異世界美男子、珈琲を知り、鉄の怪鳥と対面する
千海は朝の七時に目を覚まし、静かに旅の支度を始めていた。
冷蔵庫を開けて中身を確認し、小さく息を吐く。
「ご都合主義でも、買い物してなければ食べるものないか……。空港で食べよう」
そう呟きながらキッチンで珈琲を淹れていると、寝室の扉が開いた。
璃景が起きてくる。
「……おはよう、千海。ずいぶんと芳しい香りがするね」
まだ少しだけ眠気の残る声だったが、その姿は完璧だった。
昨日購入した服を、すでにおしゃれに着こなしていた。
朝の光を浴びたその佇まいは、相変わらず現代日本のリビングには、およそ馴染まない美しさだった。
璃景はリビングへ出るなり、くんくんと鼻を動かして、キッチンにいる千海へ近づいてくる。
「これは何かな? 私のいた世界にも、黒く苦い茶はあったが、これほど深く、どこか焦がしたような、それでいて心を落ち着かせる香りは初めてだ」
そして、少しきまり悪そうに眉を下げた。
「……すまない。朝は私が君を驚かせるほど早く起きるつもりだったのに、すっかり朝寝坊をしてしまったね」
「大丈夫ですよ。昨日、いろいろありましたし」
千海はそう言いながら、冷蔵庫を閉める。
璃景は、その小さなため息を見逃さなかった。
「どうかしたかい? 買い物をしていないと、食べるものがない……? あぁ、なるほど。あの不思議な冷える箱の中身が空ということだね」
璃景は、納得したように目を細めた。
「さすがのご都合主義とやらも、箱の中に勝手に朝餉を生み出す術は持たなかったか」
昨日教わったばかりの言葉を、さっそく嬉しそうに使っている。
千海は思わず笑った。
「使い方、合ってます」
「それはよかった」
「朝ごはんは空港で食べましょう」
「くうこう……」
璃景はその言葉を確かめるように繰り返す。
「あぁ、もしやそこが、天を駆けるあの飛行機という獣が住まう場所なのだろうか」
「獣ではないですけど、だいたい合ってます」
「だいたい」
「はい」
璃景は少しだけ息をのんだ。
それでも、すぐに気を取り直したように、千海の手元を興味津々で覗き込む。
「ならば食事は、そこに着いてからの楽しみにしよう。……それより、その『こーひー』を私にも一口、淹れてはくれないだろうか? 君の淹れるお茶は、どれも本当に美味しいから」
璃景はカウンターにそっと手をつき、千海の手元を覗き込んだ。
千海は、にこにことブラック珈琲を璃景に差し出した。
「はい、どうぞ」
あえて「苦い」とは言わない。
璃景は微笑んだ。
「ありがとう、千海。いただくよ」
璃景は差し出された漆黒の液体を、何の疑いもなく受け取った。
立ち上る香りは芳しい。
だが、彼の国で飲まれていたどんなお茶よりも、それは深く、底知れない黒さを湛えていた。
千海がどこか楽しげに、にこにこと自分を見つめている。
璃景はそれを見て、少しだけ首を傾げた。
千海が、随分と嬉しそうだ。
自分が無事に起きてきたのが、そんなに嬉しいのだろうか。
そんな能天気なことを思いながら、璃景はカップを傾けた。
そして、ブラック珈琲を一口、口に含む。
「――っ!?」
刹那、璃景の全身に衝撃が走った。
苦い。
尋常ではなく、苦い。
舌の上が焼けつくような、いや、まるで焦げた木炭をそのまま凝縮して飲まされているかのような、強烈な苦味が口内を支配する。
「ごふっ……げほっ、けほっ……!」
璃景は思わずカップを落としそうになりながら、片手で口元を覆って激しくむせ込んだ。
涙目で千海を見ると、案の定、千海は悪戯が成功した子どものように声を上げて笑っていた。
「ち、千海……っ! 君、これは……やはり毒ではないのか!? いや、毒ではないにしても、間違えて炭の汁でも淹れたのではないかい!」
「珈琲です」
「これが、コーヒー……」
璃景はカウンターにカップを置き、舌に残る苦味から逃れようとする。
恨めしげに千海を睨んだ。
いや、睨もうとした。
けれど、彼女の弾けるような笑顔を見ていたら、それ以上怒る言葉が出てこなくなってしまう。
「……はぁ。なるほど。“あえて何も言わなかった”のだね? 昨日の麻婆豆腐といい、君は本当に、私が驚く姿を見るのが好きなようだ」
「はい」
「否定しないのだね」
「作家なので」
「便利な言葉だね、本当に」
口の中に残る圧倒的な苦味に耐えながら、璃景はふう、と大きなため息をついた。
けれど、不思議なことに、頭の芯が驚くほど冴え渡っていくのを感じる。
