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異世界美男子、旅立ち前夜を過ごす


お茶を飲み終えたあと、千海ちかは本とノート、そして鉛筆をテーブルに並べた。


「これが鉛筆。書くものです」


「えんぴつ……」


璃景りけいは手渡された鉛筆を、珍しそうに指先で転がした。


「ほう。この黒い芯を木で包んだ筆、というわけか。墨を磨る手間がいらないとは、どこまでも便利な国だね」


「その理解でだいたい合ってます」


千海は少し考えてから、ひらがな教材の最初のページを開いた。


形の簡単な文字から始めるべきか、それとも五十音の「あ」から始めるべきか。

少し迷った末に、千海は本の順番通りに進めることにした。


「璃景さんは大人なので、ひらがなの順番はそのページ通りにしますね。まずは、“あいうえお”からです」


「あいうえお」


「はい。私のあとに続いてください」


千海は、ゆっくりと声に出した。


「あ、い、う、え、お」


千海の少し高めの、けれど芯のある心地よい声が、静かな部屋に響く。


璃景はその口の動きと、本に書かれた流れるような文字をじっと見比べながら、一文字ずつ丁寧に声を重ねた。


「あ、い、う、え、お。……こうかい?」


「はい。上手です」


「漢字と違って角がなくて、まるで水の流れを描いているようだね。千海の声に続いて口にすると、なんだか妙に落ち着くよ」


璃景は鉛筆を握り直し、本に印刷された「あ」の文字の線を、紙の上でそっとなぞってみた。


線が交差し、最後に丸く円を描くようなその形は、思ったよりも難しい。


「……これは、見た目より難しいね」


「そうなんです。ひらがなって、丸みがある分、綺麗に書くのは意外と難しいんですよ」


「大人の学び方、か」


璃景は感心したように呟いた。


「確かに、子どものようにただ形を真似るだけでなく、この文字がどういう音を表しているのか、頭で考えながら進められるのはありがたい」


それから、真剣な顔で教材を見ている千海の横顔を覗き込む。


「……ふふ。千海がこうして私の横で熱心に教えてくれている姿を見ていると、腕の良い若き家庭教師を迎えたような気分だね」


「家庭教師というほどではないです」


「私には十分だよ」


璃景はもう一度、ノートに「あ」と書いた。


「あいうえお、の次は、どのような音が待っているんだい? 君の国の言葉を早く覚えたくて、どうにも気が急いてしまうよ」


「今日は少しだけです」


「あぁ、そうだったね。あまり詰め込みすぎて、明日の飛行機の旅前に疲れさせてしまっては本末転倒だ」


「そうです」


璃景は素直に頷いた。


「千海、私の進み具合は、君の采配にすべて任せるよ」


差し出されたノートの文字を見て、千海が感嘆の声を漏らす。


「璃景さん、字が綺麗ですね」


「本当かい? それは嬉しいね」


「ええ、かなり」


「しかし、千海。“あ”と“お”は似ていて、間違えそうになるね」


「ですね。最初はそこ、迷いやすいかもしれません」


千海は時折スマートフォンで明日の予定を確認しながら、璃景のペースに合わせて丁寧に教えていく。


それにしても、彼の呑み込みの早さは尋常ではなかった。


「しかし、覚えるの早くありません? 美男子効果ですか?」


「なぜかな?」


「ご都合主義?」


ここにきて何度目かの言葉に、璃景は可笑しそうに目を細めた。


「好きだね、“ご都合主義”」


「都合いいので」


千海は悪びれもせず、楽しそうに笑った。

璃景も、つられるように笑う。


テーブルの上には、温かいハーブティーと、開いたひらがなの本。

そして、璃景が丁寧に書いた「あいうえお」が並んでいる。


異世界から来た美しい男が、現代日本の部屋で、真剣にひらがなを練習している。


冷静に考えれば、やっぱり意味が分からない。

けれど、その光景は、思っていたよりずっと穏やかだった。


千海はスマートフォンを手に取り、今日のメモをひとつ残した。


――異世界美男子、ひらがなの「あ」と「お」に悩む。


