異世界美男子、バリカタに挑む
千海は窓の外を眺めたまま、璃景に言った。
「この辺を散策してみて、夜にラーメンを食べましょうか」
「楽しみだ」
璃景は嬉しそうに頷き、再びガラスの向こうの街並みへと視線を戻した。
「変わらない景色かい?」
「少し変わったけど、やはり変わらない景色ですね」
「そうか」
「はい」
しばらく静かに景色を眺めていたが、璃景は千海の横顔を見つめながら、ふと思いついた疑問を口にした。
「千海、思っていたんだが、記録に残しているのかい?」
「……」
「……」
沈黙が流れ、千海ははっと目を見開いた。
「璃景さん、早く言ってください!」
「あぁ……すまない?」
「さっきまでメモはしてたんですけど、写真を忘れてました」
うどん屋に続き、またしても写真の存在を忘れていた千海は、慌ててスマートフォンを取り出し、夢中で小倉城の風景を画面に収め始めた。
一通り撮影を終えると、二人は満足して小倉城を後にした。
そこからは特に目的を決めることもなく、二人でのんびりと街を歩いた。
公園や商業施設に立ち寄りながら、千海はその都度スマートフォンで写真を撮っていく。
その手慣れた様子を不思議そうに眺めていた璃景が尋ねた。
「その板に、記録をそんなに残せるのかい?」
「はい。写真、撮ってみます?」
「しゃしん?」
千海はスマートフォンのカメラを内側に切り替え、レンズを二人に向けた。
璃景のすぐ真横に並んで画面を覗き込み、シャッターを切る。
画面に映し出された自分の姿を見た璃景は、かなり驚いた顔になった。
「ふふふ。璃景さん。ふふふ。いい顔です」
「千海、前から思っていたが、君には事前説明というものが欠けている」
「えぇー。面倒くさいしー。構えたら素直な反応が見られないじゃないですか」
「君ねぇ、面倒くさいが大きいよね」
「はい」
「ははは! まったく、白状したね。やはり私の驚く顔を見て、君自身が一番楽しんでいるんじゃないか!」
璃景は、自分と千海の笑顔が綺麗に収まった画面を見つめながら、呆れたように、けれど心底おかしそうに声を上げて笑った。
画面の中の璃景は、一国の近衛長としての威厳はどこへやら、目を見開いて完全に呆然とした情けない顔をしている。
対する隣の千海は、悪戯が大成功した子どものように、嬉しそうな満面の笑みを咲かせていた。
「事前の説明を『面倒くさい』の一言で片付けるあたり、いかにも我が道を行く作家殿らしい」
璃景は楽しげに笑う。
「だが、構えたら素直な反応が見られない、か……。なるほど、君は私の生きた反応をそのまま物語の栄養にするために、わざと私を無防備なまま異界の驚異に放り込んでいるのだね」
「それもありますけど、怖いより楽しいをたくさん体験してほしくて。せっかくこの世界に来たんです。“現実は小説より奇なり”をたくさん体験してほしいじゃないですか。作家として」
小倉城の敷地を出て、夕暮れ時の穏やかな風が吹く公園を歩きながら、璃景は自分の手でそっとサングラスを外した。
「だが、千海。君のその面倒くさがりのおかげで、私はこの世界のありのままの驚きと、そして……君が昔見ていたという、この『少し変わったけれど、変わらない景色』を同じ鮮やかさで体感できている」
璃景は、穏やかな声で続ける。
「だから、事前説明が欠けていることについては……今回だけは不問に処してあげよう」
「えー。今後も不問でお願いします」
「未来予告までされてしまったね」
「はい。小説家なので」
「本当に便利な言葉だね」
空はいつの間にか、燃えるような茜色から、深い夜を予感させる群青色へと移り変わり始めている。
街のあちこちで街灯が灯り、昼間とはまた違う、幻想的な夜の小倉が姿を現そうとしていた。
「さあ、写真という記録もたくさん集まったことだし、街の空気も十分に肌で感じられた。そろそろ、君が言っていた夜の楽しみに移ろうじゃないか」
