ぺんぎんの戦利品と、生贄ではない観覧車
「さぁ、ぺんぎんを見に行きましょう」
「やっとだね」
「はい! 心奪われますよ」
下関の水族館の話を聞いてから、璃景はずっと「ぺんぎん」という響きが気になっていた。
我が作家殿がそこまで激推しする異界の海の生き物とは、一体どれほどの手練れなのか。
千海に連れられて屋外のエリアへと出ると、独特な高い鳴き声と共に、岩場に集まる小さな影が見えてきた。
「千海、なんか、ペタペタと動いてるよ」
「動きが可愛いですよね」
「あぁ。なんだい、あの可愛い生き物は」
「ぺんぎんです」
「ぺんぎん……」
璃景はサングラスをつけることも忘れて水族館を楽しんでいる。
そして今、その不思議な生き物の挙動をサングラスの無い瞳でじっと凝視した。
黒と白の、まるで正装を纏ったかのような丸っこい身体。
それが、短い足を交互に動かしながら、ペタペタ、ペタペタと、お尻を左右に振って不器用に歩いている。
段差を飛び降りる時には、小さな翼をぱたぱたとさせてバランスを取る始末だ。
近衛長としてあらゆる猛獣や精鋭を見てきた彼だったが、これほど戦う意思を微塵も感じさせない、ただただ無防備で愛くるしい歩法は見たことがなかった。
端正な顔がみるみるうちに綻び、完全に心を奪われている。
「どうですか? オルカとも、イルカとも違うなんとも言えない可愛さがありますよね」
「この歩きで、この生き物たちは生きていけるのかい?」
「でも、泳ぎは速いんですよ」
千海が楽しそうに予言した、まさにその瞬間だった。
一羽のペンギンが、岩場の端から水面へと飛び込んだ。
すると、先ほどまでのペタペタとした鈍重な動きが嘘のように、水に入った瞬間、まるで解き放たれた矢のような速度で、縦横無尽に水中を弾丸のごとく駆け抜けたのだ。
「――っ!? なんという速さだ……!」
璃景は思わず驚嘆の声を上げ、水槽のガラスに一歩歩み寄った。
「陸の上ではあれほど不器用な足取りでありながら、ひとたび水を得れば、まるで疾風のごとき隠密の動き……。これはまさに『能ある鷹は爪を隠す』、いや、水を制する真の伏兵だね! 実に見事な緩急だ」
「ふふ、そうでしょう? 陸と水中のギャップがまた最高なんです」
水の中をびゅーんと飛び交うペンギンたちを指差しながら、千海が我が事のように誇らしげに胸を張る。
「カッコいい」も「可愛い」も、圧倒的な速さも、すべてを併せ持つ究極の生き物。
璃景はすっかりペンギンの虜になり、お揃いのデニムバッグの紐を握りしめながら、その水中の大演武からしばらく目を離すことができなかった。
水族館の興奮をそのままに、二人は色鮮やかなお土産コーナーへと足を踏み入れた。
棚には海の王者たちの様々な意匠が並んでいたが、璃景はある一角の前でぴたりと足を止めた。
そわそわとした様子で、棚にずらりと並ぶ愛らしさを放って鎮座しているそれを見つめている。
やがて彼は決意を固めたように、少し耳の端を赤くしながら千海を振り返った。
「千海……このぺんぎんのぬいぐるみ……買ってくれないかい?」
彼が大きな両手で大切そうに包み込むように持っていたのは、先ほど彼を完全に虜にした、あの丸っこいペンギンのぬいぐるみだった。
大の大人が、しかも近衛の長ともあろう美男子が、ぬいぐるみを欲しがって少年のように目を輝かせている。
千海はそのあまりのギャップに、たまらず吹き出してしまった。
「ふ、ふふふ。いいですよ。この間取ってくれたうさぎさんと並べたら可愛いですね」
「うん。可愛い」
璃景は我が意を得たりとばかりに、嬉しそうに何度も力強く頷いた。
その姿に、千海はさらに笑みを深める。
「メロメロですね」
「めろめろ?」
聞き慣れない異界の言葉に、璃景が眉をひょいと上げた。
「はい。夢中ということです」
「あぁ。あの姿で、あのペタペタした動き……可愛すぎた。なのに、一度海に入るとあの速さだ。完全に心を奪われたよ」
しみじみと、しかし熱くペンギンへの敗北を認める彼。
完全に防衛陣形を突破され、恋に落ちてしまった璃景の姿を見て、千海は優しく微笑んでその背中をぽんと叩いた。
「連れて帰りましょう」
「あぁ、ありがとう、千海。大切にするよ」
千海がるんるんと会計を済ませる間、璃景は手渡された袋の中のペンギンを、まるで傷一つつけられない最高機密の書簡でも扱うかのように、お揃いのデニムの斜めがけバッグの横で大事そうに腕に抱えた。
東京の本陣には、璃景がクレーンゲームで千海のために仕留めたあの「うさぎ」が待っている。
そこに、新しくこの「ぺんぎん」が加わるのだ。
カッコいいと可愛いをこれでもかと浴び、最高の戦利品を手にした璃景は、今夜の宿へ戻るつもりだった。
しかし、千海は璃景のために、もう一つの戦地へ向かうことにした。
「さあ、次に行きますよ」
お土産袋を大事そうに抱える璃景の袖を、千海はさらにぐいぐいと引っ張った。
その瞳には、まだまだ一歩も退く気のない軍師の輝きが満ちている。
「まだ行くのかい?」
さすがの近衛長も、ペンギンに心を奪われた余韻に浸る間もなく告げられた次なる進軍に、少しだけ目を丸くした。
そんな彼の様子を見て、千海はいたずらっぽく、くすくすと不敵に笑う。
「はい。生贄になりに行きますよ」
「い、生贄……!?」
