異世界美男子、唐戸市場で軍艦とフグを知る
「あれは観覧車です。まあ、ここでなくても乗れるので、あれは次回。それより市場へ行きますよー」
千海がそう言って歩き出すと、璃景は「ああ」と短く応じてその後に続いた。
「これが『観覧車』……。あんな巨大な輪が空で回るのか。この国の人々は、空を飛ぶだけでは飽き足らず、輪に乗って天へ挑むのかい……恐ろしいね」
璃景は空に浮かぶ巨大な輪に圧倒されつつも、千海の手引きで市場という名の、活気ある戦場へと進んでいく。
市場の建物へと足を踏み入れた瞬間、そこはすでに無数の人で埋め尽くされていた。
見渡す限りの魚と人、そして熱気。
香ばしい磯の香りと、魚特有の新鮮な匂いが入り混じり、周囲には働く威勢の良い声が飛び交っている。
千海はその活気に気圧されることもなく、慣れた足取りであちこちの店を回り、店の人と軽く言葉を交わし始めた。
並ぶ食材を吟味しながら、彼女はフグの刺身や、はち切れんばかりの大きさをした海苔巻き、そして「軍艦」と呼ばれる大ぶりの寿司、さらには魚の揚げ物や汁物を手際よく頼んでいく。
「おじさん、その軍艦ください」
「はいよ! 五百円ね」
「千円からお願いします」
「お箸いるかい?」
「二膳お願いします」
「はい、ありがとうねー」
そんな二人の軽いやり取りを、璃景は背後から少し離れてじっと見守っていた。
「千海……今のやり取り、見事だったよ。千円という紙を差し出し、箸を二膳要求する……。まるで、長年の盟友との間で行われるような、無駄のない意思疎通だったね」
千海が両手に抱えた、美味しそうな香りを放つ獲物の数々を見つめながら、彼は思わず感嘆の声を漏らした。
「それにしても、この『ぐんかん』というもの……。海苔でくるまれたその姿は、確かに荒波を乗り越える小舟のように見える。魚の切り身がその上に鎮座する様は、まるで海の幸を運ぶ勇猛な一隊のようだ」
璃景は千海の手から汁物を受け取り、横を歩いた。
「さあ、この『軍艦』とやらを食す準備は整った。市場の喧騒の中で食べる、この異界の馳走……。千海、この戦果を広げられる場所へ案内しておくれ」
璃景は、手元の汁物と、千海の抱えた料理を楽しげに見つめる。
「君が笑いながら選んだ獲物たちだ。私の武人の誇りにかけて、一口たりとも無駄にはさせないよ」
二人は市場を出て、少し離れた海沿いの、腰を掛けられそうな場所へと向かった。
千海が璃景を振り返る。
「こんなところで座って食べてもいいですか?」
「どこでも大丈夫だよ」
「よかったです」
「はい。冷たいお茶です」
「ありがとう」
「割り箸どうぞ」
差し出された木片を見つめる璃景に、千海は「こうやって割って使います」と言いながら、パキッと器用に割り箸を割ってみせた。
「おぉ……! すごいね、千海」
「はい」
千海は満足そうに微笑むと、買ってきた料理を広げて食べ始めた。
まずは温かい汁物を口にする。
「お味噌汁しみる〜」
「私も。ふぅー」
璃景も器から立ち上る湯気を浴びながら、その黄金色の味噌汁をごくんと飲み干し、深くため息をついた。
「……っ、ふぅー。美味い……。この温かさが、身体の隅々にまで染み渡っていくようだね」
昨夜の濃厚な豚骨の出汁とはまた違う、海の恵みをそのまま凝縮したような、深く優しい味わいだった。
旅の疲れがみるみる溶けていくのを感じながら、璃景は手元に握られた割り箸を見つめる。
「それにしても、千海。一本の木の棒を己の手で『パキッ』と二つに割り、それをそのまま馳走を挟む道具にするとは……。なんと無駄がなく、かつ洗練された仕組みなのだ」
璃景は真新しい箸をまじまじと見つめ、まるで名剣を授かった武人のように何度も頷いた。
「私の国では、職人が精魂込めて削り出した箸を大切に使うものだが、この世界では、食べるその瞬間に自らの手で道具を『完成』させるのだね。いや、実に見事な手際だったよ!」
海の向こうには、島が見える。
波の音が心地よく足元を叩き、通り抜ける潮風がサングラスの奥の頬を撫でていく。
「こうして海を眺めながら、外の風に吹かれて食べるご飯というのは、なんだか遠征の途中で兵たちと囲んだ焚き火の夜を思い出して、妙に落ち着くものだね」
璃景は箸を器用に動かし、千海が買ってくれた豪華な軍艦をひとつ、そっと挟み上げた。
海苔の香ばしい香りと、その上に乗った大ぶりの魚の身が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
「さあ、この『軍艦』という名の小舟を、いざ私の胃袋という名の海へ出航させてもらうよ、我が作家殿。……うん、千海が嬉しそうに選んでくれたものだ。美味くないはずがない。いただきます!」