璃景は外したサングラスをポケットにしまい、千海の歩調に合わせて、その小さな肩の隣へと寄り添った。
「確か、次はラーメンというものを食べるのだったね?」
璃景は、少しだけ得意げに微笑む。
「うどんとおはぎで私の胃袋を完全に虜にした君のことだ。きっと次も私を骨抜きにする傑作を用意しているのだろう? 案内しておくれ、我が作家殿。私の驚く顔なら、いくらでもその板に収めさせてあげるからね」
「豚骨ラーメンですよー」
千海が楽しそうに笑う。
「璃景さんはうどん食べられてたし、蒼嶺国でも麺料理を食べてたんですかー?」
「食べていたよ。鶏の出汁、豚の出汁、魚介もあったかな」
「変わらないですねー。ここは豚です」
「豚の出汁、か……! なるほど、我が国でも豚の骨をじっくりと煮込んだ濃密なスープは、冷え込む夜に兵たちの身体を芯から温める至高の馳走だった」
璃景は、夜の街に漂い始めた香りを吸い込む。
「この異界のラーメンとやらが、それをどう昇華させているのか、がぜん興味が湧いてきたよ」
街の灯りが鮮やかに輝き出した小倉の夜。
璃景は千海の隣を歩きながら、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
自分の生きてきた蒼嶺国と、彼女のいるこの世界。
言葉も、街の姿も、天を衝くような仕組みもまったく違う。
それなのに、人が美味いと感じ、命を繋いできた食の根源だけは、驚くほど同じように繋がっている。
それがなんだかとても奇妙で、そして無性に愛おしかった。
「それにしても、千海。先ほどのうどんの時もそうだったが、君は本当に私の国の食文化に興味津々だね。もしかして、私の話から新しい異界の料理の物語でも紡ぎ出そうとしているのかい?」
璃景が悪戯っぽく微笑みかけると、千海は「ですねー」と、すでに頭の中で新しい物語のページをめくっているかのような、楽しげな声を返した。
夜の風に乗って、どこか香ばしい、にんにくと脂の食欲をそそる匂いが漂ってくる。
「おや、この匂いは……もしや、豚骨ラーメンの気配かな?」
璃景は楽しげに目を細めた。
「豚骨ラーメン……ふふ、うどんとおはぎに続いて、今夜も私の胃袋は、君に完全に握られることになりそうだ」
店に入り、席に着くと、千海が注文のために尋ねた。
「麺の硬さはー。私はやわで、璃景さんは普通でいいですか?」
「ばりかた、とは?」
「バリは、とても。カタは硬い、でバリカタです。麺が固ゆでされて出てきます」
「『とても、硬い』……? 麺が、かい?」
「少し芯が残ってる感じの硬めなんですよ。その上に、ハリガネ、粉落としと段階があります。他にも、カタも普通もあるので、初めは普通かカタでいいと思いますよ」
璃景は店内に漂う豚骨の芳醇な香りに鼻をくすぐられながら、お品書きに書かれたその奇妙な言葉の響きを口の中で繰り返した。
彼の世界でも麺を茹でる文化はあったが、基本的にはしっかりと火を通し、滑らかな喉越しを楽しむのが常識だった。
それをわざわざ「とても硬い」状態で食べるなど、まるで茹でるのを途中で切り上げたかのようではないか。
「千海、君はやわを頼むというのに、私には普通を勧め、さらにその上にはばりかたという未知の領域が存在するのか……」
璃景は腕を組み、ふむ、と深く考え込んでしまった。
「なるほど。この世界のラーメンというのは、客が己の好みの硬さを細かく指定して、店主と真剣勝負をする仕組みなのだね」
「たぶん違います」
「……待っておくれ。さっきの女子高生たちの言葉を思い出したぞ。彼女たちは私のことを『ばり高い』と言っていた。ということは……この『ばりかた』というのは、この地の方言を冠した、いわば本場の男たちが好む最高峰の硬さ、という意味なのではないかい?」
