初手を誤る護衛官と、お揃いの証
千海が部屋を出て、湯殿へと向かったあと。
部屋には、波の音を遠くに感じさせる静寂が戻ってきた。
食事の膳を下げてもらい、すっかり片付いたテーブルの上に、璃景は先ほどのお土産の袋から、あの「ぺんぎんのぬいぐるみ」をそっと取り出した。
「……ふっ」
柔らかな手触り。
愛嬌のある丸い目。
そして、あのペタペタとした不器用な動きをする足。
璃景は、そのぬいぐるみを手の上に乗せると、慈しむように何度も指先で撫でた。
「あの時は、まさかお前のような可愛らしい伏兵に、この私がこれほど骨抜きにされるとは思わなかったよ」
誰に聞かれるでもない独り言に、温かな響きが混じる。
戦場での緊張に満ちた日々や、異界へ飛ばされた直後の戸惑い。
それら全てが、この数日間の旅で少しずつ溶けていくような感覚があった。
特に今日、このぬいぐるみ、そして、お揃いのグラスと共に手に入れた瞬間、彼の中で何かが確かに変わった。
「千海は、『うさぎ』と並べたら可愛いと言ってくれたな」
璃景は、東京の本陣――千海の部屋で待つであろう、うさぎのぬいぐるみに想いを馳せる。
異界の旅の証が、また一つ増えた。
彼はぬいぐるみの頭を優しく撫でたまま、千海のデニムのお揃いのバッグへと自然と視線を向けた。
千海が戻ってきたら、どんな顔をしてこのペンギンと対面するだろうか。
それとも、また何か美味しい計画を立てて、明日の中華街の話をしてくれるだろうか。
彼にとって、今のこの静かな時間は、戦いの合間の休息というよりは、守るべき大切な日々そのものだった。
璃景は、ペンギンをまるで大切な相棒のように傍らに置き、窓の外に広がる神戸の夜景を、穏やかな眼差しで見守り続けた。
「明日は十時にチェックアウトするので、朝に露天風呂へ入ってから帰りましょうね」
戻ってきた千海が、ふわりと柔らかく笑いながら、明日の朝の完璧な進軍計画を告げる。
「なるほど、最後の朝にふさわしい見事な陣立てだ。朝の光を浴びながらの湯殿というのも、また格別だろうね」
璃景は優しく目を細め、心からの同意を込めて頷いた。
この濃密で楽しい取材旅行も、いよいよ明日が最終日。
名残惜しさは尽きないが、我が作家殿の完璧な采配のおかげで、明日の「中華街」という最後の戦場へ向かう気力は、すでに最高潮に達していた。
「さあ、明日の朝湯と食べ歩きに備えて、今夜は互いに英気を養うとしよう」
部屋の明かりを落とすと、大きな窓の向こうに広がる神戸の夜景が、より一層きらびやかに浮かび上がった。
静かな波の音と、港を包む温かい光の粒。
旅の疲れと、これ以上ないほどの満腹感。
そして何より、お互いがすぐ傍にいるという絶対的な安心感に包まれて、二人はゆっくりと目を閉じた。
東京の本陣へ繋がる最後の朝が来るまで、二人の夢路は、どこまでも穏やかで深い青色の海のように、優しく、優しく更けていくのだった。
カーテンの隙間から差し込む神戸の柔らかな朝の光で、千海はぱちっと目を覚ました。
ベッドの横に視線をやると、いつもは早く起きるはずの璃景が、まだ珍しく静かに寝息を立てている。
毎日、新幹線に飛行機に水族館にと、千海の弾丸取材ツアーの緊張で、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのかもしれない。
「ふふ、驚きすぎて忙しかった、ですもんね」
千海はそっとベッドを抜け出すと、起こさないように足音を忍ばせて、朝の露天風呂の準備を始めた。
昨夜手に入れたばかりのお揃いのペンギングラスの包みやぬいぐるみが、テーブルの上でちょこんと佇んでいるのを見て、思わず口元が緩む。
髪をさっとまとめ、バスタオルを手に取った千海は、そのまま客室のテラスにある半露天風呂へと向かった。
朝陽を浴びて温泉の湯がきらめき、ふわりと湯の香りが広がる。
湯船にゆっくりと身体を沈めると、じんわりと旅の疲れが解けていくようだった。
目の前に広がるのは、夕べのきらびやかな夜景から一転して、爽やかな青空と、輝く朝日に照らされた神戸の港。
行き交う船が朝の光を浴びて、きらきらと輝いている。
「あぁー、最高……」
千海は湯船の縁に腕をのせ、贅沢な朝の景色を独り占めしながら、極上の湯を堪能した。
(これでスッキリ目を覚ましたら、次は璃景さんの番ですね。しっかり温まってもらって、それから十時にチェックアウトして、いよいよ最後の中華街食べ歩きだ……!)
