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二人の信頼と、夜の小倉


「じゃあ、替え玉は普通にしましょ」


「か、かえだま……!? まだこの美味なる戦いは続くというのかい!?」


璃景りけいはスープの中に残った最後の一筋の麺を名残惜しそうに飲み込み、箸を持ったまま目を丸くした。


器の中には、豚の旨味がこれでもかと凝縮された濃厚なスープが、まだ半分以上も残されている。


汁はそのままに麺だけをお代わりとして投入する仕組みなのだと知り、璃景はその無駄のない、完璧な食の兵法に感銘を受けた。


「ふふ、千海ちかの言う通りにしよう。ここは一度、バリカタという本場の強敵を撃破した武人の余裕として、次は君が勧めてくれた普通の領域へと、しなやかに戦術を変更させてもらうよ」


千海が店主に「すみません、替え玉、普通で一つ」と、実に手慣れた仕草で声を掛ける。


その堂々たる姿は、軍師が次の伏兵を戦場に投入するかのようだった。


そして、やはり息をつく暇もないほどの神速で、小さな器に盛られた麺が届き、璃景の器へと滑り込んでいった。


「さあ、第二陣――普通。いざ尋常に……」


璃景は新しくスープに馴染ませた麺を箸で引き上げ、今度は落ち着いて口へと運んだ。


「――おぉ……っ! なんという……なんという優しさだ……!」


先ほどのバリカタが、コシとは違う麺の芯をはっきりと感じさせ、小麦の香りを濃厚な豚の旨味の中でしっかりと主張させてくるものだとするなら、この普通は、スープの旨味をその身にたっぷりと纏い、喉の奥へと滑らかに滑り込んでいく、洗練された絹の衣のようだった。


噛み締めるたびに、豚骨のコクと小麦の甘みが調和し、五臓六腑に染み渡っていく。


「美味い……! 先ほどの硬さも美味だったが、この普通という茹で加減は、スープとの一体感が格別だね」


璃景はうっとりと目を細めながら、今度は大満足の笑みを浮かべて麺をすすった。


「千海、君が最初にこれを勧めてくれた理由が、今になって本当によく分かったよ。やはり君の食の眼識に狂いはない」


璃景は幸せそうに息を吐いた。


「硬さを変えるだけで、これほどまでに味わいが変化するとは……。うどん、おはぎ、そしてこの豚骨ラーメン。千海、君の故郷は、私の胃袋を一体どこまで虜にしていくんだい?」


「あはは。分かります。やっぱり豚骨ラーメンは美味しいですよね。九州豚骨ですね」


「他にもあるのかい?」


「地域で味がたくさんあります」


千海は満足そうに微笑みながら、この世界の食文化の奥深さを語った。


「もっと豚骨を濃くした味もありますし、味噌や醤油、塩もあります。また、ラーメン食べましょうね」


「楽しみだ」


食事を終えて夜道を二人で歩いていると、飲み会帰りらしい人たちで街の人出が増えていた。


きらびやかな看板が輝き、楽しげに声を上げる一団が行き交う光景は、昼間とは違う街の顔である。


千海は璃景の手を引き、「迷子にならないでくださいね」とホテルに向かって歩き出した。


「み、味噌に醤油に塩、さらにこれ以上濃い豚の出汁まであるというのかい……? この国の人々は、麺と汁という限られた器の中に、一体どれほどの宇宙を詰め込めば気が済むのだね」


璃景は千海の言葉に圧倒されながら、夜の小倉の街を並んで歩いた。


満腹になったお腹の温かさが、心地よい満足感となって全身を巡っている。


だが、そんな余韻に浸る間もなく、周囲の景色は昼間とはまったく違う、艶やかな夜の顔へと変貌を遂げていた。


確かに、これほど人が密集し、光と影が交錯する迷宮では、いくら気配を察知する訓練を積んだ私とて――。


そこまで考えた時、不意に、彼の大きな手のひらに、きゅっと小さくて温かい感触が滑り込んできた。


見下ろすと、千海が彼の手をしっかりと引きながら、前を歩いている。


サングラスの奥で、璃景は思わず目を丸くした。


「迷子にならないでくださいね」


少しからかうような、けれど置いていかないようにという確かな優しさが籠もったその声に、彼の胸の奥が、さっき飲んだラテよりもずっと温かいもので満たされていくようだった。


「……ふふ、手厳しいな、我が作家殿。この私が、たかが人の海くらいで迷子になるわけが……」


璃景はそう言いかけた。


けれど、彼女の手のひらの心地よい温もりを拒む理由など、どこにもないことに気づいて、言葉を飲み込んだ。


そして、その小さな手を、今度は自分の大きな手で優しく、けれど解けないようにそっと握り返した。


「……いや、前言撤回だ。君の言う通り、この街の夜の熱気は、私の知るどの戦場よりも複雑怪奇だ。君にこうして導いてもらわなければ、私は今度こそ、この異界の夜の底に溶けて消えてしまうかもしれないね」


