表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/46

寝たふり護衛官と、宮島最後の朝の距離感


千海ちかは、いつもよりもかなり早い時間に目が覚めた。


まだ薄暗い室内をそっと見渡すと、隣のベッドからは璃景りけいの静かな寝息が聞こえてくる。


彼を起こさないよう細心の注意を払いながら、千海は静かに着替えなどの準備を整えると、テラスへと続くガラス戸を開けて、客室露天風呂へと向かった。


朝の澄んだ空気と、湯口から溢れる心地よいお湯の音が、千海を優しく迎える。


湯船に身体を沈めると、昨日の山登りの疲れがじんわりと解きほぐされていくようだった。


(お部屋に露天風呂がついているプランに奮発して、本当に大正解だったな)


千海は、湯船から見える穏やかな瀬戸内海の朝景色を眺めながら、ほっと息をついた。


(きっと璃景さんの故郷、蒼嶺国そうれいこくではこうして温泉やお湯につかっていただろうし……この世界の温泉の仕組みもまだ分からないだろうから、一人で大浴場に行かせるのは、さすがにまだ心配だもんね。ここなら人目も気にせず安心して入れるから、璃景さんも少しでもくつろげていたら嬉しいな)


この部屋にして、本当によかった。


ひらがなを読めるようになり、スマートフォンの写真の使い方を覚えた璃景。


現代の道具に驚いてばかりだった彼も、この世界に馴染むまで、あと少しなのかもしれない。


そんなふうに璃景のことを思い浮かべながら、千海は贅沢な朝のひとときを心ゆくまで堪能した。


ゆっくりとお風呂を楽しんだ後、千海は用意していた私服へと着替え、すっきりと髪を整えてから部屋の中へと戻っていった。


一方、その頃ベッドの中にいた璃景は、実は千海が目を覚ましたのとほぼ同じタイミングで、すでに意識を覚醒させていた。


武人としての鋭い感覚は、彼女の微かな身じろぎや気配の動きを正確に捉えていたのだ。


しかし、静かに朝の支度をして露天風呂へと向かう千海の様子を察しているうちに、璃景はすっかり声をかけるきっかけを失ってしまっていた。


(……いや、待て。今ここで下手に声をかけて目覚めを告げれば、千海が『気を使われている』と察して、せっかくの朝の休息を落ち着いて楽しめなくなってしまうのではないか?)


近衛の長としての、どこか過保護で行き届きすぎた配慮が裏目に出てしまい、彼は完全に身動きが取れなくなっていた。


そうして葛藤している間にも、仕切りの向こうからは、湯が揺れるかすかな音や、千海が身支度を整えている気配が伝わってくる。


今さら「実は起きていた」と起き上がるのは、それこそ不自然に思われかねない。


(……っ、不覚。完全に退路を断たれたな)


璃景は布団の中で、いまだ死んだように身を固くしたまま、内心で己の不甲斐なさに激しく悶絶していた。


千海がすっかり支度を終えて部屋を歩き回る気配を感じながら、彼はいつ、どのような「完璧に自然な寝起き」を演じて声をかけるべきか、人生で最も難しい戦術の組み立てに頭を抱え、ただじっとそのタイミングを計り続けるしかなかった。


「ふぅ。璃景さん起きて、露天風呂入らないかな? 今日からJR移動だから、どんな話ができるかな~」


千海は独り言を呟くと、自分のベッドに向かって仰向けに倒れ込んだ。


ぽふ、と柔らかいシーツが彼女の小さな身体を受け止める。


その直撃の音と、あまりにも無防備な呟きを耳にした瞬間、布団の中の璃景の緊張はとうに限界を超えていた。


(……JR移動、だと? またしても未知の移動術か! いや、それよりも……私の目覚めを待ってくれているのか!)


これ以上、死んだふりを続けるのは、護衛官としても、千海の心遣いに対する礼儀としても完全に失策である。


璃景は意を決すると、いかにも「今、気持ちよく目が覚めました」という風を装い、わざとらしく低く大きな声を出しながら、ゆっくりと上体を起こした。


「……う、うむ……。あぁ、千海、おはよう……。素晴らしい朝のようだね」


さも自然に、少し眠たげに目をこすりながら、千海のベッドの方へと視線を向ける。


ベッドの上で大の字になって寝転がっている千海の姿が映り込んだ。


「あ、璃景さん! おはようございます。起こしちゃいました?」


千海がベッドから首だけをぴょこっと持ち上げてこちらを見る。


璃景は内心の焦りを完璧な仮面の裏に隠し、ふっと目元を和らげて首を振った。


「いや、今ちょうど心地よい、君の楽しそうな声で目が覚めたところだよ。千海、朝から随分と早起きなのだね」


どうにか不自然さを払拭できたと信じたい璃景は、座卓の上に置かれた教本へと視線を向け、さらに話を繋げた。


「千海がさっき言っていた『じぇいあーる』というのは……またしてもこの世界の新しい鉄の獣なのかい? 車、舟、ロープウェイと来て、次なる移動術の兵法がどのようなものか、今から実に興味深いよ。……だが、その前に」


