異世界美男子、この世界の言葉と味に出会う
ゲームセンターを後にして、千海は両手に買い物袋を抱えた璃景を連れて本屋へ向かった。
「千海……なんだい、ここは」
「本屋です」
璃景は、入口に並ぶ本棚を前にして、足を止めた。
棚には、色とりどりの表紙が隙間なく並んでいる。
絵の描かれたもの。
文字がびっしりと並んだもの。
大きな本。小さな本。薄いもの。分厚いもの。
璃景はサングラスの奥で、静かに目を見開いた。
「君の生きている世界は、こんなにも言葉があふれているのかい?」
「そうですね。作家として言えば、あふれていて、自由です」
「自由……」
「はい。表現がとても自由にできます。言葉、絵、写真、いろんな方法で。そして、誰もが、いろんなことを本で学べます」
璃景は、本棚を見上げたまま、小さく息をのんだ。
「なんて素晴らしい世界なんだ」
「そうでしょ?」
千海はクスクス笑った。
璃景は何も言わず、ただ、たくさんの本を見つめていた。
言葉にならない感情が、静かに胸の中へ広がっているようだった。
千海はその横顔を見て、少しだけ声を柔らかくする。
「璃景さんも、この世界の言葉の仲間入りをしてくださいね」
「私が……?」
「はい。ご縁で、璃景さんはこの世界に来られて、しかも言葉を扱う私に出会ったんです。少しでもこの世界の言葉に触れてから帰ってほしいです」
そう言って、千海はにかっと笑った。
その笑顔は、ただの思いつきや冗談ではなかった。
璃景は、息をのむ。
千海のその笑顔が、あまりにもまっすぐで、あまりにも純粋だったからだ。
「……そうだね」
璃景は静かに頷いた。
「君がそう言うのなら、私はこの世界の言葉を学んでみたい」
「じゃあ、まずはひらがなからですね」
「ひらがな」
「はい。また新しい単語が増えましたね」
「この国は、本当に忙しい」
二人は子ども向けのひらがな教材と、簡単な文字練習帳を数冊選んだ。
それから本屋を出て、一度、買った荷物を車へ置きに戻ることにした。
「荷物を置いてから、食事しましょうか」
「あぁ。助かるよ」
車に荷物を置いたあと、二人は食事フロアへ向かった。
そこには、璃景がまだ見たことのない香りがいくつも漂っていた。
香ばしい醤油の香り。
鼻をくすぐる辛そうな匂い。
甘い果物の香り。
油で揚げたものの匂い。
焼けた肉の匂い。
璃景は、思わず目を泳がせた。
「何か気になるものあります? どうせなら、気になったものを食べましょう?」
「気になるもの……か」
璃景は、食事フロアに並ぶ店を見渡した。
「千海、あそこにある……あの、あの、白い湯気を上げている大きな器は何だい? 人々が箸で何かをすすっているようだが」
璃景が指さしたのは、ラーメンの店だった。
「それから、あちらの店に飾られている、色とりどりの……あれは、生魚を飯の上に乗せているのかい? 宝石のように光っていて、とても美しい」
璃景はサングラスの位置を少し直し、千海に向かって困ったように笑った。
けれど、その表情には少年のような好奇心が隠しきれずに浮かんでいる。
「どれも私の国にはないものばかりで、目移りしてしまうな。君の懐をあまり痛めさせたくはないが……もし許されるなら、千海が普段、この世界で『一番美味しい』と思っているものを教えてくれないかい?」
「私が一番美味しいと思っているもの、ですか?」
「あぁ。君と同じ味を知ることから、この異界を知りたい」
千海は少し考えた。
「そうですねー。ラーメンは明日食べる予定ですし、魚も食べるし……あ!」
千海はぱっと顔を上げた。
「中華料理のお店に入りましょう。似た食べ物があるかもしれません」
「ちゅうか、料理……?」
璃景は聞き慣れない言葉を繰り返しながらも、千海の後を追った。
その店に足を踏み入れた瞬間、璃景は足を止めた。
どこか懐かしい香りがした。
香ばしい油の匂い。
ネギや生姜の香り。
そして、ほのかに漂う山椒の刺激的な香り。
席に案内され、璃景はサングラスを外して周囲を見渡した。
運ばれていく料理の器。
湯気を立てる皿。
どこか見覚えのある色合いの醤。
そのすべてが、璃景の胸に、遠い場所の記憶を呼び起こす。
「あぁ……ここは、少しだけ私のいた世界――蒼嶺国の空気に似ているかもしれない。完全には同じではないが、この香りはとても落ち着くよ」
「よかったです」
千海はほっとしたように微笑み、メニューを差し出した。
璃景はそれを覗き込む。
文字は読めない。けれど、写真なら分かる。
「ほう、これは……麺を炒めたものか? 私の国でも、小麦の麺を具材と炒めた炒麺にそっくりだ」
「焼きそばですね」
「やきそば」
「また増えましたね」
璃景は少し笑い、今度は別の写真を指さした。
「それから、それから、この丸い籠に美しく並んだ白い点心は…。中は肉が入っているんだよね?」
「小籠包ですね。中に肉とスープが入っています」
「中に、すーぷが?」
「はい。熱いので気をつけるやつです」
