44
19:00。
月日はあっという間に過ぎて、11月も後半に差し掛かった。札幌は、今日は朝からずっと雪が降っている。この雪は明け方になっても溶けずに、いよいよ根雪になるだろう。そして、今日から雪は降った分だけ少しずつ積もり続ける。もちろん市によって除雪は行われるが、人の手が届かない場所であれば、今見ているこの雪が溶けるのは、春ということになる。そう考えると、何だか不思議な気がした。
僕は一人でススキノを歩いていた。吹き付ける風の冷たさに、堪らずコートの襟を立てる。吐く息が、白くなって後方へ流れて行く。しかし本格的な冬は、まだまだこれからだ。1月後半から真冬になると、鼻で呼吸をすれば鼻毛が凍り、瞬きをすればまつ毛がくっ付く。それに比べたら、この程度で寒がってなどいられない。
ボウズが死んだあの日から、色々あった。
リリィのケガは、幸いなことに軽いものであったが、背中に大きな傷跡が残ってしまったようだ。僕はそのことを気にしていたが、本人曰く勲章なんだそうだ。相変わらず元気に白兵戦で大活躍している。ボウズとの圧倒的な実力差を痛感したのか、トレーニングの時間を増やしたようだ。
リキッドや他の源介の仲間が調査してくれた、入れ替わった体を元に戻す方法。それは札幌の北、石狩市にある『白竜の滝』に、全裸で二人が抱き合った状態で飛び込むという苦行だった。入れ替わり大先輩である中村氏と高橋氏が、この方法で元に戻ったのだそうだ。なぜそんなことをやってみようと考えたのか、それは残念ながらわからない。もちろん、僕と源介のケガが回復してから実施した。嫌がる僕達に対して、リキッドは古文書を読みながら大真面目に手順を説明してくれた。リリィは、この儀式を終始爆笑して見ていた。高覚寺の住職も心配してついて来てくれたが、少し笑っていたのを僕は見逃さなかった。信じられなかったが、儀式は本当に無事成功し、遂に僕と源介の体は元に戻ったのだった。僕と源介は歓喜し、思わずそのままもう一度抱き合ってしまったが、これが誤解を受け、しばらくリリィにからかわれることになった。秋の北海道でそんな無茶をやったものだから、その夜から僕と源介は風邪をひいて熱を出して数日間寝込んだ。
そして今、僕は散々迷った末、このビルにやって来た。エレベーターで三階に上がる。恐る恐る、シックスの扉を開けた。
「いらっしゃいませ!お一人ですか?」
黒服が出迎えてくれた。僕は頷くと、カウンターに案内された。赤いスツールに腰をかける。店内は、僕の他に客は一人しかいなかった。今日は空いているのだろう。久しぶりのシックスだ。BGMは小さめの音量で、ドゥービー・ブラザーズの『Long Train Runnin'』が流れている。
「いらっしゃいませ。何を飲みますか?」
前にも聞いたこのセリフ。変わらず元気そうで、笑顔がたまらなく可愛かった。瑞穂だった。
「あ、あの、えっと……」
僕はずっと瑞穂に会いたかった。こうして会えて、嬉しかった。しかし今の僕はもう、瑞穂が知らない本当の横山音栄だ。背が低くて太っている、醜い本来の僕なのだ。
「あの、その。ジン……ライムをお願いします」
「かしこまりました」
瑞穂は、笑顔でドリンクを作り始めた。楽しそうに働く姿を見て、僕は安心した。こうしてまた日常に戻れたことが、瑞穂にとっての幸せなのだろう。ユラの姿は見えないが、今日は休みであることを僕は知っている。
ピースを吸い始めたところで、瑞穂がマドラーで静かにステアし、完成したジンライムをコースターに乗せ、差し出してくれた。
「な、何か、一緒に飲みませんか?」
「いいんですか!嬉しい!いただきます!」
瑞穂は、全く同じジンライムを手早く作った。僕達は静かに乾杯した。
「今日は……、その、ラストまでなんですか?」
当たり障りのないことしか、言えない。
「はい。お兄さんは、お仕事終わりですか?」
お兄さん、と言われて、覚悟していたつもりだったが、それでもやはり寂しく悲しくなった。これを飲んだら、帰ろう。
「……はい」
BGMが『I Shot the Sheriff』に変わった。エリック・クラプトンではなく、本家のボブ・マーリーのテイクだ。珍しい。僕は瑞穂の顔を見れずに、黙ってジンライムを飲み続けた。
「お仕事、何をなさってるんですか?」
瑞穂が、ジンライムを飲みながらそう質問した。僕は、はっとした。僕の仕事。
「ええと、その、探偵……を、やってまして……」
僕は今、正式に源介の事務所で調査員として働いている。
「えっ!すごい!あたし、探偵さん大好きなんですよ!憧れますね~」
これは、どの客にも言っている社交辞令なのか。それとも、僕が演じていた源介のことなのだろうか。
「探偵が好きなんですか?どうして?」
「前に、すごいお世話になったことがあったんです。とってもかっこ良かったな~」
