作家殿の限界胃袋と、護衛官の活躍
かつて暮らしていた頃よりもさらに魅力を増した美観地区に、千海の食欲と、作家としての探究心は完全に火がついていた。
千海はきらきらと目を輝かせながら、誘い込まれるように次々と店をはしごしていく。
カリッと揚がったスパイシーなカレーパン。
香ばしく焼き目のついた大ぶりのちくわ。
そして、地元の新鮮な具材がこれでもかと挟まれた瑞々しいサンドイッチ。
千海が「はい、璃景さん、これも!」と満面の笑みで差し出すたびに、璃景は「おぉ、次なる刺客か」と嬉しそうに喉を鳴らし、その大きな手で受け取っては器用に平らげていった。
白壁の歴史ある街並みの中、お揃いのデニムバッグを身につけ、長身にサングラスという際立つ存在感の美丈夫と、小柄で可愛らしい佇まいの作家。
どこからどう見ても、でぇーれぇー目立っている二人組だったが、当の本人たちは周囲の視線などこれっぽっちも気にしていなかった。
ただ互いに美味しいものを分け合い、次の獲物を探して歩くその空間は、出会ったばかりとは思えないほどに自然で、温かい空気に満ちていた。
「美味しいですね。食欲が止まりません」
一切れのサンドイッチを幸せそうに頬張りながら千海が微笑むと、璃景もまた、口元に手を添えて優しく目を細めた。
「あぁ。美味しいね、千海。君と歩く旅路は、どこを切り取っても極上の馳走と笑顔で満ちているよ」
買い食いの包みを器用にまとめ、千海の足元をそれとなく庇いながら歩く護衛官の胸には、この世界にやってきて以来、最も穏やかで満ち足りた時間が流れていた。
二人は美味しい戦利品で両手をいっぱいにしながら、美しく晴れ渡る倉敷の街を、どこまでも仲良く賑やかに突き進んでいった。
「璃景さん……どうしよう……」
「千海、どうした?」
さっきまで満面の笑みでサンドイッチを頬張っていたはずの千海が、突然ぴたりと足を止め、この世の終わりかのような困惑した顔を浮かべた。
璃景は何か敵の急襲でもあったのかと、サングラスの奥の瞳を鋭くさせて身構える。
しかし、千海は自分の小さなお腹をさすりながら、力なくしょんぼりと肩を落とした。
「もっと懐かしい食べ物や、新しい食べ物をたくさん食べるつもりだったのに……。朝ごはんをしっかり食べて、今もこんなに食べたら……もう、お腹に入りません……」
あまりにも平和で切実な作家殿の敗北宣言に、璃景は一瞬だけ呆気に取られた。
それから、たまらずくすくすと肩を揺らして吹き出してしまう。
「ははっ、確かに結構食べたからね。……だが案ずることはないよ、我が作家殿」
璃景は頼もしく胸を張る。
「もし君がまだこの地の美味を『メモ』したいと言うのなら、君が買ったものを私が半分受け持つこともできるよ? 私の胃袋の防衛陣形は、まだまだびくともしないからね」
その言葉を聞いた瞬間、千海の顔に一瞬で光が戻り、瞳がきらきらと輝いた。
「本当ですか! じゃあ、ぶっかけうどん食べながら駅に戻りましょう!」
「ぶっかけ、うどん……? その名からして、なかなか勢いのある兵法だね。まだ本陣へ攻め込むつもりなのかい!?」
あまりにも切り替えの早い俊敏な進軍に、さしもの近衛の長も一瞬だけ戦慄し、引きつった苦笑いを浮かべた。
しかし千海は、すでに「急がないとお店が混んじゃいます!」と、るんるん気分で駅の方へ嬉しそうに歩き出している。
「まったく、君の食への執念には敵の精鋭も裸足で逃げ出すね」
璃景は肩にかけたお揃いのデニムバッグをぽんと叩き、その頼もしい小さな背中を追いかけるようにして、再び楽しげに歩みを進めた。
「璃景さん〜、ここ〜」
千海に誘われて、歩いてすぐのところにある店に足を踏み入れると、出汁のなんとも言えない良い香りが二人の鼻腔をくすぐった。
千海は券売機へと向かい、手際よく「ぶっかけうどん」を一杯だけ注文する。
店内を見回しながら、千海はふと感慨深げに目を細めた。
