が来なかった。
当然だ。
疲れているのだろう。
手続きもあるだろう。
湊はスマホをポケットにしまった。
家に帰ると、美咲が玄関に出てきた。
「おかえり」
「ただいま」
「白峰さん、どうだった?」
湊は靴を脱ぎながら言った。
「泣いてた」
美咲は少し黙った。
「兄ちゃんは?」
湊は答えに迷った。
「まだ」
美咲は頷いた。
「そっか」
部屋に戻ると、はなびが水槽の中を泳いでいた。
湊は約束通り、写真を撮った。
水槽の中のはなび。
その横に、自分の手。
少しぎこちない写真だった。
湊は澪に送る。
『はなび日記 1日目。元気。僕の手も写ってる』
今度は、少しして返信が来た。
『見た。ありがとう。手、ちゃんとあるね』
湊は笑った。
『当たり前だろ』
澪から返事。
『安心した』
その短い言葉で、湊の胸が熱くなる。
澪は病室にいる。
けれど、こうして言葉は届く。
夢だけじゃない。
現実で繋がっている。
夕方になり、湊は学校へ向かった。
澪に頼まれた屋上の写真を撮るためだった。
休日ではないが、放課後の時間ならまだ校内に入れる。
校門を通ると、グラウンドでは部活の声が響いていた。
校舎の廊下は夕方の光で赤く染まっている。
湊は一人で階段を上った。
屋上へ続く扉の前に立つ。
今日は一人だ。
扉は、少しだけ開いていた。
湊は苦笑した。
「本当に不思議だな」
扉を開けると、夕焼けが広がっていた。
昨日と同じようで、昨日とは違う空。
澪はいない。
白いワンピースもない。
隣で笑う声もない。
フェンスに手をかける細い指もない。
それなのに、湊はそこに澪の気配を感じた。
ここにいた。
確かに、澪はここにいた。
湊はスマホで写真を撮った。
夕焼け。
フェンス。
ベンチ。
二人で座った場所。
昨日、写真を撮った場所。
そして最後に、自分の手と青い星のキーホルダーを一緒に撮った。
澪へ送る。
『屋上。夕焼け。ちゃんと覚えてる』
しばらくして、返信が来た。
『ありがとう。私も覚えてる』
次のメッセージ。
『でも、見たら泣きそう』
湊は返信した。
『泣いていい』
澪から返事。
『湊もね』
湊は屋上のベンチに座った。
夕焼けを見ているうちに、胸の奥で押し込めていたものが崩れ始めた。
病室の澪。
手を振る澪。
またねと言った声。
閉まる扉。
湊は膝に肘をつき、顔を覆った。
涙が落ちた。
一粒だけではなかった。
次から次へと落ちた。
声は出さなかった。
でも、止まらなかった。
澪は生きている。
治療するために入院した。
また会える。
またねと言えた。
分かっている。
それでも、寂しい。
怖い。
会いたい。
今すぐ隣にいてほしい。
湊は初めて、自分の本音を全部認めた。
強くなくていい。
大丈夫じゃなくていい。
怖くても、泣いてもいい。
澪がそう言ってくれたから。
湊は鞄から封筒を取り出した。
『未来の湊へ ひとりで泣きそうになった時に読んで』
今だと思った。
湊は封を開けた。
中には、澪の字が並んでいた。
『未来の湊へ
もしこの手紙を読んでいるなら、湊はきっと一人で泣きそうになっているんだと思います。
泣いていいよ。
まず、それを一番に伝えたいです。
湊はすぐに我慢するから。
大丈夫じゃないのに大丈夫って言うから。
私のことになると、自分の痛みを後回しにするから。
だから、泣いていいです。
私は、湊が泣くことを悲しいとは思いません。
湊がちゃんと自分の気持ちを大事にしてくれていると思うから、少し安心します。
私は今、どこにいるのかな。
病院かな。
夢の中かな。
それとも、湊の隣にいるのかな。
どこにいても、これだけは言えます。
私は、湊に会えてよかった。
十年前も。
この夏も。
夢の中でも。
現実でも。
湊が私を忘れていた時間も、私は湊を恨んでいません。
湊が思い出してくれた今、私は本当に幸せです。
でも、湊にお願いがあります。
私のために、自分の毎日を止めないでください。
ご飯を食べてください。
美咲ちゃんと話してください。
柊くんに頼ってください。
お父さんにも、ちゃんと甘えてください。
