第7話 これからも、あなたと
結婚式の朝、セシリアはいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄明るく、屋敷の中も静かだった。起き上がって部屋を見渡すと、昨夜アンナが整えてくれた荷物が目に入る。王宮へ運ぶものはほとんど送り終えていたので、残っているのは今日使うものと、最後まで手元に置いておきたかった数冊の本だけだった。
この部屋で暮らす最後の朝だと思うと、もう少し眺めていたくなった。窓辺の椅子も、何度も手紙を書いた机も、今日を境になくなるわけではない。それでも、夕方にはここへ戻ってくるつもりで出かけていた日々が終わるのだと思えば、嬉しさだけでは済まなかった。
セシリアは寝台を出て、机の上に置かれた手紙を手に取った。クラウスから昨夜届いたもので、準備が終わったことと、明日を楽しみにしていることが書かれている。
『緊張して、何か言い忘れるかもしれないので、先に伝えておく。私と結婚してくれて、ありがとう』
昨夜も読んだ言葉なのに、もう一度読むと頬が緩んだ。彼も今頃、自分と同じように早く目を覚ましているのだろうか。今日会ったら聞いてみようと思い、セシリアは手紙を大切に本の間へ挟んだ。
*
朝食のあと、王宮へ向かう支度が始まった。
衣装は王宮で着るため、屋敷では髪を整え、旅支度をするだけだったが、アンナはいつも以上に丁寧にセシリアの身の回りを確かめていた。手袋を揃え、荷物を確認し終えてからも、机や窓辺へ視線を向けている。
「忘れ物はないと思うわ」
「はい。私も、そう思います」
そう答えながら、アンナはもう一度小さな鞄を開いた。セシリアは鏡越しにその姿を見て、微笑んだ。
「アンナ。今日は、私の支度が終わったら、あなたも着替えてね」
「承知しております」
「式が始まるまで、私についていようと思っているでしょう」
アンナの手が止まった。図星だったらしく、少し困った顔でセシリアを見る。
「お嬢様のお側を離れるのは、どうにも落ち着かなくて」
「王宮の方がついてくださるわ。それに、あなたが見ていてくれると思う方が、私も安心するの」
アンナはしばらくセシリアを見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「では、よく見える場所で、お待ちしております」
「ええ。あとで感想を聞かせて」
立ち上がったセシリアの肩へ、アンナが上着をかける。長年繰り返してきた仕草に、今日だけ特別なことを言うのは難しかった。それでも部屋を出る前に、セシリアは振り返って彼女を見た。
「今日まで、ありがとう。これからも、よろしくね」
アンナは一度唇を結んでから、深く頭を下げた。王宮へ移ってもそばにいてくれると分かっているのに、その返事を聞くと、セシリアも少し胸が熱くなった。
玄関では、両親が待っていた。
父はセシリアを見ると何か言いかけたが、隣にいた母が先に娘の手を取った。屋敷の使用人たちも、馬車までの道に並んでいる。セシリアは一人ずつ顔を見ながら礼を言い、料理長の前では足を止めた。
「今日も、朝食をありがとうございました」
「お口に合いましたでしょうか」
「はい。王宮へ移っても、こちらへ戻った時にはお願いできますか」
料理長は嬉しそうに笑い、もちろんでございますと答えた。その顔を見て、セシリアは、今朝の食卓で出されたものが幼い頃から好きだった料理ばかりだったことを思い出した。
馬車へ乗る前に屋敷を振り返ると、父が隣へ来た。
「いつでも帰ってきなさい」
「はい」
「何も用事がなくても構わない。顔を見せに来るだけでもいい」
「お父様とお母様に会いたくなったら、そうします」
父は満足したように頷き、娘が乗り込むために手を差し出した。その手を借りながら、セシリアは、帰る場所がなくなるわけではないのだと改めて思った。
*
王宮では、すでに大勢の人が式の準備を進めていた。
控室で衣装を着ると、鏡の中の自分が少し見慣れない姿になった。仮縫いの時にも着たはずなのに、髪を結い上げ、母から譲られた耳飾りをつけると、ようやく今日が結婚式なのだと実感する。
