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新たな約束と、広島への旅


駐車場に車を停めて、千海ちかは嫌な予感を抱きながらも建物の入口へと向かった。


しかし、チケット売り場の近くの看板には無情な文字がでかでかと表示されていた。


『休館』


「千海、なんて書いてあるんだい?」


「休館です」


「休館とは、休みのことかな?」


「……はい」


「……」


「……」


誰もいない、静まり返った大きな門の前。


心地よい海風だけが、二人の間を虚しく通り抜けていく。


あまりの事態に、璃景りけいはサングラスを少しずらし、困惑と切なさを綯い交ぜにした目で尋ねた。


「千海、その板で調べていないのかい?」


「調べたんですけど……二週間前ですね」


「…………取材はどうするんだい?」


宮廷の隠密作戦であれば、目的地が封鎖されているなど大失態の極みである。


近衛の長として、これはさすがに次の代替案を練らねばと身構えた瞬間、千海は拳をきゅっと握りしめ、むしろ清々しいほどのドヤ顔で言い放った。


「これもネタにします!」


「それでいいのかい?」


「いいんです! リアルでしょ?」


「りある?」


「んー。現実的ってことです」


「あぁ、確かに、そうだね……」


「そうなんです。この際、休館ネタも書きます」


「逞しいね。我が作家殿」


「完璧な計画通りに進む旅など、この現実の世界には存在しない! いいえ、私の計画には存在しないのです!」


そんなふうに胸を張る千海の不敵な笑顔は、昨日から何度も璃景を救い、そして彼の心を激しく揺さぶってきた、あの千海らしい姿そのものだった。


璃景は呆気にとられながらも、彼女の予想外の角度からの切り返しに、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。


「……はは、そうだね。現実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだが、まさか目的地が閉まっていることすらも、君の紡ぐ物語の肥やしにしてしまうとはね」


璃景は、少しだけ呆れたように、けれど優しく笑った。


「本当に……君という人は、どこまでも逞しいね」


「えぇ、作家ですから」


「ふふふ。作家なので、か。千海がいいなら、それも旅だと楽しもう」


少しだけ名残惜しそうに、閉ざされた門の奥を見つめる璃景に、千海は優しく目を細めて言った。


「また、水族館は行きましょう」


「本当かい?」


「えぇ。璃景さん、楽しみにしてたので。ここでも、東京でも、違うところでも行きましょう」


「約束してくれるのかい?」


「はい! 約束です」


璃景はサングラスの奥から、真っ直ぐに千海を見つめた。


「東京」へ帰ってからでも、違う場所でもいい。


千海が、この先の未来にも自分を隣に置いて、一緒に新しい景色を見に行こうと言ってくれた。


その事実が、璃景の胸の真ん中を、言葉にできないほどの喜びで満たしていく。


「楽しみにしているよ」


璃景はサングラスの位置を戻しながら、今度は心からの、溢れんばかりの笑顔を千海に返した。


「よし、ならばこの『休館』という手痛い敗戦も、我らの偉大なる旅の輝かしい一ページだ」


璃景は閉ざされた入口を見上げ、それから千海を振り返る。


「水の中の宮殿は次回の楽しみに取っておくとして……我が前向きな作家殿、次なる目的地はどこにしようか? 君の行くところなら、地の果てでも、完璧な盾としてどこまでも同行させてもらうよ」


二人は車に乗り込み、千海がスマートフォンを操作して、車内にお気に入りの小気味よい音楽を流し始めた。


それを見た璃景が、感心したように呟く。


「その板は便利だね」


「璃景さんも文字を覚えたら買います? 用意しますよ」


「私にできるだろうか?」


「はい。教えますから。すぐにできるようになりますよ」


「では、読めるようになったら、お願いしてみようかな」


「了解です」


自分がその板を持ち、千海と言葉を交わす姿を想像して、璃景は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。


サングラスの縁を少し気恥ずかしそうに触りながら、次の旅路について尋ねる。


「今からはどこに向かうんだい?」


「次は広島へ行こうかなって思ってます」


「ひろしま?」


「はい。昨日いたところが福岡県、今いるのが山口県。次は広島県ですね」


「どれくらいかかるんだい?」


「三時間ですかねー。途中で休憩は入れます」


「ほう……『ふくおかけん』から『やまぐちけん』、そして次は『ひろしまけん』かい。この世界の土地の区切りは、実に細やかで、そしてどれも美しい響きを持っているのだね」


