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もう一度帯を結び、明日は着物で宮島散策


仲居が手際よく食器を下げて部屋を出ていくと、千海ちかは満足そうにお腹をさすりながら声を上げた。


「おいしかったですね」


「あぁ。蒼嶺国そうれいこくとは違う食事だったが、おいしくて食べ過ぎてしまったよ」


璃景りけいは少しきつくなった浴衣の帯に手を当てながら、苦笑いを浮かべた。


海の恵みをふんだんに使った異界の馳走は、彼の屈強な胃袋を完全に満足させたようだった。


「よかったです」


千海は自分のことのように嬉しそうに微笑むと、バスタオルを手に取ってテラスのガラス戸へと向かった。


「私も露天風呂行ってきます」


「お、おぉ。ゆっくり浸かってくるといい」


璃景は平静を装って見送った。


千海は彼の配慮に応じるように、内側の遮光カーテンをしゃっと静かに閉めてから、何食わぬ顔でテラスのガラス戸の向こうへ消えていった。


しかし、ガラス戸が閉まった瞬間、一人部屋に残された璃景は小さく息を吐き出して、自分の胸元を軽く押さえた。


しっかり閉められたカーテンを見つめながら、ぽつりと取り残されたような奇妙な静けさを感じる。


(……事が、すんなり進みすぎている。この世界の女性は皆、あそこまで大胆なのか。それとも千海が私を信頼しきっているだけなのか……)


先ほど、至近距離で彼女の浴衣の帯を結び直した時のことが、どうしても頭の片隅に残っている。


近衛の長ともあろう者が、内心では先ほどからずっと激しく狼狽しっぱなしだった。


やがて、ガラス戸の向こうから、湯口から溢れるお湯の音に混ざって、露天風呂の湯が揺れるかすかな音が聞こえてきた。


(……っ)


璃景は無意識のうちに、またしても胸の奥が落ち着かなくなるのを感じて、慌てて視線を床へと落とした。


いくらカーテンで完全に仕切られているとはいえ、目と鼻の先で、恩人である彼女が休んでいるのだ。


昼間の賑やかな市場の喧騒や、カキの美味しさに圧倒されていた頭が、この静寂の中で急激に冷やされ、同時に別の緊張を帯び始めていく。


璃景は大きく息を吐き出すと、己の理性を引き締めるように拳をぎゅっと握りしめた。


(落ち着くんだ。私は完璧な盾。彼女の信頼を裏切るような邪念など、あってはならない……)


すぐに璃景は頭を振って、その雑念を追い払った。


昨日から慣れない車での強行軍に付き合い、不審な男である自分を保護し、さらにこうして極上の宿まで手配してくれたのだ。


彼女には、この客室露天風呂から見える宮島の美しい夜景を眺めながら、日頃の創作の疲れを心ゆくまで癒してほしい。


そう、心から願っていた。


手持ち無沙汰になった璃景は、気持ちを落ち着かせるように、座卓の上に置かれた二冊の冊子へと視線を落とした。


千海が用意してくれた、この世界の文字を学ぶための本だ。


彼は、カタカナの本とひらがなの本を几帳面に横に並べ、端正な顔を少し近づけて見比べ始めた。


「なるほど……。形は違えど、同じ音を持つ文字というわけか。しかし、よく見れば完全に異なる形ばかりというわけでもないのだね」


長い指先で紙面をなぞりながら、璃景の瞳に鋭い光が宿る。


「この『へ』と『ヘ』などは、ほとんど見分けがつかないほど同じ形をしている。それに、この『カ』と『か』、あるいは『り』と『リ』も……」


璃景は、小さく頷いた。


「ふむ。片方の特徴を捉えておけば、もう片方を覚えるのはそれほど難しくはなさそうだ。これなら、あの強敵だと思っていたカタカナという包囲網も、案外早く突き崩せるかもしれないな」