頭の中で今日一日の完璧なグルメ作戦を組み立てながら、千海は朝の光に満ちた神戸の海を、のんびりと見つめ続けた。
千海が足音を忍ばせてテラスへ向かったその瞬間、実は璃景の意識はとっくに覚醒していた。
いつもなら誰よりも早く気配を察知して起き上がるはずの近衛長が、なぜまだベッドの中にいたのか。
理由は単純だった。
(また、タイミングを逃してしまった……)
昨夜の「お揃い」という言葉と、テーブルに並ぶ旅の証が、どうにも彼の心を落ち着かなくさせていたのだ。
目覚めた瞬間、隣に千海の気配を感じてどう声をかけてよいか一瞬、なぜか躊躇ってしまい、そうこうしているうちに千海が起き上がってしまったのである。
武人としてあるまじき不覚。
完全に初手を誤った。
そんな彼の焦りを知ってか知らずか、テラスの向こうからは、ざざーっと静かに湯船にお湯が揺れる音が聞こえてきた。
「――っ」
璃景は掛け布団を頭の近くまで引き上げ、端正な顔を赤く染めながら、心の中で必死に精神統一を試みた。
戦場での戦術を練る時ですら、これほど必死に雑念を払おうとしたことはない。
お揃いのバッグ。
お揃いのグラス。
そして隣のテーブルで丸っこく佇んでいるペンギンのぬいぐるみ。
それら全てが、彼の防衛陣形を内側からじわじわと崩していく。
テラスから聞こえる心地よい水音を耳にしながら、璃景は深く、深く呼吸を繰り返し、高鳴る鼓動をなんとか鎮めようとした。
(千海が上がってくるまでに、毅然とした護衛官としての佇まいを取り戻さねば……。そして、今度こそ、朝の挨拶を爽やかに交わすのだ)
異界の極上の湯殿がもたらす水音という名の試練に、近衛長は朝一番から全力で立ち向かうのだった。
今日も千海の取材の役に立てるように、護衛官として務めようと、計画を脳内で忙しく立てる璃景。
テラスの扉が静かに開き、すっきりとした表情の千海が部屋へと戻ってきた。
その気配を察知した瞬間、璃景は「今だ」とばかりに、あたかも今まさに自然に目が覚めました、という完璧な偽装工作を施しながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「……おや、千海。おはよう。早くから起きていたのだね」
我ながら見事な演技だと内心で胸を張りつつ、瞳をぱちくりとさせて、わざとらしく小さくあくびを噛み殺してみせる。
朝一番の雑念との死闘で、すでに精神的には一戦交えた後のような疲労感があったが、そこは百戦錬磨の近衛長。
顔には微塵も出さない。
「あ、璃景さん、おはようございます! 朝のお風呂、すっごく気持ちよかったですよー」
千海がタオルで髪を押さえながら無邪気に笑う。
その眩しすぎる朝の笑顔に、璃景の胸は再び小さく跳ねたが、顔には出さずに返事をする。
「それは何よりだ。我が作家殿が朝から万全の調子であるなら、今日の最終決戦も大勝利間違いなしだね」
璃景はベッドから脚を下ろすと、ふぅと息を吐き、隣のテーブルの上で朝日に照らされている、ペンギンのぬいぐるみに視線をやった。
それらを見るだけで、昨夜の甘酸っぱい鼓動が蘇りそうになるのを、ぐっと堪えて爽やかに微笑む。
「では、私も千海の采配に従って、チェックアウトの前にあの朝の湯殿とやらを堪能してくるとしよう」
璃景は、ようやくいつもの調子を取り戻したように穏やかに続けた。
「身を清め、英気を養い、万全の態勢で『中華街』への進軍に備えさせてもらうよ」
「はい! 行ってらっしゃい。上がったらすぐ出発できるように準備しておきますね!」
千海の弾むような声に見送られながら、璃景はバスタオルを手に取り、今度こそ堂々とテラスの露天風呂へと向かった。
朝の爽やかな風が、少し火照った彼の頬を優しく撫でていった。
「よし、まずは大きいものから……」
千海はベッドの上にトランクを広げ、テキパキと荷物の整理を始めた。
宮島で買ったお土産、倉敷の思い出、そして璃景のデニムを綺麗に収めていく。
軍師の戦術のごとく、トランクの限られた空間が綺麗に埋まっていくのは、なかなかに快感だ。
しかし、テーブルの上のそれに手が伸びた瞬間、彼女の動きがぴたりと止まった。
朝日に照らされてちょこんと佇む、丸っこいペンギンのぬいぐるみ。
そして、うさぎとペンギンのペアグラスの包み。
「ふ、ふふふ。これは……璃景さんに確認してからかな」
千海はぬいぐるみのつぶらな瞳を見つめながら、思わず楽しそうに笑ってしまった。
だって、あの強くて格好いい近衛長が、昨日の夜「買ってくれないかい?」と少年のように耳を赤くして、大切そうに抱えていたペンギンなのだ。
グラスだって、自分の口から出た「お揃い」という言葉に、あんなに分かりやすく動揺していたのだから。
(これは私が勝手にトランクの奥底にしまい込んじゃうより、璃景さん自身にどう持つか決めてもらった方が面白いかも……。また大事そうに腕に抱えて歩くのかな?)