そうして少しだけひらがなの練習を続けているうちに、部屋の中はすっかり夕方の色に染まっていた。


千海がスマートフォンの画面を確認する。


「そろそろ夕飯が届きますから、それまでは練習していてくださいね」


「届く?」


璃景が不思議そうに復唱した。


「はい。お昼に食べていない種類の中華を頼みました。麻婆豆腐とか、天津飯とか」


千海が笑うと、璃景も嬉しそうに目を細めた。


「また、故郷に近い味を。ありがとう、千海」


夕飯が届くまでの間、璃景は大人しく字の練習を続けた。


千海はスマートフォンの画面を操作しながら、彼が分からなそうな顔をするたびに、横から丁寧に教えていく。


「千海は、何をしているんだい?」


「明日の飛行機の予約確認と、向こうに着いてからの車の変更ですかね」


「あぁ。私が突然同行するから……」


申し訳なさそうにする璃景に、千海はふふっと笑った。


「お気になさらず。来て二日で置いて行きませんから」


「ありがとう」


「それに、明日、飛行機に驚く璃景さんを見られますし」


「……やはり、それが目的に含まれているのだね」


「もちろんです」


「正直だね」


「作家なので」


「またそれかい」


二人がそんなやり取りをしているうちに、夕飯が届いた。


千海は料理を受け取り、テーブルに並べていく。


麻婆豆腐。

天津飯。

餃子。

春巻き。

それから、昼に食べなかった炒麺に似た料理。


湯気とともに、香辛料の香りが部屋に広がる。


「これは……また良い香りだね」


璃景は嬉しそうに目を細めた。


「味が似ているといいですね」


「楽しみだよ」


二人はテーブルを囲み、一緒に夕飯を食べ始めた。


しかし、料理を口にした途端、璃景の顔色が変わった。


「千海、麻婆豆腐が辛い! 毒ではないかい!?」


「毒は入ってないので大丈夫ですよ」


「辛いぞ!」


「はい。辛口を頼みました」


「なぜだい!?」


「璃景さんの反応が面白そうで」


「…………そうか」


璃景はしばらく言葉を失った。


けれど、もう一度、恐る恐る麻婆豆腐を口に運ぶ。


「……美味い」


「美味しいでしょ?」


「美味しいのが悔しい」


「なんで悔しいんですか?」


「なんとなくだ」


璃景はそう言いながらも、額にうっすら汗を浮かべている。


その姿が面白くて、千海はつい口元を押さえた。


「千海、笑っているね」


「いえ。とても良い反応だなと思って」


「それは笑っているのと同じではないかな?」


「作家なので」


「便利すぎるね、その言葉は」


麻婆豆腐に悶絶する璃景の姿を楽しみながら、食卓は賑やかなものになった。


辛いと言いながらも、璃景は箸を止めない。

天津飯のやさしい味に安堵し、餃子の香ばしさに感心し、春巻きの軽い歯触りに目を丸くする。


異界の食事に驚きながらも、美味しいと言って食べてくれる。


そのことが、千海には少し嬉しかった。


食後、千海は璃景にお風呂の使い方を一通り説明した。


湯を張ること。

シャワーの出し方。

シャンプーとボディソープの違い。

タオルの場所。

熱すぎたら調整すること。


璃景はその説明を、戦の作戦でも聞くような真剣な顔で聞いていた。


「分かった。水と湯を操る装置、体を洗う薬、髪を洗う薬、布……。覚えることが多いね」


「お風呂で戦わないでくださいね」


「戦わないよ」


「本当ですか?」


「たぶん」


「また雑ですね」


しばらくして、寝支度を整えた璃景がリビングへ戻ってきた。


「千海。しゃわーとは便利だね」


「でしょう?」


「湯が上から降ってくるとは思わなかった」


「そこから驚きますよね」


千海は笑いかけて、ふと目を止めた。


璃景の長い髪が、まだ濡れている。


「璃景さん。髪、濡れてますよ」


「自然に乾くのではないかな?」


「だめです。風邪ひきます。ドライヤーしてあげますので、その椅子に座ってください」


「どらいやー……」


「温かい風で髪を乾かすものです」


