異世界美男子、手を握って雲の上へ
「はぁぁぁ。飲み物、買いましょう」
千海は小さく息を吐き出すと、近くの売店で飲み物を買い求めた。
手渡された「ペットボトル」を、璃景はまるで稀代の珍宝でも眺めるかのように、目の高さに掲げて凝視する。
「み、みず……? いや、この硝子のような、しかし柔らかい透明な筒は一体何なんだ……!?」
光に透かすと、中の水がきらきらと揺れている。
触ると少しひんやりとしていて、硝子よりもはるかに軽くて薄いのに、中身が漏れる気配は一切ない。
「千海、この器、信じられないほど軽いぞ。しかも、上に付いているこの小さな蓋を回すだけで開閉ができるのか。……私の国では、水や酒を運ぶには重い陶器や瓢箪、あるいは革の袋を使うのが常だった。このような精巧で便利な器が、店に山積みにされているとは……」
璃景が指先でボトルを少し強めに押してみると、ぺこ、と小気味よい音を立てて凹み、指を離すとすぐに元に戻った。
その不思議な弾力に、璃景は目を見開く。
「……あぁ、また君が呆れたように笑っているね。だが、仕方がないだろう。私にとっては、この国にあるものすべてが、宮廷の秘宝をも凌ぐ大発明なのだから」
璃景は観念したように苦笑し、千海に教わった通りに蓋を回して、水を一口含んだ。
喉を潤す澄んだ冷たさに、ようやく押し寄せる緊張が少しだけ解けていく。
「しかし、驚いてばかりもいられないな。……千海、冷たい水のおかげで、ようやく喉の渇きが癒えたよ。気遣ってくれてありがとう」
ボトルを大切に片手に握り直し、璃景は再び千海に向かって歩き出した。
「さあ、この不思議な筒の水もお供に加わった。次はいよいよ、あの鉄の怪鳥の体内へと乗り込むのだね。千海、私の準備は万全だ。君の隣の特等席へ、連れて行っておくれ」
やがて搭乗の案内が始まり、二人は飛行機へと乗り込んだ。
「平日でよかった」
「へいじつ?」
「えぇ。お休みの日だと変更が難しかったかもしれませんが、この日なら変更できましたから」
そう言いながら、千海は機内の通路を奥へと進む。
璃景は、周囲をきょろきょろと見回していた。
狭い通路。
左右に並ぶ座席。
小さな窓。
頭上にある荷物を入れる棚。
すべてが璃景にとっては未知のものだった。
璃景が二人分の荷物を頭上の棚へ軽々と押し上げると、周囲の乗客から「おお……」と小さな歓声のような息が漏れた。
千海は小声で言う。
「璃景さん、目立ってます」
「私は普通に荷物を置いただけなのだが」
「それが目立つんです」
「難しいね、この国は」
二人分の荷物を手際よく収めてくれた璃景に、千海は席を促した。
「璃景さんは奥へ」
「奥、だね」
千海は璃景を窓側に座らせて、その隣の席に腰掛ける。
そして、璃景の腰にシートベルトを回し、カチリと小気味よい音を立てて固定してあげた。
「これで大丈夫です」
璃景はベルトを見下ろし、それから千海を見る。
「この帯も、少し慣れてきたよ」
「それはよかったです」
千海は自分のシートベルトも締めながら言った。
「後は着くまで座っていたら大丈夫ですよ」
「ふぅ……。なるほど、この平日という時期だったからこそ、あの門番の試練も、座席の変更も上手くいったのだね。まさに天が我らに味方した……いや、君の機転の賜物か」
璃景はシートの背もたれに体を預け、ふと横の四角い窓に目を向けた。
ガラスの向こうには、先ほど遠くから見上げていた広大な空港の敷地が広がっている。
そして、鉄の怪鳥が、低く重厚な駆動音を響かせながら、ゆっくりと、動き始めた。
「――おぉ……動き出したな、千海」
璃景は思わず、隣に座る千海の手をそっと握りしめてしまった。
彼の大きな手に比べて、千海の手はひどく小さい。
けれど、その温もりだけが、現実を忘れそうな璃景をこの世界に繋ぎ止めてくれているようだった。
「本当に、このまま空へ昇るのだね、千海。……不敬かもしれないが、、故郷の宮廷での退屈な儀式よりも、君の隣でこうして未知の天へ昇る方が、遥かに胸が躍るよ」
窓の外の景色が、少しずつ速さを増していく。
璃景は異界の太陽に照らされた空路を見つめながら、千海に向かって悪戯っぽく微笑みかけた。
「さあ、作家殿。私の手から伝わるこの緊張の鼓動も、しっかりと君の『ネタ』として書き留めておくれ」
「そうですね」
千海が小さく微笑んだ直後、機体が一気に加速した。
飛行機特有の、身体がシートへと後ろに押し付けられるような感覚。
機首が少しずつ上を向いていく、その何とも言えない体験に、璃景は目を見張った。
「――な、何だ、この力は……っ!?」
鉄の怪鳥が咆哮のような轟音を響かせたかと思うと、凄まじい勢いで地を滑り出した。
それと同時に、目に見えない巨大な手に胸を強く押し付けられるような、奇妙な圧迫感が全身を襲う。
重力に抗うように、怪鳥の機首がゆっくりと、上を向いていく。
