宮島の夜、帯、そして帰る方法
部屋の扉を開けると、そこには夕闇に包まれた瀬戸内海が一望できる、素晴らしい客室露天風呂が静かに湯気を立てていた。
千海はさっそく、まだどこか緊張した面持ちの璃景に説明をする。
「ここを閉めたら部屋から見えません。景色を楽しんで、ゆっくり入ってください」
千海がそう言って内側の遮光カーテンを閉めてみせると、璃景は「分かった」と短く頷いたものの、その耳の端をほんのりと赤く染めていた。
この世界にやってきてから、人目を気にせず、これほど大きな湯船で手足を伸ばす機会など一度もなかったのだ。
「浴衣があるので着られますか?」
「あぁ、大丈夫だよ」
衣服の構造が異なるとはいえ、璃景が元々着ていたものは漢服に近い形だったため、現在の衣服よりも格段に器用に着ることができるだろう。
璃景は照れたように視線を泳がせながら、どこかそわそわとした足取りで、露天風呂のあるテラスへと向かっていった。
彼を見送った後、千海も客室に備え付けられた内風呂へと向かった。
旅の疲れを湯船でじんわりと癒してから、用意されていた藍色の浴衣に袖を通す。
帯をきゅっと結び、少し乱れた髪を整えて部屋へと戻ると、ちょうど同じタイミングでテラスのガラス戸が静かに開いた。
「璃景さん、さすがですね。来られた時、帯してましたもんね」
すでに浴衣を完璧に着こなしている璃景の姿を見て、千海は感心したように声を上げた。
はだけることもなく、凛とした佇まいで結ばれた帯は、流れるような美しささえ感じさせる。
対する千海はといえば、慣れない浴衣と格闘した跡が歴然で、帯の結び目もどこか心許なく緩んでしまっていた。
その様子を見つめ、璃景はふっと目元を和らげた。
「千海、苦手なようだね」
「はい。着ることないので……」
千海が少し恥ずかしそうに自分の帯をいじっていると、璃景は一歩、静かに歩み寄ってきた。
「帯を直してもいいかな?」
「ありがとうございます」
千海が素直にお願いすると、璃景は彼女の正面に立ち、大きな手をそっと帯へと伸ばした。
すとんと落ちる浴衣の布越しに、互いの距離の近さが否応なく伝わってくる。
いつもの道中や車内よりも、ずっと近い。
湯上がりの柔らかな空気に、璃景は近衛の長としての冷静さを保とうと、内心で必死に平静を装っていた。
心臓がうるさいほどに鼓動を刻み、指先がわずかに緊張で強張る。
しかし、そんな護衛官の初々しい葛藤など露知らず、千海は至近距離にある彼の綺麗な顔立ちと手際の良さを、じっと観察していた。
「美男子、器用。メモメモ」
「千海……」
「蒼嶺国衣装、浴衣に似ている節あり、メモメモ」
頭の中で早くも次のネタを組み立てている彼女のマイペースぶりに、璃景は緊張もどこへやら、呆れたような苦笑いを漏らすしかなかった。
それでも、手元だけは狂わせない。
きゅっと手際よく、けれど苦しくない絶妙な加減で、彼女の帯を美しく結び直してみせた。
「顔面圧が凄すぎる……」
浴衣を美しく着こなし、ただそこに佇んでいるだけで一枚の絵画のようになってしまう璃景を見上げ、千海は思わず本音が漏れるようにそう呟いた。
温泉上がりでほんのり上気した肌に、端正な顔立ちがいつも以上に際立っている。
「千海……それ、絶対に褒めてないよね?」
「いいえ。多分、最大級に褒めてます」
「多分って……。君の語彙は、本当に時々私を不安にさせるよ」
「えーそうですかー?」
「その棒読み……」
「それより璃景さん。ドライヤーしましょう」
「あぁ。いつもありがとう」
璃景が少し戸惑いながらも頷くと、千海は当たり前のようにドライヤーを手に取り、彼の後ろに回った。
温かな風が、長い髪を少しずつ乾かしていく。
二人の髪を乾かし終わった時、タイミングを計ったかのように、部屋の扉が静かにノックされた。
「お食事をお持ちしました」
仲居の丁寧な声が響く。
「どうぞ。璃景さんついにお食事がきましたよ」
「噂の『あなご』と『かき』という名の、新たなる戦術の到来だね」
璃景はわくわくを隠すことなく、楽しげに喉を鳴らす。
部屋の扉が開き、仲居が夕食のお膳を運び込んできた。
しかし、部屋に入った瞬間に璃景の顔を正面から見た仲居は、まるで時が止まったかのように一瞬、その場で完全に固まってしまった。
今はいつものサングラスをしていないため、彼の持つ圧倒的な美貌が遮るものなく晒されていたのだ。
しかし、そこはプロの仲居。
すぐに我を取り戻して手際よく料理を並べ始めたが、千海は心の中で「美男子効果問題、恐るべし」と苦笑いし、そっと璃景の袖を引いて窓の外を見るよう促した。
璃景も状況を察して、気まずそうに静かに夜の海へと視線を向けた。
仲居が下がり、ようやく二人だけの空間に戻ると、お膳の上に並んだ豪華なご当地グルメを前に、千海の目が再びらんらんと輝き出した。
さっそく箸を進め、宮島ならではの食事を堪能し始める。
