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 左足を踏み込み、右拳を作る。僕は冷静さを失い、最悪手を選んでしまった。ボウズに向かって僕から手を出すだなんて、一番やってはいけないことだとわかっていたはずだ。しかしあまりの恐怖で、咄嗟に体が動いてしまったのだ。


「やめとけ」


 何が起こったのか。いつの間にか、ボウズは左手で僕のネックチェーンを掴んでいた。どうやって間合いを詰めてきたのか、全く見えなかった。僕は声も出せずに、固まるしかなかった。これは勝てない。改めて痛感した。


「ケンカの方はニートなんだな」


 ボウズは僕のネックチェーンをジャラジャラと弄びながら、僕の胸の位置から見上げ、笑っている。右手を腰にあて、足を交差させた挑発的な立ち方が、不気味に優雅だった。二年も女性として、そしてキャストとして生活していると、こんな時でも自然と女性的な立ち振る舞いになるものなのだろうか。瑞穂が抱きついて来た時と同じように、女の甘い髪の香りがしたが、その香りと、目の前にいる存在とのギャップに、頭がおかしくなりそうだ。

 僕はもう殺されるだろうが、きっとリリィ達や虻川がこいつを何とかしてくれるはずだ。そう信じるしかない。


「……ひ、一思いにやれよ!」


 情けない言葉だったが、命乞いするよりかはマシか。


「それもいいが、少し話そうじゃねえか」


「何だと?」


「おっと、動くと殺すぞ」


 僕は為す術もなく、ゆっくりと震える両手を上げた。


「てめえは何だ?俺を縛りたいのは、吾妻の敵討ちか何かなのか?」


「吾妻なんて話したこともない。どうでもいい」


「じゃあ、あの逃がしてやった女の仕返しか?」


「……関係ない!」


 ボウズがニヤリと笑った。


「まあ、何でもいい。あの逃がした女も、後できっちり始末することに変わりはねえ」


「やめろ、ユラ達に手を出すな!!」


「てめえが俺を止めてみりゃいいじゃねえか。できるならな」


「……あんたは、何でユラを逃がしたんだ?」


「さあな、何でだろうなあ。甘かったぜ。おかげでてめえみたいな勘の良い奴に尻尾掴まれて、こんな面倒になっちまった」


 ボウズは、僕のレザーパンツのポケットに手を入れて、僕のピースと源介のジッポーを取り出し、火を着けて美味そうに吸った。完全に舐められている。


「妹さんと重なったからじゃないのか?」


 ボウズが、眉間にしわを寄せた。


「……やっぱり喋るのはやめだ」


 ボウズは吸いかけのピースを地面に叩き付け、それを裸足で踏み消した。まずい。いよいよ殺される。


「あんたは人に頼まれて、仕事で人を沢山殺して来た!だけど今回だけは仕事じゃなくて、復讐だった!僕だって吾妻になんてこれっぽっちも同情してない!殺されて当然だ!復讐が果たせたんだから、もういいだろう!ユラはまた平和に暮らしたいだけなんだ!」


 言葉がまとまらない。言いたいことがうまく言えない。揺れろ。揺れてくれ。リリィ達が来るまで後数分、時間を稼ぎたい。


「俺は、あのクソ野郎をぶっ殺しただけでは終われねえ。あいつの分も代わりに生きるって決めたんだ。あいつが生きたかったはずの人生を。あいつのこの体でな。捕まるわけにはいかねえ」


「あんたがユラを殺さなかったのは!妹さんに悪いと思ったからだ!違うか!」


「あいつは俺の稼業を知らなかったが、俺の稼ぎで育ったんだ。今さら、そんなこと思わねえな」


「施設で育って!親もなくて!それでもたった一人の家族を養う為に、あんたはその仕事を選んだ!それだけ妹さんが大事だったんだろ!ユラにだってあんたみたいな家族がいるんだよ!!」


 正確には家族ではなく親友だが。瑞穂の笑顔が脳裏をよぎった。


「……てめえさっきからわかったようにベラベラと!」


 その瞬間、鋭く重い衝撃がみぞおちに突き刺さった。前蹴りだった。全く見えなかった。腹に穴が開いたかと思うほどの威力。腹を抱えて、膝をつく。叫ぶこともできない。いや、呼吸そのものができない。僕は激しく嘔吐した。