千海のいるテラスの向こうから、心地よい湯の音がかすかに響いてくる。


璃景は、次に彼女が戻ってきたときに、少しでも成長した姿を見せて驚かせてやろうと、静かな闘志を燃やしながら、覚えたての文字を心の中で何度も反芻し始めた。


ベッドの端へと腰掛け、今日千海から教えてもらった「そうなほ」という温かい方言や、まだ見ぬ景色に必死に思考を巡らせる。


少しして、テラスのガラス戸がほんの少しだけ開き、そこから千海がなんとも言えぬ苦笑いを浮かべて顔だけを覗かせた。


「璃景さん、帯してもらったので、自分でもやってみたんです」


「あぁ」


璃景はその先にある彼女の言葉を察しつつも、近衛の長としての冷静さを保つため、必死で笑いを堪えながら彼女の次の言葉を待った。


「……やっぱり全然できなくて。もう一度、教えてもらえますか?」


「ふふ、ふ。構わないよ。千海の役に立つなら、いくらでもね」


そう答えると、千海は「わーい」とばかりにぴょこんと部屋の中へ入ってきて、素直に璃景の目の前へとやって来た。


温泉でさらに血行が良くなったのか、その頬は桜色に染まっていた。


「お願いします」


千海が目の前でちょこんと真っ直ぐに立つと、璃景は再び彼女と至近距離で対峙することになった。


先ほどよりもさらに距離が近く感じられ、彼の心臓はまたしても不穏なまでの高鳴りを打ち始める。


しかし、ここで取り乱しては、筆頭護衛官の名が泣くというものだ。


璃景はすっと息を整えると、大きな手を千海の腰元へと伸ばした。


緩んで不格好になっていた帯の端を、長い指先で優しく、かつ無駄のない動きで捉える。


浴衣の布越しに、互いの距離の近さだけがはっきりと伝わってくる。


だが、彼は持ち前の器用さと、かつて戦場で培った集中力を発揮し、流れるような手際で帯を交差させ、きゅっと結び目を作っていく。


「いいかい、千海。まずはこうして一度しっかりと芯を締め、そこから輪を作って……」


内心の動揺を隠すように、いつもより少しだけ低く落ち着いた声で解説を交えながら、璃景は丁寧に、けれどあっという間に美しい結び目を完成させた。


「よし、これで今度こそ完璧だ」


璃景は満足げに手を離すと、ふっと安堵の息を漏らして千海の顔を見つめた。


近すぎる距離に、二人の視線が真っ直ぐに交差する。


「ありがとうございます。なんでこんなに緩まないんですか? 不思議ですね」


千海は自分の腰元に美しく収まった帯を不思議そうに指先でつんつんと突きながら、感心したように璃景を見上げた。


「そうだね。千海は普段、帯を必要としない便利な服を着ているから、コツを掴むまでは難しく感じるのだろう」


璃景は少し誇らしげに胸を張る。


「私の国では、こうして己の身を律するように帯を締めるのが日常だからね」


ようやく至近距離の緊張から解放されて、璃景はそっと安堵の息を吐き出した。


すると、千海は何かを思い出したようにポンと手を叩き、目を輝かせて璃景を見つめた。


「あ! 明日、宮島散策の際に着物――この国の昔から着る服を予約しているんです。璃景さんも着て、一緒に散策しましょうね」


「本当かい? それは……この世界の伝統的な衣服を纏うことができるということだね。とても楽しみにしているよ」


璃景の瞳が、今度は好奇心と期待で弾けるように輝いた。


この世界の、未来のような車やスマートフォンには驚かされてばかりだった。


けれど、小倉城で見たこの国の古き良き歴史に直接触れられるのは、武人としても、そして一人の旅人としても純粋に胸が躍る提案だった。


「私の国の衣とは、また違った仕掛けや美しさがあるのだろうね。千海の美しい浴衣姿を見て、この世界の衣服の奥深さを知ったばかりだ」


璃景は楽しそうに笑う。


「明日はその『きもの』という戦装束……いや、正装に身を包み、この神秘的な宮島の地を堂々と歩くとしよう」


璃景はそう言って、千海の前に並べられたカタカナとひらがなの本に視線を戻し、頼もしく微笑んだ。


「そうと決まれば、明日その店で看板の文字が読めぬようでは、せっかくの着物姿が形無しだ。千海が教えてくれたこの文字の法則、今夜のうちにさらに深く読み解いてみせるよ」


そして、穏やかな声で続ける。


「さあ、我が頼もしい作家殿。明日の素晴らしい旅路のためにも、今夜は心ゆくまでゆっくりと身体を休めるんだよ」


千海もその言葉に嬉しそうに頷いた。


明日の着物姿での散策に胸を膨らませながら、二人は宮島の静かな夜の更けていく時間を、穏やかに楽しむのだった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は、宮島の夜にもう一度、浴衣の帯を結ぶお話でした。


千海の信頼に戸惑いながらも、その信頼を守ろうとする璃景。

そして、警戒心をどこかへ置いてきているような千海。


明日は、着物で宮島を散策することになりました。


少しずつ近づいていく二人の距離と、明日への期待を楽しんでいただけましたら嬉しいです。


二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。


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