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9:40。
札幌の中心部から南区へ向かって伸びる石山通を走り、定山渓にさしかかる。南区の山の中にあるこの定山渓は、札幌の奥座敷と呼ばれる古い温泉街だ。江戸時代に源泉が発見されて以来、少しずつ栄えて温泉宿ができ、明治の頃は日露戦争帰りの傷病兵達が湯治で利用していたらしい。秋には紅葉で辺り一面が彩られ、とても綺麗な場所でもある。舗装された道路脇から、温泉の湯気が立ち上っていた。
「こういうちゃんとした温泉、しばらく行ってないなぁ、いいよね〜」
リリィが呟いた。
「ここ、源泉かけ流しの所もありますよね。硫黄が固まって、それが階段みたいになってて、ちょっとワイルドであまり綺麗ではないですけど。肌はツルッツルになりますよ!」
瑞穂も、来たことがあるようだ。
「えぇ〜それいいですねー!瑞穂ちゃん今度あたしも連れてってくださいよ〜」
「ですね、今度行きましょー!」
「あ、今夜函館で泊まるホテルも、一応温泉あるみたいですよ。さすがに源泉かけ流しではないですけど」
「え〜本当ですか!楽しみ〜!」
女子会が始まった。リリィを女子とカウントするならば、の話だが。楽しそうだが、遊びに来たわけではない。それはもちろん、女子達もわかっている。
ん?待てよ。リリィは、男湯、女湯、どっちの湯に入るのだろう?考え始めると止まらなくなりそうなので、この疑問はとにかく忘れることにした。忘れたと思ったら、次はなぜか、リリィと瑞穂が露天風呂に仲良く入っていくシーンが頭をよぎった。湯気で肝心な部分が見えない。やめろ。今は調査中だぞ。
あれ!そう言えば、二人とも胸は控えめなのは服の上から見てわかってたけど、二人はどっちが大きいんだろう?リヤウインドウを見る振りをして、運転席のリリィの胸、後部座席の瑞穂の胸とを素早く見比べ、また前を向いた。正直、一瞬過ぎてわからない。車を降りた時に確認しなくては。少しくらい、息抜きや気分転換は必要だ。僕は少し気持ち悪いだけで、健全だ。
道路は緩やかな斜面で、少しずつ山の上へ向かって行く。温泉街は終わり、車窓から見える景色は、針葉樹林一色に変わる。ここからはしばらく、曲がりくねった山道だ。
「瑞穂ちゃん、朝ごはん、食べました?」
「実は、寝坊して飛び出して来たので、食べてないんです……」
僕とリリィも、朝は食べていない。
「あ!じゃーちょうど良かった。峠で、『あげいも』食べません?」
「あーっ!あげいもいいですね!食べたいです!」
「決まり〜」
女子会は盛り上がっている。まるでドライブだ。
10:10。
この辺りはもう、札幌と、虻田郡喜茂別町との境目に来ている。いよいよ札幌の外に出るのだ。僕達は中山峠にあるサービスエリアで車を降りた。ここで、遅い朝食を取る。
山の中にあるこの広いサービスエリアは、何と年間400万人近くの人が訪れると言うから驚きだ。駐車場から雄大な北海道らしいパノラマ景色が望める為、写真撮影をしている人もちらほら見かけた。晴れているので、羊蹄山がよく見える。この羊蹄山は、富士山と見た目が似ていることから、蝦夷富士と呼ばれることもある。
このサービスエリアでの名物が、あげいもである。あげいもとは、ふかしたじゃがいもをまるごと揚げた、北海道のB級ご当地グルメだ。外側の衣は、アメリカンドッグの衣そのものと言ってよい。この揚げられた大きなじゃがいもが、一本の串に三個刺さって350円。原価を想像すると、観光地価格だ。安いか高いかは人それぞれの価値観によるが、腹は満たされる。普通の人なら一本でお腹いっぱいになってしまうだろう。売店であげいもを受け取った瞬間、ずっしりとじゃがいも三個分の重さが、右手に伝わって来た。以前の僕なら、余裕でペロリと二本はいけそうだが、今の源介の体だと、一本で満腹になってしまうかも知れない。
「でかっ。瑞穂ちゃん、これ一本いけます?」