「危険な点心なのだね」
「そうとも言えます」
千海が笑うと、璃景もつられて微笑んだ。
さらに璃景は、「炒飯」と「餃子」、そして赤く辛そうな「麻婆豆腐」を興味深そうに眺める。
「千海、君の言う通りだったね。まさかこの異界の地で、これほど故郷を思い出させる食に出会えるとは思わなかった。君の機転には、本当に驚かされるばかりだ」
璃景は、周りを気にすることを忘れていた。
嬉しさを隠せず、ふわりと柔らかく千海に微笑む。
案の定、近くを通りかかった店員の女性が、持っていた盆を落としそうになった。
千海は小声で言う。
「璃景さん、微笑み注意です」
「……すまない。忘れていたよ」
「死人が出る前に思い出してください」
「努力する」
「努力でどうにかなるんですかね」
璃景は少しだけ肩をすくめた。
「今日の昼餉は、君が選んでくれたこの『ちゅうか』にしよう。千海、君は何を頼むんだい? 私の知っている味と、この世界の『ちゅうか』がどう違うのか、早く確かめてみたくて堪らないよ」
「じゃあ、炒飯と餃子、小籠包、から揚げにしましょうか」
「からあげ」
「また増えましたね」
「増える速度が早いな」
「今日は特に多いですね」
千海は笑いながら注文を済ませた。
「味が似ているといいですね」
「あぁ、本当に。見た目だけでなく、味まで私の故郷に似ていたら、これ以上の喜びはないね」
二人は、料理が運ばれてくるのを待ちながら、テーブルの上の温かいお茶を口に含んだ。
今度は、ほんのりとジャスミンの香りがする。
璃景はカップを両手で包み、目を細めた。
「この香りも、悪くない」
「ジャスミン茶です」
「じゃすみん」
「はい」
「……覚えることが多い」
「頑張ってください」
やがて、湯気を立てながら料理が運ばれてきた。
黄金色に炒められた飯。
焼き目のついた餃子。
白く美しい小籠包。
香ばしく揚げられたから揚げ。
璃景は、目の前の料理を見て、静かに息をのんだ。
「これは……見事な職人の技だ。千海、見てごらん。この『しょうろんぽう』という点心、薄い皮の中にたっぷりと熱い汁が閉じ込められているのが、外からでも分かる」
璃景は箸を器用に使い、崩さないようにそっと小籠包をレンゲに乗せた。
千海が「熱いから気をつけてくださいね」と言うよりも先に、璃景は少しだけ皮を破って中の肉汁をすすった。
「っ……! おぉ……」
濃厚な肉の旨味と、生姜の香りが一気に口の中へ広がる。
璃景は目を見開いた。
「美味い……! 素晴らしいよ、千海。私の国の宮廷で出される最高級の包子にも引けを取らない。いや、この凝縮された汁の旨味は、むしろこちらの方が上かもしれないな」
続いて、黄金色の炒飯を口に運ぶ。
一粒一粒が油をまとい、ぱらりとほどける。
卵の甘み。
塩気。
香ばしさ。
璃景は、ただただ感嘆するばかりだった。
「味付けも絶妙だ。異界の地と聞いて初めは身構えていたが、こんなに美味しいものがあるのなら、私はしばらく帰れなくても困らないかもしれない……いや、それは君を困らせてしまうな」
璃景は自分の言葉に苦笑した。
けれど、千海に向かって、今度は隠すことも忘れて、嬉しそうに笑みを向ける。
「千海、君も早く食べてごらん。本当に美味しい」
「ふふ。いい反応です」
「……あぁ、君が私のこの『美味い』という驚きすらも、あの小さな板に『ネタ』として書き留めているのが見えるよ」
「バレました?」
「見れば分かるよ」
「作家なので」
「便利な言葉だね、それは」
璃景は笑った。
「どうだい? 作家殿。良い物語になりそうかい?」
「はい。かなり」
千海はスマホを伏せ、ようやく箸を取った。
「でも、璃景さんが美味しそうに食べてくれてよかったです」
「美味しいよ。ありがとう、千海」
そこで、千海はふと真面目な顔をした。
「帰る方法って、分かるんですか?」
「全然」
「ですよねー」
「あぁ」
二人の間に、ほんの少しだけ沈黙が落ちる。
けれど、目の前には温かい料理があり、璃景はそれを美味しいと言って笑っている。
それだけで、千海は少し安心した。
「美味しいと思えるなら、帰るのが伸びても少しは耐えられますかね?」
「不謹慎だがね」
「いいんじゃないですか?」
千海がクスクス笑う。
璃景もまた、困ったように、けれど少し救われたように笑った。
「そうだね。今は、君とこの昼餉に感謝しよう」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、少し二人の距離が近づいた回になりました。
“帰る方法”という大事な話のはずなのに、結局は笑い合ってしまう二人です。
二人がこれからどんな掛け合いをしていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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