信頼を守る夜と、小さい「っ」
部屋に入ってから、千海は飲み物を用意していなかったことに気づいた。
ホテルの近くにコンビニがあったので、彼女は財布を手に取る。
「璃景さん先にお風呂どうぞ。飲み物買ってきますね」
「わかった。ありがとう」
璃景はシャワーをすませて、部屋をでると、ちょうど千海が部屋に戻ってきた。
「冷たいお茶とお水を買ってきたので、飲んでおいてください」
千海はそう言って、コンビニの袋からボトルを取り出してテーブルに置くと、着替えの入ったバッグを手に取って、そのまま浴室へと向かった。
一人残された璃景は、勧められた水をありがたく一口含んだ。
喉を潤す冷たさは心地よかったが、彼女の気配が部屋から消えた途端、それまで賑やかだった空間が急にしんと静まり返る。
意識しないように、別のことを考えようと壁のスイッチや本に目を向けてみる。
けれど、どうしても耳が拾ってしまう音があった。
静まり返った客室の奥から響いてくるのは、衣服の擦れるかすかな音。
そして、ザーザーと静かに流れ続けるシャワーの音だけだった。
「千海……警戒が低いというのは、信頼されている証拠なのだが……なんだ、このなんとも言えない気分は……」
璃景はぽつりと呟き、額を手で覆って深くため息をついた。
昨夜、一切手を出さないと誓ったのは自分である。
彼女がその言葉を一片の疑いもなく信じてくれているのは、護衛官として、そして一人の男として、この上ない名誉なはずだった。
自分を、身分証のない厄介者として見捨てなかったこと。
窮地を救うために、同じ部屋に泊まるという決断までしてくれたこと。
その優しさと確かさには、心から感謝している。
だが、それとこれとは話が別だった。
防音の行き届いたこの世界の建物では、外の雑踏の音が遮断される分、同じ部屋にいる彼女の微かな気配が、驚くほど鮮烈に伝わってくる。
いくら理性を保とうとしても、行きずりの大男と同じ空間で無防備に身を置く彼女のお人好しさに、胸の奥が落ち着かなくなる。
ハラハラするような、けれどどこか温かい、奇妙な熱さがじわりとせり上がってくるのを、璃景はどうにか抑え込んだ。
「うぐ……冷たい。だが、この火照った頭には、これ以上ないほど沁みるな……」
璃景は冷たい水の入ったペットボトルを片手に、ベッドの端に腰掛けたまま、大きくため息をついた。
もう一度それを口元へと運ぶ。
澄んだ水で、胸の内に広がりかける名状しがたい焦燥を強引に押し流すように、一気に飲み干していった。
(……やはり、この世界の空気には、私を狂わせる妙な魔力が潜んでいるに違いない)
そう自分に言い聞かせるように苦笑すると、璃景は静かにベッドの端へと腰掛けた。
ノートや筆記道具を借りておけば、手持ち無沙汰な時間を文字の練習に充てられたのに、と少しだけ後悔する。
しかし、やがて浴室から聞こえる水音が止まり、あのドライヤーのブォーという聞き慣れた熱風の音に変わると、彼はなぜかほっと胸をなでおろした。
待っている間、璃景は頭の中で、今日までに教えてもらったひらがなの形を、一つひとつ静かに思い出していた。
しばらくして、すっきりとシャワーを終えた千海が浴室から出てきた。
「音楽とか、かけていけばよかったですね?」
部屋のあまりの静けさを気遣ったのか、千海がそんなふうに声をかけると、璃景は穏やかに首を振った。
「大丈夫だよ。教えてもらったひらがなを思い出していたから」
「そういえば、璃景さん、髪まだ少し湿ってますよね。ドライヤーしましょうか?」
「あぁ、ありがとう」
璃景が少し戸惑いながらも頷くと、千海は当たり前のようにドライヤーを手に取り、彼の後ろに回った。
温かな風が、長い髪を少しずつ乾かしていく。
「今日も少し勉強して寝ます? さすがに時間まだ早いですもんね」
「昨日は“そ”まで習った。今日は空の上で“りけい”と“ちか”を習ったよ」
そう答える璃景に、千海は「ふふ」と嬉しそうに微笑みながらバッグを開けた。
「ひらがなの練習本、持ってきてるんですよ」
「おぉ、さすがだ」
千海が用意の良さを見せると、璃景のサングラスのない瞳がパッと輝いた。