「溶けるって、大げさですね。あはは」


璃景は彼女の歩調に合わせ、その小さな背中を見守るように、しっかりと真横を歩いた。


「しっかりと捕まっているよ、千海。さあ、私たちの今夜の城――ホテルまで、私を迷子にせずに連れ帰っておくれ」


璃景は、少しだけ楽しげに続ける。


「……それにしても、さっき君が言った『また、ラーメン食べましょうね』という約束……これも、絶対に忘れないからね?」


「はい。次は何味にしましょうか?」


「これは悩む問題だね」


「そうですね」


ふと、璃景は周囲を見回し、千海に尋ねた。


「千海、夜は人が多くなるね」


「そうですね。夕飯だけでなく、お酒を飲んだり、遊んだりしますからね。最近は減ったほうですよ」


「なぜ?」


「一時期、病気……昔で言う流行り病が世界で猛威を振るって、皆で一緒に飲み会をしたりする機会が減りました。でも、今は少しずつそういった飲み会なんかも戻ってきてます」


「千海もするのかい?」


「昔は友だちとしてましたけど、最近は作家活動してるので、職場の人との飲み会はないかも」


「寂しいかい?」


「なぜ? 友達とは会うし、お昼を食べたりするので。それより、璃景さん、かなり飲みそうですね」


「故郷では、ほぼ毎日理由があって飲んでいたかもしれない」


「え!? ほぼ、毎日!?」


「部下と飲んだり、主上と飲んだり、宴があったり、飲む回数は多かったな」


「今も飲みたかったですか? 用意しましょうか?」


「千海……君ね、危機感がなさすぎないかい?」


その時、通り過ぎる団体の賑やかな声にかき消され、千海には彼の言葉が届かなかった。


「え? 何か言いました?」


「いいや。機会があったらいただくよ。今はこの世界のことが分かっていないから、遠慮しておこう」


「そうですか?」


「あぁ、そうとも。この世界の酒は、私の国のものとはまた違った魔力を秘めていそうだからね。まずは君が教えてくれた、この豚骨ラーメンの余韻をじっくりと噛み締めさせてもらうさ」


璃景は繋いだ手のひらから伝わる彼女の温もりを、ほんの少しだけ強く握り締めながら、大通りを外れてホテルのある路地へと足を進めた。


さっき通り過ぎた賑やかな一団の笑い声が遠ざかり、再び二人の周囲に、夜のしっとりとした静けさが戻ってくる。


「……それにしても、千海。世界を揺るがすような流行り病の後だというのに、これほどまでに活気を取り戻しているとは、この国の人間はたくましいね」


璃景は夜の涼しい風を胸いっぱいに吸い込み、隣を歩く小さな作家の横顔を見つめた。


「君が『友達とは会ってお昼を食べるから寂しくない』と、凛として前を向いているのも、その強さの一部なのだろう」


そして、少しだけ困ったように微笑む。


「だが、私が毎日飲んでいたと言って、すぐに『用意しましょうか?』と聞いてくるあたり……やはり君は、少々お人好しが過ぎるよ」


ホテルのエントランスの自動ドアが、静かに二人を迎え入れるように開いた。


明るい光に照らされたロビーに入り、璃景はサングラスの奥の目を少しだけ細めて、悪戯っぽく唇を吊り上げた。


「見ず知らずの異界の男を同じ部屋に泊め、そのうえ酒まで買い与えようとするなど……もし私が、酒癖の悪い不届き者だったらどうするつもりだったんだい?」


「璃景さんは、そうじゃないでしょう?」


千海があまりにも当然のように言うので、璃景は一瞬、言葉を失った。


それから、堪えきれないように小さく笑う。


「……まったく。そういうところだよ、千海」


璃景は、繋いだ手をそっと離し、ロビーの明かりの下で彼女を見つめた。


「まあ、君がそうして無防備に差し出してくれた優しさを、決して裏切らないだけの理性を、私は持ち合わせているつもりだがね」


彼は静かに続けた。


「今夜のところは大人しく、君が選んでくれた部屋の大きなベッドに潜り込むとしよう。千海、明日は忙しいと言っていたね? 取材の本番に備えて、我が作家殿も今夜はゆっくり羽を休めておくれ」


千海も笑顔で頷き、二人は静かになったホテルのエレベーターへと乗り込んでいった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


今回は、替え玉に驚く璃景と、夜の小倉を歩く二人のお話でした。


千海にとっては迷子防止のつもりでも、璃景にとってはその手がとても温かく感じられたのかもしれません。


少しずつ近づいていく二人の距離を、楽しんでいただけましたら嬉しいです。


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