30.夢と現の狭間
周囲は暗く、見通しがきかない。そもそも、なにかがあるのかさえわからなかった。もしかしたら、なにもないのかもしれない。
そこに広がるのは虚無だった。
その虚無の中を、フェリスは歩いていた。なぜ歩いているのかはわからない。
酷く胸が痛んで、視線を下す。そこには、赤い血。そうだ、フェリスの胸には穴が空いている。
ぐいと左手が引っ張られる。そちらを見ると、左手は小さな子供の手と繋がっていた。
手の主は、十歳前後の男の子だ。
そう、この胸の穴は、彼が空けたものだ。
「ねえ、どこまで行ったらいいのかな?」
そっと声をかけると、男の子が暗い瞳でうつむいた。その様子は、子供らしからぬ憂いを帯びている。
「じきに、歩けなくなるよ」
ぽつりと落とされた声と同時に、フェリスの足が重くなった。
まるで、錘でも付けられたように足が上がらない。
「え、なに……⁉︎」
驚いているうちに、足だけでなく全身が重くなる。まるで、なにかにのしかかられているかのように。
歩かなければ、そう思うのになかなか足が前に出ない。
「重いよ……ぼく、もう歩けない……」
男の子の顔が歪んだ。ぽろぽろと涙をこぼしながら、その身体が折れた。膝を付く。
「だめよ、歩かなきゃ、行かなきゃだめ。ここに留まってはだめよ!」
なぜかはわからない。わからないが、ここに留まってはいけないという強い確信がフェリスを突き動かした。
男の子の手を引き、立たせようと力を込める。
「重すぎて立てないよ! 痛い!」
「だめなの、ここから出なきゃだめなの!」
「そんなこと出来っこないよ」
フェリスの身体がまた一層重くなった。彼を立たせようとしていた腕に力が入らない。いや、力が入らないのではなく、引っ張ることが出来ないくらいに腕が重い。
足がふらついた。ずん……とまた重くなった身体に、たまらず膝を付く。
男の子の身体が、まるで潰れるかのように折りたまれた。
「だめ、がんば……って……」
そう言うフェリスも、あまりの重さに上体が折れそうになっていた。それでも、なんとか四つん這いで男の子ににじり寄る。
彼の頭を抱えた。
「苦しい……」
「ここから出られたら、治るから。行くのよ……頑張って、ねえ……」
咳き込んだ。息が苦しい。胸の傷がずきずきと痛む。
フェリスでさえこんなに苦しいのだ、彼の苦しみはいかほどだろう。
「いやだ」
「お願い。お願いだから一緒に行きましょう……!」
フェリスとて、もう立てるとは思えなかった。それでも、這ってでも連れて行かなければという気持ちがつのる。
「行けない。ねえ、ここでぼくと一緒にいて……動けないよ……」
男の子が泣いている。その悲痛な声に、フェリスの瞳にも涙が浮かんだ。
どうにかして助けたい。助けたいのに、方法がわからない。
身体が重い。重くて重くて、もう指一本動かせない。それでも諦めきれない。
「行くの。ここから出るのよ……ううっ……」
さらに重くなった身体が、遂に耐えられず地面へと押し付けられるように倒れた。
男の子の頭から離れた手を、必死に伸ばす。
「出られないよ。出られないんだよ。ママ、会いたいよぉ。でも、会えない……」
「そん、な……こと……ない……」
ようやっと、男の子の膝に指が触れる。その指には、真紅の輝き。マオがプレゼントしてくれた指輪だ。マオの瞳の色と同じ紅玉。
その輝きが、フェリスの気力を蘇らせた。彼を、助けたい。
「わたしが、ぜったいに……たす、ける……」
息が吸えない。苦しい。だけど諦められない。
なぜとか、どうしてとか、彼は誰なのかとか、そんなことはどうでも良かった。ただ目の前で苦しんでいるこの子を助けたい。
「約束だもの、あなたのママを……見つけるって……」
穴の空いた胸が酷く痛んだ。けれど、そんな痛みよりも、この子を助けなければ。
彼を母親のところへ連れて行かなければ。
それなのに、身体がもうぴくりとも動かない。視界が霞む。
(だめ、だめなの——この子を救わなきゃ……だめ……)
動かない身体を動かそうと必死で力を込め——フェリスは目覚めた。
「……ッはぁ、はぁ」
ベッドの中にいた。眠っていたようだ。
身じろぎをする。身体はなんの問題もなく動いた。
「夢……?」
夢にしては、あまりに生々しい重い感触がまだ全身に残っている。
とはいえ、悪夢にうなされていただけだったのだ。
「後味の悪い夢だったわね……」
救いたいと強く願ったのに、救えない夢だった。
そう言えば、誰を救いたかったのだろう。夢の記憶は曖昧だ。
はあ……と息を付き、身体を起こす。救えなかった無力感が、まだ全身を覆っている。
ベッド脇のテーブルに手を伸ばし、そこに置いていたランプに光を灯した。
光に照らされた指がきらりと光る。紅玉の指輪だ。その輝きにそっと触れ、息を吐く。
なんだかのどがカラカラだ。水が飲みたい。
そっとベッドを抜け出し、ランプを手に部屋を出る。
フェリスとマオが持ち帰れた光鉱石は、広い魔王城には到底足りない。
廊下は真っ暗だ。慣れているはずなのに、なんだか心細い。
食堂を目指して歩く。奥のキッチンに水があるはずだ。
暗い廊下を曲がり——そこには灯りが、あった。




