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喚きながら最後の抵抗をするボウズ。冷静さを失ったその叫び声は、もはや何を言っているのかわからない。リリィのタンクトップが引き裂かれ、その白い布地がみるみる真っ赤に染まっていく。透き通るほど白く美しい肌が露になる。それでもリリィは必死に言葉も出さずに、自分の体にガラスを突き立てているボウズの右手を、決して離そうとはしなかった。僕は、自分の絶叫を聞きながら、その光景を眺めていた。
虻川が飛び出す。地面に倒れたボウズとそれを押さえ込むリリィ、二人を跨ぐ形で仁王立ちになり、両手で拳銃を構え、地面に向かって発砲した。鮮血が飛び散る。ボウズの右腕が、弾かれたようにリリィから離れる。しかし、ガラスはまだしっかりと握られたままだ。リキッドが、急いでリリィを引き剥がし、抱きかかえる。虻川は間髪入れずに、素早くボウズの首を掴んで馬乗りになり、制圧しようとする体勢に入った。
「うぐっ!!」
しかし、虻川は飛び退いた。苦悶の表情を浮かべ、下腹部を押さえている。ボウズが虻川の股間を蹴り上げたのだ。左肩と右腕に銃弾を受けているのに、まだ抵抗する力が残っているのか。
「この……クソアマ!!」
虻川が、またしても拳銃を構えた。ボウズは、左腕をダラリと垂らしながら、ゆっくりと立ち上がり、僕達を睨んでいる。銃弾を受けた傷口から地面に向かって、かなりの量の血が滴っている。
「柳川!抵抗をやめろ!わかってるだろ。俺が躊躇しねえで撃つってことを!」
「……どうせ」
ボウズが小さな声で呟いた。
「どうせ、俺のことは、てめえらにはわかんねえ」
入れ替わりのことだろうか。虻川は黙っている。
「俺はろくな死に方をしない。そんなことはわかってた。今まで自分がやって来たこと。俺なんてどうなっても良かったんだ。ただ、あいつを。あいつだけは……」
ボウズは、ガラスを持った右手を、力なく震えさせながら顔の前にゆっくりと上げた。もうほとんど動かせないはずだ。二の腕の辺りを、銃弾が貫通しているらしい。
「聞いてんのか?抵抗をやめろ。二度目だ。それ捨てろ。三度目はねえぞ」
虻川から余裕が消えた。誰が見ても虻川が優勢でボウズが劣勢な状況であるはずなのに、ボウズの不気味な気迫に、あの誰にでもふてぶてしい虻川が気押されているように見えた。
「あいつだけは、幸せにしてやりたかった。良い服を着せてやって、良い大学に通わせてやりたかった。俺はどうなったっていいから、あいつだけは、人並みにしてやりたかった」
僕は、目を疑った。殺人鬼が。伝説の始末屋が、泣いたのだ。
「……何わけのわからねえこと言ってやがんだ」
目の前で起こった不可解な出来事に、虻川はうろたえている。さっき一度、もしやとは思ったが、やはり虻川は入れ替わりのことはわかっていない。冷静に考えれば、当然だ。いい勘はしていたが。
「あいつの分まで生きるって言ったが、正直、虚しかった。あいつがいないこの世界で、何を生きるってんだろうな」
ボウズは今、涙を流しながら、虻川やリリィ、リキッドを無視して、僕に向かって話しているのだ。
「横山。てめえの言った通りだ。復讐が果たせたんだから、もういい。あいつが返って来るわけでもねえ」
ボウズが、今から何をしようとしているのか、僕にはわかった。こいつは、人生の電源ボタンを押そうとしている。人生にリセットボタンはない。だが電源ボタンはある。以前、僕が何度も望んだが、怖くて押せなかった電源ボタンだ。今はもう絶対に押そうとは思わない、人生の電源ボタン。
「やめろ!!」
僕は、咄嗟に叫んだ。皆が、驚き振り返って僕を見た。
