36.愉悦と絶望と
マオがガルドを庇っている。闇のヒョウを消し飛ばされてそのことに気づき、激しい戸惑いがフェリスを混乱させた。
しかし、それは長くは続かなかった。はっとした時には、マオの身体を聖剣が貫いていたのだ。
聖剣は、背中から腹を串刺しにしている。
倒れて行くマオの姿に、フェリスの中で凄まじい憎悪と絶望が膨れ上がった。
(マオくんを——許せない‼︎)
瞬間、胸に鋭い痛みが走り、そこから漆黒の闇が吹き上がった。胸に激しい痛みが走る。
一瞬でフェリスを飲み込んだ闇は、憎悪を吐き散らしながら広がり、フェリスから飛び出した。マオやリオンたちの方へと一直線に雪崩れ込んで行く。
「————ッあ」
胸が抉られたかのような激しい痛みに、吐き気が込み上げる。
一瞬意識が遠のき、地面に手を付く。酷いめまいがする。
「マオくん……」
くず折れそうになる身体に必死で力を込め、顔を上げる。
そこには、大きくなったマオが立っていた。リオンに貫かれた傷は、見た目には癒えているように見える。
「え、マオくん……⁉︎」
そのマオの後方には、リオンたちが倒れていた。
その三人をマオが一瞥し、うっすらと笑みを浮かべた。その表情に愕然とする。
《《大聖女》》フェリスにはわかる、それは邪悪な魔王の本質。
ゆっくりと、マオがフェリスへと視線を向けた。
「大聖女……忌々しい神の使徒め」
美しい造形の顔が醜く歪んだ。フェリスに歩み寄って来るマオに、本能的な恐怖を覚える。
マオのはずなのに、その邪悪さがフェリスの身体を逃がそうと勝手に動かした。
力が入らず、地面に尻餅を付いた形で後ずさるものの、すぐにマオが目の前に立った。
見上げたその存在は、まるで知らない者のように威圧的で、邪悪だった。
「マオ、くん……な、なに……」
「ははっ、あの雑魚に絆されたか。滑稽だな大聖女よ。大人しく勇者に始末されていれば、全ては丸くおさまったものを」
うっすらと邪悪な笑みを浮かべ、その赤い舌が自分の唇を舐める。
「もうお前は用済みだ。一人で、絶望し苦しみながら、その命を無駄に散らすがいい」
マオの腕が伸び、フェリスの首を鷲づかんだ。細い悲鳴は誰にも届かない。
あっという間に首が締まり、苦しさに悶えた。しかし、どんなに力を込めてもマオの手はびくともしない。
「なるべく長く苦しませてやろう、ははっ、ははは」
恍惚とした表情で、マオが一瞬だけ力をゆるめる。反射で息を吸ったところを、また締め上げられた。
「んぁ……い、いや……マ、オく、ん……なん、で……だまし、て……たの……っ」
マオは用済みだと言った。これまでは、フェリスになんらかの利用価値があったということなのだろうか。
わからない。それを考える力もフェリスには残っていなかった。
首を絞めるマオの指に手をかける。引き剥がせない。
「い、や……」
もしかしたら、マオに見えるだけの別人なのかもしれない。そう思ったのに、フェリスの指先はマオの指にはめられた固いものに触れた。
マオがおそろいで買ってくれた指輪だ。間違いない。
目の前の、この邪悪な存在は、フェリスがともに過ごして来たマオだ。
(どうして……マオくん、わたしを、騙していたの……? ぜんぶ、嘘、だったの……?)
意識が薄れて行く。頭に霞がかかって重くなり——途端にまた手が僅かにゆるめられた。
もう嫌だと思うのに、生物の反応として息を吸ってしまう。微かに取り込まれた空気が、フェリスの意識を覚醒させた。
ぞっとするほどの狂気を宿した笑みを浮かべ、マオの手がまたフェリスの首を締め上げる。その苦しさに、涙がにじんだ。
(マオくん……もしか、して……頭を打っておかしくなって、たのが……戻った、の……?)