「千海……! このあなご、一体どうなっているんだい? 噛む必要すらなく、口の中に入れた瞬間、雪のように跡形もなく溶けてなくなってしまったよ……!」
「はい。良いあなごですからね、美味しいですね」
千海がにこにことあなごを頬張っていると、彼女は次に、大ぶりでぷりっとした不思議な形の料理を指差した。
「カキ、これ食べたことありますか?」
「ふむ、貝のようだが……。私の国ではこのような形のものは見たことがないね。食べたこともないよ」
「海のミルクって言われてるくらい濃厚で、とっても美味しいんですよ」
千海に勧められるまま、璃景はその未知なる貝――カキを恐る恐る口へと運んだ。
そして、一噛みした瞬間。
璃景はカッと大きく目を見開いた。
「っ……!? ――美味い……ッ!!」
口いっぱいに広がる、海の旨味を限界まで凝縮したような濃厚な汁と、とろけるような独特の食感。
市場で食べたふぐの洗練された美味とも、先ほどのアイスの甘みとも違う、脳を直接揺さぶるような爆発的な美味の襲来に、璃景は箸を持ったまま完全に圧倒されていた。
「千海、これは……! 確かに君が言葉を失うのも無理はない!」
璃景は、カキを見つめたまま熱弁を振るう。
「海の恵みがすべてこの一つの殻の中に閉じ込められているようだ。この広島という地は、一体どれだけ強力な美味の兵法を隠し持っているというんだ……!」
驚愕のあまり熱弁を振るう璃景の姿に、千海は「ふふふ」と嬉しそうに目を細めた。
「ですから言ったじゃないですか。美味しい、幸せ、それ以上の言葉は要らないんですよ」
「くっ……確かに、今の私にはこの美味を表現する言葉が見つからないな。我が食いしん坊作家殿の言う通りだ……!」
二人は笑い合いながら、次々と並ぶ宮島の馳走に舌鼓を打ち、お腹も心もこれ以上ないほどに満たされていくのだった。
「おいしかったですねー」
「地域の食事というのは奥が深いね」
「カキもひつまぶしも美味しくて……」
千海が満足そうに呟くと、璃景もまた、余韻に浸るように深く息を吐き、自身の浴衣の胸元にそっと手を当てた。
「本当に、何から何まで驚きと美味の連続だったよ」
璃景は、穏やかな声で続ける。
「カキも、あのひつまぶしも……ただ空腹を満たすためではなく、その土地の恵みを一番引き出すための知恵が、一皿の中にぎゅっと詰まっている」
璃景は千海へ視線を戻し、柔らかく微笑んだ。
「千海がこの地を熱烈に紹介したくなる気持ちが、今なら本当によく分かるよ」
「ですよね! 美味しいものを食べると、それだけで旅の疲れなんて全部吹き飛んじゃいます。ほら、やっぱり美味しいものを説明したくなるでしょう?」
千海が嬉しそうに頷くと、璃景の端正な顔立ちに、いつになく穏やかで、そして心からの優しい笑みが浮かんだ。
「あぁ。この世界に迷い込んだ時は、これからどうなることかと思ったけれど……」
璃景は窓の外に広がる夜の海へ、そっと視線を向ける。
「君の隣でこうして温かい湯に浸かり、その土地の至高の馳走を囲んでいる。こんなに贅沢で、心安らぐ夜を過ごせるとは夢にも思わなかった」
そして、まっすぐに千海を見つめた。
「すべては、私を広い心で受け入れてくれた我が作家殿のおかげだね。感謝しているよ、千海」
まっすぐに感謝を伝える璃景に、千海は少し照れくさそうに笑ってみせた。
「いえいえ。蒼嶺国では、これ以上の贅沢を期待してます」
千海は璃景をからかうように言う。
「そうだね。できる限りの贅を、君に堪能させてあげよう」
「そう言えば、璃景さん……帰れる方法を探さなくちゃですね」
「千海との取材旅行が楽しすぎて、忘れていたよ」
「確かにそうですね」
「スマホで検索はするんですけど、やっぱり小説とか、物語の話になってて、リアルな感じはないんですよね」
「だろうね」
「そもそも、ご都合主義で行き来できたらいいのに」
「それはかなりいいね。この世界を堪能して、千海を我が国に案内して、とても楽しそうだ」
「うーん。どうやって来たかも分かりませんしね」
「千海、もう少し楽しんでから考えよう」
「それもそうですね。帰れるときは帰れるでしょうしね」
二人は顔を見合わせて笑う。
深刻な話のはずなのに、二人の深刻さが足りない。
窓の外では、静まり返った瀬戸内の海が、月の光を浴びて穏やかに波打っている。
その静けさの中で、二人の間に流れる空気は静かになるどころか楽しそうに過ぎていく。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、露天風呂と浴衣の帯、そして蒼嶺国への帰還について少し触れるお話でした。
宮島の夜の空気と、二人の距離が少しずつ近づいていく様子。
そして、いつか訪れるかもしれない未来も、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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