「俺は特異体質でな。火事場の馬鹿力ってのが自在に操れるんだ。こいつの体になってからも、それは変わらなかった」


 ボウズが僕の髪を掴み、片腕の力だけで僕を立たせようと引っ張りあげる。


「アドレナリンだか何だかが関係しているらしいな。よく知らねえが。俺が死体(ほとけ)さんに線香供えるのはなぁ」


 意識が朦朧とする。視界が歪んでいる。


「線香の匂い嗅いで落ち着かねえと、アドレナリンが止まんねえからだよ!」


 ハンマーで殴られたような衝撃を左腕に受けた。骨が砕ける音が、はっきりと聞こえた。右手での手刀だった。腹と左腕、激痛と激痛で、もはや体のどこが痛いのかわからない。そして、これほどの地獄のような苦痛に襲われているのに、一切声が出せない。


「横山。てめえは俺の人生の中で一番ヤバい奴だったぞ、それは褒めてやる」


 全身の力が抜けて、いつの間にか顔の前に地面があった。僕は倒れたのか。


「じゃあなニート探偵」


 ボウズが、その白く細い右足を高く上げた。踵でとどめをさすのだろう。もう、何も考えられなかった。観念しかけた、その時。



「オラァァァ!!」



 聞き馴染んだ、雄々しい叫び声。リリィだった。長いストレートの金髪をなびかせながら跳躍し、空中で体を捻る。稲妻のようなリリィの右回し蹴りが、斜め上からボウズに炸裂した。


「ダメ……入ってない!空手!?」


「喫茶店で会った女……リリィとか言ったな」


 ボウズは全く応えていない。左上段受けだった。やはり、ボウズは空手使いで間違いないようだ。


「オト君!動けるか!?」


 リキッドがやや遅れて到着した。大きなリュックサックを背負っている。


「……リキッドさん……僕は、いいので……リリィさんを。殺される……」


 少しずつ喋れるようになって来たが、咳をすると血が出た。内臓を痛めたかも知れない。リリィが、凄まじい勢いでボウズを攻め始めた。しかし、必死なリリィに比べて、ボウズは不適な笑みを浮かべ余裕を見せている。リリィを持ってしても、実力差は明白だった。


「あの様子だと、持って数分だな。すぐに加勢したいが、俺には別の役目がある。それを終えてからになるな」


 リキッドはそう言って、重そうに背負っていたリュックサックを地面に降ろした。


「リリィ、持ちこたえてくれよ!」


 リュックサックからは、大きな筒のような物体が二個出てきた。


「打ち上げ花火!源介のアイディアだ!」


 そうか。ここで花火を打ち上げて、騒ぎにするのか。虻川達も気付くだろう。これは、僕の作戦にはなかったことだ。


「調子に乗るなよ!女!」


 ボウズの正拳が、リリィの頬と胸に続けて入る。リリィは苦痛に顔を歪めながらも、立ち向かうのをやめようとしない。鼻から血が滴っている。やめてくれ!立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。


「……リキッドさん!早く!リリィさんが殺される!」


 僕は、搾り出すような声でリキッドに懇願した。


「わかってるって!寝てろ!リリィを信じろ!!」


「てめえら!ふざけやがって!!」


 ボウズが、花火に気付いた。こっちに向かって走って来る。


「しまった!見つかった!」


「……行かせるか!」


 リリィの渾身のハイキックが、花火に気を取られたボウズの顔面に、初めてクリーンヒットした。


「畜生!!」


 リリィがボウズの反撃の蹴りをまともに喰らい、派手に倒れる。満身創痍の体で、それでも立ち上がり、構える。花火を死守する決意なのだ。リリィでなければ、とっくに殺されているだろう。僕は、リリィの強さと勇気が、男として心底羨ましかった。しかし、もう長くは持ちそうにない。


「準備完了だ!行くぜ!」


 設置された花火の筒に、リキッドが点火した。耳をつんざく爆音。むせ返るような火薬の臭い。空高く打ち上げられた花火が、眩しいほどに僕たちを照らした。

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