カニクリームコロッケとタルタルソースを知る
「さあさあ、璃景さん、ご機嫌直して。これは食べたことないと思いますよ。かにクリームコロッケです」
千海がそう言って差し出したのは、黄金色に輝く、なんとも芳しい衣を纏った小判型の塊だった。
聞いたこともない響きに、璃景は先ほどまでのジト目を解き、再び箸を片手に身を乗り出した。
「かに、くりーむ、ころっけ……?」
昨夜のラーメン、先ほどの軍艦に続き、またしてもこの国の食文化は、彼の知らぬ未知の調和を見せようとしていた。
「かに、というのは……あの、硬い鎧を纏った海に棲む生き物だね? それを「くりーむ」という、こちらの世界でしか聞かないものと混ぜ合わせて、火を通したのかい?」
璃景は箸でそっとそのコロッケを突いてみた。
衣はカリッと、けれどその内側からは、まるで冬の暖炉のような柔らかな湯気が立ち上っている。
「……はは、まいったな。毒の悪戯の、そのさらに上を行くような美味の誘惑。これを見せられては、怒り続けることなど不可能だね」
千海がまたしてもニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべているのを見透かすように、璃景も釣られて苦笑いを浮かべた。
「さあ、この『カニクリームコロッケ』とやら、いざ尋常に勝負だ。今度こそ毒の心配はないと信じて……いいかい、千海。もしこれが『実は中身が毒草のすり潰しでした』なんていう結末だったら、さすがの私も君を護衛しながら涙を流すことになるからね!」
そう言ってから、箸で少しだけ割った熱々の衣を口へと運んだ。
外側のカリカリとした食感の直後、中から溢れ出した濃厚で甘美な香りが、一気に口の中に駆け巡る。
「――っ!? なんという……! これが、かにの旨味と、この滑らかな『クリーム』の融合か……!」
璃景は目を丸くした。
「まるで、冷たい海で育った海の幸が、この国の人々の温かい情熱で、とろける衣の中に抱かれているようだ……!」
璃景は箸を止めることも忘れて、「美味い……!」ともう一口、また箸を伸ばした。
「気に入ってもらえてよかったです。ふ、ふふふ」
満足げな様子の千海に、璃景は降参したように微笑む。
「ふふふ、また君のその『確信犯的な笑み』にやられてしまったよ」
「フライも美味しいですよ」
千海はそう言うと、今度は揚げ物を取り出した。
その上に乗せられた白い調味料を見て、璃景の目がさらに輝く。
「おぉ。このつけるものは……なんて美味しいんだ」
「タルタルソースです」
「たるたるそーす?」
「揚げ物につけると美味しいんですよー」
「なんて魔法の食べものなんだ……」
夢中で食べる璃景の姿に、千海はスマートフォンを手に取って嬉しそうに笑った。
「あはは。異世界美男子、タルタルソースにはまる、ですね」
「メモるのかい?」
「はい。これはメモります」
「どうぞ、作家殿。……写真はいいのかい?」
「そうですね。食事と市場は撮りましたけど、璃景さんを撮ってませんでした」
「私かい?」
「何かお気に入りの食べもの……結構食べ終わりましたね。あはは。タルタルソースとフライで一枚」
二人は購入した惣菜たちを綺麗に平らげ、大満足で一息ついた。
海からの穏やかな風が吹く中、璃景はふと、海へと視線を向ける。
「千海。蒼嶺国では生の魚を食べることは、あまりないんだ」
「そうなんですか!?」
「あぁ。ほとんど食べないね」
「抵抗なく食べてましたよね」
「どうせなら、挑戦してみようかと思ってね」
璃景はくすくすと笑った。
「どうしても、千海の食べてるものを食べたくてね」
彼は海を見つめながら、少し懐かしむように目を細める。
「そもそも私の故郷である蒼嶺国は、険しい山々に囲まれた国なんだよ。海に面した土地がないわけではないが、都まで魚を生きたまま、あるいは新鮮な状態で運ぶのは至難の業でね」
璃景は、先ほど食べたフグの刺身を思い出すように、穏やかに続けた。
「魚といえば、基本的には塩をきつく振って干したものか、完全に火を通した燻製のようなものが主流だった。だから、こうして海を眺めながら、さっきまで泳いでいたような瑞々しい魚をそのまま口にするなど、私にとっては未知の領域だったけど、美味しかったよ、千海」
