意識と無意識、そして取材へ
暗闇の中で響く、小さく、そしてあまりにも無防備な寝息。
璃景は仰向けのまま、天井を見つめるようにして、ただその静かな音を耳で追っていた。
……本当に、大物というか、何というか。
声には出さず、心の中だけでそっと呟く。
昼間の千海の「作家ですから」という不敵な笑みや、事前の説明を「面倒くさい」と切り捨てたいたずらっぽい瞳が、暗がりの視界の裏に鮮やかに浮かび上がってきた。
彼女は今、自分のことを「面白いネタをくれる都合のいい異世界人」だと思って、楽しそうに夢の世界を歩いているのだろうか。
自分を無防備に驚かせ、その反応を小さなスマートフォンに書き留めては、嬉しそうに目を細める。
その姿は、宮廷で謀略を巡らせる百官たちよりも、ずっと璃景の心を捕らえて離さなかった。
彼の世界では、誰もが自らの身を守るために言葉を飾り、刃を隠していた。
だが、この世界の彼女は、刃どころか何の警戒も持たずに彼の隣を歩き、こうして同じ部屋で安らかに眠っている。
この平穏を、誰が壊させてなるものか。
璃景は布団の中で大きな手を一度ぎゅっと握り締め、それからゆっくりと力を抜いた。
明日になれば、また彼女の言う「取材の本番」が始まる。
きっと自分は、また見たこともない未来の技術や、この世界の常識に目を白黒させ、彼女を大いに楽しませることになるのだろう。
カタカナとやらを習う時も、きっとまた「異世界美男子頭脳明晰問題」などと言って、悔しそうな、けれど嬉しそうな顔で自分を褒めてくれるに違いない。
彼女が紡ぐこれからの物語の中に、自分の生きた証が、そして今のこの奇妙で愛おしい時間が、ほんの少しでも刻まれるのなら――。
バリカタの麺に挑んだ武人の誇りにかけても、完璧な盾として彼女の隣に立ち続けよう。
「おやすみ、千海」
届かないほどの小さな囁きを闇に溶かしながら、璃景は彼女の穏やかな寝息に自身の呼吸を重ねるようにして、ゆっくりと意識を深い眠りへと委ねていった。
窓の外では、小倉の夜の灯りが、静かに二人を包み込むように輝き続けていた。
しかし、深く眠れた時間は、そう長くはなかった。
布団が擦れるわずかな音。
隣のベッドで千海が小さく身じろぎをし、寝返りを打ったその気配だけで、璃景の意識は跳ねるようにして覚醒した。
どきどきどき、と、静まり返った暗闇の中で、自分の鼓動だけが妙に大きく響いている。
浅く眠っていた状態から、千海が動いただけで完全に目覚めてしまった。
故郷の宮廷で主上の寝所の外を守っていた頃も、浅い眠りの中で常に周囲の気配を探るのが常だった。
風の鳴る音。
忍びの衣擦れ。
暗殺者の放つ微かな殺気。
それらを察知して跳び起きる生活を何年も続けてきたのだから、今さら途中で目が覚めることなど、彼にとっては日常の延長に過ぎないはずだった。
何も変わらない。
武人としての習性だ。
そう自分に言い聞かせようとするのに、胸の奥の収まりの悪さは、あちらの世界のどれとも違っていた。
「ふぅ……」
璃景は寝返りを打たないよう、仰向けのままゆっくりと息を吐き出した。
千海は、自分の命の恩人だ。
見ず知らずの、それこそ化け物か何かかもしれない異界の男を拾い、怯えることもなく、こうして温かい食事と寝床まで与えてくれている。
その深い慈悲には、生涯を懸けても返しきれないほどの恩義を感じていた。
けれど、それだけではないのだった。
今日の昼間、あのうどんの店で、少し寂しそうだった彼女が、自分の言葉で少し元気を取り戻してくれた。
変わらない味に安堵し、喜ぶ顔。
そして、小倉での自分の言葉や、驚く姿を見るたびに、メモ、メモと瞳を輝かせていた姿。
あの瞬間の、心から弾けるように喜ぶ千海の姿は――。
……可愛かった、な。
暗闇に紛れて、誰も見ていないというのに、自分の顔が熱くなるのが分かった。
あのスマートフォンという板で、自分の間抜けな顔を撮って悪戯っぽく笑っていた時の、子どものような無邪気な笑顔。
あれも、たまらなく可愛らしかった。
彼の国で、彼の前に並ぶ者たちは皆、畏怖か、あるいは打算を含んだ目で彼を見ていた。
それなのに彼女は、彼をただの璃景として、時にはからかい、時には頼りにし、あんなにも屈託のない、温かい笑顔を向けてくれる。
感謝している。
彼女が求めるのなら、どんな物語のネタだって、喜んで差し出すつもりだ。
だが――。
同じ部屋というのは、仕方のないことなのだ。
彼女の支援にも限りがあるし、私を一人にするわけにもいかないのだから。
……だが。
気になるものは、気になるのだった。
いくら信頼の証とはいえ、仕切りのない同じ空間に、彼女の穏やかな寝息がある。
その事実だけで、彼の頑強なはずの理性は、奇妙なほど落ち着かなくなってしまう。
「……修行が足りないね、私は」
璃景は額に片手を当て、音の出ない苦笑を漏らした。
かつて戦場で、数千の敵を前にしても震えなかったこの心が、たった一人の小さな作家の寝返りひとつに、ここまで揺さぶられている。