思ったよりも内装が新しく綺麗になっている。
けれど、彼女が店の変化を寂しがったり悲しんだりしていないということは、きっとこの店に流れる温かい雰囲気や味そのものは、昔から何一つ変わっていないのだろう。
席に着くと、千海は我が事のように誇らしげに胸を張った。
「小倉――北九州とはまた違ううどんの美味しさですよ」
「ふむ……。だが、汁がないのかな?」
璃景が運ばれてきた器を不思議そうに覗き込む。
初日に食べたうどんの、なみなみと注がれた黄金色の出汁とは異なり、器の底に濃いめのタレが少しだけ張られている状態だ。
「あるうどんもあるんですけど、ここのうどんは“ぶっかけ”推しです!」
千海はそう言いながら、店員からもらった小皿に自分の分のうどんを少しだけ、本当に一口二口ほど小分けにした。
そして、残りのずっしりと重みのある大きな器を、そのまま璃景の前へと差し出す。
それを見た璃景は、サングラスの奥の眉を少し跳ね上げた。
「千海……君の分は、こんなに少ないのかい?」
「えへへ。実はかなり限界です」
千海が自分の小さなお腹をさすりながらバツが悪そうに笑うと、璃景はすべてを察して、心底愛おしそうに喉を鳴らして笑った。
「なるほどね。これなら確かに『半分』どころか、私の胃袋の全面支援が必要なわけだ」
璃景は器を受け取り、穏やかに頷く。
「いいよ。それならありがたく頂戴するとしよう」
千海は小皿のうどんをつるつると美味しそうに口へ運び、璃景もまた、箸で太い麺を豪快に持ち上げて口へと運んだ。
「……っ、ふむ!」
一口噛み締めた瞬間、璃景の瞳が驚きに染まった。
北九州で食べたあの優しく、どこか柔らかい麺とは完全に異なる。
こちらの麺は、噛み切ろうとする歯を押し返すような、凄まじいこしと弾力を持っていた。
濃いめの出汁がその力強い麺によく絡み、噛めば噛むほど小麦の旨味が口の中に広がっていく。
「概念としては同じ『うどん』という兵種でありながら、これほどまでに性質が異なるとは」
璃景は、感心したように麺を見つめた。
「こちらの麺は、実に見事な手応えと硬骨さを持っているね」
「そうでしょう! この歯ごたえが最高なんですよ〜」
千海は自分の小皿を綺麗に平らげ、満足感に包まれながら、璃景が豪快に、かつ美味しそうにうどんを啜る姿を嬉しそうに眺めていた。
北九州の優しいうどんと、倉敷の力強いうどん。
同じ世界、同じ国の中でも、土地が変わればこれほど豊かな違いがある。
璃景は、かつて我が作家殿がこの地で過ごした日々の味をしっかりと五感に刻み込むように、最後の一本まで綺麗に完食した。
お腹も心もこれ以上ないほど満たされた二人は、お揃いのデニムバッグを揺らしながら、今度こそ身軽になった足取りで倉敷駅への帰路についた。
駅に戻ってコインロッカーから荷物を取り出した二人は、倉敷駅から再びJRの在来線に乗り込み、新幹線が停まる駅へと移動した。
ホームへ滑り込んできたあの白く巨大な鉄の巨獣を前に、璃景はもう怯むこともない。
手慣れた様子で千海の荷物を引き受け、自然に車内へと導いた。
指定された座席に腰を下ろし、新幹線が再び大地を飛ぶような猛烈な加速を始めると、二人は窓の外に流れる山陽路の景色を並んで眺めた。
千海はスマートフォンを開き、この世界の広大な地図を画面に映し出して璃景に見せながら、しみじみと呟いた。
「地図で見たらこんなに広いのに、新幹線だとすぐに着くなんて便利ですよね」
璃景はサングラスの奥の瞳を細め、彼女の指し示す光る画面と、恐ろしい速度で後ろへと消え去っていく本物の景色を交互に見つめた。
「本当にそうだね、千海。我が国であれば、これほどの距離を遠征するとなれば、馬を何頭も乗り換え、何日も野営を重ねてようやく辿り着く大移動だ」
璃景は、しみじみと息を吐く。
「それを、この極上の椅子に座って甘味を味わっている間に駆け抜けてしまうのだから……この世界の『便利』という魔術には、やはり毎度ながら驚かされるよ」