まさか。そう思うのに否定できない。
異世界から転生して来た。その話を、フェリス自身信じていなかった。
やはり、転生などなかったのだ。フェリスにスイーツを作ってくれたマオも、ドキドキさせて来るマオも、天真爛漫なマオも……そんな人物は最初から————。
「マオくん……」
それでも、自分がマオと一緒に感じたものは嘘ではない。だからこそ、どうしようもなく悲しかった。
国にも勇者一行にも追われ、仲間だと思っていたマオからは用済みと宣告され命を奪われようとしている。
魔王城のみんなはどうするのだろう。また操られてしまうのだろうか。そうなればフェリスは一人だ。
再び手をゆるめ、歪んだ笑みを浮かべたマオに涙がこぼれる。
ひと思いに首を折られた方がましだ。これまでのマオを強く意識しているうちに終わりたかった。そんな夢さえ見せてくれず、苦しませることを愉しんでいるなんて。
「ちっ、もう反応が薄いな。つまらぬ……もっと鳴いてみせろ」
「い、や……」
涙の向こうににじむマオをにらみ付ける。
泣き叫び、恐怖におののき、絶望に打ちひしがれるフェリスを見たかったのだろう。そのマオの歪んだ欲求を理解した途端に、フェリスの中になけなしの気力が蘇った。
このまま殺されるのだとしても、せめて大聖女として気高くありたい。
「ならば死ね」
醜く歪んだマオのほおが引きつり、フェリスの首をありったけの力で締め上げた。
あっという間に意識が朦朧として来る。
「マオくん……それでもわたし、あなたと過ごした時間、たのしかっ……」
「————ッ⁉︎」
急にマオの手が離れた。地面に倒れ、急激に吸い込んだ空気に身体が反応出来ず咳き込む。
終わろうとしていた命が、急激に生を求めて燃えた。身体中が熱く苦しい。
「ッ、くそ! 抵抗する気かッ⁉︎」
苦しげな声に、視線を上げる。そこには、腹を押さえたマオが苦悶の表情をしていた。
その手は、血で濡れている。
癒えていたように見えた傷は、完全に癒えたわけではなかったようだ。
荒い息をするマオに、先ほどまでの余裕はなくなっていた。なにかに、苦しんでいる。
「く……大聖女よ、お前の始末は後の楽しみに取っておこう……魔王城へ来るがいい」
ふらつき、後ずさったマオが、苦悶の表情を浮かべた。かと思うと、にやりと邪悪に笑う。
「ああ、そうだ。奴を完全に封じ、黙ってお前が苦しみながら死んで行くところをたっぷり見せてやろう。はは、ははは」
舌なめずりをしたマオが、宙に浮かんだ。そのままどんどん高度を上げ、魔の国の方向へと飛び去って行く。
やがて、その姿は完全に空の向こうへと消えた。
「マオくん……」
なんとか身体を起こす。頭痛がした。
絞められた首をなでる。それと同時に、息を吸って吐く。大丈夫、出来ている。
ひとまずの危険は去った。それなのに、また涙があふれた。
自分は、なにもかもを失ってしまった。
涙を拭うと、固いものがほおに当たる。それを視線の高さに持ち上げた。
真紅に輝く紅玉。マオがプレゼントしてくれた、お揃いの指輪。
外しちゃだめですよ。いつかのマオの声が脳裏に蘇る。
「マオくんっ……」
もう絞められていないのに、酷く胸が痛んで息が吸えない。
これまでマオに騙されていたのか、それともおかしくなっていた魔王が元に戻っただけなのかはわからない。
ただわかるのは、もうフェリスが想いを寄せたマオはいないということだけ。
ここで殺されるなら、大聖女として気高くありたいと思っていた。
しかし、もうフェリスの知るマオはいないという現実を突き付けられ生き延びると、気高さなど簡単に瓦解した。
そこにあるのは、邪悪な魔王が望んだ絶望だ。
「どうして……」
両手で顔を覆う。涙が止まらない。
どれだけそうして泣いていただろう。どれだけ泣いても涙は枯れず、相変わらず胸は痛いままだ。
止まらない涙を拭う。その手の向こう側に、倒れている三人の姿が映った。
「みんな……」
足元に落ちていたペンライトを拾い、光を消した。外套の内ポケットに差し込む。
ゆっくりと立ち上がった。
「リオン。ガルド、ミリア……」
無意識に歩み寄り、ミリアのそばに膝を付く。そっとなでたほおは、あたたかい。
彼らは光属性のはずなのに、その身からは闇力の残滓が感じられた。膨大な闇力に当てられてしまったようだ。
三人とも、息はしている。かすり傷はあるものの、大きな外傷はない。そのことに、心底ほっとする。
彼らは、フェリスの頼みを引き受けてくれただけなのだ。フェリスが辛い役目を三人に押し付けたのに、それを守ろうと————。
「あれ……?」
自分は、一体どんな頼みを三人にしたのだろう。それは、なぜだった?
頭に霞がかかっている。上手く思い出せない。
(なぜ……? わたし、リオンたちになにを……)
彼らは闇堕ちしただけでなにもしていないフェリスを、国王の命で討伐に来た裏切り者。これまでそう信じていた。
なのに今は、フェリスがなにかを彼らに頼んだのだと、自然とそう思っていた。
フェリスの頼みを引き受け、彼らは自分に剣を向けた? フェリス討伐の命令もその頼みの、せい————?
「わたしの闇堕ちは、どうして……」
リオンの腕をなでる。あたたかい。ガルドの手をにぎる。あたたかい。
彼らが無事なことに、フェリスは心底ほっとしていた。そのことに自分自身が戸惑っている。
「わたし、思い出さなきゃ」
なぜだか曖昧になっている闇堕ち。リオンたちへの頼みごと。
思い出したところで、フェリスが想いを寄せたマオはもういない。フェリスが国にとってのお尋ね者なのも変わらない。
リオンたちは、変わらずフェリスを狙って来るだろう。自分は本気で、彼らの命を奪おうとしたのだから。
だとしても、思い出さなければという気持ちが消えない。
きっとそこになにかがある。
「もう少しだけ、目を覚まさないで。お願い」
聖力を三人に注ぐ。みるみるうちに、傷が癒えた。
闇力の残滓も払えたはずだ。
外套のフードをかぶる。途端に、また涙がこぼれ落ちた。
ここからは一人きりで行かなければならない。
「さよなら」
三人に背を向け、フェリスはよろめきながらも丘を降り始めた。その眼下に広がる王都へと向かって。
枝を隠すなら森でしょ。そんないつかの子供マオの台詞が、フェリスの背を押していた————。
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