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ヒールの参道と、護衛官が初めて引く手


「璃景さんが読めるようになるまで、いくらでも、ひらがなもカタカナも漢字もお付き合いしますよ」


千海ちかがそう言うと、璃景りけいは並べていた本を丁寧に閉じ、座卓の端へと静かに寄せた。


「ありがとう。そう言ってもらえると、百万人もの大軍を味方につけたかのように心強いよ」


「ふふ。私も楽しみなんですよ」


千海が本当に嬉しそうに、そして明日への期待に胸を膨らませるように微笑むのを見て、璃景もまた、窓の外の景色を見つめてから、ふっと目元を和らげた。


「そろそろ、明日のために寝ようか」


「はい! 明日はたくさん散策して取材するので今日は寝ましょう」


千海の元気な返事が、静まり返った室内に心地よく響く。


この世界に迷い込んでから、まだほんの数日の夜。


未知の技術や乗り物に翻弄され、野生の鹿に衣服を襲われるハプニングまであったというのに、璃景の心には、故郷の宮廷にいた頃には決して味わえなかった、穏やかで満ち足りた時間が流れていた。


部屋には、大きなベッドが二つ並んでいた。


璃景は左のベッドへ、千海は右のベッドへとそれぞれ入る。


部屋の明かりが落とされると、遮光カーテンの隙間から、宮島の海を照らす静かな月光がほんのりと室内へ差し込んできた。


「千海。私の『美男子頭脳明晰問題』が明日、その『きもの』という服の美しさに負けてしまわないよう、今夜はしっかり英気を養わせてもらうね」


ベットに横たわった璃景は、暗闇の中で静かに微笑む。


「……おやすみ、我が最高の作家殿。良い夢を」


「おやすみなさい、璃景さん。良い夢を」


隣にいる千海の気配を感じながら、璃景は静かに目を閉じた。


明日の朝、目が覚めたら、今度はどんな驚きと美味、そして彼女の弾けるような笑顔が待っているのだろうか。


本物の異世界から来た護衛官は、まだ見ぬ明日の美しい伝統の世界へ思いを馳せながら、深く心地よい眠りへと落ちていった。


翌朝。


千海がぱっと目を覚ますと、カーテンの隙間から宮島の爽やかな朝の光が差し込んでいた。


枕元から体を起こすと、すでに身支度を整え、座卓の前で静かに佇んでいる璃景の姿が目に飛び込んでくる。


「璃景さん、おはようございます。早いですね」


「千海、おはよう。我が蒼嶺国そうれいこくでは、日の出とともに動くのが武人の常だからね。これでも、こちらの日の出の時刻に合わせて少し遅く起きたつもりなのだが」


璃景は綺麗な瞳を和らげ、どこか楽しげに振り返った。


「えぇ! そうなんですか? じゃあ、私かなりのお寝坊ですね」


千海が自分の頭を少し気恥ずかしそうに掻きながら言うと、璃景はくすりと喉を鳴らして首を振った。


「気にする必要はないよ。私は先に起きて、君が教えてくれたあの『あさぶろ』という贅沢を堪能させてもらったし、そのあとは昨日のおさらいとして、ひらがなとカタカナを覚えていたから、退屈などしていなかったよ」


「す、すごい……。美男子頭脳明晰なだけでなく、努力家でもあったんですね」


千海が本気で驚いたように目を丸くすると、璃景はふっと悪戯っぽく口元を綻ばせた。


「おや? 今日の作家殿は、朝からかなり私を褒めてくれているね?」


「はい! かなり驚いてますし、かなり褒めてます!」


千海が胸を張って満面の笑みで返すと、璃景は「それは光栄だね」と嬉しそうに目を細めた。


異世界の文字の陣形を少しずつ突き崩していく達成感と、彼女からの真っ直ぐな称賛は、彼にとってこれ以上ない目覚ましとなったようだ。


「じゃあ、私、着替えてきますね。朝食も部屋に持ってきてもらうように予約しているので、準備ができたら仲居さんを呼びますね」


「あぁ、急がなくていいよ。美食の作家殿の合図を、楽しみに待っているからね」


「はい。ありがとうございます!」


千海は浴衣の裾を揺らしながら、洗面所へとスタスタと歩いていった。


朝一番の温泉と文字の特訓を終えて、どこか誇らしげに佇む璃景の横顔を見ながら、千海は「努力家美男子、メモメモ……」と、頭の中のネタ帳へ早くも新しい一行を書き加えるのだった。