アンナが最後に裾を整え、王宮の女官へ支度を引き継いだ。退出する前に目が合うと、セシリアは約束通り式を見ていてほしいという気持ちを込めて頷いた。アンナも微笑み、今度はためらわずに部屋を出ていった。
ほどなく父が迎えに来た。
扉が開いた時にはいつも通りの顔をしていたのに、セシリアの姿を見ると、そのまま足を止めてしまった。待っている間に何を言われるだろうと考えていたセシリアの方が、先に笑ってしまう。
「お父様。お待たせいたしました」
「……ああ」
「似合っていますか?」
「もちろんだ」
父はそう答えてから、もう一度娘の姿を見た。何か付け加えようとして、結局うまく言葉が見つからなかったらしく、セシリアへ腕を差し出す。
その腕へ手を添えると、父はゆっくり歩き始めた。廊下の先から音楽が聞こえ、扉の前には二人を待つ人々がいる。セシリアは息を整え、父の腕に置いた指へ少しだけ力を込めた。
「緊張するか」
「はい。お父様は?」
「お前よりしているかもしれない」
小声で返ってきた答えに、セシリアは笑った。父も口元を緩め、そのおかげで、扉が開く頃には少し落ち着いていた。
広間へ進むと、並んだ人々の視線がこちらへ向いた。王家の紋章、白い花、窓から差し込む光を見ながら歩き、やがてその先に立つクラウスが見えた。
彼はセシリアを見つめていた。いつものように穏やかに笑おうとしたのだろうが、途中で少し表情が崩れ、息をつくように唇が動いた。
父から彼へ手が渡された時、セシリアは近くでその顔を見上げた。
「殿下も、緊張していらっしゃいますか?」
「かなり」
小さな声で答えたクラウスが、彼女の手を握り直す。
「綺麗だ。朝から何度も、そう言おうと思っていた」
「忘れずに言っていただけましたね」
彼は笑い、セシリアも笑みを返した。二人で前へ向き直ると、先ほどまで気になっていた大勢の視線が、少し遠く感じられた。
誓いの言葉を聞きながら、セシリアは隣にいる人の手の温かさを確かめていた。この先のすべてが、今日のように晴れやかな日になるとは思わない。意見が合わないことも、会いたい時に会えないこともあるだろう。
それでも、気持ちを伝えた時に耳を傾けてくれる人だと知っている。彼もまた、疲れたことや困っていることを、自分へ話してくれるようになった。その二人でこれから暮らしていくのだと思うと、誓いに答える声は自然に出た。
指輪を交換し、クラウスと向き合ったあと、セシリアは参列者の中にアンナを見つけた。両手を胸の前で重ね、泣きながら笑っている。
セシリアが微笑むと、アンナは慌てて目元を拭った。今日の感想を聞けば、きっと何度も同じところで言葉を詰まらせるのだろうと思った。
*
挙式後、セシリアは約束していた部屋で両親と会った。
父は広間で見せていた緊張した顔をようやく緩め、母は娘の手を取ったまま、指輪を眺めている。次の予定まで時間があると女官から聞いていたので、セシリアも急がずに椅子へ座ることができた。
「式の間、お父様はずっと姿勢を正していらしたでしょう。肩が痛くなっていませんか」
「そんなところを見ていたのか」
「ええ。お母様が何度か、お父様の腕へ手を置いていらしたので」
母が笑い、父は少し照れたように咳払いをした。その顔がいつもの食卓と同じだったので、セシリアは安心して、ずっと伝えたかったことを口にした。
「私が婚約を解消したいと申し上げた時、聞いてくださってありがとうございました」
父の表情が静かに変わった。母も指輪から顔を上げ、セシリアを見る。
「あの時、私は自分の気持ちは決まっていましたが、お父様を困らせるのではないかと思っていました。それでも、よく言ったとおっしゃってくださったので、とてもほっとしたのです」
「もっと早く、話を聞いてやればよかったとも思っている」
「私も、お話しすればよかったのだと思います」
セシリアは父を見て、それから母へ視線を移した。
「ですから、これからは嬉しいことだけでなく、困ったこともお話しに伺います。お二人が心配なさらないようにと、黙っていることは減らしたいです」
「そうしてちょうだい」
母が手を握り直した。
「あなたが話したいことを、私たちが聞きたいの。うまくいっていることだけでなくてもいいのよ」
