漢服と、取材という名の手つなぎデート
「十時ですね。よし、チェックアウトしましょう!」
千海が弾んだ声で告げると、璃景は「あぁ」と力強く頷いた。
トランクや大きな荷物は、事前に手配した異界の便利な飛脚――宅配便によって、一足先に東京の本陣へと送られる。
手元に残ったのは、お揃いのデニムバッグだけだった。
あの愛らしいペンギンとグラスは璃景のデニムバッグに収められ、彼の手で大事に抱えられている。
フロントでスマートに手続きを終え、数々の極上の思い出をくれた宿に一礼して外に出ると、港町の爽やかな朝の風が二人の髪を優しく揺らした。
タイミングよく滑り込んできたタクシーのドアが自動で開く。
「中華街までお願いします」
千海が行き先を告げると、運転手は「はい、分かりました」と快く車を走らせた。
車窓を流れていくのは、朝の光にきらきらと輝く神戸のモダンな街並み。
璃景は膝の上にお揃いのデニムバッグを大切そうに置き、窓の外を見つめながら、これから始まる最終決戦に想いを馳せていた。
「千海、先ほど運転手殿に告げた『中華街』だが……そこは一体、どのような陣地なのだい? 食べ歩きと言うからには、兵糧が立ち並ぶ市場のような場所なのだろうか」
サングラスの奥の瞳を好奇心で輝かせながら、璃景が尋ねる。
「そうですよ! 異国の雰囲気があふれる大きな門があって、その中に美味しい豚まんや小籠包、甘いスイーツのお店がずらーっと並んでるんです。中華料理が璃景さんの母国の蒼嶺国に近いのでしたら、似てる部分があるといいですね」
「おぉ。我が国に近しい文化……楽しみだ」
「朝食を我慢してもらいましたので、とことん美味しい物を食べつくしましょう!」
タクシーは賑やかな神戸の市街地を抜け、やがて極彩色に彩られた大きな東洋の門――南京町の中華街へと、二人の旺盛な食欲を乗せて近づいていった。
タクシーから降り、門を見上げ璃景はあたりを見渡して驚いている。
「ほう……! 異国の門に、ずらりと並ぶ美味の数々。なるほど、それはまさに美味の兵糧庫、いや、我らを満たすために作られた最高の城塞だね」
璃景は、ペンギンを収めた肩掛けのデニムバッグを大事そうに抱え、バッグの紐をきゅっと握り直した。
「よし。我が作家殿の胃袋の進軍に遅れを取らぬよう、この近衛長、全力を尽くして歩みを進めよう」
璃景はサングラスを少し下げて、その圧倒的な極彩色の世界を見上げた。
行き交う人々の活気と、どこからか漂う香辛料の香ばしい香りが、彼の五感を心地よく刺激する。
「故郷の蒼嶺国に、少しでも似てますか?」
千海が覗き込むように尋ねると、璃景は懐かしむように目を細めた。
「色合いや雰囲気は似ているね。衣服の仕立てや建物の細部は少し違うが……この賑わいと活気、そして胸が躍るような空気感は、実によく似ているよ」
そんな二人の視界に、きらびやかな衣装が並ぶ一軒の店が飛び込んできた。
千海はぱっと目を輝かせる。
「璃景さん!! 漢服のレンタル! 着てみたいです」
「あぁ。私の国の装束にも近いね。千海が着た姿を見てみたい」
「こちらに来た時に着てましたもんね。でも、璃景さんの漢服姿見たいです」
故郷の装束に近いそれを千海が着たら、一体どれほど愛らしいだろう。
璃景は二つ返事で頷いた。
店に入ると、二人はお互いの衣装を選び合うことになった。
千海は璃景に高貴な色を、璃景は千海に最も似合う優しい色を選び、それぞれ着替えへと向かう。
しばらくして、一足先に着替えを終えた璃景が店の外で待っていると、奥から千海が現れた。
千海が身にまとっているのは、春の桜を思わせるような薄桃色に白の漢服。
ふんわりとした布地が、彼女の可憐さをこれ以上ないほど引き立てている。
対する璃景は、現役の近衛長としての威厳と色気が際立つ、紫色に白の格式高い佇まい。
千海は璃景の姿を見るなり、息を呑んでスマートフォンを構えた。
