鹿の包囲と、夕暮れの厳島神社
宮島の街を散策し始めると、さっそく野生の鹿の姿が目に飛び込んできた。
「千海、あれは鹿で合っているかな?」
「はい、鹿ですね。……待って。なんか、いっぱいいますね……」
「……いるね。ここはこの風景が普通なんだよね?」
「……」
「……」
「なんか多すぎて怖いですね」
「大丈夫だよ。千海は私が守るから」
「あ、ありがとうございます?」
千海は思わず笑ってしまった。
しかし次の瞬間、彼女の目が驚きに見開かれる。
「……璃景さんに集まってきてる……」
なぜか、周囲にいた鹿たちが次々と璃景の元へと集まり始めたのだった。
璃景は苦笑いを浮かべながら千海を見る。
すると彼女は、すでに少し離れた安全な場所からスマートフォンを構えていた。
「璃景さん、服食べられてます」
「えぇ」
「千海……」
「今調べたら、『近づかない、触らない、餌をやらない』らしいですよ」
「どれもしていないよね」
「はい。美男子には、鹿さえも寄ってくるんですね」
「千海……」
「あはは。写真撮れましたので逃げましょうか」
千海はどうにか璃景の近くまで行くと、その手をぎゅっと握った。
本当なら力ずくで振り払うこともできるのだろうが、動物相手に優しくて動けないでいる璃景を引っ張るようにして、軽く走り出す。
二人は鹿の群れを振り切るようにして、厳島神社の境内へと向かった。
「――っ! あ、あぁ……! すまない、千海、助かったよ……!」
鉄の獣よりも恐ろしい鹿の包囲網から、千海の小さな手に引かれるようにして脱出した璃景は、厳島神社の境内に滑り込んで、ようやく大きく息を吐き出した。
「まさか、この世界の野生の鹿が、あそこまで容赦なく衣服を喰らいにくるとは……!」
璃景は、心底驚いたように肩で息をする。
「私も初めて見ましたよ。かなりの鹿に囲まれる人間を」
「私の国では鹿といえば、人の気配を察すれば瞬く間に山の奥へと逃げ去る、気高くも臆病な生き物なのだが。この宮島の鹿たちは、まるで訓練された熟練の歩兵のように、じわじわと間合いを詰めてくるのだから、生きた心地がしなかったよ」
璃景は、上着の裾に少しだけ残った鹿の鼻の湿り気を、取り出したハンカチで気恥ずかしそうに拭った。
そして、今もしっかりと自分の手を握りしめてくれている、千海の小さくも温かい手のひらに視線を落とす。
「……千海、本当にありがとう。動けない私を、君がその頼もしい手で救い出してくれなければ、さすがの私も、近衛の長としての威厳をすべてあの貪欲な鹿たちに差し出すことになるところだった」
璃景は、少しだけ照れたように笑う。
「動物に手を出すわけにもいきませんしね」
「……ふふ。でも、君にこうして守ってもらえるなんて、なんだか特別な幸運に預かった気分だよ」
千海がスマホを片手に「ばっちり撮れました!」と悪戯っぽく笑うのを見て、璃景は釣られたように苦笑を浮かべ、そっと繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「美男子効果、動物までも魅了する問題ですね」
「『美男子効果問題』……か。君のスマホには、またしても私の不甲斐ない姿が刻まれてしまったわけだね」
けれど、璃景の声はどこか柔らかい。
「……いいさ。千海がそうやって楽しそうに笑ってくれるなら、鹿に服を食われかけたことすら、私にとっては極上の旅の思い出だ」
海の上の回廊を渡る風が、火照った二人の頬を優しく撫でていく。
目の前には、満ちてきた潮の海に美しく浮かび上がる、壮麗な朱色の社が、二人を静かに迎え入れようとしていた。
「さあ、災難を乗り越えた先の、これが本物の厳島神社だね」
璃景は、目の前に広がる朱色の回廊を見つめた。
「災難というより、鹿とのふれあいですかね? 多分」
「触れられてはいたけれど……こちらから触れてはいないけどね」
「たしかに。璃景さんも『近づかない、触れない』のお触書き必要ですかね?」
千海はくすくすと笑う。
璃景は苦笑いをして、景色に目を向ける。
「千海、まずはこの神聖な回廊を、君とゆっくり目に焼き付けよう。その後は、君が用意してくれた露天風呂と部屋での馳走を楽しみに、のんびりと神の島を歩くとしよう」
夕日に染まる朱色の回廊を、二人は並んでゆっくりと歩み進めていった。
「綺麗だね」
「はい。夕日に照らされて綺麗ですね」
二人は夕日に染まる回廊に佇み、目の前に広がる景色を静かに眺めた。
刻一刻と移り変わる空の色が水面に溶け込み、壮麗な朱色の社殿を鮮やかに浮かび上がらせている。
その神秘的な光景は、それこそどこか別の異世界に迷い込んでしまったかのような、不思議な錯覚を二人に抱かせた。
「二人で写真撮りましょう」