はなびに餌をあげてください。
空が綺麗だったら、写真を撮ってください。
私がいない時間にも、湊の世界がちゃんと続いていることが、私は嬉しいです。
それは、私を忘れることじゃありません。
私がいた夏を抱えたまま、湊が生きているということです。
湊。
泣いていいよ。
でも、泣いたあとに、顔を上げてね。
私は、湊が顔を上げた先にある空を、きっと一緒に見ています。
また会おうね。
夢でも。
現実でも。
澪より』
読み終えた時、湊は声を出して泣いていた。
夕焼けの屋上で、一人で泣いた。
十年前の病室の前では泣けなかった。
母の病室でも泣けなかった。
澪の前では、泣きそうになりながらも我慢していた。
でも、今は泣けた。
澪の言葉があったから。
泣いていいよ。
その一言が、湊の中の固いものをほどいていった。
どれくらい泣いたのか分からない。
夕焼けは少しずつ夜に変わっていた。
湊は涙を拭い、スマホを見た。
澪から新しいメッセージが来ていた。
『手紙、読んだ?』
湊は少し笑った。
澪は分かっていたのだろう。
湊は返信した。
『読んだ。泣いた』
すぐに返事。
『よかった』
『よかったのか』
『うん。泣けてよかった』
湊は涙で滲む画面を見ながら、返信した。
『ありがとう』
澪から返事。
『こちらこそ。今日はちゃんと寝てね』
湊は少し迷ったあと、送った。
『夢で会えるかな』
澪からの返事は、少し間があった。
『会えたら嬉しい。でも、会えなくても大丈夫。現実でまた会うから』
湊はその文字を何度も読んだ。
現実でまた会う。
湊は返信した。
『うん。また会おう』
夜、家に帰ると、美咲が何も言わずに温かいお茶を出してくれた。
父も、何も聞かなかった。
ただ、「おかえり」と言った。
湊は小さく「ただいま」と返した。
その普通のやりとりが、澪の手紙に書かれていたことと重なった。
ご飯を食べてください。
美咲ちゃんと話してください。
お父さんにも、ちゃんと甘えてください。
湊は夕食を食べた。
味はあまり分からなかった。
でも、食べた。
それが、澪との約束のように思えた。
夜、湊はベッドに横になった。
怖かった。
夢で澪に会えるか。
会えないか。
でも、澪のメッセージを思い出す。
会えなくても大丈夫。
現実でまた会うから。
湊は目を閉じた。
眠りに落ちる直前、澪の声が聞こえた気がした。
またね、湊。
そして、湊は夢を見た。
夕焼けの屋上だった。
やっぱり、また君に会う夢を見た。
澪はフェンスの前に立っていた。
白いワンピースではなく、病室で着ていた淡い色のカーディガン姿だった。
「澪!」
湊は走った。
澪は振り返り、笑った。
「来たね」
「澪こそ」
「夢だもん」
「現実でも会う」
「うん」
澪は嬉しそうに頷いた。
今日の夢の屋上は、少し静かだった。
花火もない。
幼い二人もいない。
病院の扉もない。
ただ、夕焼けと風と、二人だけがいた。
「手紙、読んでくれてありがとう」
澪が言った。
「泣いた」
「うん。知ってる」
「夢だから?」
「ううん。湊だから」
湊は少し笑った。
「何だそれ」
澪はフェンスに手を置いた。
「今日はね、長くはいられない気がする」
湊の胸が少し冷たくなった。
「どうして」
「体が疲れてるのかも」
「大丈夫か」
「うん。寝てるだけだから」
澪はそう言って笑った。
でも、湊はもうその笑顔の奥を見逃さなかった。
「怖い?」
澪は少し黙ってから頷いた。
「怖い」
「僕も怖い」
「うん」
「でも、現実でまた会う」
湊が言うと、澪は嬉しそうに笑った。
「うん」
二人は屋上のベンチに座った。
夕焼けを見ながら、澪が言った。
「湊、明日から少し会えないかもしれない」
「うん」
「連絡も遅くなるかも」
「うん」
「でも、忘れたわけじゃないから」
「分かってる」
「湊も、私から返事が来なくても、ちゃんと生活して」
「手紙に書いてあった」
「大事なことなので二回言いました」
湊は少し笑った。
澪も笑った。
その笑顔は少し薄く、でも確かだった。
「澪」
「何?」
「好きだ」
澪の目が丸くなる。