勢いよく口へと運んだものの、その軍艦は一口で収まるにはあまりにも巨大すぎた。
璃景は目をパチパチとさせて、完全に固まってしまう。
「ふ、ふふふ。取り皿がないので、蓋でもいいですか? はい、どうぞ」
「む、ぐふ……っ!?」
海苔の歯応えと、溢れんばかりの海の幸、そしてシャリの塊が三位一体となって口内を支配していた。
美味しいのだが、いかんせん口を動かす隙間がない。
大慌てしている彼の姿を見て、千海はお腹を抱えて楽しそうに笑った。
彼女は手際よく、汁物の透明なプラスチックの蓋をひっくり返し、即席の取り皿として差し出してくれた。
「ふ……ふぅ、すまない、千海。この軍艦、見かけによらず、なかなかの重装甲でね。私の口という城門を、力任せに押し通ろうとしてきたよ」
ようやく一口分を噛み砕き、喉へと送り込んだ璃景は、恥ずかしさに頬をほんのり赤くしながら、彼女の差し出してくれた蓋の上に、残りの半分をそっと置いた。
「なるほど、この世界の皿は、こうして蓋すらも即席の盾に変形できる優れものなのか。君の機転には、毎度ながら救われるよ」
冷たいお茶を一口飲んで息を整え、改めて蓋の上の軍艦を見つめる。
口の中に残る魚の圧倒的な甘みと海苔の香ばしさが、鼻の奥へと抜けていった。
「しかし、この美味さ……一口でいこうとした私の無鉄砲さを差し引いても、実に見事だ」
璃景は、感心したように息を吐く。
「千海、君がこの地を懐かしむ理由が、この一切れを食べただけで本当によく分かったよ。この豊かな海が、君のあの優しい物語の感性を育んだのだね」
今度はしっかりと確認をしてから、残りの半分を口へと運んだ。
「さあ、次はあの透き通った『ふぐ』という強敵だ。千海、この蓋の盾を遺憾なく活用させてもらいながら、君の故郷の味を、最後の一粒まで堪能させてもらうよ!」
璃景が美しく透き通ったフグの刺身を箸で取り、口にしてしっかりと飲み込んだのを見届けてから、千海は不敵な笑みを浮かべて告げた。
「フグって、毒があるんですよ」
「!?」
「な、何だと……ッ!? 毒……!? いま、毒と言ったのかい、千海……!?」
その一言に、璃景は箸を持ったまま文字通り全身を硬直させた。
「あ、大丈夫です。免許を持った方が捌いて、毒のないところを出してくれるので。ふ、ふふふ」
璃景はゆっくりと箸を置き、サングラスを思い切り指先で下げて、剥き出しの瞳で彼女をじっと見つめた。
完全に据わった、文字通りのジト目である。
「千海……わざとだね」
「ふ、ふふふ。はい」
「君という人は……」
悪びれもせず、むしろ今日一番の満面の笑みで頷く彼女を見て、璃景は深いため息とともに、がっくりと肩を落とした。
璃景は胸に手を当て、心底肝を冷やしたように息を吐いた。
「私が完全に飲み込んだ瞬間を見計らって言うなど、確信犯もいいところじゃないか。私の肝がこれ以上ないほど冷え切る姿を、見て楽しいのかい?」
「私もおじいちゃんにされたんですよ。ふふふ」
心臓の激しい高鳴りは、毒のせいではなく、完全にこの愛らしい策士に一本取られたせいだった。
「……はぁ。しかし、国から免状を授かった特別な包丁の使い手でなければ扱えない魚とは、やはりこの『ふぐ』、ただ者ではなかったのだね」
璃景は再び箸を取り、今度は千海の笑顔に降伏するように苦笑いを浮かべた。
「毒という刃を完璧に取り除き、この至高の美味だけを民に届けるとは……この国の職人たちの技、恐るべしだ」
そして、透き通ったフグの刺身を改めて見つめる。
「我が作家殿の仕掛けた悪戯なら、いくらでも喰らってあげよう。だが、次からはせめて、箸をつける前に教えておくれ」
璃景は、少しだけ恨めしそうに、けれど楽しげに笑った。
「私の心臓が、この世界の技術と君の悪戯のせいで、何個あっても足りなくなってしまうからね!」
「そうですか? 璃景さん強靭そうですよ」
「この世界に来てから、自分の強さが実は大したことはないのではないかと思うよ」
「そうなんですか? かなり強そうですけどね」
千海は楽しそうに声を上げて笑い、二人は爽やかな潮風が吹き抜ける海沿いで、残りの馳走を仲良く平らげていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、唐戸市場で朝ごはんを楽しむ二人のお話でした。
軍艦巻きを本当に「軍艦」として受け取る璃景と、ふぐの毒を飲み込んだあとに教える千海。
千海にとっては懐かしい悪戯でも、璃景にとっては心臓に悪い体験だったようです。
海沿いの空気と、市場の賑わいを少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
よろしければ、ブックマークや評価をいただけると励みになります。