もう一度、ゆっくりと深く息を吸い、胸の高鳴りを鎮めるようにして目を閉じる。
明日もまた、彼女の隣で完璧な盾であり続けるために。
そして、あの愛らしい笑顔を一番近くで守るために。
彼はもう一度、その心地よい緊張感をもって暗闇の中へ、静かに意識を沈めていった。
何の緊張も疑いもなく、千海はそのまま、すやすやと眠り続けた。
朝になり、千海は元気いっぱいに起きた。
「寝たー。あら、璃景さん早いですね。おはようございます」
「あぁ。おはよう、千海」
ベッドから立ち上がり、すでにきちんと整えておいた身なりを確かめながら、璃景は彼女に向けて微笑んだ。
浅い眠りの連続で少しだけ残っていた目の奥の熱も、朝の光とともに弾けて消えた。
何より、目の前で弾むように動く彼女の姿が、彼の頭を一瞬で明晰にしてくれた。
「朝ごはんを市場に食べに行きましょう。今日は橋を渡り、市場に行って、水族館に行きます」
「本当によく眠れていたようだね。君のその元気な顔を見られて安心したよ」
璃景は、昨夜の賑やかな食事を思い出して言葉を続ける。
「朝ごはんは市場で、か。あはは、昨夜あれほどバリカタと普通のラーメンを平らげたというのに、不思議と私の胃袋は、もう次の美味を迎える準備を始めているようだ。この世界の食の魔力には恐れ入るね」
璃景が上着を羽織り、サングラスをいつもの位置に収める。
「ほう……橋を渡り、市場、そして水族館かい」
また新しい、聞いたこともない響きが彼女の口から飛び出してきた。
市場というのは彼の国にもあるが、異界の市場となれば、また見たこともない海の幸や奇妙な食材が並んでいるに違いない。
そして、その先にある水族館という場所の響き。
文字通りに解釈するならば、水に棲む生き物たちの宮殿、といったところだろうか。
「昨日、城の天守閣だった場所がカフェになっていたのだ。君の言う水族館とやらも、きっと私の想像を遥かに超えた奇想天外な世界が広がっているのだろうね」
璃景はドアの前で立ち止まり、ルームキーを片手に持った千海を振り返った。
「さあ、我が作家殿。昨夜の勉強の成果を試すためにも、道中の看板のひらがなを片っ端から読み解きながら、その新しい冒険の地へ同行させてもらうよ」
璃景は、楽しげに笑う。
「今日も完璧な護衛として、そして君の最高のご都合主義――ネタとして、全力で働かせてもらうからね。案内しておくれ!」
準備をしてホテルをチェックアウトした二人は、再びレンタカーに乗り込んだ。
千海は車を「上の道」、すなわち高速道路へと向かわせる。
「千海……車がモノレールみたいに……上を走っているよ?」
「はい。車専用の道です。歩行者……人が歩かないので、止まらずに進みます」
「人間が、歩かない道……! 車のためだけに築かれた、天空の回廊というわけか」
璃景は助手席の窓に張り付かんばかりにして、次々と自分たちの横を追い抜いていく車の群れを見つめた。
地上の喧騒から切り離されたその道は、信号もなく、ただ目的地へと向かってどこまでも滑らかに伸びている。
歩行者がいないから止まらない、という千海の合理的な説明に、彼は改めてこの世界の技術の容赦のなさに感嘆するしかなかった。
「我が国の軍用街道も、馬を走らせるために民の立ち入りを制限することはあるが……ここまで徹底して車専用の高架を天高くに渡してしまうとはね」
璃景は、窓の外を見ながら目を丸くする。
「千海、この高速道路とやらは、一体どこまで続いているんだい? まるで、このまま雲の上まで駆け上がってしまいそうな錯覚を覚えるよ」
璃景が流れる景色を夢中で追いかけていると、運転席の千海は彼の様子を横目で見て、またしても楽しそうにくすりと笑った。
「本当に、君の隣にいると、昨日まで当たり前だと思っていた景色がすべて新鮮な驚きに変わる」
璃景は、ふと前方の大きな看板を指差した。
「……おや、千海、見ておくれ。あの前方の大きな看板……習った『し』と『き』がある気がするぞ。あれが……『しものせき』、かい?」
璃景は覚えたてのひらがなを頭の中で必死に組み合わせながら、看板の文字を読もうとしていた。
「ほら、看板の文字を読もうと奮闘する私の姿も、君のスマートフォンにはいい記録――ネタになるだろう?」
彼はどこか得意げに笑う。
「さあ、この天空の道を抜けた先にあるという橋と市場へ、私を連れて行っておくれ、我が頼もしい作家殿!」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、眠りにつく前の静かな時間の中で、璃景の中の千海への意識が少し変わっていくお話でした。
恩人として感謝しているだけではなく、守りたい人として、そして気になってしまう人として。
そんな璃景の気持ちが、少しでも伝わっていたら嬉しいです。
朝からは、いよいよ取材の本番へ。
少しずつ近づいていく二人の距離を、楽しんでいただけましたら幸いです。
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