「“た”から始めましょう」
二人はそれぞれのベッドの端に腰掛け、テーブルを挟んで向き直った。
そして、昨日の夜と同じように、ひらがなを練習し始める。
「『た』……こう、かい?」
璃景は千海から手渡された紙とペンを握りしめ、慣れない手つきで線を引いた。
彼女が手本として書いてくれた『た』の文字を、じっと見つめる。
一画目は横に。
二画目は斜めに切るように。
そしてその隣に、小さな『こ』のような形を添える。
「ふむ……私の国の文字は、もっと直線の組み合わせで硬い印象なのだが、君の国の言葉――ひらがなは、どれも角が丸くて、どこか優雅な曲線を描くのだね」
璃景は、真剣な面持ちで紙に向かった。
「まるで、流れる水や、しなやかな糸を紡いでいるようだ」
璃景が紙に向かっていると、対面のベッドに腰掛けた千海は、「そうですねー」と相槌を打ちながら、自身のスマートフォンに指を滑らせていた。
今日、小倉の街で集めた写真。
璃景の驚き顔。
そして、あの『バリカタ』の記憶。
それらを、熱心に物語の糧として編み込んでいるのだろう。
シャワーの音が止み、ドライヤーの音も消え、この静かな勉強の時間に移ったことで、璃景の心の奇妙なざわつきは、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
今、部屋に響いているのは、彼のペンが紙を擦る音と、千海が画面を叩くかすかな音だけだった。
「よし、次は『ち』だね……。あぁ、これは昼間に習った、君の名である『ちか』の『ち』じゃないか」
璃景は手本をなぞりながら、少しだけ得意げに声を上げた。
「昼間は空の上で、君が指先で書いてくれたのを見ただけだったが、こうして自分で形にしてみると、より深く体に馴染む気がするよ。『ち』、そして……『つ』『て』『と』……」
一文字ずつ、千海の声に導かれるようにして、この異界の言葉が彼の手の中に形を持って現れていく。
書き終えるたびに、千海が画面から視線を上げて「うん、上手です」と小さく微笑んでくれる。
その一言が、かつて主上から賜ったどんな褒賞よりも、今の彼には誇らしく、心地よく響くのだった。
あまりの呑み込みの早さに、千海が思わず呟く。
「なんで、そんなに覚えるの早いんですか?」
「教え方が上手いんだよ」
「いやいやいや、ご都合主義が発動してる……。異世界美男子頭脳明晰問題」
「千海、褒めていないよね?」
「褒めていますけど、なんか悔しいですよね」
「悔しいって」
璃景は苦笑いした。
そんな彼に、千海は「ただ、濁音を覚えなくては……」と言って、次の段階を教え始めた。
「喋れるのに、書くとなると難しいね」
「でも、覚えたひらがなの組み合わせなので、璃景さんなら大丈夫です」
「てんてんを、文字の右上にちょんと添えるだけで、音が濁る……。なるほど、元の文字を大きく変えずに響きを変えるとは、合理的かつ洗練された仕組みだ」
璃景は千海が手本に描いた小さな二本の線をまじまじと見つめ、自分の書いた『た』の右上にそっとそれを付け足した。
「これで『だ』、か……」
璃景は小さく唸る。
「喋る時には何気なく使っていた響きだが、いざ『書く』となると、頭の中の音と指先の動きを一致させるのに一瞬の迷いが生じるね。私のいた世界でも、口伝の民話や兵法をいざ書物に編み直す際は、皆一様に頭を抱えていたものだが、まさかこの私がその立場になるとは」
彼が真剣な面持ちで『だ・じ・づ・で・ど』とペンを走らせていると、千海は今度は濁りのない純粋な太鼓判を押してくれた。
「でも、覚えたひらがなの組み合わせなので、璃景さんなら大丈夫です」
「はは、そう言って信じてもらえると、異世界の頭脳明晰な美男子としても、俄然やる気が湧いてくるというものだよ」
璃景は少し肩の力を抜き、くすりと笑って彼女を見つめた。
「喋れるのに書けない、というのは、まるで己の身体でありながら、指先だけが自分の意志からほんの少し遅れて動くような、不思議な感覚だ」
そして、少しだけ優しく目を細める。
「だが……こうして一文字ずつ、君の国の言葉を自分の手で紡げるようになっていくのは、なんだかとても嬉しいよ。君の紡ぐ物語の世界に、私も少しずつ足を踏み入れられているような気がしてね」