「千海……っ! 地面が、地面が遠ざかっていくぞ……!」
窓の外を見つめた璃景の声は、完全に上ずっていた。
さっきまで彼を見上げていたあの巨大な建物も、無数の車たちも、またたく間に小さくなっていく。
まるで箱庭の玩具のように、眼下へ流れていく。
体がふわりと浮き上がるような、それでいてどこかへ吸い込まれるような、生まれて初めて味わう感覚だった。
璃景は息をするのも忘れ、窓ガラスに釘付けになる。
彼のいた世界では、どんな高楼に登ろうが、どんな険しい霊峰の頂に立とうが、絶対に目にすることのできない「天からの景色」が、今、目の前に広がっていた。
「人が、街が……あんなに小さく……。本当に、私たちは今、雲に向かって飛んでいるのだね……」
あまりの衝撃に言葉を失い、ただただ呆然と外を眺めることしかできない。
サングラスを外した璃景の瞳には、どこまでも青く広がる空と、ぐんぐん遠ざかっていく異界の土地が、鮮烈に映り込んでいた。
ふと我に返り、璃景は隣に座る千海に視線を戻した。
大きな手が、無意識のうちに、千海の小さな手を一層強く握りしめてしまっている。
「……あぁ、すまない、千海。少し力を込めすぎただろうか」
慌てて手を緩めようとしたが、璃景の口元には、完全に引きつった笑みが浮かんでいた。
「不覚にも、本気で肝を冷やしたよ……。だが、これほど美しく、恐ろしい体験は他にない。千海、君はいつも、こんな風に天を駆けて旅をしていたのかい? 君という人は、本当に……底が知れないな」
千海はふふっと楽しそうに笑って、璃景の緊張をほぐすように言葉を返した。
「大丈夫ですよ。私も何度乗っても、建物が小さくなるのは楽しいです」
「楽しい、か」
「はい。“現実は小説より奇なり”。たくさん楽しみましょう、璃景さん」
「現実は小説より奇なり、か……」
璃景はその言葉を口の中でそっと反芻し、それから窓の外へ視線を戻した。
飛行機はすでに雲を抜け、どこまでも澄み渡る青空の中を進んでいる。
眼下には、真っ白な雲の絨毯が広がっていた。
太陽の光がそれを照らし、まるで神話に出てくる天上の国のようだった。
璃景のいた世界のどんな文人が、どれほど言葉を尽くして描こうとも、この美しさと、地を離れたときの胸を衝くような高揚感は、きっと再現できなかっただろう。
「まさに、その通りだね」
璃景は静かに呟いた。
「私のいた世界で紡がれるどんな物語も、今、私の目の前で起きているこの奇跡には敵わない。……異界へ迷い込み、君と出会い、そして今、こうして雲の上を征く。これ以上の『奇なり』が、他にあるものか」
心に広がっていく感動に突き動かされるように、璃景は千海の手を、今度は優しく包み込むように握り直した。
「たくさん楽しもう、と言ってくれてありがとう、千海」
璃景は空を見つめたまま、穏やかに言う。
「君が隣にいてくれるなら、この先の旅路でどんな『奇なる現実』が待ち受けていようとも、私はきっと、それを楽しめる気がするよ」
千海は一瞬、璃景を見た。
それから、小さく笑う。
「……それ、また良い台詞ですね」
「今度はメモするのかい?」
「着陸してからにします。今は手を握られてるので」
璃景は、自分がまだ千海の手を握っていることに気づき、少しだけ目を瞬かせた。
けれど、すぐに穏やかに笑う。
「では、着陸まではこのままでお願いしようかな」
「璃景さん、ちゃっかりしてきましたね」
「君の影響だろう」
二人は小さく笑い合った。
璃景は、もう一度窓の外へ視線を向ける。
「さて、この怪鳥……飛行機が再び地へと降り立つとき、そこには一体どんな景色が待っているのだろうね。君の目指す瀬戸内という場所の美しさを、早くこの目で見てみたいものだ」
千海も窓の外の青空を見つめながら、これから始まる取材旅行に胸を躍らせて微笑んだ。
「そうですね。きっと、かなり驚くと思います。私は北九州空港、けっこう好きなんですよ。海が近くて、空が広く見えるので」
「海が近くて、空が広い」
璃景はその言葉を大切そうに繰り返す。
「それは、楽しみだね」
飛行機は、白い雲の上を滑るように進んでいく。
千海と璃景を乗せた飛行機は、瀬戸内へ続く旅路を、まっすぐ空へ描いていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
璃景、飛びました。
飛行機のあの高揚感と、少しの緊張。
地面が遠ざかっていく不思議な感覚。
璃景にとっては、まさに“現実は小説より奇なり”だったのかなと思います。
二人がこれからどんな掛け合いをしていくのか、楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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