異世界美男子、海の上の空港に降り立つ
「きたきゅうしゅう、くうこう……。それが、この怪鳥――飛行機が次に向かう場所の名前だね」
璃景はその不思議な響きの言葉をなぞるように口にしながら、千海の横顔を見つめた。
千海は、どこか誇らしげで、そして少しだけ愛おしそうな顔をしている。
「君が『好きだ』と言うからには、きっとそこも、今の私には想像もつかないような美しい、あるいは面白い場所なのだろう」
璃景は窓の外へ目を向けた。
鉄の怪鳥は、白い雲の海を滑るように進んでいる。
先ほどまでの恐ろしさは、少しずつ薄れていた。
千海が隣にいてくれる。
ただそれだけで、今の璃景には、この浮遊感すらも心地よい揺り籠のように思えていた。
「……ふふ。天を駆けるだけでも、これほど私を驚かせておいて、まだその先があるというのか。君という人は、本当に私の心を揺さぶるのが上手い」
「大げさですね」
「私にとっては、すべて大げさなほど驚くことばかりだよ」
璃景は握っていた千海の手の温もりを確かめるように、少しだけ力を込めた。
それから、悪戯っぽく、けれど真っ直ぐな瞳で微笑みかける。
「よし。そこに着いたとき、私がどれほど見事な驚きっぷりを見せるか、今から楽しみにしておくれ。君のお気に入りの場所なのだ。私の反応一つで、君の旅の始まりをさらに最高のものにしてみせるさ」
「それは楽しみですね」
「もちろんだとも」
璃景は少しだけ身を乗り出す。
「さあ、頼もしい作家殿。その『きたきゅうしゅうくうこう』とやらに着くまでの間……昨日覚えたての『ひらがな』の続きを、この雲の上で私に教えてくれないかい?」
千海は少し笑った。
「飛行機の中で勉強ですか?」
「地上ではない場所で、この国の文字を学ぶ。なかなか得がたい経験だろう?」
「確かに、ネタにはなりますね」
「だろう?」
千海はノートとペンを取り出し、璃景に渡した。
まず、彼の名前である「りけい」と書き、その書き順を教えていく。
璃景は真剣な顔で、紙の上の文字を見つめていた。
「り、け、い……。これが、私の名か」
「はい。ひらがなだと、こう書きます」
「柔らかい形だね。私の名なのに、どこか別のものになったように見える」
「漢字だとまた雰囲気が変わりますよ」
「この国の文字は、本当に奥が深いな」
しばらくして、璃景に乞われるまま、千海はノートに「ちか」と自身の名前を書いてみせた。
「……『ち、か』……」
璃景は、千海が白い紙の上にペンを走らせ、滑らかに紡ぎ出した二つの文字を、食い入るように見つめた。
先ほど教わった自分の名を表す文字も、どこか愛おしかった。
けれど、彼女の手によって書かれた「ちか」という文字は、なんだか特別な光を放っているように見えた。
「これが、君の名を表す文字なのだね」
「はい。ひらがなだと、ちかです」
「漢字という、また別の複雑な文字があるとは言っていたが……今の私には、この『ちか』という音が、世界で最も美しく、心地よい響きに感じられるよ」
千海は一瞬、言葉に詰まった。
「……そういうこと、すぐ言いますよね」
「本心だからね」
「かなり良い台詞です」
「また、めもかい?」
「今は我慢してます」
「それは偉い」
璃景は手渡されたペンを握り直した。
千海の手本を汚さないよう、その横に慎重に文字をなぞっていく。
線の形を一つひとつ丁寧に追いながら、璃景は真剣な顔で紙に向かった。
「どうだい? 君の名を汚してはいまいか」
「名前を汚すというほどではないです」
「私のいた世界では、文字の美しさはその者の品格を表すとされていたからね。……この国独特の、丸みを持った優しい文字で君の名を書くのは、なんだか不思議な緊張感がある」
「璃景さん、本当に字が綺麗ですね」
「君にそう言ってもらえるなら、練習した甲斐がある」
真面目な顔で紙に向かう璃景の姿を見て、千海は小さく笑った。