「本当にこの国は、何でも道具があるのだね」


璃景は促されるまま、椅子に腰掛けた。


千海が後ろに回り、ドライヤーのスイッチを入れる。


ぶおー、と温風が吹き出した瞬間、璃景の肩がぴくりと跳ねた。


「……なんだか、この箱も不思議な術のようだな。温かい風が勢いよく吹き出してくる」


「熱かったら言ってくださいね」


「あぁ。大丈夫だよ」


昨夜、この部屋の扉を開けたときには、まさか次の日の夜にこうして異界の女性に髪を乾かしてもらっているなど、璃景は想像できるはずもなかった。


先ほどの辛口麻婆豆腐の、舌が痺れるような辛さと旨味を思い出して、まだ少し口の中が熱いような気がする。


けれど今は、その辛さよりも、千海の指先が自分の髪の間に滑り込んでくる感覚の方が、ずっと璃景の心を落ち着かなくさせていた。


「千海は……手先が器用なのだな。髪を梳く手つきがとても優しい」


「長い髪なので、絡まないようにしているだけですよ」


「それでも、優しいよ」


長い髪をいたわるように、千海は丁寧に乾かしていく。


ぶおー、という風の音が、二人の間に響く。


璃景は少しだけ振り返り、真剣な表情で髪を乾かしてくれている千海の瞳を見つめた。


「さっきの麻婆豆腐には驚かされたが……君の言う通り、確かに美味かったよ。悔しいがね」


「まだ悔しいんですか?」


「なんとなくね」


「便利な言葉を覚えましたね」


「君の影響だろう」


千海は少し笑った。


璃景は続ける。


「それに、私が突然現れたことで、明日の飛行機や車の予定まで慌ただしく変えさせてしまった。文句を言うどころか、感謝せねばならないな」


「取材なので大丈夫です」


「君は本当に、何でも取材にするね」


「作家なので」


「……やはり便利だ」


やがて髪がすっかり乾き、温かい風が止まった。


静けさが戻った部屋で、璃景は椅子に座ったまま、ゆっくりと振り返る。


「千海」


「はい」


「明日はいよいよ、空を飛ぶのだね」


「はい。飛びます」


「君は『驚く私が見られる』と楽しそうに言っていたが……あぁ、認めよう。きっと私は、また見たこともない光景に足がすくむか、あるいは言葉を失うのだろう」


璃景は少し照れたように笑った。


「だが、それを君が嬉しそうにあの小さな板に書き留めて、面白い物語にしてくれるのなら、いくらでも驚いてみせるよ」


千海はドライヤーを片付けながら、少しだけ目を細めた。


「それは、とても助かります」


「作家殿の役に立てるかな?」


「かなり」


「それはよかった」


璃景は立ち上がり、長い髪を軽く払った。


「さあ、これで今夜の寝支度は万端だ」


「髪もちゃんと乾きましたしね」


「あぁ。ありがとう、千海」


璃景はいつものように丁寧に礼を言い、それから少しだけ真面目な顔になった。


「今夜も私は君の寝台を借りるが……明日の朝は、私が君を驚かせるくらい早く起きて、旅立ちの護衛を務めるからね」


「無理しなくていいですよ」


「いや、荷物持ち兼、護衛兼、ネタだからね」


「役職、増えたままですね」


「大事な役目だろう?」


千海は思わず笑った。


「はい。では、明日もよろしくお願いします」


「こちらこそ。……おやすみ、千海。良い夢を」


「はい。おやすみなさい。よい夢を」


千海もそう返して微笑み、二人はそれぞれの眠り支度へと就いた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は、千海の悪戯に翻弄される璃景でした。


けれど、この世界に慣れていない璃景を置いて取材に行かないと言ったり、ドライヤーをしてあげたり。

小説のネタと言いながら、なんだかんだ世話を焼いてあげるのが千海だな、と思います。


二人がこれからどんな掛け合いをしていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。


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