「璃景さん、やっぱり似合うというか……本物です」
そう言って、夢中で写真を撮り始める。
あまりの格の違いに、周囲の観光客も思わず振り返るほどだ。
璃景は照れくさそうに苦笑いしながらも、千海の姿をじっと見つめる。
そして、そのあまりの可愛さと、故郷の装束に近い衣を纏っている千海の可憐さに、自然と言葉がこぼれた。
「千海、すごく綺麗だよ」
その瞬間、周囲の男たちの視線が千海の薄桃色の衣装に集まるのを、武人の本能が見逃さなかった。
璃景はすっと表情を引き締めると、「千海」と囁きながら、周りの男たちの視線を遮るように、いつもよりぐっと距離を詰めて寄り添った。
けれど、千海はそんな彼の独占欲には気づかない。
ただ、目の前の格好いい璃景しか見えていない。
「最高です! こっちの角度からも一枚撮らせてください! あ、この門でも撮らなくちゃ」
嬉しそうに色々な角度から撮る千海。
見かねた店の人が「お二人で撮りましょうか?」と声をかけてくれ、二人が並んだ姿を何枚か写真に収めてもらった。
薄桃色と紫色の衣装が並ぶ姿は、まるで一枚の美しい絵画のようだった。
そうして二人は、賑やかな街へと散策を始めた。
だが、一歩進むごとに人の波が押し寄せてくる。
「千海、人が多いから手を繋がないかい?」
璃景がそっと大きな手を差し出す。
「そうですね。多いですもんね」
千海は自然にその手を握り返した。
しっかりとかみ合うお互いの体温に、衣装の袖がふわりと重なる。
色々な店を巡り、湯気と香りに包まれる中、千海がふと足を止め、真剣な目で璃景を見上げた。
「璃景さん、倉敷で学んだんですけど、最初から半分個ってダメですかぁ?」
あの倉敷の美食たちにお腹がいっぱいになって、ぶっかけうどんを璃景に助けてもらった経験を、彼女は見事に活かしていた。
首を少し傾げておねだりするように言う我が作家殿に、璃景はたまらず声を立てて笑った。
「ふふ、ふふ。いいよ。千海も学習したんだね」
「はい! 学習しました。嬉しいです」
最高の笑顔を返す千海。
ここからは、二人の完璧な半分個の強行軍が始まった。
まずは、熱々の汁があふれる小籠包と、ふっくらジューシーな豚まん。
さらに底がカリッと香ばしい焼小籠包を、はふはふと分け合う。
肉の旨みがたまらない角煮バーガーを二人で頬張ったあとは、別腹のスイーツへ。
「可愛い!」と千海が声を上げたパンダシュークリームを半分に割り、最後は爽やかな苺ソフト杏仁プリンを交互に口に運んだ。
「美味いな……どれもこれも、我が国の宮廷料理に負けず劣らずの絶品だ。しかも、こうして千海と分け合って食べると、美味さが何倍にもなる」
「ふふ、作戦大成功です! 最初から半分個なら、こんなにたくさんの種類が食べられますもんね!」
「ふかひれスープと北京ダックも食べに行きましょう」
と、まだまだ食べる千海。
璃景は食いしん坊作家殿を優しく、そして他の男たちから守るように、千海の隣でしっかりと手を繋いで歩いた。
故郷に似た極彩色の街の中で、二人は最高の食べ歩きを堪能しながら、旅の最後の一ページを、これ以上ないほど美味しく、そして甘く紡いでいった。
そろそろ帰路の時間が近づき、衣装を返すために店へ戻ると、雰囲気のある撮影スペースがちょうど空いていた。
それは、まさにこの最高の遠征を締めくくるにふさわしい、見事な勝機だった。
朱色の柱に細やかな意匠の格子戸、そして温かみのあるランタンの光。
故郷の蒼嶺国を彷彿とさせるその特別な空間で、まずは千海が端末を構えた。
「璃景さん、そのままそこに立っててください!」
ぱしゃ、ぱしゃと、千海の指が軽快に画面をタップしていく。
漢服をまとった璃景は、ただそこに佇んでいるだけで、歴史物語の挿絵からそのまま抜け出してきたかのような圧倒的な美しさを放っていた。
どの角度から切り取っても完璧な姿に、千海はほくほく顔だ。
