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「……スー……スー……。」
隣のベッドから聞こえてくる寝息と、部屋に響く摩擦音。時代と比べれば少々近代的な時計から響く、チクタクという秒針の音。
「……んーっ、今日はこんなもんか。」
手に持っていた鉛筆を一度置き、体を伸ばす。夏休みの課題を進めているうちに、気が付けば九時五十二分となっていた。そこそこ微妙な時間で区切りをつけてしまったなと思う。アーマリアはすでに眠ってしまっていた。
「……こっちの夜景は、どうなってるんだろうな。」
森でも、ゲールツでも、王都でも。どんな場所でも、必ず夜景を見ていた記憶がある。ともなれば、当然この湾岸都市ミーアのそれも気になるわけだ。ほぼ何も考えずに、カーテンに手を伸ばす。
『夜の十時以降は必ずカーテンを閉めなさい。夜明けまで開けてはいけませんよ。』
「……っ。」
ふと、この宿屋の主人の言葉が脳裏をよぎる。カーテンを掴んだ手がそこで止まった。チクタクと秒針が響く音に混じって、カッチンと分針が動く音が聞こえてくる。時刻は九時五十五分だ。
「……寝るか。」
正直、何かすることもない。とうに歯は磨いたし、宿屋にある共用シャワーも浴びた。あとやることといえば寝ることぐらいだ。少し薄めのシーツと少し硬めのマットレスに体を挟み込んで、目を瞑る。
「……曰く付き、か。」
異世界にもそういう物件はあるのだなと思う。地球にいた頃、しばらくその他の物件に住んでいたことはあった。特にこれといったこともなく、ただ家賃が安いというのと不自然なリフォーム跡が目立っていた程度だが……やはり良い気持ちはしなかった。
「……。」
……別に、俺はそういう心霊系を信じているわけでも、信じていないわけでもない。小さい頃はそういう番組も見ていたし、今でもヘルスティアと語らうぐらいにはそういう話が好きだ。ただ……自分がその真っ只中にいるのかもしれないと思うと、嫌な汗が額を伝った。
寝付けないまま、分針の音が五回。そして一際大きい、ガチャンという音が一回。それはすなわち、十時になったということ。窓から目を背けて、息を殺し、僅かに身を縮こまらせる。チクタクという音が、何回も聞こえてきた。
「……なんだ、何も起きねぇじゃねぇか。」
怖いもの見たさで何か起きないかと期待していた自分が、実はいた。……しかし、何も起きない。あの主人の嘘か、あるいはもうすでに曰くの大元がどこかに行ってしまったのか……。……あるいは、カーテンを開けることがトリガーなのか。何はともあれ、今のところ何も起きては……。
油断した瞬間、ガタンッ、と窓が揺れる。
「うひゃっ……。」
思わず変な声が漏れた。思わずカーテンの方へと目を向ける。次の瞬間聞こえてきたのは、「ジジジッ」という虫の声だった。……ただ、夜中に馬鹿な虫が窓に突っ込んできただけだった。
「……ビビらせやがって……。」
思わずつぶやいた独り言。口ではそんな感じだが……心臓は大きく音を立てながら揺れ、じっとりとした嫌な汗が下着と肌をくっつけている。
「……はぁ。」
なんでもない事象だったことに、少し安堵のため息をつく。縮こまらせた体を元に戻して、眠りに就こうと思ったその時だった。
「ハナー? 起きてるー?」
コンコンという窓を叩く音と共に、聞こえてきたのは、耳馴染みのある声。頭の中に浮かんできたのは赤い髪の少女だ。
「……ヴェアティか?」
「当たり前じゃーん、私以外誰がいるっていうの?」
窓の外から聞こえてくる、彼女の明るい声。食堂での不機嫌そうな様子とはえらい違いだ。
「どうした、こんな時間に。もうアーマリアは寝てるぞ?」
「いやー……実は、散歩から帰ってきたら、鍵がかかっててさ……。」
とほほ、と言った様子で彼女は教えてくれる。鍵がかかっていて中に入れないから、窓から入れてもらえないだろうかとのことだった。
「あいよ、ちょっと待ってろ。」
「うん、ごめんね。」
友人たる彼女からの頼みだ。断る道理などどこにもない。俺は再びカーテンに手を伸ばした。
『夜明けまで開けてはいけませんよ。』
……カーテンを掴み、少し開きかけたところでその手が止まる。脳裏にまたもや過った、宿屋の主人の言葉。ゆっくりとカーテンから手が離れた。
「どうしたの、ハナ? 早く開けてよ〜外寒いんだけど〜。」
声の調子も、声色も、アクセントも。窓の外から聞こえてくるのは、間違いなくヴェアティのそれだ。でも、何か。何か一つだけ、違和感を感じる。
「ああ、すまん。ちょっと考え事してた。」
「ふーん? まあいいや。フラメ先生もヘルも爆睡してたからさ〜、ハナにしか頼めないんだよ〜! 早く開けて〜!」
拗ねたような声色でヴェアティは急かしてくる。迷いながらも、再び手を動かそうとする。……待てよ、フラメ先生って、確か違う階に……いて……。
「っ……!」
その瞬間、違和感の正体にようやく気が付いた。