窓の外を見れば、鉄の怪鳥は相変わらず雲の海を優雅に泳ぎ、二人を北九州空港へと運んでいく。
「りけい、と、ちか」
璃景は、ノートの上に並んだ二つの名前を静かに見つめた。
「この二つの名が、こうして並んでいるのを見ているだけで、異界に迷い込んだ私の不安など、綺麗さっぱり消えてしまう。千海、この文字が書けるようになっただけでも、私はこの国に来た意味があったというものさ」
「それは、少し大げさでは?」
「そうかな」
「そうです」
「では、少しだけ大げさにしておこう」
「結局、大げさなんですね」
「君の名前だからね」
千海はまた、少しだけ目を逸らした。
璃景はペンを置き、隣に座る小さな師匠へ向かって、サングラスのない真っ直ぐな瞳で微笑みかける。
「さあ、この『ちか』の次は、どのような文字を教えてくれるんだい? 地上に降り立つまでに、もう少し君の国の言葉を我が物にしておきたいな」
千海はノートに「そうれいこく」と書いてみせた。
「そうですね。『そうれいこく』は、どうですか?」
「あぁ、蒼嶺国。嬉しいよ、千海」
そうしてしばらく文字の練習を続けているうちに、やがて飛行機が高度を下げ始めた。
ふと窓の外を見た璃景が、息を呑んで絶句した。
「ち、千海……」
「はい?」
「海の上に……」
千海は窓の外を覗き込み、嬉しそうに笑った。
「そうでしょ。気持ちいいですよね」
「う、海の上に……道が、いや、建物があるのかい……!?」
璃景は窓ガラスに額を押し付けそうな勢いで、眼下の光景を凝視した。
鉄の怪鳥が雲を突き抜け、高度を下げていく。
その先に見えてきたのは、見渡す限りの青い大海原だった。
しかし、その広大な海のただ中に、まるで一本の巨大な筆で白い線を引いたかのような、人工の平地が浮かんでいる。
そこに向かって、自分たちの乗った巨体が、真っ直ぐに吸い込まれていくのだ。
「海の上に、これほど巨大な平地を築き上げるなど……一体どれほどの神の業だ……。千海、この国の人々は、大地だけでなく海すらも我が物にしてしまうというのか……!」
あまりの規格外の光景に、璃景は完全に言葉を失った。
喉がからからに乾く。
着陸の衝撃に備えて機体がわずかに身震いするたび、璃景の心臓もまた激しく跳ね上がる。
すぐ隣で、千海は本当に嬉しそうに、誇らしげに目を細めて微笑んでいた。
彼女が「好きだ」と言った理由が、璃景にも痛いほどよく分かった。
空の青と、海の青。
その二つの境界線が溶け合うような美しい世界の中に、人間が作り出した未来の砦が毅然と佇んでいる。
その美しさと恐ろしさに、璃景はただ圧倒されるしかなかった。
やがて、トン、と軽い衝撃と共に、飛行機の足が海の上の滑走路を捉えた。
凄まじい轟音が響き、璃景の体が再びシートへ押し付けられる。
窓の外をすさまじい速さで流れていく海の景色を見つめながら、璃景はようやく、深く大きな息を吐き出した。
「……はは、まいったな。本当に、君の言う通り『かなり驚かせて』もらったよ」
機体が速度を落とし、静かに滑走路を滑り始める。
璃景はサングラスをかけ直すのも忘れ、まだ驚きに震える手で、千海の小さな手をもう一度ぎゅっと握りしめた。
「海の上の空港、か……。千海、君のお気に入りの場所を、こうして私の最初の着陸の地にしてくれて、心から感謝するよ」
「大げさですよ」
「私にとっては大げさではないよ」
璃景は、まだ少し震える声で笑った。
「さあ、私の見事な驚きっぷりは、君の物語の最高の幕開けにふさわしいものだったかい?」
「大丈夫です。いつ来ても心躍るのは私もですから」
千海が楽しそうに笑う。
「いつ来ても心躍る、か……。それは素敵な感性だね、千海」
機体が完全に動きを止める。
周囲の乗客たちが一斉に立ち上がり、荷物を取り出し始める中、璃景はようやく強張っていた身体の力を抜いた。
