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異世界美男子、旅支度と笑顔の約束


車から下りるとき、璃景りけいは本当にすべての荷物を持ってしまう。


「一つくらい、私も持ちますよ」


千海ちかが差し出した手を、璃景は穏やかに遮る。


「いや、私が持つよ」


結局、彼はすべての買い物袋やバッグを両腕に抱え込んでしまった。


その過剰なまでの優しさに、千海は呆れつつも、どこかほっとして、思わず笑みをこぼす。


「でも、璃景さん。前、見えてます?」


「あぁ。大丈夫だよ」


「下から見てたら、顔が見えませんよ?」


「上からは見えているよ」


「身長高いっていいですね」


荷物の隙間からひょっこりと顔を覗かせてそう言うと、璃景はふっと目を細めた。


「君の役に立てるなら、この目立つ身長も必要だったと思えるよ」


さらりと返されたその言葉に、千海は一瞬だけ驚いたように目を丸くする。


それから、


「……本当に、そういう台詞をさらっと言うんですね。メモしなくちゃ」


と、どこか呆れたような、けれど嬉しそうな顔をして、そっぽを向いた。


本当に、可愛い反応をする人だ。


璃景は胸の内でそう思う。


昨夜、璃景の姿を見てあれほど驚き、絶望し、部屋の扉をバンと閉めた人と同じとは思えない。


そんな彼女の軟化が、璃景をひどく安心させていた。


「さあ、扉を開けてくれないかい? 千海。私の腕の中の荷物たちが、早くこの家に落ち着きたいと騒いでいるようだ」


「荷物が騒ぐんですか」


「たぶんね」


「璃景さんまで、多分を気に入りましたね」


千海は笑いながら鍵を開けた。


二人は再び、千海の静かな部屋へと戻ってくる。


璃景は両手いっぱいの買い物袋をリビングの床へ、旅行バッグをソファの脇へと、静かに下ろしていった。


「ふぅ……。これでよし」


大きく一つ息を吐き、璃景は軽く肩を回す。


千海が買ってくれたこの洋服は、本当に優秀だった。


これだけ動いても熱がこもることもなく、実に快適だ。


「千海、荷物はすべて運んだよ。約束通り、高いところの物取りも、荷物持ちも完璧にこなしただろう?」


「かなり完璧でした」


「それはよかった」


「お疲れ様でした。助かりました」


璃景は、昨夜千海がリビングで使っていた毛布が、ソファの端に丁寧に畳まれているのを見つけた。


それから、千海を振り返る。


「明日からは、あの飛行機というもので空を駆けるのだね。……少しだけ胸が騒ぐが、君の仕事を間近で見られるのは本当に楽しみだ」


璃景はソファに腰掛け、下から彼女を見上げるようにして、柔らかく目を細めた。


「さて、荷造りを始める前に……君の言う明日の準備とやらを、私にも教えてくれないかい?」


「その旅行バッグに荷物を詰めましょう」


「今日買ってきたものかい?」


「そうです。服や下着などですね」


「わかった」


そう返事をしたものの、璃景は一歩も動かなかった。


ただ、旅行バッグと買い物袋を交互に見つめている。


その様子を見て、千海は小さく笑った。


「璃景さん。固まってるところを見ると、移動準備したことないですね?」


「すまない……」


「一緒にしましょう。必要になったら、その時にまた用意しましょう。今回は最低限持っていけば大丈夫です」


千海は手際よく、今日買ったばかりの璃景の服のタグを切り、旅行バッグに詰めていく。


その様子を眺めていた璃景が尋ねた。


「千海の荷物は?」


「今から寝室で用意してきます。……下着とかあるので、この部屋から出ないでください」


「あぁ」


「ひらがなの本でも見ていてください。後から少し教えますから。眺めているだけでも違いますので」


「分かった」


千海はそう言い残して、寝室へと入っていった。


数分後。


自分の分の旅行バッグを手に出てきた千海は、それを廊下に置くと、


「お茶、淹れますね」


と言って台所へ向かった。


「……あぁ、ありがとう。甘えさせてもらうよ」


千海が寝室に入ってからというもの、璃景は大人しくソファに座り、渡された「ひらがなの本」を膝の上で広げていた。


四角や丸、波打つような不思議な形の文字が、整然と並んでいる。


璃景の世界の文字とは違い、どこか簡素で、けれど妙に柔らかい印象を受ける文字だった。


ただ眺めているだけでも、この世界の仕組みに少しだけ触れられているような、不思議な高揚感がある。


――下着とかあるので、この部屋から出ないでください。


先ほどの千海の言葉を思い出し、璃景はふっと口元を緩めた。


いくら昨夜「一切手を出さない」と誓ったとはいえ、自分は行きずりの大男だ。


そんな男に対して、恥じらいを隠さず、それでいて毅然と境界線を引く。


彼女のそういう、自分の身を守るための確かさが、璃景にはとても好ましく、そして信頼できた。


台所から、カチャカチャと器の触れ合う音と、お湯の沸く心地よい音が響いてくる。


璃景は本を閉じ、ソファの背に体を預けて、台所で立ち働く千海の背中を見つめた。


「千海。この本、少しだけ眺めてみたが……なんだか、優しくて不思議な形をしているね。後で教えてくれるのを楽しみにしているよ」


彼女が淹れてくれる温かいお茶の香りが、リビングに広がり始める。


「私の荷物まで用意してもらったうえに、君には仕事の道具や取材の準備もあったのだろう。お疲れ様、千海」


「ありがとうございます」