「面倒くさくなったからって、逃げようとするなよ。ずるいぞ!妹さんの為に、生きて罪を償えよ!そして今後、ユラや僕達に手を出さなければそれでいい!」
憎く恐ろしいボウズに対して、なぜ今僕は、こんなことを言ったのだろう。ボウズは今逮捕されても、ボウズではなく、柳川瑚乃葉として逮捕される。多くの殺人を犯したことは絶対にバレない。警察が入れ替わりなんて信じるわけがない。殺人未遂と覚醒剤取締法違反で、何年かの懲役か執行猶予か、どれ位かは僕にはわからないが、その程度で済むのだろう。虻川が、混乱した様子で僕とボウズを見比べている。
「言われなくたってわかってる。俺が殺して来た人達にも、大切な人がいたってことは。あいつが死んだのは。罰が当たったんだ。他人の大切な人を殺して、だから俺の大切な人も殺されたんだ。全部俺が悪いんだ。わかってるんだ。でも後に退けなかった。他のやり方がわからなかった。バカだよなあ」
ボウズが、ガラスを自らの首にそっとあてた。
「やめろ!」
虻川もようやく察し、叫んだ。銃を構え直し威嚇するが、まるでボウズは気にも留めようとしていない。
「柳川ぁ!僕だって!ニートじゃなくなるんだ!入れ替わったおかげで!あんたもそのおかげで!前のことは誰もわからないんだ!なかったのと同じなんだ!無駄にすんなよ!!これは妹さんから貰ったものだぞ!!ずるいぞ!!妹さんが泣いてるぞ!!情けないって!!」
何でだ?こいつはクソったれ野郎だ。死んだら愉快で傑作なはずじゃないか。何で、僕はこんなことを口走ってるんだ?同じ入れ替わり人間だからか?切ない家族愛に感化されたからか?本物の柳川瑚乃葉に同情したからか?
「てめえは。さっきから調子良いことばっかり言いやがって。あいつのこと知らねえくせによお」
「聞いてんのか!!柳川ぁ!!」
這いつくばり、咳き込みながら叫ぶ僕を見て、ボウズが一瞬、悲しそうな、寂しそうな顔で笑った。そこには、汗と血と埃にまみれながらも、美しい柳川瑚乃葉の笑顔があった。
「横山、おまえは……いいなあ」
どういう意味だ?何がだ?
「うるせー!!僕の話を聞けよ!!柳川ぁ!!」
「……瑚乃葉、悪かったな。俺も今、行くぞ」
ボウズは静かに目を閉じ、勢い良く、躊躇なく、自らの首をガラスでかき切った。噴水のように、鮮血が噴き上がる。
「くっそ!!バカヤロー!!」
何であんたはそこまで愚かなんだ。そんなに妹を愛して大切にして来たのに、その優しさと思いやりを、何で他人に向けられなかったんだ。そして、何で自分をそこまで粗末にするんだ。デブで不細工で引きこもりニートの僕でさえもっとマシに考えるぞ。
鬼神のような強さと恐ろしさで僕達を圧倒していたはずのボウズが、安らかな顔で目を閉じたまま、地面に膝を付き、そして横向きになって倒れた。ボウズが着ている青かった小さなワンショルのワンピースドレスは所々が破れ、いつの間にか出血で真っ赤に染まっていた。首から流れる血は、アスファルトを伝って、排水溝へと流れて行く。あれほどタフで往生際の悪かったボウズは、もうそれっきりピクリとも動かなかった。虻川が、無線で何やら騒がしく指示を出している。救急車と応援を呼んでいるのだろう。そうだ、リリィは!?
「リリィさん!!」
「大丈夫だ、生きてる!」
リキッドが、リリィを介抱しながらそう言った。僕は、心の底から安堵した。
「オト……、あんた大丈夫なの?」
地面に寝かされているリリィが、目を閉じながら、弱々しくそう言った。
「大丈夫ではないけど、何とか生きてます。リリィさんこそ」
「……良かった。あんた守るって約束だったからね」
「本当にすみません。リリィさんのおかげで、作戦は……」
成功した、と言いかけて、僕は言葉を飲み込み、ボウズの亡骸を見やった。