想像するだけで可愛らしくて、千海の胸の奥もなんだかくすぐったいような、温かい気持ちになる。
「よし、これは後回し!」
千海はペンギンたちを優しく見守るようにテーブルに残し、代わりに自分の着替えや洗面用具など、違うものをトランクの隙間にテキパキと詰め込んでいった。
テラスの方からは、ざざっという心地よい水音と共に、璃景が朝の湯を堪能している気配が伝わってくる。
「ふふ、上がってきたらなんて言おうかな」
チェックアウトの十時までは、あと少し。
千海はるんるんとして、最後の中華街への進軍準備を進めるのだった。
テラスの扉が静かに開き、朝の湯でさっぱりとした璃景が室内に戻ってきた。
長い髪からほんのりと湯気が立ち上り、サングラスを外したその表情は、どこか清々しく、かつ武人らしい凛とした美しさを取り戻している。
千海はトランクを閉める手を一度止め、満面の笑みで彼を迎えた。
「おかえりなさい。璃景さん、荷物を家まで送ろうと思うんです。グラスとぬいぐるみ、送ります? ……それとも、小さめバッグあるので、持って帰りますか?」
千海がいたずらっぽく微笑みながら、テーブルの上に残されたペンギンたちを指差す。
トランクに詰めてしまえば楽だが、あえて「手荷物として一緒に連れて歩くか」を委ねる、作家殿のちょっとしたからかい混じりの提案だった。
すると璃景は、一瞬だけ視線を泳がせた。
それから意を決したように、傍らにあった自分のデニムバッグの紐をぎゅっと握りしめる。
少しだけ耳の端を赤くしながら、けれど、真っ直ぐに千海を見つめた。
「いいなら、私が持つよ」
「ふふふ、やっぱり!」
千海の予想通りの答えに、思わず声が弾む。
「あぁ。送ってしまっては、東京の本陣に着くまで、この素晴らしい戦利品をこの手で守ることができなくなってしまうからね。それに……」
璃景はそっと、うさぎとペンギンのグラスが並んだ包みと、丸っこいぬいぐるみを愛おしそうに見つめた。
「これは、千海が私に買ってくれた、大切な『お揃い』の証だ。この旅の終わりを迎えるその瞬間まで、私の手元から離したくはないんだよ」
大真面目に、そして熱く告げられた言葉に、今度は千海の心臓が不意に跳ねた。
からかうつもりが、彼のあまりにも純粋で真っ直ぐな信頼に、逆に気恥ずかしさを覚えてしまう。
「……そ、そうですか! じゃあ、お願いしますね。璃景さん、しっかり警護をお願いしますよ?」
「あぁ、万全の態勢で死守しよう」
千海が照れ隠しに言うと、璃景はグラスの包みとペンギンを丁寧にお揃いのデニムバッグへ収め、まるで最高位の勲章でも授かったかのように、誇らしげに肩にかけた。
時計の針は、まもなく十時を指そうとしている。
お揃いのデニムバッグに、新しく加わったペンギンとグラスを大切に収めて。
両手にたくさんの思い出とお揃いを携え、二人は極上の宿に別れを告げた。
そして、いよいよ最終決戦の地、きらびやかな中華街の食べ歩きへと、颯爽と進軍を開始するのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、神戸で迎える最後の朝のお話でした。
昨夜お迎えしたぺんぎんのぬいぐるみと、お揃いのグラス。
璃景にとっては、どちらも大切な旅の戦利品であり、千海との「お揃い」の証になったようです。
朝の半露天風呂で旅の疲れを癒やしつつ、いよいよ取材旅行も最終日へ。
朝からタイミングを誤る璃景と、まったく気づくことのない千海。
そんな二人らしい距離感も楽しんでいただけましたら嬉しいです。
最後の目的地は中華街です。
食いしん坊作家・千海と、その進軍に付き従う護衛官の最後の食べ歩きも、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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