数日の間ではあったが、瑞穂と過ごした時間が、走馬灯のように頭の中を流れた。
「その探偵さんは、どんな人だったんですか?」
ドキドキと心臓の音が大きくなるのがわかった。
「強くて優しくて、謙虚で。それで、ちょっと変わってて、可愛くて。あ~おかしい!」
瑞穂はそう言って何かを思い出し、笑った。
「へ~。素敵な人なんですね」
「あはは、本当にすみません!思い出しちゃった。その人も、ジンライム、好きだったんですよ~」
「きっと、見た目もかっこいい男性なんでしょうね」
だんだんと、いたたまれなくなってくる。
「見た目は……そうですね~。悪くはないけど。あたしは、あんまり見た目はこだわらないんで、中身に惹かれましたね~」
意外だった。しかし、見た目の悪い僕を前にしての、気を使った社交辞令ではないか。
「へぇ~、じゃあ、こんな僕でも頑張れば候補の端っこに入れてもらえますか?なんて、そんなわけないか~」
僕は、自虐的にふざけて見せた。辛かった。
「あの夜、結局電話、できなかったですよね」
「……はい?」
瑞穂は僕の目をじっと見てから、スマートフォンを取り出して、親指で素早く操作した。すると、僕の内ポケットにあるプライベート携帯から、大きな着信音が鳴った。僕のプライベート携帯の番号を知っている家族以外の女性は、瑞穂しかいない。すぐに着信音は止まった。
「やっぱり」
「僕が誰だか……わかってたんですか」
「ずっと、待ってました。あたし」
「え、何を?」
「オトさんを」
一体何が起こっているのだろう。瑞穂は、カウンター後ろの棚から、タグが付けられたキープボトルを持って来た。ラベルには、平仮名で『れんと』と書かれている。タグには、『革ゲン』と書かれていた。
「浜田さんのボトル。奄美の黒糖焼酎。オトさんが来たら、一緒に飲んでって」
「えっ、あの、ははは。え~と」
頭が混乱する。どういうことだ。瑞穂は、今のこの僕の正体をわかっているのか。源介が教えたのか。しかし、そんなこと信じてもらえるわけがないじゃないか。
「浜田さん、何時間もかけて、説明してくれました。あたしも最初は信じられなかった。皆さんであたしをからかってるのかなって。でも、携帯番号も、頼むお酒と吸ってるタバコ、同じなんだもん。やっぱりって。あと、喋り方も」
瑞穂が、れんとの水割りをくれた。黒糖焼酎は飲んだことがない。
「信じてよかった。不思議。こんなことってあるんですね。でも、あたしの目の前にいるのは、本当にオトさんだ」
「ショックですか?……僕は、こんな奴なんです……」
僕は、目を閉じた。終わった。
「さっき言ってたこと、本音ですよ。あたしは、オトさんが……」
夢でも見ているのだろうか。突然瑞穂が、カウンターに身を乗り出して、顔を近付けて言った。
「終わったら電話しますから、寝ないで待っててくださいね」
11:00。
僕は東区元浦町の、瑚乃葉が亡くなった現場に来ていた。電柱に花を供え、目を閉じて、手を合わせる。その時、コートの内ポケットに入れていた、PHSが振動した。
「もしもし、オトです」
「おまえ今どこだ?」
源介だ。
「東区の元浦町です」
「急いで戻って来い。夜逃げだ。昼だけどな。人手がいる」
「了解しました。あ、あの源介さん」
「ん?」
「瑞穂さんのこと、ありがとうございました」
「あ~。行ったんだな。なんもよ。じゃあな」
PHSをポケットにしまって、タクシーを拾おうと通りに出ると、何やら人だかりができている。車がハザートを点灯させて二台並んでいる。気になって、近付いてみた。
「ぶつけたしょや!」
「ぶつけてねーべや!どこぶつけてるのよ!」
若い女と、中年の男が言い争いをしている。どうやら、車をぶつけたぶつけていないで揉めているようだった。
「このバカ女が!」
男が腕を振り上げた。
「あの、暴力はちょっと」
僕は、いつのまにか男の腕を掴み、争う二人の間に割って入っていた。
「何よてめえ!関係ねえべや!邪魔すんでないって!この!!」
男が僕を突き飛ばそうとして来たので、足をかけて転ばせてやった。雪がうっすら積もっているので、大した衝撃もないだろう。暴走族のイカれた総長や、伝説の始末屋に比べれば、こんな奴は雑魚だ。男は驚いて、物も言えずに僕を見上げている。こんな僕のような男がこんな思い切ったことをするのが、意外だったのだろうか。戦意はもう喪失しただろう。
「大丈夫ですか?すぐに警察に連絡した方がいいですよ」
僕がそう言うと、女はホッとした様子で笑顔になった。
「あの、ありがとうございます、お礼がしたいので、ご連絡先を……」
営業のチャンスだ。
「お礼なんていりませんが、何か困ったことあれば、いつでも連絡ください」
僕は、浜田探偵事務所の僕の名刺を女に渡して、その場を立ち去った。
──札幌ニートボイルド 完──