璃景は紙の余白に、今日習った文字を丁寧に組み合わせて、ある二つの言葉を並べて書いてみた。
「千海、見ておくれ。……『ちか』、そして『りけい』だ。濁音が入らなくても、私たちの名はこれだけで綺麗に完成するのだね。うん、実に座りがいい」
自分の名前と、並んで書かれた彼女の名前を指先でなぞりながら、璃景はサングラスを外した瞳で、少し誇らしげに、そして優しく微笑んだ。
「千海。小さい“つ”は、なぜ読まないのに書くんだい?」
「必要だからです」
「でも、読まないんだよ?」
「言いたいことは分かるんですが」
千海は笑いながら説明を続ける。
「この世界の物の名前に“くっきー”とか“しゅっぱつ”という言葉があるんですよ」
「出発は確かに言うが……小さい“つ”がいたかな?」
腕を組み、紙に書かれた小さな「っ」をまじまじと見つめる璃景に、千海は楽しそうに言葉を返した。
「読まないというより、一瞬だけ音を詰めるんです。だから、そこに小さい“つ”がいるんですよ」
「読まないのに必要、か……。この世界の言葉――日本語というのは、文字そのものの響きだけでなく、その『間』や『溜め』すらも形にして書き残すのだね。実につかみどころがないが、奥が深い」
音のない瞬間にまで文字を割り当てるとは、やはりこの世界の人間たちの発想は一筋縄ではいかない。
璃景は感心した。
そんな彼の困惑をよそに、千海はいたずらっぽく微笑みながら、ふと手元のスマートフォンから顔を上げた。
「璃景さんの国、蒼嶺国の言葉をいつか教えてくれますか? 興味あるので」
「……本当かい?」
不意に投げかけられたその言葉に、璃景はペンの動きを止め、一瞬だけ目を見開いた。
夜の静かな部屋。
窓の向こうに広がる街の灯りを一瞬だけ忘れるほど、その一言は彼の胸の真ん中に真っ直ぐに届いていた。
璃景は、千海の顔をじっと見つめた。
「君が、私の故郷の言葉を……。あぁ、それは、なんだかたまらなく嬉しいな」
異界に迷い込んで以来、彼は千海の言葉を必死に追いかける側だった。
けれど、いつか彼女が、自分の国の言葉を紡いでくれる日が来るかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
璃景はペンを置き、少しだけ彼女の方へ身を乗り出した。
「蒼嶺国の言葉はね、君の国のひらがなのように柔らかくはないけれど、風の音や、山の険しさを表すような、とても力強い響きを持つ文字を使うんだ」
璃景は、懐かしむように微笑む。
「……そうだね。例えば『ありがとう』は、私たちの言葉では――」
ほんの少しだけ声を落とし、故郷の宮廷で、そして大切な者を前にした時に使う、最も深い敬意と感謝を込めた古い言葉を、彼は千海に向けて優しく発音してみせた。
「……どうだい? 君の耳には、どんなふうに響いたかな、我が作家殿。いつか本当に君を蒼嶺国へ案内するその時までに、私も君に、とっておきの言葉をたくさん教えてあげることにしよう」
璃景は、紙の上の小さな「っ」を見下ろして、少しだけ困ったように笑った。
「だからその前に……まずはこの、手強い小さな『つ』の攻略法を、もう少し詳しく教えておくれ」
二人はお互いのベッドに座り、夜が更けるのも忘れて、穏やかな学びの時間を続けていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、千海の璃景への信頼を、璃景がしっかり受け止めるお話でした。
千海は無防備なつもりではなく、璃景を信じているだけ。
けれど璃景にとっては、その信頼が嬉しくもあり、だからこそ一段と守りたくなるものだったのかもしれません。
そして、ひらがなの勉強も少し進みました。
覚えの早い璃景に、千海は少し悔しそうですが、そんなやり取りも二人の距離を縮めてくれていたら嬉しいです。
少しずつ近づいていく二人を、楽しんでいただけましたら幸いです。
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