すると、一通り撮り終えた璃景が、少し気恥ずかしそうに手を差し出してきた。
「千海、今度は私が君を撮るよ。お願いしてもいいかい?」
「えっ、私ですか? ぜひお願いします!」
今度は千海が格子戸の前に立ち、薄桃色の袖を上品に整えて微笑む。
璃景は落とさないように慎重に端末を構え、画面に映る我が作家殿の可憐な姿に、心底愛おしそうな眼差しを向けながら、静かにシャッターを切った。
その微笑ましいやり取りをずっと見守っていた店員が、たまらずといった様子で、実に温かい笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「本当にお似合いの素敵なお二人ですね。良かったら、そこにお二人で並んでください! 何枚でも撮ってあげますよ」
「あ、ありがとうございます!」
二人は引き合わされるようにして、ランタンの光の下で隣り合った。
璃景がすっと千海の肩に手を添え、千海はその大きな体温を感じながら満面の笑みを浮かべる。
かしゃかしゃと小気味よい音が響き、旅の最高の思い出が、またひとつ鮮やかに記録された。
「どうせなら、向かい合った写真も撮りましょう」
と、店員さんのアドバイスのもと向かい合った写真や笑いあう写真も撮ってもらった。
大満足で漢服を返却し、お揃いのデニムバッグを再び身にまとって店の外へ出る。
すると、璃景はいつものように懐から黒いサングラスを取り出し、慣れた手つきで顔にかけ直した。
「あれ? サングラスつけるんですか?」
千海が不思議そうに首を傾げると、璃景はサングラスの奥の目を少し泳がせ、耳の端をほんのり赤くしながら、ぼそりと白状した。
「……さっきは、店の人が『絶対に外したほうが、お嬢さんが喜びますよ』と、強く進言してきたからね。作家殿の喜びを最優先せよと言われては、外さざるを得なかったのだよ」
店員の粋な計らいと、それを大真面目に守っていた護衛官の可愛すぎる理由に、千海は胸の奥がきゅんと弾むのを止められなかった。
「ふふふ、そうだったんですね! はい。ない方が、本物で、すっごく素敵でした。……あ、これは!」
千海ははっとしたように愛用の端末を取り出すと、目の色を変えて素早く指を動かし始めた。
「これは、異世界美男子、故郷に近い服を異世界で着る……って、メモ、メモ!」
「ち、千海? メモを忘れていたのかい?」
璃景は降参したように苦笑いしながらも、その表情はどこまでも優しかった。
サングラス越しでも分かるほどに愛おしげな視線を千海に注ぎながら、彼は再び、賑やかな中華街の雑踏の中で、千海の小さな手をそっと包み込むように握りしめた。
「さあ、メモも済んだことだし、東京の本陣へ帰る前にもう少しこの街を歩こう」
璃景は、どこか照れたように笑う。
「私のサングラスの奥の視線は、いつだって君だけを捉えているからね」
「異世界美男子、甘い言葉が上手い。メモメモ」
璃景の甘い言葉をからかいながら、千海は彼と手を繋ぎ、門の近くへと歩いていく。
極彩色の中華街に満ちる香りと賑わいを名残惜しむように、二人は最後の食べ歩きの余韻を胸いっぱいに抱えながら、東京の本陣へ帰るための駅へと向かうのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、取材旅行の最後の目的地、中華街のお話でした。
璃景の少しの嫉妬と、千海の作家脳が発揮された回になりました。
甘い雰囲気はあるのに、なぜか進んでいるようには見えない二人の関係を楽しんでいただけましたら嬉しいです。
でも、帰りはお互いに自然と手を繋いでいたので、やはり少しずつ進んでいるのかもしれませんね。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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