「……なぁ、ヴェアティ。」
「なに?」
「フラメ先生も、ヘルも、寝てるのはちゃんと確認したのか?」
「うん。窓をノックしても反応なかった。」
「……お前、どうやってノックした?」
「……。」
……まず、フラメ先生は俺たちと違う階……すなわち、一階に寝泊まりしている。一方で俺やアーマリアに、ヘルスティアとそしてヴェアティは二階だ。そう、二階なのだ。
「ねぇ、早く開けてよ。」
先ほどよりも少し低い声で、外にいるナニカが言う。その瞬間、嫌な汗が全身から流れ始めた。心臓が血液を全身に忙しなく送りこみ、息が少し荒くなる。
「ねぇ、」
コンコンと、ノックが何回も響く。チクタクという秒針の音を掻き消すように、何度も、執拗に。
「早く。あけてよ。」
「……。」
「開けてよ。」
コンコンという音が、だんだんと荒く激しくなっていく。ドンドンドンと、窓が割れようと割れまいと関係ないような音だ。
「あけてよ。」
「はやく。」
「起きてるんでしょ。」
「ねぇ。」
一つだった声が、次第に重なり始める。俺はシーツに身を包んで、小さく身を縮こまらせた。揺れる窓を見ないように、目線をアーマリアの方へと向けて。後ろからバンバンと、ずっと窓を叩かれる。その音を聞くたびに、息が荒くなる。
「あけてよ。」
「あけてってば。」
「あけろよ。」
「あけろ。」
ヴェアティの声をした何かの、化けの皮がだんだんと剥がれていく。口調が彼女ではなくなり、幾十もの声が重なって迫ってくる。過呼吸になって、頭がくらくらとしてくる。
「ねぇ、」
恐怖のあまり、目を瞑ったそのとき。
「「「あけてよ。」」」
全ての声が驚くほど同時に。その言葉を俺へとぶつけた。
「……っ、ぁ!」
声にもならない声をあげて、俺は飛び起きた。チクタクと、時計が秒針を鳴らす。汗でぐしゃぐしゃシーツに、ほんのわずかに隙間を作りかけているカーテン。服はどことなくいやにじっとりとしている。……夢では、なかったようだ。
「はぁ……はぁ……。」
荒い息を整え、時計を見る。時刻は六時半。もう三十分もすればアーマリアが起きるだろう。
「……水。」
喉が渇いた。ベッドから降りて、じっとりとした感覚を身に纏いながら、俺は部屋を出た。
食堂を訪れると、すでに目覚めていたらしい宿屋の主人がコップを磨いていた。
「おはようございます。早いお目覚めですね。」
「あ、ああ……。」
「……その様子では、どうやら迫られたみたいですね。」
宿屋の主人はため息をついて、呟くように言った。あれは何なのかと、問い詰める。
「……申し訳ありません。私からはなんとも。」
「……どういうことだ。」
「……あの窓にいるナニカは、私が宿屋を営む前からそこにいたのです。これまで泊まりに来たお客様の何人かが、カーテンを開けた結果……そのまま、気が狂ってしまって。故に十時以降開けぬように厳命している次第です。」
……はぁ。まあ、判らないならそう対処するしかないのか。俺は彼に一言お礼を言って、水をもらう。ちなみに、気が狂ったお客様方は一応そのあと回復したらしい。ただ、そのときの記憶は失っていたんだとか。
「……んん……。」
乾いた喉を潤していると、ヴェアティがえらく眠そうな様子で食堂に入ってきた。
「……おはよう。」
「んにゃ……おはよう、ハナ……。」
眠い目を何度も擦りながら、彼女は宿屋の主人から水を貰っていた。
「……なあ、お前昨日の夜、外出とか……したか?」
「してないよ……ヘルとずっと喋ってたし……。」
もにゅもにゅと口を動かしながら、彼女は答える。寝癖が猫の耳のようになっていた。
「……そうか。悪いな、変なこと聞いて。」
「……ん。」
……あれは、本当になんだったんだろう。なんとか部屋を変えてもらえないか主人と交渉してみるか……?
「……ハナ、シャワー浴びてきたら? 少し汗臭いよ。」
「あぁ……なんか寝汗が凄くてな……ははは……。」
「むぅ」と、ヴェアティは少しジト目で俺のことを睨んできた。どうやら何か隠しているというのを察したらしい。……正直に話すか。
「……いや、なんだ。少し怖い目にあってな。」
と、昨日の夜中あったことを彼女に正直に話した。眠そうながらもちゃんと彼女は聞いてくれている。
「……ちょっと信じられないけど。でも、ハナがそんな嘘つくように見えないし。」
ひとまず、信じてもらえたらしい。これで少し誤解は解けたな……ほっと胸を撫で下ろす。
「……あっはは、怖かったんだね〜。」
と、彼女は俺の頭を撫でてきた。ぽやぽやしている彼女から撫でられるのはこう、なんだか新鮮だ。……これ、いつもよりも少し恥ずかしいかもしれない。後ろでは、主人がニコニコと俺たちのことを見ていた。
ミーアに来た初日から、色々と起きているわけだ。この先のことが、ほんの少しだけ不安になった。
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