千海は少し照れたように笑い、ハーブティーをテーブルに置く。


「日本には、“ひらがな”“カタカナ”“漢字”があります。まずは、ひらがなですかね」


お茶を用意しながら千海が言うと、璃景は目を丸くした。


「そんなにあるのかい!?」


「えぇ。かなりあります」


「先が長そうだね……」


「長いです。でも、読めると楽しいですよ」


「楽しい、か」


「はい。自分で読めるものが増えると、世界が広がります」


璃景に、千海はいたずらっぽく笑いかけた。


「旅行中も、サングラス必須ですかね……」


「やっぱり?」


「でも、勿体ないですねー。景色とか綺麗なのに、サングラス越しは……」


「大丈夫だよ。隙間から見るし、人がいない場所なら外してもよいのだろう?」


「そうですねー。多分大丈夫ですかねぇー」


「死人は出ていないよ」


「笑ってないからですよ。笑ったら、魂、持っていかれてましたよ」


「千海。言うけどね、他にも、君の言う“いけめん”はいるようだけど」


「はい。います。芸能人やモデルさん、そういったお仕事もありますよ」


「仕事……」


「その中でも、璃景さんは規格外なので」


「誰の基準かな?」


「私です」


「一般的に違うとかは?」


「今日の感じ的に、間違いないと思いますけど」


その言葉に、璃景は喉の奥でくくっと笑った。


「ははは。千海基準、か。……ならば、世の男たちに負けるわけにはいかないな」


「そこで張り合うんですか?」


「君がそこまで言い切ってくれるのだからね」


璃景はハーブティーを一口すすり、その温かさに息を吐いた。


彼女がこれほど自信満々に「規格外」だと言い切るのだ。


昨夜出会ったばかりの、それも異界から迷い込んだだけの男を、そこまで高く評価してくれる。


その事実が、彼の男としての矜持をどれほどくすぐるか、彼女は分かっているのだろうか。


「ひらがな、かたかな、かんじ……。文字が三種類もあるとは、この国の民はどれほど学ぶのが好きなのだ」


璃景は机に置いた本に目を落とし、それから、テーブルを挟んで座る千海をじっと見つめた。


「だが……『読めると楽しい』と、君がそう言うのなら、私も早くその楽しさを知りたいものだね。君の書く物語を、この国の文字で、読めるようになるのが、私の最初の目標になりそうだ」


千海は一瞬、言葉をなくした。


それから、少しだけ目を逸らす。


「……そういうこと、さらっと言うんですよね」


「何かおかしかったかな?」


「おかしくはないです。むしろ、いい台詞でした」


「めも、かい?」


「我慢しました」


「それは偉いね」


璃景は穏やかに笑った。


千海は咳払いをして、カップを両手で包む。


「それより、瀬戸内なんですが、結構な距離を移動するんです。こちらに来てすぐで、大丈夫ですか?」


璃景は静かに頷いた。


「せっかく君が連れて行ってくれる瀬戸内という美しい場所を、ぜひとも一緒に楽しませてもらってもいいかな?」


「そうですね。しっかりネタとしてメモしますので」


「頼むよ。作家殿」


「はい。サングラスも適度にお願いしますね」


千海はクスクスと笑いながら言う。


璃景はティーカップを置き、少しだけ身を乗り出す。


いたずらっぽく、けれどどこか真剣な眼差しを千海へ向けた。


「では、こうしよう、千海。人が多い場所では、君の言いつけ通りにこのサングラスをかけ、絶対に微笑まないよう心を律しよう」


「はい」


「だが、もし君と私だけの時間があるのなら、その時は、気兼ねなく、サングラスを外してもいいかい?」


外から差し込む夕暮れの光が、千海の髪をほんのりと朱色に染めている。


璃景は、その色を見つめながら、ゆっくりと言った。


「君の前でだけは、取り繕うことなく、この旅の美しさを全力で喜び、笑いたいのだよ」


千海は、ティーカップを持ったまま固まった。


「……それは」


「それは?」


「……かなり、良い台詞です」


「またそこかい?」


「作家なので」


璃景は困ったように笑った。


けれど、どこか嬉しそうでもあった。


「芸能人やモデルという仕事があることは分かった。だが、今の私の雇い主は、他の誰でもない、目の前にいる作家の千海、君だけだからね」


「雇い主……」


「違うかな?」


「いえ。ネタとしての滞在費をいただく予定なので、間違ってないかもしれません」


「ならば、雇い主殿。明日は早いのだろう?」


璃景はひらがなの本を軽く持ち上げる。


「この『ひらがな』の基本とやらを、少しだけ私に教授してくれないかい?」


「分かりました。少しだけですよ。明日、飛行機で倒れられても困りますから」


「倒れないよう努力するよ」


「努力でどうにかなるんですかね」


「たぶん」


「また雑になってますね」


二人は少しだけ笑い合った。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は、買い物から帰ってきたことで、二人の関係が少し近づいた回になったのかな……と思います。


荷造りをしたり、お茶を飲んだり、ひらがなについて話したり。

慌ただしい一日の中でも、少し穏やかな時間になりました。


二人がこれからどんな掛け合いをしていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。


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