お揃いグラスと、身近な距離感
観覧車の出口を出て、夕闇に光る街並みを眺めながら歩いていると、ふとショップのショーウィンドウが二人の足を止めさせた。
「璃景さん、あのぺんぎんグラス可愛くないですか? ……あ、同じデザインでうさぎもある! ねえねえ、お揃いで買いませんか?」
千海が目を輝かせて指さした先には、涼しげで愛らしいグラスが並んでいた。
その「ぺんぎん」という単語と、何より「お揃い」という言葉の響きに、璃景の胸の奥がどきんと大きく跳ねた。
それは戦場で矢を受けた時よりも、あるいは予期せぬ伏兵に出くわした時よりも、はるかに強く、彼の戦士としての防衛線をいとも簡単に突破してしまった。
「……お揃い……」
璃景は、さきほど手に入れたばかりのペンギンのぬいぐるみを抱えた手に、無意識のうちに少し力を込めた。
「嫌ですか?」
千海の少し不安げな問いかけに、璃景はできるだけ、努めて冷静さを装いながら答えた。
「……いや、嫌なわけがない。君が良ければ、私は欲しい……。心から、欲しいと思っているよ」
「本当ですか! じゃあ、中に入ってみましょう!」
千海の弾むような足取りに連れられて店内に入ると、棚に並ぶグラスたちは、夕日に照らされていた時よりもさらにきらきらと輝いて見えた。
千海はさっそく、うさぎのグラスを手に取り、嬉しそうに璃景に見せる。
「やっぱり可愛いですね」
璃景は店内の明かりに照らされた千海の横顔を、言葉を失って見つめていた。
手に持ったうさぎのグラスも、ペンギンのグラスも確かに愛らしい。
だが、それ以上に――。
「……あぁ。可愛い」
璃景は、自分がグラスではなく、隣で無邪気に笑う千海を見つめていたことに気づき、真っ赤になって視線をそらした。
けれど、そんな彼の動揺にも気づかず、千海は「璃景さんはやっぱりぺんぎんが似合いますね!」と満面の笑みでグラスを二つ、レジへと運んでいく。
その背中を見送りながら、璃景はペンギンのぬいぐるみを抱えたまま、胸の中で高鳴る鼓動を静めるのに必死だった。
お揃いのデニムバッグに、お揃いのグラス。
一つずつ増えていく「二人の証」が、明日には東京へ帰るこの旅を、一生忘れられない物語へと変えていくような気がしていた。
「お待たせしました。タクシーに乗りましょう」
大切な二人の証が増えた袋を嬉しそうに抱えて、千海がレジから戻ってきた。
璃景は高鳴る鼓動を隠すように、荷物を受け取る。
二人は夜の帳が下りた神戸の街から、再びタクシーへと乗り込んだ。
ホテルへと戻ると、ようやく一日を戦い抜いた安堵感が、部屋を優しく包み込んだ。
璃景は、千海に勧められるままに窓の外の半露天風呂へと身体を沈める。
神戸の夜景を遠くに眺めながら、温かい湯に肩まで浸かった。
下関、宮島、倉敷。
そして、今日の水族館と観覧車。
どれほど遠い距離を、どれほど濃密に駆け抜けてきたことだろう。
湯気の中に浮かぶのは、どの景色にも必ず隣にいた我が作家殿の、眩しいほどの笑顔ばかりだった。
その間に、千海も部屋の内風呂で一日の汗と疲れをさっぱりと流し、手際よくドライヤーをかけて身支度を整えた。
千海がパウダールームから出ると、そこには湯上がりで少し上気した顔のまま、大きなタオルで無造作に長い髪を拭いている璃景がいた。
「璃景さん、ドライヤーしますよ」
千海はそう言って、いつものようにトントンと椅子を叩いて手招きした。
「あぁ……すまないね。いつも、ありがたく甘えさせてもらうよ」
璃景は少し照れくさそうに微笑みながら、千海の前に素直に腰を下ろした。
どさりと大きな身体が椅子に収まり、千海がスイッチを入れると、ぶぉーっという低い音と共に、温かい風が璃景の長い髪を揺らし始める。
千海の小さな指先が、彼の髪の間を優しく、丁寧にすり抜けていく。
戦場では決して他人に許すことのない、己の無防備な頭部を、璃景は百パーセントの信頼をもって彼女に預けていた。
(お揃いのバッグに、ぬいぐるみ……そして、あのグラス……)
温風に包まれながら、璃景は店での「お揃い」という言葉の響きを思い出して、また胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
ただ見つめているだけで「可愛い」と声が漏れてしまうほどに、自分はこの小さな作家殿に心を奪われていることに気がついた。
「はい、おしまい! 綺麗に乾きましたよ」
千海がドライヤーを止めると、まるで狙い澄ましたかのような完璧なタイミングで、部屋のチャイムが鳴った。
「失礼いたします。お食事をお持ちいたしました」
運ばれてきたのは、港町・神戸の洗練された食材をふんだんに使った、目にも鮮やかな料理の数々だ。
温かい湯気と、お腹を優しく刺激する極上の香りが、一気に部屋に広がる。
「わぁ……美味しそう! 璃景さん、お腹いっぱいにしましょうね!」
「あぁ、実に見事な兵糧だ。完璧な采配の締めくくりに、心して挑ませてもらうね」
髪をさらさらになびかせた璃景は、優しい瞳で千海を見つめる。