千海は、心底驚いたように目を丸くしていた。
箸の使い方も含めて、あまりにも璃景が自然に馴染んでいたため、そんな文化の違いがあるとは思いもしなかったのだ。
「無理な食べものとかあったらすぐに、教えてくださいね」
「はは、どうせなら、君の世界のすべてに全力で挑戦してみようかと思ってね」
璃景はサングラスの位置を少しだけ直し、悪戯っぽく、しかし真っ直ぐに彼女を見つめて笑った。
「君が私をこの世界へ迎え入れてくれたその日から、私は決めたんだ。見たことのないものに怯えて殻に閉じこもるのではなく、千海が『美味しい』と笑うものなら、そのすべてを私も同じように味わってみたい、とね」
それから、空になった容器や割り箸を一つにまとめながら、少しだけ楽しげに笑う。
「それに……私のために一生懸命に馳走を選んで、嬉しそうに差し出してくれる君の顔を見てしまったら、武人として退くわけにはいかないじゃないか」
璃景は大きく伸びをした。
お腹も心も、これ以上ないほど満ち足りていた。
「生の魚の洗練された味わいも、あの『タルタルソース』という罪深い魔法のタレも、すべてが私の血肉となったよ」
「血肉って……生々しいですね」
璃景は市場の方を振り返り、満足そうに息を吐いた。
「君という人は、私の胃袋だけでなく、心まで簡単に翻弄する。蒼嶺国の将軍たちも、その笑顔と馳走の前では一日で降伏してしまうだろうね」
空になった即席の皿を片付け、潮風に目を細める。
「……さて。心ゆくまでこの地の美味を味わい、君の悪戯にもすっかり手懐けられたことだし、そろそろ『水族館』という未知の宮殿へ向かう準備をするとしようか」
「そうですね、お腹もいっぱいになったので、次に行きましょう」
「あぁ。楽しみだね」
「はい。お魚やペンギンを見に行きましょ」
「ぺんぎん……? また、私の知らない奇妙な響きだね」
璃景は「水族館」という未知の宮殿へ向かうため、千海の後を追って再び車へと歩き出しながら、その不思議な言葉を口の中で転がした。
「魚は今、市場でたくさん目にしたし、その美味さにも完全に降伏したから分かる。だが、その『ぺんぎん』というのは一体何なのだい?」
璃景は真剣な面持ちで、サングラスの奥の目を細める。
「響きからすると、何やら小さくて、少し愛嬌のある水の妖精のようなものか……あるいは、逆に海中を凄まじい速さで泳ぐ、鋭い牙を持った未知の獣なのか……」
璃景がまたしても脳内で武人としての警戒と大いなる妄想を膨らませていると、千海は「ふふふ」と肩を揺らして笑った。
「千海、またそうやって私の反応を楽しんでいるね? さっきの『毒の悪戯』といい、この『ぺんぎん』という響きといい、君は本当に私を未知の領域へ放り込む天才だ」
璃景は、どこか楽しげに笑う。
「……だが、いいだろう! どんな恐ろしい水の族が待ち受けていようとも、私は君の完璧な盾だ」
助手席の扉を開け、千海が運転席に乗り込むのを確かめてから、璃景も腰を下ろした。
「さあ、我が恐れ知らずの作家殿。その『ぺんぎん』という名の生き物が待つ宮殿へ、この車を走らせておくれ。道中の看板にあるカタカナとやらも、覚悟を決めて睨みつけてやるからね!」
「なぜ、毎回敵意を前提で話すんですか」
千海はくすくすと笑いながら、アクセルを踏み込んだ。
車は、次の驚きが待つ水族館へと向かって、きらめく海沿いの道を滑るように走り出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回も、唐戸市場で朝ごはんを楽しむ二人のお話でした。
カニクリームコロッケに驚き、タルタルソースという魔法のような味に魅了される璃景。
千海の好きなものを自分も食べてみたいという気持ちも、少しずつ強くなっているようです。
海沿いの空気と、市場の賑わいを少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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