やがて、部屋に運ばれてきた朝食を、二人はゆっくりと味わった。


「豪華ですね」


「そうだね。祖国でも、朝からここまで豪華なことはなかなかないかな」


「はい。外に泊まった時ぐらいですよね」


璃景は並んだ料理を感慨深げに眺めたあと、ふと柔らかく微笑んだ。


「でも、初めて千海に作ってもらった朝ごはんも美味しかったよ」


千海は少し照れて、箸を持ったまま笑った。


「ふふふ。ありがとうございます」


豪華な宿の朝食ももちろん美味しい。


けれど、璃景が千海の家で初めて食べた朝食を覚えていてくれたことが、千海には少しくすぐったく、そして嬉しかった。


朝食を終えた二人は、着物の予約時間まで少し余裕があったため、宿の周囲を散策することにした。


海沿いを軽く歩くつもりだった千海は、遊歩道の案内板を見つけて何気なく足を向ける。


しかし、しばらく進んだところで、道は思っていた以上に山道めいてきた。


「やばい……なんか山道なんですけど……」


「綺麗だね。かなり自然が豊かで、空気が気持ちいい」


「靴を間違えた……」


千海は自分の足元を見下ろした。


今日の彼女の足元には、散策用の軽い靴ではなく、少しだけ高さのあるヒールである。


「千海、戻るかい?」


「いえ、登ります。ヒールですが、ここまで来たら登ります」


「抱えようか?」


「えーと。まだ大丈夫です。でも、璃景さん、手を繋いでくれますか?」


「いいよ」


璃景は迷いなく手を差し伸べた。


千海も素直にその手を取る。


「ふふ、昨夜の鹿の包囲網からは君に救い出してもらったが、今度はこの私が、君をこの険しき山道――遊歩道から守る番だね」


璃景は差し伸べた大きな手で、千海の小さな手をそっと、けれど決して離さないようにしっかりと包み込んだ。


夕べに交わした帯直しの時の近さとは違う。


一歩一歩を踏みしめるための距離は、どこか力強く、誇らしかった。


「しかし、さすがは我が誇り高き作家殿だ。この高低差のある『ひーる』という、およそ山登りには向かぬ危うき靴を履きながらも、撤退を選ばずに前進を続けるとは」


璃景は、感心したように笑う。


「その不屈の闘志、まさに一軍を率いる将のようだ」


「闘志っていうか、ただの意地です……! ここまで来て引き返すのは、作家のプライドとネタが許さないので!」


千海が息を切らしながらも、負けじと前を向いて歩を進める姿を見て、璃景はサングラスの奥の瞳を優しく細めた。


周囲を見渡せば、整備されているとはいえ、次第に深くなっていく豊かな緑と、木々の隙間から時折のぞく瀬戸内の青い海が、朝の光を浴びてきらきらと輝いている。


鳥のさえずりが心地よく響くその空間は、車がひしめく街中よりもずっと、璃景の生まれ育った蒼嶺国そうれいこくの自然に近い風情を醸し出していた。


「空気が本当に美味い。異界の驚異に満ちた街も刺激的だが、私はやはり、こうして君と手を携え、木漏れ日の中を歩いている時間が一番落ち着くよ」


璃景は、足元へ目を向ける。


「……おっと、千海、そこは少し足場が崩れやすい。私の足跡を正確に踏んでおいで」


璃景は自分の体を巧みに使い、千海が坂道で滑ってしまわないよう、絶妙な力加減で彼女の手を優しく引き上げながら進んでいく。


時折、ヒールがかつんと石に当たってバランスを崩しそうになるたび、繋いだ手にぐっと力がこもり、千海の体が璃景の方へと自然に引き寄せられた。


「うぅ……璃景さんがいてくれて本当に助かりました。一人だったら、最初の三分でコケていたかもしれません。美味しい幸せどころか『ヒール、全滅、悲惨』ってメモに書くところでしたよ」