「璃景さんの国だと、長距離を移動する時って、馬だけで移動してたんですか?」
千海はスマートフォンを構え、瞳をきらきらと輝かせながら身を乗り出してくる。
璃景は少し驚きつつも、どこか誇らしげに胸を張った。
「おぉ、我が国の遠征の仕組みに興味を持ってくれたのかい?」
自分の世界の軍事知識が、我が作家殿の「メモ」に刻まれるのが少し嬉しいようだ。
「結論から言うと、その通りだよ。我が蒼嶺国では、主要な街道の要所に『駅家』と呼ばれる拠点が、領地によって配置されている。その場所で馬を替えて進むようになっていたよ」
璃景は、できるだけ分かりやすく言葉を噛み砕いて説明を続ける。
「そこには常に、国が管理する屈強な軍馬と、伝令や兵を休ませるための兵糧が蓄えられている。馬という生き物は、鉄の巨獣――新幹線とは違って生き物だからね。どれほど名馬であっても、全速力で走れば一日と持たずに限界を迎えてしまう」
千海の小さな指先が、画面の上で驚異的な速さで文字を紡いでいくのを見つめながら、璃景はさらに続けた。
「だからこそ、限界が来る前に次の駅家へ駆け込み、そこで息の整った新しい馬へと乗り換えるのだよ」
「なるほど、なるほど……! 国営のシステムなんですね。メモメモです!」
「あぁ。ただし、この『乗り換えの権利』を持つのは、基本的には王命を帯びた使者や、緊急の軍事行動を行う者に限られる」
璃景は、少しだけ声を落とす。
「通行手形の種類によって、一度に借りられる馬の数や質も厳格に決まっているのだ。……もし、手形もなしに勝手に馬を乗り換えようとすれば、それこそ謀反の罪で即座に捕縛されてしまうからね」
そこまで説明すると、璃景は自分の肩にかかったデニムバッグをぽんと叩き、くすりと笑った。
「馬の管理や駅家の維持には、莫大な資金と人員が必要でね。それを思うと、切符という小さな紙切れ一枚で、これほど巨大な鉄の白蛇に誰でも乗れるこの世界は、やはり私から見れば、でぇーれぇー奇跡のような場所だよ」
「でぇーれぇーの使い方、上手になってますね」
千海が楽しそうに笑うと、璃景もどこか誇らしげに目元を和らげた。
「君の指導の賜物だよ、我が作家殿」
そのまま新幹線はいくつものトンネルを鮮やかに駆け抜け、山あいにある巨大な駅――新神戸駅へと滑り込んでいく。
「さあ、璃景さん。次なる目的地、新神戸に到着ですよ。ここからはまた、宮島や倉敷とは一味も二味も違う、とってもお洒落な街が待っていますからね!」
「あぁ、異界の旅路はまだまだ未知に満ちているようだね。我が作家殿、どこまでもついて行くよ」
璃景は頼もしく微笑むと、手際よく二人の荷物を抱えて立ち上がった。
お揃いのバッグを揺らす二人は、新幹線の高架から吹き下ろす新たな土地の風を感じながら、新神戸のホームへと力強く降り立つのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、倉敷での食べ歩きと、新神戸へ向かう移動のお話でした。
ロング調布、コロッケ、そしてぶっかけうどん。
食いしん坊作家・千海の食の遠征は、今回も止まることを知りません。
とはいえ、さすがに胃袋には限界があったようで……。
璃景の助けを受けて、最後まで堪能できて本当によかったです。
そして新幹線の中では、璃景の国の移動事情についても少しだけ触れました。
切符一枚で遠くまで移動できるこの世界は、璃景にとってはやはり“でぇーれぇー奇跡”のようです。
次はいよいよ新神戸。
宮島、倉敷とはまた違う街で、二人がどんな景色や美味しいものに出会うのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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