異世界美男子は、幻ではなく現実でした
朝の光が、不思議な部屋を白々と照らし始めていた。
璃景は目を覚まし、静かに上体を起こした。
昨夜は暗くてよく分からなかったが、ここはそれなりの高さにある部屋らしい。
窓の外には、見たこともない高楼が立ち並んでいる。
整えられた道の上を、馬ではない何かが次々と走っていた。
何に驚くべきなのか、もう分からない。
そもそも、この部屋にある物も、璃景にとっては見たことのないものばかりだった。
璃景は、借りた寝台を振り返る。
昨夜、深く眠れただろうか。
いや、お世辞にもよく眠れたとは言えない。
寝台そのものは、ひどく心地よかった。けれど、頭が完全に冴えてしまっていた。
(……ふぅ。部屋を出ても良いものか。待つべきか……)
そこで璃景は、自分が空腹であることに気づき、そっと腹に手を当てた。
「昨日、夕餉の前に……来たのだったな……」
一度深呼吸をしてから、静かに寝室の扉に手をかける。
そして、ゆっくりと開けた。
千海が昨夜願っていただろう「幻だといい」という願いを叶えられず、申し訳なく思いながら。
驚かせないように。
できるだけ穏やかに。
これ以上、彼女を怯えさせないように。
璃景は静かに声をかけた。
「……おはよう、千海」
千海は、驚きと諦めの混ざったような苦笑いで振り返った。
「璃景さん、おはようございます。よく眠れなかったでしょうが、休めましたか?」
璃景は少し眉を下げ、困ったように微笑んだ。
「まだ、消えていなくてすまないね」
千海が、なんとも言えない顔をする。
「……やっぱり幻じゃなかったですね」
「残念ながら」
璃景は窓の外へ視線を向けた。
「やはり、ここは私のいた場所ではないようだ。窓の外を見たら、見たこともない高楼が立ち並び、馬ではない何かが整えられた道を走っていた。……本当に、異界の地のようだね」
璃景は一歩、リビングへと足を進める。
千海へ近づきすぎないよう距離を測りながら、そっと自分の腹に手を当てた。
そして、少しだけ気まずそうに、けれど隠しきれない苦笑を浮かべる。
「それで……非常に言い出しにくいんだけど」
「はい」
「郷に入っては郷に従え、という言葉が私の国にあってね」
「ありますね、こちらにも」
「そうか。それなら話が早い。まずは……その、朝餉について相談してもいいかな? 恥ずかしながら、少々空腹でね。君の知恵を借りたいんだ」
千海はソファから立ち上がり、少し笑った。
「ある意味、璃景さんも被害者というか、巻き込まれですからねー」
と、千海は言って、璃景を真っすぐに見た。
「それに、食事は大事ですからね。苦手なものはありますか?」
千海は台所へ向かい、ケトルの水を入れ替えながら、独り言のように話した。
「食パンとか、最低限ならあるはずです。少し待ってください。あ、ソファどうぞ」
「あぁ。お気遣いありがとう。見慣れぬ天井だったけど、体を横にできただけでも十分だったよ」
璃景は、千海が差し伸べてくれた言葉の柔らかさに、張り詰めていた肩の力を少しだけ抜いた。
言葉通り、璃景はソファへと腰を下ろす。
台所からは、ガサゴソという物音が聞こえてきた。
璃景は「しょくぱん」という聞き馴染みのない響きに耳をそば立てながら、千海に声をかける。
「苦手なもの、か。……特にない、と言いたいところなんだけどね。この地の料理がどのようなものか分からないから、正直に言うと判断が難しい。だが、出されたものはありがたくいただくよ。毒が入っていなければ、ね」
璃景は冗談のつもりでそう言ってから、ふと、自分の言葉が不躾だったかもしれないと気づき、片手で口元を覆った。
「すまない。冗談だ。君がそんなことをする人ではないと思っている」
台所から、千海の笑う声がした。
「そうでした。そもそも、この国のことが分からない璃景さんに聞いた私の方が不躾でしたね。お気になさらず。少なくとも、うちの朝ごはんには毒なんて入ってないので、そこはご安心をー」
千海は、まったく気にしていないように笑った。
その気さくな返事に、璃景はほっとする。
「巻き込まれた、か。確かにその通りだが、こうして見ず知らずの私に朝餉まで用意してくれる君の優しさには、感謝しかないね。恩に着るよ、千海」
「朝ごはんくらいなら何とかなりますから」
千海はそう言いながら、台所で朝食の準備を進めていた。
璃景は、長衣の袖を軽く整える。
狭い台所で小さく動く千海の背中を、静かに見つめた。
「ところで、その『しょくぱん』というのは、どのようなものなんだい? 火を通したりするものなのだろうか」
「食パンは、そのままでも美味しいですし、焼いても美味しいんです。そして、私は何でも冷蔵庫保管派なので焼きます」
「ほう。そのままでも、焼いても……」
台所から響く心地よい生活の音に耳を傾けながら、璃景はその「しょくぱん」なるものの姿を頭の中で思い描いてみようとした。
けれど、どうにも上手くいかない。
米を蒸したものか。
それとも、小麦を練って焼いた餅のようなものだろうか。
何より、千海の言った「冷蔵庫保管派」という言葉が気にかかる。
「れいぞうこ……」
璃景は、また一つ、この異界の言葉を頭の引き出しに仕舞い込んだ。
冷やして物を保存する箱、ということだろうか。
この地の人々は、氷室のようなものを各々の家に備えているのだろうか。
それとも、千海もまた高貴な生まれなのだろうか。