二人は今夜の贅沢な食事へと、嬉しそうに箸を伸ばした。
運ばれてきた膳には、瀬戸内の豊かな海が育んだ見事な海鮮料理がずらりと並んでいた。
薄く美しく引かれた鯛のお造りは、一切れ箸に取るだけで、部屋の明かりを透かすほどに瑞々しい。
他にも、香ばしく焼き上げられた大ぶりのサザエや、出汁の香りがふんわりと漂う炊き込みご飯など、まさに海の恵みを凝縮したような贅沢な品々だった。
「お刺身がきらきらしてますよ! 璃景さん、どれから食べましょう」
千海が嬉しそうに箸を進めるのを見て、璃景もまた、その見事な包丁さばきに感心しながら一切れを口に運んだ。
「――っ。これは……身が引き締まっていて、噛むほどに上品な甘みが広がるね。宮島で食べた牡蠣の濃厚さとはまた違う、実に洗練された味わいだ」
「そうなんです! 神戸は海が目の前なので、お魚もすごく新鮮なんですよ」
千海が「美味しいですねー」と頬を緩ませる姿に、璃景の目元も自然と和んでいく。
彼の切れ長の瞳は、いまや異界の美味への驚きと、目の前の愛らしい作家殿への信頼でいっぱいに満たされていた。
「それにしても、このサザエという器――殻に入った焼き物も面白い。磯の香りが凝縮されたうま味が食欲をそそるね」
璃景は、しみじみと感心したように頷く。
「香りも味も美味しいと、ついつい食べ過ぎるんですよね」
「確かに、食べ過ぎるのは分かるね」
「璃景さんは食べ過ぎるとかあるんですか?」
「そうだね。この地に来てからは食べ過ぎている気がするね」
「あはは。それは仕方ないですね」
「食いしん坊作家殿が美味しいを紹介してくれるからね」
「これからも、沢山紹介していきますよ」
「魚料理は好きですか?」
「どの料理も美味しくて好きだけど、我が国では、海沿いの領地から運ばせるにしても、これほどの鮮度を保ったまま王都へ届けるのは至難の業だからね。千海と共に、こうして旅の終着地で海の恵みを堪能できるのは、本当に最高の贅沢だよ」
「ふふ、今夜は海の幸で、明日は中華料理をお腹いっぱい堪能しつくします」
完璧な計画を誇る千海に、璃景は深く頷いた。
「なるほど。これほど見事な海鮮の食事の後に、明日はさらなる美味――中華料理へ突撃するわけだね。我が作家殿の胃袋の兵站管理には、つくづく感服せざるを得ないよ」
二人はお互いに「美味しいね」と何度も笑い合いながら、一皿一皿を大切に、大満足で平らげていった。
窓の外には、静かに波打つ神戸の夜の海と、きらめく街の灯りが広がっている。
お揃いのバッグやグラス、そしてペンギンのぬいぐるみに囲まれた部屋で、二人の美味しく温かい夜は、ゆっくりと更けていった。
「取材は満足できたかい?」
膳の料理を綺麗に平らげ、心地よい満腹感に包まれる中で、璃景は優しく、どこか労うような声で問いかけた。
彼の真っ直ぐな瞳が、千海をじっと見つめて尋ねた。
「はい。予定してた場所には全て行けました。後は明日の中華街ですね。これは実益と趣味を兼ねて堪能します」
千海が満足感いっぱいに、そして明日への闘志――食欲を燃やしながら答えると、璃景は頼もしそうに口元を綻ばせた。
「たべあるき……歩きながら美味を食す、というわけだね。それはまた、倉敷の時といい、実にお転婆で、しかし一刻も無駄にしない見事な強行軍の作戦だ」
「はい。無駄なく堪能してます」
千海は元気よく返事をする。
「北九州から始まったこの遠征も、いよいよ明日が最終決戦か。千海が紡ぐこれからの物語のために、明日はその『ちゅうかがい』とやらを、縦横無尽に駆け巡ろうじゃないか」
璃景は、穏やかに、けれど力強く微笑んだ。
「どんな美味が相手でも、私は君の護衛官として、最後までその胃袋の進軍に付き従うよ」
「期待しています、璃景さん」
お揃いのデニムバッグを傍らに、東京の本陣へ帰る前、最後の夜。
窓の外に広がる神戸の美しい夜景を眺めながら、二人は明日の食べ歩きルート――作戦に思いを馳せ、どこまでも温かく、幸せな時間を分かち合うのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、観覧車の後にお揃いのグラスを選び、神戸の夜を過ごす二人のお話でした。
お揃いのデニムバッグに、ぺんぎんのぬいぐるみ。
そして、今度はお揃いのグラスまで増えました。
千海にとっては可愛い旅の思い出でも、璃景にとっては一つひとつが大切な「二人の証」になっているようです。
神戸の夜景を眺めながらの半露天風呂と、海の幸いっぱいの食事。
そして、明日はいよいよ中華街での食べ歩きです。
璃景の中で少しずつ芽生えていく気づきと、変わらず自然に距離を縮めていく千海。
二人の距離感も楽しんでいただけましたら嬉しいです。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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