「……しかし、不思議だね。これほど苦いというのに、喉を通り過ぎた後は、なんだか鼻に抜ける香りが心地いい。それに、眠気が完全に吹き飛んだよ。天を駆ける前に、私の覚悟を決めさせるための、作家殿なりの荒療治だったというわけか」
「ミルクとお砂糖、入れますね。これなら飲めますよ。多分」
「みるくと、さとう……?」
千海は楽しそうに笑いながら、白い液体と、雪のような粒をその黒い液体へ落とした。
小さな匙で、からからと混ぜ合わせていく。
すると、あの漆黒だった液体が、見る見るうちに優しい薄茶色へと変わっていった。
「はい。どうぞ」
手渡されたカップを、璃景はまだ少し疑り深い目で見つめる。
けれど、千海の手前、断るわけにもいかない。
もう一度、口へと運んだ。
「……! おぉ……?」
先ほど世界を絶望に染めたあの苛烈な苦味が、嘘のように身を潜めていた。
口の中に広がるのは、まろやかなコクと、じんわりとした優しい甘み。
そして、後味に心地よい苦味がほんのりと残るだけだった。
「美味い……! なんだ、千海。最初からこれを教えてくれればいいものを!」
「最初の反応が見たかったので」
「本当に正直だね」
「作家なので」
「朝から何度も聞いたよ」
璃景は安心したように、その珈琲をもう一口飲んだ。
「まるで、気性の荒い猛獣が、君の手一つで大人しい羊に変わったかのような劇的な変化だね」
「珈琲の感想が壮大ですね」
「それほどの変化だった」
璃景は今度こそ、温かな珈琲を飲み干した。
腹の奥から、じんわりと温かさが広がっていく。
「さとう、というのは私の国では大変な貴重品だったが……この国ではこうして日常的に使えるのだな。苦味の奥にある美味さを引き出すとは、君の言う『ぶらっく』も、この『みるくとさとう』入りも、どちらも非常に興味深い体験だったよ」
空になったカップをそっと置き、璃景は千海に向かって満足げに微笑む。
「よし。これで腹の底から力が湧いてきた。千海、車へ荷物を運ぼう」
「お願いします」
「昨日覚えた『横に並んで歩く』も、車の中でのシートベルトも、もう完璧だからね。君の言う空港へ、いつでも私を案内しておくれ」
そう言って璃景は、少し誇らしげにサングラスを手に取った。
車で空港へ向かう道中、璃景は外の景色に再び圧倒されていた。
「なっ……! 千海、あれは、車なのかい!?」
朝の幹線道路に合流した瞬間、璃景は思わず助手席の窓へ身を乗り出しかけた。
見渡す限り、車が列をなし、凄まじい速さで道を走っている。
赤、青、白、黒。
色とりどりの車が、まるで巨大な川の流れのようにひしめき合っていた。
「すごい数でしょう?」
「あぁ……。私の国でこれほどの軍勢が動くとなれば、一大事どころではないぞ。それを、この国の人々はこれほど平然と御しているのか……」
「みんな通勤とか移動ですね」
「つうきん」
「仕事に行くことです」
「この数が、仕事へ……」
璃景はしばらく言葉を失った。
昨日ショッピングモールで驚いたばかりだというのに、この世界の規模は、彼の想像をはるかに超えていた。
車窓の向こうには、朝の光を受けた高層ビルがいくつも並んでいた。
「千海、この国には、空を遮るほどの建物を建てる術があるのだな」
「術というか、建築技術ですね」
「けんちくぎじゅつ」
「また増えましたね」
「あぁ。覚えることが本当に多い」
璃景はサングラスの奥で目を見開き、窓の外を見つめていた。
そして、車が滑り込むようにして、空港の巨大な建物へ近づいていく。
そのときだった。
璃景の視線が、ある一点で止まった。
「千海……」
その声が、少し震えている。
「あそこに、信じられないほど巨大な、翼を持った鉄の怪鳥が見えるのだが……」
璃景は窓の外を指さしたまま、完全に固まっていた。
「まさか、あれが君の言う飛行機なのかい……?」
その絵に描いたような驚きっぷりは、千海にとって、格好の創作のネタになりそうだった。
千海は運転しながら、口元をゆるめる。
(いい反応です、璃景さん)
空港は、もうすぐそこだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回も、ブラック珈琲という千海の悪戯に翻弄される璃景でした。
そしてついに、空港で飛行機を見てしまった璃景。
これからの取材旅行はどうなるのやら……。
二人がこれからどんな掛け合いをしていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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