「ぜひ」
千海がスマートフォンを向けると、璃景はいつものサングラスを外し、隣で優しく微笑んだ。
画面のシャッターが切られ、二人の自然な笑顔が、スマホの中へと鮮やかに収まる。
「なぁ、千海。ここは本当に不思議だね」
璃景はどこか感慨深げに、海の上に広がる回廊を見渡しながら呟いた。
「はい。私も異世界に来てる気分です」
千海がしみじみとそう返すと、璃景は堪えきれないといったふうに喉を鳴らした。
「あはは。私もだ」
本物の異世界から来た男と、現代の日本を生きる作家。
全く異なる世界で生きてきた二人が、同じ海の上で、同じように「異世界にいるようだ」と感じて笑い合っている。
その奇妙で、けれど何よりも愛おしいひとときに、二人は心地よい潮風に吹かれながら、いつまでも胸を躍らせていた。
「異世界のようだが、少し我が蒼嶺国の雰囲気があるね」
朱色の回廊に視線を巡らせながら、璃景がどこか遠くを見るような目で呟いた。
「そうなんですか?」
「あぁ。少し懐かしく感じるよ」
この世界の未来のような魔道具や巨大な建物には驚かされてばかりの彼だった。
けれど、海と山が織りなす自然の美しさと、そこに厳かに佇む古き良き社の風情には、遠い故郷の面影を感じているようだった。
「素敵なんだろうな。璃景さんの祖国、蒼嶺国の景色も、建物も」
千海が心から紡いだその言葉に、璃景は嬉しそうに目を細めた。
「ぜひ、千海に見てほしいよ」
「そうですね。行けたら。贅沢三昧できますしね」
千海が冗談めかして、以前二人で交わした約束を口にすると、璃景は頼もしく胸を張り、これ以上ないほど甘やかに微笑んだ。
「あぁ。全力で満足させるよ」
異世界のような神聖な島で、夕日に包まれながら交わされる、いつか訪れるかもしれない未来の約束。
そんな二人の穏やかな会話を祝福するように、瀬戸内の心地よい潮風が、朱色の回廊を優しく吹き抜けていった。
日が沈むころ、二人は宿へ向かって歩き出した。
「夕飯楽しみです。ご当地グルメをお願いしたので。あなごのひつまぶしとか、牡蠣とかなんです」
「千海は食べものの話が一番嬉しそうな気がする」
「確かに」
「食べものの小説にしたら?」
「おぉ。あ、でも表現難しいですよ。私、美味しい、幸せしか言えないので」
「なぜ、作家ができているんだい?」
「あははは。本当に、何ででしょうね!?」
千海は頭を掻きながら、夕闇の迫る参道をからからと笑い飛ばした。
そんな彼女の屈託のない姿を見つめながら、璃景は胸元に引っ掛けたサングラスを少し揺らし、呆れたような、それでいて愛おしさを隠せないような苦笑いを浮かべた。
「まったく、君という人は……。昨日から私に『異世界美男子、頭脳明晰問題』だの何だのと大層な設定を付けておきながら、自分自身の『食』の表現が『美味しい』と『幸せ』の二語だけとはね」
璃景は、わざとらしく肩をすくめる。
「言葉を司る『作家』の看板が泣くというものだよ」
「いいんですよ、伝われば! それに、美味しいものを食べた時は、それ以上の言葉なんて本当は要らないんですから」
開き直ったように胸を張る千海の横顔に、夕食の「あなご」や「かき」という未知なる美味への期待が、文字通りこれでもかと弾けている。
地名を聞いても食い気しか見せなかったサービスエリアでの一件といい、この徹底した「食いしん坊作家」ぶりには、筆頭護衛官の防衛陣形も形無しだった。
「はは、まあいいさ。君が言葉に詰まるほどの美味なら、私が代わりにその洗練された味わいを、いくらでも物語として紡ぎ出してあげよう」
璃景は楽しげに笑う。
「それは助かります。そして良かったらそのまま使いますね」
「昨夜のラーメンがあれほど見事な一杯だったのなら、今夜の馳走は一体どんな兵法を見せてくれるのか……さあ、我が食いしん坊作家殿。そのご当地グルメの待つ宿へ、いざ帰還するとしよう!」
二人はすっかり日の落ちた宮島の静けさを心地よく感じながら、温かい光の灯る宿のロビーへと、仲良く足を進めていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、宮島の鹿と、夕暮れの厳島神社を歩く二人のお話でした。
なぜか璃景のもとへ集まってくる鹿たちと、それをしっかり記録しようとする千海。
災難のようでいて、二人にとってはまた一つ、忘れられない旅の思い出になったようです。
夕日に染まる厳島神社の景色と、そこから少しだけ見えた蒼嶺国への未来も、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。
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