璃景は助手席に深く腰掛け、車内に響き渡る心地よい音の調べに耳を傾けた。


「それにしても、広島、か。そこまでは三時間もかかるのだね。昨夜、あの海を渡る大架橋を瞬きする間に駆け抜けたこの車をもってしても、それほどの時間を要するとは……」


璃景は窓の外へ視線を向ける。


「この陸地は、私が考えているよりも遥かに広大で、果てがないようだ」


窓の外では、山口県ののどかな緑が心地よい速度で後ろへと流れていく。


三時間の行軍となれば、彼の国なら馬を何頭も乗り潰す一大遠征だった。


「よし、ならばその長旅の道中も、私にとってはすべてが文字の修行であり、君にとっては最高の取材の宝庫だね」


璃景は楽しげに笑った。


「千海、疲れたらいつでも言っておくれ。私にこの車を操る術はまだないけれど、君の隣で眠気を吹き飛ばすような蒼嶺国そうれいこくの武勇伝なら、いくらでも語って聞かせるからね。……さあ、音楽と共に、新たなる広島の地へ、いざ出陣だ!」


「はい。途中で休憩しつつ行きましょう」


「あぁ、頼むよ。異界の強行軍には、適度な休息こそが最大の兵法だからね」


璃景はシートに深く背を預け、山口県ののどかな山並みを眺めた。


「昨日から、バリカタのラーメン、海の上の大架橋、毒のあるふぐ、そして罪深き魔法のタレ、タルタルソース……。私の頭と胃袋は、すでに一国を揺るがすほどの記憶で満ちている」


彼は、どこか満足そうに息を吐いた。


「ここで一度、頭を冷やしつつ、次の広島という戦地に備えるのは大賛成さ」


車内には、千海のスマートフォンから流れる音楽が優しく響き続けている。


「千海、途中の休憩所に寄ったら、また何か新しい文字を私に教えておくれ。今度こそ、看板の文字を自分の力で読み解いて、君をあっと驚かせてみせるからね」


璃景はサングラスを指先で少しだけ持ち上げ、運転席の千海に向けて、悪戯っぽく微笑んでみせた。


「……おっと、もちろん、そこで見つけた面白いものや、私の間抜けな驚き顔は、いくらでもその板に収めてくれて構わないよ」


「ありがとうございます。遠慮なく隅々までネタにさせてもらいます」


と、千海が力強く笑った。


「ふふ、やはり作家殿は素晴らしいね」


璃景は楽しげに笑い、窓の外へ視線を戻した。


「さあ、のんびりと進もうじゃないか。君と行く旅路なら、三時間の道のりも、きっと瞬きをする間のように楽しく過ぎ去ってしまうのだろうからね」


しばらくして、璃景はサングラスを外し、真剣な眼差しで窓の外の道路を見つめた。


「車専用の道は便利だね」


「はい。信号も人もいないので、止まらず進めますからね」


「街道で馬が飛び出してきて止まれない事故はよくあったから、これはいいね」


「そうですね。ただ、早く走れる分、車同士の事故はあるので気をつけないといけませんけどね」


「なるほど、車同士の衝突か……」


璃景は外したサングラスを指先で弄びながら、流れる景色へ向けた視線を少しだけ鋭くした。


「確かに、これほどの神速でひしめき合って走っているのだ。ひとたび制御を失えば、その衝撃は馬の比ではないだろうね」


信号も人もいない平穏な道に見えて、ここは常に一瞬の油断も許されない、別の意味での戦場というわけだ。


そう呟きながら、璃景はハンドルを握る千海の、小さくもまっすぐな背中を盗み見た。


彼女はこんな恐ろしい乗り物を、昨日から何食わぬ顔で、しかも自分を隣に乗せて平然と操っている。


その繊細な指先ひとつに二人の命が預けられているのだと考えると、改めて彼女の胆力の据わり方に感服せざるを得なかった。


「千海、君がこの車の『手綱』を握ってくれている限り、私は君の力になるからね」


璃景は少しだけ座り直し、外したサングラスを胸元に引っ掛けた。


「……といっても、私にできるのは、こうして隣で不審な車が近づいてこないか目を光らせることくらいだけれどね」


サングラスを外した目で見るこの世界の景色は、ガラス越しであっても、やはりどこか鮮烈で、青く、そしてどこまでも広かった。


「よし。危険が伴う長旅だからこそ、途中の休憩はしっかりと挟まなくてはね。千海、少しでも目が疲れたり、手綱を握る手が重くなったら、すぐに休憩所に車を滑り込ませるんだよ」


璃景は、真剣な声で言う。


「君の無事と健康を守ることこそ、この筆頭護衛官の、何よりも最優先される任務なのだからね!」


千海は彼の頼もしい言葉に「はいはい、分かりました。ちゃんと休憩します」と笑いながら、山口県の高速道路を安全な速度で広島へと向かって走らせていった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


さすが千海。休館も、しっかりネタへと変換していきます。


璃景も、そんな千海のタフさに感心しつつ、

これからの移動への期待と、千海への心配を見せるお話になりました。


二人の掛け合いと旅の雰囲気を、少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。


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