璃景はベッドから立ち上がると、テラスの向こうで白く湯気を立てる客室露天風呂へと視線を向けた。


「せっかく我が作家殿が用意してくれた極上の朝湯だ。衣服を改める前に、その恵みをありがたく頂戴してくるとしよう」


璃景は、頼もしく微笑みかける。


「千海、少し席を外すけれど、戻ったらその『じぇいあーる』という新たなる遠征の計画について、ぜひ詳しく教えておくれ」


彼はそう言って、今度こそ堂々とした足取りで、朝日にきらめく瀬戸内海を望む露天風呂へと向かっていった。


「はい。いってらっしゃい。朝食まで時間があるので、ごゆっくり」


千海はベッドに寝転がったまま、足をぱたぱたとさせて、至極の笑顔で送り出した。


「あぁ、ありがとう。お言葉に甘えて、ゆっくりと身を清めてくるよ」


璃景はそう応じると、テラスのガラス戸を開けて外へと踏み出した。


朝の清々しい光が、瀬戸内海の穏やかな水面に反射してきらきらと輝いている。


浴衣を脱ぎ、なみなみと湛えられた湯船に身体を沈めると、温かい湯が彼の鍛え上げられた体を優しく包み込んだ。


「……ふぅ……」


誰も見ていないのをいいことに、璃景は湯船の縁に頭を預け、長いため息とともに全身の力を抜いた。


朝日の温かさと温泉の熱がじんわりと身体に染み渡り、先ほどまで布団の中で繰り広げていた「寝たふり攻防戦」の緊張が、嘘のようにほぐれていく。


(……千海は、本当に細やかな気配りのできる人だ)


湯気に煙る海の景色を眺めながら、璃景は先ほど彼女が考えていたであろう配慮を思い返し、胸の奥が温かくなるのを感じていた。


自分がこの世界の大浴場に一人で行くにはまだ不安だろうと察し、わざわざ部屋に露天風呂のついた贅沢な部屋を選んでくれたこと。


(出会った当初は、冷静沈着な作家殿だと思っていたが……。彼女のその優しさと聡明さこそが、私をこの未知の世界でどれほど救ってくれているか、計り知れないな)


璃景は瞳を細め、そっと自分の大きな手のひらを見つめた。


昨日、山道を登る時は自分が手を引き、ロープウェイでは手を握って傍に寄り添ってもらった。


千海は自然に自分との距離を縮めてくれていることを嬉しく思う。


璃景は静かに息を整えた。


今日からは、『じぇいあーる』という新たな鉄の獣での移動が待っている。


文字の特訓の成果を見せる機会も、きっとあるはずだ。


(今度こそ、私が彼女の完璧な盾として、その旅路を支えてみせなくては)


朝日に照らされる美しい神の島を見つめながら、璃景は静かに闘志を燃やした。


温泉の恵みを心ゆくまで堪能し、心身ともに完璧な臨戦態勢を整えた護衛官は、大切な作家殿の待つ温かい部屋へと戻るため、ゆっくりと湯船から立ち上がった。


露天風呂から上がってきた璃景の長い黒髪は、毛先がまだしっとりと濡れており、朝の光を浴びて静かにきらめいていた。


それを見た千海は、ベッドから身を起こすと、迷わず洗面台からドライヤーを持ってきて手招きした。


「少し濡れてますよ。乾かしましょう」


「あぁ、すまないね。いつもありがとう」


璃景は少し恐縮しながらも、千海の促すままに座卓の前に腰を下ろした。


高身長の彼が座ると、千海はちょうど彼の真後ろに立つ形になる。


千海がドライヤーのスイッチを入れると、ぶぉーっという激しい風の音とともに、温かい風が部屋の中に響き渡った。


この世界の「風の魔道具」の音には、璃景もすっかり慣れたもので、今では驚いて身構えることもない。


「今日も、驚くほどの手際だね……」


璃景が呟くと、千海は「ふふん」と少し誇らしげに鼻を鳴らしながら、彼の長い黒髪に指を通した。


「璃景さんの髪、本当にさらさらで綺麗だから、乾かしていて気持ちいいんですよ。私の物語の美男子設定に、また箔がついちゃいます。メモメモ、です」


「はは、それは光栄だね」


璃景は喉を鳴らして笑いながらも、近い距離で髪を乾かされることに、どうにも落ち着かなくなっていた。


千海の手つきはあくまで丁寧で、いつも通り無邪気だ。


だからこそ、彼は余計に平静を装わなければならない。


(……くっ、朝から何という試練だ)


近衛の長としての理性でどうにか平静を装っているものの、璃景の心臓は再び不穏なまでの高鳴りを打ち始めていた。


だが、そんな護衛官の初々しい葛藤など露知らず、千海は「よし、これで完璧!」と満足げにドライヤーのスイッチを切った。


突如として訪れた静寂の中、千海は璃景の前に回り込み、完全に乾ききって極上の絹のようになった彼の黒髪を、にこにこと見つめた。


「うん、ばっちりです! さあ璃景さん、髪も乾いたことですし、待ちに待った朝食の時間ですよ。今日もしっかり食べて、次なるJRとの戦いに備えましょう!」


「あ、あぁ……。そうだね。我が食いしん坊作家殿の言う通り、まずは兵糧を蓄えなくてはね」


璃景は上がってしまった息を整えるように、わざとらしく一つ頷いた。


そしてようやく至近距離の緊張から解放され、いつもの頼もしい護衛官の顔を作って立ち上がる。


朝日に照らされた部屋の中で、二人の宮島での最後の特別な朝が、賑やかに幕を開けようとしていた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は、宮島最後の朝のお話でした。


千海が璃景を起こさないように朝風呂へ向かったつもりが、実は璃景はすでに起きていて、布団の中でひっそりと寝たふり攻防戦を繰り広げていました。


千海の気遣いと、それに気づきながらも声をかけるタイミングを失ってしまう璃景。

真面目な護衛官ほど、こういう時に不器用になるのかもしれません。


そして、璃景のどきどきをまったく気にしていない千海。

二人の距離は近づいているのに、まだまだ温度差があるようです。


次はいよいよJRでの移動です。

新たな鉄の獣に、璃景がどんな反応を見せるのか楽しんでいただけましたら嬉しいです。


二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。


よろしければ、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