「ははは! それはそれで、君の物語の面白い一幕になりそうだがね」


璃景は楽しそうに笑った。


「だが安心していい。君がその執念で山頂の景色を掴み取るまで、この筆頭護衛官がいくらでもその足元を支え続けよう」


二人はお互いの呼吸を合わせるように、一歩、また一歩と緑の遊歩道を登っていく。


山道の険しさすらも、繋いだ手の温もりと、時折交わされる楽しげな笑い声によって、かけがえのない特別な旅の記憶へと塗り替えられていくのだった。


千海は璃景に手を引かれながら、どうにか坂道を登りきった。


「登れた……。ロープウェイは、苦労しないためにあるんですね」


「あの動く鉄の箱かい?」


「璃景さん……なぜ平気な顔をしているんですか?」


「まぁ、靴が歩きやすいしね」


「はぁ。確かに……ヒールよりは動きやすいでしょうけど……」


「ははは。それに、我が蒼嶺国そうれいこくの山岳地帯に比べれば、この『ゆうほどう』という道は驚くほど平坦で、綺麗に整えられているからね」


璃景は乱れ一つない呼吸のまま、どこか誇らしげに微笑んだ。


「近衛の猛特訓では、この数倍の傾斜を鉄の甲冑を纏ったまま駆け上がらされるのだから、このくらいは朝の散歩のようなものだよ」


そんな彼とは対照的に、千海はロープウェイの駅のベンチへ滑り込むようにして腰掛け、肩を大きく上下させていた。


「実際今も朝の散歩のはずだったんですがね……」


額にはうっすらと汗が浮かび、山道には天敵だったヒールを履いた足は、文字通り生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えている。


「なるほど、あの空中を蜘蛛の糸のように伝っていく鉄の箱を使えば、こんな苦労をせずともこの絶景に辿り着けたというわけだ」


璃景はベンチのすぐ横に立ち、眼下に広がる瀬戸内海の壮大な青さを見つめた。


繋いでいた手を名残惜しそうに離して、優しく目を細める。


「……確かに便利だが、しかし千海」


「はい?」


「こうして君の小さな手を引き、一歩一歩、息を合わせて登ってきたからこそ、この頂から望む景色がこれほどまでに美しく、愛おしく感じられるのではないかい?」


璃景は、穏やかに笑った。


「そうとも言いますが……便利に慣れたこの肉体には、素晴らしく果てしない道のりに感じましたよ」


「君のその『意地』のおかげで、私はまた一つ、この世界での極上の思い出を手に入れることができたよ」


「うう……璃景さんが超人すぎて、私の感動が半分くらい『美男子の体力お化け問題』に持って行かれそうです……」


千海は苦笑しながらも、眼下のきらめく海へと視線を向ける。


「でも、確かに……この景色は、自力で登ったからこそのご褒美ですね」


千海が少し誇らしげに、けれどやっぱり疲れた様子でへにゃりと笑う。


璃景はその横顔を見つめ、彼女のそういうところを、やはり好ましいと思った。


朝の光を受けた瀬戸内海は、二人の小さな意地と冒険を祝うように、きらきらと眩しく輝いていた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は、遊歩道に誘われるまま進んでみたら、思ったよりも山道になってしまい、初めて璃景が千海の手を引くお話になりました。


今までは、驚く璃景の手を千海が引くことが多かったのですが、今回は体力的にも璃景に助けられながら、どうにか頂上まで行くことができました。


実は作者も、千海と同じような失敗をしたことがあります。


ヒールでの山道……。


千海と同じように頂上まで進んでいると、海外の方にすれ違いざま「crazy」と驚かれ、笑顔で何人もの方々に応援してもらったことを思い出してしまいました。


千海、頑張ったね……。


少しずつ近づいていく二人の距離と、明日への期待を楽しんでいただけましたら嬉しいです。


二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。


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