「いける……と思います!残しちゃったら、オトさんに一個食べてもらいます」
いつの間にか、瑞穂まで僕をオトと呼び出した。まぁ、悪い気はしない。レストスペースのテーブルで景色を眺めながら、三人であげいもを食べた。カリッとした食感の甘く香ばしい衣の下に、熱いホクホクのじゃがいも。口の中をヤケドしないように、気を付けて食べた。女子達は、お行儀よく紙皿の上に串からバラして、割り箸でつついて食べた。
「やっば!お腹空いてたから、余計に美味しい!」
「ですよね〜!」
結局、リリィは完食したが、瑞穂は三個目を半分残して、それを僕が食べた。確かに美味かったが、最後の方は正直同じ味で飽きた。
その後も羊蹄山に見守られながら、スプリンタートレノは順調に函館へ向かって走り続けた。留寿都、洞爺、豊浦、黒松内と進み、本日二度目の峠である静狩峠を越えた。この峠を越えた辺りからは、もう道央ではなく道南と呼べるエリアだ。ずっと車窓から見えていた羊蹄山も、もう遥か後方で小さくなって、僕達を見送ってくれたのだった。
12:30。
「ひゃー!海だよ海!」
「綺麗ですね〜」
海沿いの国道37号線に出た。助手席側に、広大な青い海が広がっている。窓を開けると、心地よい潮の香りがした。
「稚内、思い出すなぁ……」
そう言えば、瑞穂の故郷、稚内も函館に負けず劣らずの港町だ。南の函館生まれのユラと、北の稚内生まれの瑞穂。何か理屈じゃなく、通じ合うようなものがあったのかも知れない。しかし、そうは言っても函館と稚内の距離はおよそ六百Km。東京と兵庫くらい離れている。本州の距離感で例えるなら、二人の故郷は関東と関西に分かれてしまうわけだ。僕は、改めて北海道の広さに驚いた。
僕の故郷の帯広は牛や馬がたくさんいて自然は豊富だったが、海だけは遠かったので、この景色はとても新鮮に感じる。
「あの、リリィさんの地元はどこなんですか?」
気になって聞いてみた。この質問は、別に地雷にはならないだろう。
「あたし?あたしはずっと札幌だよー。生まれたのもね」
源介さんは、と危うく言いそうになって飲み込んだ。ついつい自分が浜田源介であることを忘れがちだ。そのうち、うっかりボロを出して調査に支障を出したりしないか不安だ。
「やっとこさ半分超えたって感じかね」
海沿いの真っ直ぐな道を、ひたすら南下して行く。長万部に入った。ここまで来ると、だいたい三分の二くらいは進んだと思える。この町はカニ飯弁当が美味いのだが、朝食からあまり時間が経っていない為、ここでの昼食は見送った。
道路沿いにそびえ立つ巨大なカニのモニュメントを見て、女子達がキャッキャと騒いだ。左は海、右は荒野の直線道路を走っていると、至る所にドライブインの廃墟が、ポツリポツリと見える。この不思議な光景はここだけでなく、北海道の田舎道ではよく見られる。僕が中学生の頃家族でドライブに出かけた時に、何となく好奇心で、この田舎道にドライブインの廃墟が多い理由を、父親に聞いてみたことを思い出した。
父親は説明してくれた。信号もなく、数十から数百Km以上走り続けなくてはならない北海道の田舎道。今と違って、昭和の頃にはコンビニなどは都市部にしかなかった。運送トラックも長距離バスも、そして個人の車も、食事やトイレをするなら、ドライブインに駆け込むしかなかったのだ。バブル真っ盛りの頃なので、採算など考えずに、店舗の距離感も無視して、思い付きで次々と道路沿いに建てられた。バブルが崩壊し、不景気(僕達からすれば当たり前のごく普通の景気)になると、次々とドライブインは潰れ、建物を取り壊すこともできずに、その場に打ち捨てられたのだ。コンビニが田舎道でも当たり前に利用できる時代になると、ドライブインの需要は完全になくなった。
途中、辛うじて生き残っていた昭和の遺産のようなドライブインでコーヒーブレイクを挟み、八雲、森、七飯と過ぎて、ついに僕達は函館に入った。