千海のその言葉と、何より飾らない柔らかな笑顔が、未知の光景に圧倒されていた璃景の心を救ってくれる。
異界の王や神の業のような景色よりも、璃景にとっては、その隣で「楽しい」と目を輝かせている彼女の姿の方が、ずっと心を躍らせていた。
「さあ、地上に足をつける時が来たようだ。今度は私が君の荷物を持って、あの迷子になりそうな人の海から君を護衛する番だね」
璃景は座席から立ち上がり、上の棚から二人の荷物を軽々と引き下ろした。
狭い通路。
行き交う人々。
そして窓の外に広がる、海に囲まれた未知の地――北九州。
璃景は外していたサングラスを再び顔へ戻し、不敵な笑みを浮かべた。
暗い硝子の向こうで、彼の瞳はしっかりと隣の作家殿を捉えている。
「ここからが、君の本当の戦――取材の始まりなのだろう? さあ、どこへでも供をしよう、千海。私の驚きを引き出した君の物語が、ここからどのように紡がれていくのか、一番近い席で見物させてもらうよ」
到着ゲートを出た瞬間、千海は小さく息を吐いた。
「はぁぁ。身分証明のこと、忘れてた……。尋ねられなくてよかった」
そう呟いて、苦笑いする。
璃景はそれを聞いて、思わず声を上げて笑った。
「ははは! なんだ、千海。あの堂々とした足取りの裏で、実はそれほど肝を冷やしていたのかい?」
璃景のいた宮廷でも、どれほど肝の据わった策士であっても、大博打の直後には、このように、少し人間らしい溜め息を漏らすものだ。
千海のそんな人間らしい隙を見せられると、なんだかひどく愛おしい気持ちになってしまう。
「しかし、まさに『ご都合主義』の勝利だ。門番も私の圧倒的な美貌に気圧されて、身分証のことなど忘れてしまったのかもしれないね?」
「それはないです」
「即答だね」
「即答です」
璃景はわざと大袈裟に首を傾げ、サングラスの端を指先で少し下げて、千海に片目を閉じてみせた。
千海はすぐに言う。
「璃景さん、空港でその顔はやめてください。死人が出ます」
「まだ出ていないよ」
「油断は禁物です」
「分かった。慎もう」
璃景はくすりと笑い、サングラスをかけ直した。
「冗談はさておき……本当にありがとう、千海。君が知恵を絞り、私を連れてきてくれたおかげで、私は今、こうして海を渡った未知の地に立つことができている」
「連れてきたというか、巻き込まれたというか」
「どちらでも、私にはありがたいことだよ」
璃景はガラスの向こうへ視線を向ける。
そこには、きらきらと輝く海が広がっていた。
潮の香りが、どこか遠い故郷の港を思い出させて、璃景の胸を心地よくくすぐる。
「乗れなかった時の『じぇいあーる』とやらの旅にならなくて、本当に良かったよ」
「それはそれで、かなり面白かったと思いますけどね」
「作家殿としては、そちらも捨てがたいのだね」
「少しだけ」
「正直だ」
二人は小さく笑った。
ガラスの向こうには、海に囲まれた空港と、これから向かう街へ続く道が見えている。
千海は深く息を吸い、もう一度、璃景を見た。
「さあ、行きましょう。ここからが取材旅行です」
璃景はサングラス越しに、楽しげに目を細める。
「あぁ。どこへでも供をしよう、作家殿」
二人は並んで、北九州空港の到着ロビーを歩き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
千海が好きだと言った空港は、海の上にありました。
璃景は驚いてばかりです。
そして、空港から出るまで身分証明書を求められなくて本当に良かったです……。
二人がこれからどんな掛け合いをしていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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