璃景の背筋が、武人の本能で一瞬にしてぴきりと強張った。
それは初日の下関。
あの関門海峡のほとりで、巨大な鉄の輪――観覧車を見上げた時、彼が真顔で「生贄を乗せて天へ捧げているのかい?」と大真面目に言ったのを、千海はしっかりと覚えていたのだ。
あえてその言葉を使ってからかってくる我が作家殿に、璃景は「やられた」と言わんばかりに苦笑いを浮かべた。
「千海……君という人は、本当に耳が良いというか、兵の弱みを握るのが……本当に上手だね」
「ふふふ、さあ、乗りますよ!」
二人は手際よく再びタクシーを捕まえて滑り込むと、千海は運転手に向かって、弾んだ声で行き先を告げた。
「ハーバーランドにお願いします!」
タクシーは須磨の海岸線を離れ、今度は次の目的地へと向かって走り出す。
「ハーバーランド……また物々しい名の地だね。港の領地、といったところか」
璃景は、膝の上に乗せたペンギンの袋をそっと撫でながら、窓の外に広がり始めた海沿いに佇む美しい街並みを見つめた。
「そうです。とっても綺麗な夕暮れの神戸の景色を一望できる、最高の特等席ですよ」
「ふっ……いいだろう。下関では遠目に見ただけだったが、我が作家殿が共に生贄になってくれるというのなら、その鉄の輪とやら、真正面から攻略させてもらおうじゃないか」
璃景は覚悟を決めたような、どこか楽しげな笑みを千海に向けた。
二人は神戸の夕暮れにそびえ立つ、巨大な輪が待つ港へと、賑やかに突入していくのだった。
夕暮れの光を浴びて、ゆっくりと回る大観覧車のゴンドラ。
ドアが静かに閉まり、動きだすと璃景は無意識のうちに背筋をぴんと伸ばし、手すりを少しだけ強めに握りしめた。
下関で見たあの巨大な鉄の輪の内部に、まさか本当に自分が乗り込むことになるとは。
ゴンドラが少しずつ高度を上げていく中、千海は窓の外に広がる景色を指差しながら、楽しそうに微笑んだ。
「宮島とは違う雰囲気でしょ?」
「そうだね」
「璃景さん、飛行機よりは低いですが、海も見えて綺麗なんですよ」
その弾んだ声に促されるように、彼はゆっくりと、ガラスの向こうへと視線を向けた。
「……おぉ……」
そこには、言葉を失うほどの絶景が広がっていた。
眼下には、夕刻の穏やかな光を反射してきらきらと輝く神戸の港。
行き交う船が白い航跡を描き、対岸の街並みにはぽつぽつと温かい光が灯り始めている。
あの時、空の上の飛行機から見たミニチュアのような世界とは違い、手が届きそうなほどにリアルで、けれど息を呑むほどに美しい、異界の港町の夕暮れだった。
「本当に……綺麗だね、千海。飛行機が天空からの俯瞰だとするならば、これはまるで、街の息遣いまで聞こえてくるような……極上の特等席だ」
手すりを握っていた璃景の手から、自然と力が抜けていく。
彼は膝の上に大切に抱えたペンギンの袋をそっと撫で、それから前に座る千海を見て、心からの穏やかな笑みを浮かべた。
「下関でこれを見上げた時は、天へ捧げられる生贄の檻かと本気で身構えたものだが……なるほどね。これほど美しい景色を、ただ楽しむために作られた贅沢な仕掛けだったわけだ」
「そうです。生贄でなくてよかったですね」
「作家殿は、メモはいいのかい?」
「あー! 楽しすぎて忘れるところでした。はい、璃景さん写真撮りますよ」
「千海も一緒に撮ろう」
「そうですね。では、そちらに動いて……」
「待て、千海……動いては落ちないかい!?」
「え? 一緒にって言いませんでした?」
「言った。確かに言ったが……こんな高い所で動かれては、ひとたまりもない気がするよ」
「大丈夫ですって」
千海はすっと璃景の隣に座り、「撮りますよー」と言って、そのままシャッターを切ってしまった。
璃景の驚く顔と、悪戯が成功したような千海の満面の笑顔がスマートフォンの画面に映し出された。
璃景は大きく深呼吸をして、窓の外へと視線を戻す。
「我が国の王族であっても、これほどの絶景を、これほど静かに堪能することは叶わないよ」
「ふふふ、璃景さんに、この神戸の海と街を見せたかったんですよ」
千海が満足そうに、大切なデニムのバッグを抱え直して笑う。
「あぁ、最高の采配だよ、我が作家殿。下関のリベンジどころか、この旅のすべてが色鮮やかな宝物になっていくようだ」
ゆっくりと、けれど確実に天へと近づいていく小さな部屋の中で、二人は赤く染まりゆく神戸の海を並んで見つめながら、どこまでも優しく、満ち足りた時間を分かち合うのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、水族館でついに璃景がぺんぎんと出会うお話でした。
陸ではペタペタ歩く可愛らしさ。
けれど、水に入った瞬間の圧倒的な速さ。
そのギャップに、璃景はすっかり心を奪われてしまったようです。
そして、お土産コーナーではぺんぎんのぬいぐるみをお迎えすることに。
東京の本陣では、うさぎと並ぶ日が来そうです。
さらに、下関で見上げた観覧車のリベンジも。
生贄ではなく、神戸の夕暮れを楽しむための特等席でした。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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