新幹線という鉄の巨獣と、久しぶりな町
朝食を美味しく平らげ、お世話になった宿をチェックアウトした二人は、再びフェリーに乗り込んで宮島を後にした。
駐車場に着き、千海が運転席へ、璃景が助手席へと滑り込むと、璃景は昨日までの文字の特訓の成果を試すように、車窓から見える看板のひらがなやカタカナを熱心に目で追っていた。
車はスムーズに広島駅の近くにある返却場所へと到着し、手続きを終えた二人は大きな駅の建物へと向かった。
自動券売機で手際よく切符を買う千海の姿を、璃景は「ふむ、これが遠征の通行手形か」と感心しながら見守る。
「JRは会社名みたいなものです。今から乗るのは、その中でも速い新幹線っていう電車ですね。途中で乗り継いで、倉敷へ向かいます」
「なるほど。『じぇいあーる』という大きな軍の中に、『しんかんせん』という特別に速い部隊がある、ということだね」
「かなり武人っぽい理解ですけど、だいたい合ってます」
千海が笑いながらそう答えると、璃景は納得したように頷いた。
改札口を通り、人の流れに乗ってエスカレーターへと足を進める。
ガタゴトと規則正しく動く階段に驚くこともなく、璃景は並んで乗る千海の斜め後ろで、周囲に不審な者がいないか鋭い視線を巡らせていた。
近衛の長としての防衛陣形は、今日も健在である。
しかし、エスカレーターが上りきり、開けたプラットホームへと足を踏み入れた瞬間――璃景の足がぴたりと止まった。
視線の先には、鉄のレールの上に、昨日見たロープウェイの箱とは比較にならないほど巨大な、白く輝く鉄の巨獣が静かに横たわっていた。
その長く連なる車体と、流線型の鋭い頭部は、まるで異界の巨大な白蛇か、あるいは見たこともない圧倒的な最新兵器のようだった。
サングラスの奥の瞳を限界まで見開き、璃景はごくりと喉を鳴らした。
「千海……。あれが、今日から我々が乗り込むという『JR』……いや、新幹線というものかい?」
璃景は、巨大な車体から目を離せない。
「昨日までの車や飛行機、舟も凄まじかったが、あの巨躯と漂う威圧感は一体何なのだ……。一体どれほどの軍勢を一度に運ぶつもりだ……?」
あまりのスケールの大きさに、武人としての本能が危険を察知したのか、璃景の身体がわずかに強張る。
そんな彼の様子を見て、千海はくすっと楽しそうに笑いながら、安心させるように声をかけた。
「大丈夫です。電車の仲間です。モノレールよりもっと速くて大きい乗り物ですね」
「モ、モノレールより……? 車より速いということかい?」
「そうですね。速くて大きい親玉みたいなものです。でも、中はとっても快適なんですよ」
千海が何食わぬ顔で返事をする。
璃景は驚きを隠せないまま、再びその巨大な車体へと視線を戻した。
「あれ以上の速さで走るというのか……。まさに美味の増殖ならぬ、移動術の増殖だね」
璃景は少し息を整えると、胸を張った。
「……いいだろう。我が作家殿がそこまで言うのなら、私は完璧な盾として、その巨獣の腹の中へと同行しようじゃないか」
璃景はサングラスをそっと指先で直しながら、どこか挑戦的で頼もしい微笑みを千海に向けた。
未知の巨大な技術への驚きを抱えつつも、千海の隣にいる安心感が、彼の心をすぐに奮い立たせていくのだった。
「ふ、ふふふ。さあ、指定席を取りましたので行きましょう」
千海は、まだ圧倒されている璃景の手を優しく引き、もう片方の手で自分のキャリーケースを引きながら、その巨大な鉄の巨獣の腹の中へと乗り込んだ。
車内へ一歩足を踏み入れると、外見からは想像もつかないほど、静かで温かみのある空間が広がっていた。
千海に導かれるまま、二人は決められた席へと向かう。
璃景は席に腰を下ろしてからも、物珍しそうに視線をあちこちへと巡らせていた。
座席の柔らかな座り心地や、窓の外に広がる広島駅のホームの景色、そして壁に貼られた文字の案内板を、まるで敵陣の構造を分析するかのような真剣な眼差しで見つめている。