璃景は目をきらりと光らせ、隣の千海を振り返った。
「一国の筆頭護衛官たる私が、ここで普通に甘んじていては、蒼嶺国の名が廃るというものだ。千海、宮廷の誇りに懸けて、そのばりかたとやらを所望してみようじゃないか!」
璃景は、少しだけ疑わしそうに千海を見る。
「……いや、まさかこれも、私の驚く顔を見るための君の罠ではないよね?」
千海は肩を揺らして笑った。
「ふ、ふふふ。武人ですね。まぁ、ものは試しです。バリカタを頼んでみましょう。私はやわですけどねー」
千海が店員に注文を通すと、驚くほどすぐに料理が運ばれてきた。
「な、なんだと……!? もう、届いたのかい!?」
注文の声を掛けてから、息を一つ、二つ吐き出す間すらあったかどうか。
厨房の店主が素早い手つきで平ざるを振るったかと思えば、二人の目の前にはもう、並々と注がれた白濁のスープから湯気を立てるラーメンが鎮座していた。
璃景の世界でも、せっかちな兵のために素早く出す汁物はあったが、これほどの神速は見たことがない。
まさに一分一秒を争う戦場の配給のようだった。
「さすがはバリカタ……茹でる時間を削ぎ落としたからこその、この驚異的な速さというわけだね」
璃景はごくりと喉を鳴らし、器から立ち上る濃厚で力強い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
スープの表面には薄く脂の膜が張り、細く刻まれた青葱と、褐色に輝くチャーシューが美しく配置されている。
「では、我が作家殿……蒼嶺国近衛の誇りを懸けて、いざ、本場のバリカタに挑戦させてもらうよ」
璃景は箸を割り、スープの底からその白い極細の麺をぐっと引き上げた。
軽く息を吹きかけ、思い切り口へとすする。
軽く息を吹きかけ、思い切り口へとすする。
「――っ!? おぉ……歯ごたえがあるな!?」
口に入れた瞬間、これまでのどの麺類でも経験したことのない、コシとは違う麺の芯が、はっきりと感じられた。
しかし、噛み締めるたびに、小麦の香りがスープの濃厚な豚の旨味と混ざり合い、口の中でしっかりと主張してくる。
「……! これは、美味い……! 美味いが、確かに硬いな! 茹で足りないのではない。あえてこの芯を残すことで、噛む楽しさと小麦の味を直接叩き込んでくる」
璃景は目を見開き、さらに麺をすすった。
「なるほど、これがこの地のバリの威力か……!」
璃景が目を見開いて、はふはふと麺を噛み締めていると、対面の千海は、自分のやわの優しげな麺を幸せそうにすすりながら、「ふ、ふふふ」とお腹を揺らして実に楽しそうに彼を見つめていた。
「……千海、君は最初から、私がこうして驚くのを見越して『ものは試し』と言ったのだね? まったく、相変わらず策士な作家殿だ」
璃景は、それでも嬉しそうに笑う。
「だが、この濃厚極まる豚のスープには、この硬い麺が驚くほどよく合う。……負けたよ。この美味さには、武人の誇りを抜きにしても、ただただ脱帽するしかないね!」
「細麺で伸びやすいから、早く提供できるようにバリカタが広まったらしいんですよ。急いで食べなくていいなら、普通の硬さでも十分おいしいです」
千海は楽しそうに笑いながら説明した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、スマホでの記念写真に驚く璃景と、夜の小倉で豚骨ラーメンに挑むお話でした。
千海の説明の雑さに振り回されながらも、璃景はこの世界の驚きを少しずつ楽しんでくれているようです。
バリカタに挑む異世界美男子を、少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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