それから、幸せそうに笑った。
「私も好き」
「何度でも言う」
「じゃあ、私も何度でも言う」
湊は頷いた。
「約束」
「約束」
夕焼けが少しずつ薄れていく。
澪の姿も、少しずつ光に溶け始めた。
湊は胸が痛んだが、叫ばなかった。
追いかけもしなかった。
夢の中の澪は消えても、現実の澪は病室で生きている。
そう信じることにした。
澪が立ち上がる。
「湊」
「何」
「また君に会う夢を見たって、明日も思ってくれる?」
湊は立ち上がった。
「思うよ」
「夢で会えなくても?」
「会えなくても、澪のことを思って眠る」
澪は泣きそうに笑った。
「それ、嬉しい」
「でも、現実で会う方がもっと嬉しい」
「うん」
澪は光の中で手を振った。
「またね、湊」
湊も手を振った。
「またね、澪」
目が覚めると、朝だった。
窓の外から、蝉の声が聞こえた。
頬には涙が残っていた。
でも、昨日の涙とは違っていた。
悲しいだけではない。
怖いだけでもない。
澪に会えた。
夢の中で。
そして、現実でまた会う約束をした。
湊はスマホを見た。
澪からの新しいメッセージはなかった。
でも、それでいい。
湊はベッドから起き上がった。
まず、水槽へ向かう。
はなびが泳いでいる。
湊は写真を撮った。
今日も、はなびは元気。
その写真に、自分の手も写した。
澪へ送る。
『はなび日記 2日目。元気。僕も起きた』
返事はすぐには来ない。
湊はスマホを置いた。
朝食を食べる。
美咲に「ちゃんと食べてる」とからかわれる。
父に「今日は学校か」と聞かれる。
湊は「行く」と答える。
澪がいない朝。
でも、世界は続いている。
澪の手紙に書かれていた通りだった。
澪がいない時間にも、湊の世界は続く。
それは、澪を忘れることではない。
澪がいた夏を抱えたまま、生きていくことだ。
湊は鞄に水色の缶を入れた。
そして、星のキーホルダーをポケットに入れる。
学校へ向かう道。
公園のブランコが揺れている。
商店街の風鈴が鳴る。
川沿いの水面が光る。
校門の前に、澪はいない。
胸が痛んだ。
でも、湊は立ち止まらなかった。
澪と約束したから。
ちゃんと生活する。
ちゃんと学校へ行く。
ちゃんと食べる。
ちゃんと泣いて、ちゃんと顔を上げる。
教室に入ると、澪の席は空いていた。
湊はその席を見た。
第1ページの頃と同じ空席。
でも、今は違う。
あの席にいた澪を知っている。
笑った澪を知っている。
泣いた澪を知っている。
好きだと言ってくれた澪を知っている。
忘れていない。
悠真が後ろから声をかけた。
「おはよう、湊」
「おはよう」
「白峰さんは?」
「入院中」
「そっか」
悠真はそれ以上聞かなかった。
代わりに言った。
「今日、購買行く?」
湊は少し考えた。
澪と食べたバニラアイスを思い出す。
「行く」
悠真は少し笑った。
「じゃあ、昼な」
湊は澪の空席をもう一度見た。
心の中で言う。
澪。
また君に会う夢を見た。
でも、夢だけじゃない。
僕は今日も、君に会うために生きている。
返事のないスマホも。
空っぽの隣の席も。
一人で食べるアイスも。
全部、君を忘れるためじゃない。
君とまた会う日まで、僕がちゃんと生きるための時間だ。
湊はノートを開いた。
新しいページに、今日の日付を書いた。
そして、その下に短く書いた。
『また君に会う夢を見た。
でも、現実でまた会う。』
その文字を見て、湊は小さく息を吐いた。
窓の外では、夏の光が揺れていた。
物語は、まだ終わっていない。
澪が病室で頑張っているように、湊もまた、澪のいない日常の中で歩き始める。
夢の中で会えたことを胸に抱きながら。
現実でまた会う日を、信じながら。
第14ページを読んでくださり、ありがとうございます。
澪は入院し、湊は病室で「またね」を言いました。
離れたあと、湊は澪の手紙を読み、ようやく一人で泣くことができました。
夢でまた澪に会えた湊。
けれど彼はもう、夢だけにすがるのではなく、現実でまた会うことを信じ始めます。
次はいよいよ最終ページ「君がいない朝、それでも僕は生きていく」です。