ちょうど車両の先頭の席を確保できていたため、座席の前方には少し広めの空間があった。
千海は「ここなら安心ですね」と呟きながら、二人の荷物を自分たちの足元にすっきりと収めた。
「ふむ……。外から見た時は、どれほど恐ろしい鉄の檻かと思ったが、内部は実に清浄で、驚くほど居心地が良いのだね」
璃景はサングラスの奥の瞳を少し和らげ、感心したようにシートの背もたれに身体を預けた。
足元の荷物を、大きな足で邪魔にならないようそっと寄せながら、彼は千海の手際の良さに改めて敬意の眼差しを向ける。
「先頭の座を一瞬で確保し、荷物の防衛陣形まで完璧に整えるとは。やはり君の戦術眼には、毎度ながら恐れ入るよ、千海」
「いえいえ。ただ先頭の席は足元が広くて楽なだけですよ」
千海がくすくすと笑いながらシートのテーブルを引き出すと、璃景はその新たな仕掛けにまたしても目を輝かせた。
今日から始まるJRでの新たな遠征路。
二人の間には、昨日までとはまた違う快適で不思議な旅の時間が広がり出そうとしていた。
ごと、と小さく微振動が伝わったかと思うと、白く巨大な車体は滑るようにして広島駅を離れ出した。
不快な揺れなど一切なく、ただ滑らかに加速していく。
車窓の景色がみるみるうちに後ろへと置き去りにされ、新幹線が本来の速度へと達した瞬間、璃景はその凄まじい速さに完全に絶句した。
サングラスの奥の瞳は驚きのあまり見開かれ、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、流れるように消え去っていく外の景色を、張り詰めた表情で見つめている。
「速いでしょ? 車より早く目的地に着くので便利ですよね」
隣で千海が楽しそうに笑いかけると、璃景は圧倒されて上がった息をどうにか整えながら、深く感嘆するように言葉を返した。
「あぁ……凄いね。車や舟の速さにも驚かされたが、これはもはや、走るというより大地を飛んでいるかのようだ」
言葉の通り、目を見張るような速度で疾走する新幹線の力に、武人としての本能が激しく揺さぶられているようだった。
それでも、千海の穏やかな笑顔がすぐ隣にあることで、彼の心はすぐに落ち着きを取り戻していく。
新幹線が山間部へと差し掛かると、時折、目の前の景色が一瞬で闇に包まれるトンネルが訪れた。
轟音とともに視界が遮られるその瞬間、璃景は不測の事態を警戒するように一瞬だけ身体を強張らせる。
しかし、千海が何事もないようにしているのを見ると、それがこの移動術の仕様なのだと理解し、すぐにまた窓の外へと視線を戻して、目まぐるしく変わる異界の景色を興味深げに楽しみ始めた。
千海は、未知の高速移動にハラハラしながらも、子どものように純粋な瞳で車窓を見つめる璃景の様子を見て、可笑しそうに、そしてとても楽しそうに笑った。
千海は璃景の新鮮な驚きぶりをしっかり堪能すると、忘れないうちにその尊い姿をスマートフォンに「メモメモ」と書き留めた。
画面を叩く彼女の指先を見つめながら、璃景がしみじみと呟く。
「千海、新幹線は速いね……」
「はい。県と県をつないでくれているので、車より移動は早いです。今回、倉敷は駅近くの美観地区を取材したかったので、便利なんですよ」
千海がそう説明している間にも、新幹線は驚異的な速度で山陽路を駆け抜けていく。
車内アナウンスが流れ、乗り継ぎの駅へ着くと、二人はいったん新幹線を降り、在来線へと乗り換えた。
璃景は「鉄の巨獣にも種類があるのか……」と感心しながらも、千海の隣を離れないよう、きっちりと歩幅を合わせてついてくる。
そしてしばらくして、二人は目的地である倉敷へと到着した。
「璃景さん、降りますよ」
「あぁ。遅れないように降りるよ」
「ふ、ふふふ、そうですね」