まだ二日目どころか、こちらで迎えた初めての朝だというのに、何に驚けばいいのかさえ分からない。
璃景は、苦笑するしかなかった。
「毒の心配がないというのは、ありがたい。私の国では、膳が出されるたびに銀の箸で探りを入れねばならないような場所もあるからね……。そうした張り詰めた気配がこの部屋にないのは、とても救われる」
言ってから、璃景は自分が少し重い身の上を口にしてしまったことに気づいた。
「……すまないね。朝から重い話をした」
「いえ。璃景さんの世界、普通に怖いですね」
千海の返事は、あまりにも率直だった。
璃景は思わず、少しだけ笑ってしまう。
「そうだね。普通に怖い場所だったのかもしれない」
台所からは、小さな箱の中で何かが焼けるような、チリチリという音が聞こえてきた。
やがて、香ばしく、ほんのり甘い匂いが漂ってくる。
璃景は、思わずソファから少しだけ身を乗り出した。
「……その小さな箱から、なんとも良い香りがする。これが『焼く』ということか」
「トースターです。食パンを焼く機械ですね」
「とーすたー」
「また新しい単語が増えましたね」
「覚えることが多いな」
「現代日本、家電多いですからね」
「かでん」
「増えましたね」
千海は笑いながら、手を休めることなくフライパンに卵とウインナーを入れて焼いていく。
ケトルのお湯が沸く音。
フライパンの上で油が弾ける音。
千海が何かを切る、トントンという音。
どれも璃景には聞き慣れないものなのに、不思議と騒がしくは感じなかった。
「千海、手伝えることがあれば何なりと言ってくれ。これでも、ただ座して待つだけというのは少々落ち着かなくてね」
「今はお手伝いは大丈夫です。というかですね、狭いので璃景さんの今の衣装では動きにくいんですよー」
千海はフライパンを見ながら、ふと思い出したように続けた。
「そういえば、洋服を用意しなくてはいけませんね。その格好だと、ただでさえ目立つ容姿なのに、色々と良くも悪くも危ないので」
そう言いながら、千海はお茶をテーブルに出した。
「はい。朝のルイボスティーです。冷たいもの、飲めますよね……?」
「熱いものも、冷たいものも大丈夫だよ。ありがとう」
差し出されたのは、琥珀色に透き通る美しいお茶だった。
「るいぼすてぃー」
璃景はその響きを確かめるように呟き、ゆっくりと口に含む。
ほんのりと甘く、どこか爽やかな香りが喉を潤していく。
冷たい飲み物がこれほど自然に手に入る環境にも驚かされるが、それ以上に、璃景は千海の流れるような手際に感心していた。
「すべて、自分でするのだね」
「そうですね。日本では、家のことを自分でする人の方が多いと思います。……璃景さんは、なんとなく高貴そうですもんね。昨日から、所作とか話し方が綺麗なので」
「なるほど。……この国では、自分のことは自分でする者が多いのだね」
「はい。昔は使用人がいるような家もあったみたいですが、今ではかなり珍しいと思います」
璃景は、自分の身にまとった長衣の袖を見つめ、苦笑を深めた。
「ようふく、か……」
この国で、自分は圧倒的な異分子だ。
この姿のまま外へ出れば、それこそ一瞬で兵――いや、千海の言う警察に囲まれてしまうかもしれない。
「動きにくい、というのは否定できないな。この装いは、戦うためにも、ましてや家事の手伝いをするためにも作られてはいない」
璃景は千海の後ろ姿に向かって、少し声を和らげて尋ねる。
「衣服の手配まで君に頼ってしまうのは本当に心苦しいが、私の容姿が『危ない』とまで言われてしまっては、大人しく従うほかないね」
「危ないですよ。良くも悪くも」
「良くも、悪くも」
「顔が良すぎる人は、それだけで目立ちます」
璃景は返す言葉に迷った。
千海は、それを褒め言葉として言っているのか、単なる危険物扱いとして言っているのか、判断がつかなかった。
「その『ようふく』というのは、この国の人々が着ている、千海と同じような動きやすそうな布のことだろうか。……私のような大男に合うものが、すぐに手に入るのだろうか?」
「そうですね……」
千海は台所から一度振り返り璃景を見る。
「身長高いですもんね。一度、大きめの服があるお店を探すしかないですね。後で調べてみます」
「大きめの服がある店……」
「それから、あとはネットで買うしかないですね」
「ねっと?」
「はい。便利な道具ですかね」
「なるほど?」
千海はどんな言葉にも“?”になる璃景を見て、本当に異世界人なのだなと思う。
「沢山言葉を覚えなくてはですね」
「この国は、言葉だけでも忙しいね」
台所から漂う、卵と肉の焼ける匂い。
非現実的な状況のはずなのに、千海が作り出す空気のせいで、不思議な心地よさがこの部屋を満たし始めていた。
けれど、璃景がなぜこの世界へ来たのか。
そして、どうすれば元の世界へ帰れるのか。
その答えは、まだ何ひとつ分かっていなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
千海の願いも空しく、璃景との一日が始まろうとしています。
千海は“現実は小説より奇なり”を体験しつつも、現実主義なため、まずは朝の準備を始めます。
今後も二人がどんな会話をして、どんな風に巡り逢っていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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