新幹線よりは速度のない電車だろうと、置いていかれてはたまらないとばかりに、大真面目な顔で身構える護衛官の様子がおかしく、千海は思わず吹き出してしまった。
璃景はいつものサングラスをきりりと装着し、二人は滑り込んだホームへと降り立った。
改札へと向かって歩きながら、璃景は周囲の構造を観察するように見回す。
「駅の中は、だいたい同じなんだね」
「そうですね。大きくは変わりません。荷物を預けて行きましょう」
千海は手際よくコインロッカーを見つけると、二人の荷物をそこへ滑り込ませて鍵をかけた。
身軽になったところで、二人は駅から倉敷美観地区へと向かって歩き出す。
整備された道を迷いなく進んでいく千海の後ろ姿を見つめながら、璃景がふと不思議そうに声をかけた。
「千海、なんだかここも慣れているね」
「ふ、ふふふ。分かります? 二年くらい住んでたので」
「ここもかい?」
千海が振り返って悪戯っぽく笑うと、璃景はサングラスの奥の瞳を丸くした。
我が作家殿の意外な「過去の領地」の判明に驚きつつも、かつて彼女が暮らしていたというその土地の景色を共に見られることに、璃景は胸の奥で静かな高揚感を覚えた。
千海がかつてこの地に二年間も暮らしていたと知り、璃景は驚きと共に、どこか感慨深げに周囲の街並みを見回した。
すると、千海は懐かしそうに目を細め、なんとも嬉しそうな顔で声を弾ませた。
「はい。でぇーれぇー久しぶりなんよ〜」
「???」
突然耳に飛び込んできた未知の呪文のような響きに、璃景は歩みを止め、完全に思考を停止させた。
「そうなほ」に続く、この世界の新たなる高度な暗号だろうか。
端正な顔をわずかに傾け、真剣にその意味を解析しようとする彼を見て、千海はいたたまれなくなったように吹き出した。
「ふ、ふふふ。とっても久しぶりなんだよ、って言いました」
「あぁ……なるほど、そういう意味かい」
千海が楽しそうに笑うと、璃景もようやく緊張を解き、釣られたようにふっと目元を和らげた。
「『でぇーれぇー』か。この世界の言葉は、土地が変わるごとにまるで異なる兵法のように変化するのだね」
璃景は、感心したように頷く。
「……しかし、とても温かみのある響きだ。君がかつてこの地で、その言葉を聞きながら過ごしてきた日々の欠片に、こうして同行できているのだと思うと、なんだか不思議な心地がするよ」
璃景はそう言って、千海の歩調に合わせるようにゆっくりと隣を歩き出した。
駅から少し歩くにつれ、近代的なビル群から一転して、白壁の美しい蔵屋敷や柳の並木がそよぐ、情緒豊かな川沿いの景色が目の前に広がり始める。
「おぉ……ここはまた、実に風情のある街並みだね。我が国の城下町を思い出させるような、不思議な懐かしさがあるよ」
璃景はサングラスの奥の瞳を輝かせ、この世界の未来的な技術とはまた違う、美しく保存された歴史ある風景に深く感嘆した。
「でしょう? ここが美観地区です。さあ、たくさん美味しいものを食べて楽しみましょ」
「あぁ、頼むよ、我が頼もしい作家殿」
二人は顔を見合わせ、歩調を揃えて、白壁の美しい倉敷の街へと一歩を踏み出していくのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、JRで倉敷へ向かうお話でした。
新たな鉄の獣、新幹線に驚く璃景。
そして、千海にとっては少し懐かしい町でもある倉敷へ到着しました。
「でぇーれぇー久しぶりなんよ〜」という言葉に、璃景はまた一つ、この世界の言葉の奥深さを知ったようです。
宮島とはまた違う、倉敷の白壁の町並みと、二人の掛け合いを楽しんでいただけましたら嬉しいです。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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