セシリアは頷き、少しだけ目元を押さえた。化粧が崩れるといけないと思っているのに、母が抱き寄せてくれると、それを気にする余裕もなくなった。
父はしばらく二人を見ていたが、やがて近づき、セシリアの肩へ手を置いた。
「幸せになりなさい」
「はい。お父様」
答えながら、セシリアは両親の手へ自分の手を重ねた。
*
小広間に入ると、クラウスが窓辺から振り返った。
テーブルには二人分の料理が用意されている。湯気の立つ皿を見た途端、セシリアは思っていたより空腹だったことに気づき、クラウスもその顔を見て笑った。
「間に合ったね」
「はい。温かいうちにいただけそうです」
席につくと、侍従が扉の近くで次の予定を伝えた。挨拶の時刻までにはまだ余裕があり、使節たちも無事に到着して休んでいるという。
礼を言って食事を始めたあと、セシリアはクラウスの顔を見た。
「先ほど、お父様から、いつでも帰ってきてよいと言っていただきました」
「うん。私にも、連れて帰ってくるようにと言われた」
「いつの間に?」
「式が始まる前に。君が帰りたいと言った時は、忙しくても止めないように、と念を押されたよ」
セシリアは父らしい言葉に笑った。クラウスも笑いながら、次に公爵家へ行く時には庭を見せてほしいと続ける。
「薔薇が咲いているうちにね」
「では、近いうちに。お母様も喜びます」
予定を確かめるのは後でよかった。まず行きたいと話し、彼も行こうと答えてくれる。そのことを嬉しく思いながら、セシリアは料理へ手を伸ばした。
途中、扉が開き、侍従が入ってきた。祝宴で読み上げる祝辞について確認したいことがあるという。
クラウスは話を聞いたが、内容を確かめると、食事のあとで間に合うかを尋ねた。侍従が頷くと、彼は書類を扉のそばへ置いておくよう頼んだ。
「分かった。出る時に確認する」
侍従が退出してから、クラウスはセシリアへ向き直った。
「どこまで話したかな」
「殿下が、王妃陛下に緊張を見抜かれたところです」
「そうだった。兄上には平気な顔をしていたのに、義姉上にはすぐ分かったらしい」
彼が話を続け、セシリアも笑って耳を傾けた。仕事の知らせが来ても、この時間がすぐになくなるわけではなかった。必要かどうかを確かめ、あとでよいものはあとにして、彼は自分との話へ戻ってくれた。
皿が空になった頃、セシリアは窓の外へ目を向けた。庭園の向こうに、これから二人で向かう祝宴の会場が見える。
「この時間を残していただけて、よかったです」
「私もだよ。君の父上が緊張していた話も、アンナが泣いていた話も、今日のうちに聞きたかった」
クラウスはそう言い、セシリアの顔を見た。
「君が、ここで食事をしたいと話してくれてよかった」
「殿下がお望みになったことでもあります」
「そうだね。私も、もっと早く確かめるべきだった」
彼が少し苦笑すると、セシリアは首を横に振った。
「今日、こうしてお食事ができましたから。これからも、変わってしまいそうな時には、お話ししましょう」
「そうしよう」
クラウスが手を差し出し、セシリアはその上へ自分の手を置いた。何もかも予定通りにする約束より、その言葉の方が信じられた。
*
祝宴が終わる頃には、セシリアもさすがに疲れていた。
多くの人に祝いの言葉をかけられ、名前を確かめ、礼を述べ、何度も笑顔で挨拶をした。前日に王妃と共に迎えた使節の夫人が、今日は少し親しみのある口調で話してくれたことは嬉しかったが、椅子へ座れる時間が近づくにつれ、足元が気になり始めた。
隣に立つクラウスが、低い声で尋ねた。
「少し休む?」
「はい。足が疲れました」
「私もだ。あちらへ行こう」
彼は近くの侍従へ声をかけ、セシリアを連れて窓辺の席へ移った。二人で腰を下ろすと、思わず同じように息をついてしまい、顔を見合わせて笑った。
「殿下でも、お疲れになるのですね」
「今日は立っている時間が長かったからね。それに、朝からずっと緊張していた」
「私も早く目が覚めました」
「私もだよ」
朝、手紙を読みながら聞いてみようと思ったことを、ようやく話せた。セシリアがそのことを伝えると、クラウスは、手紙を書いた自分の方も寝つけなかったのだと笑った。
向こうでは、父と母が国王夫妻へ挨拶をしている。少し離れたところには、アンナが女官と話す姿もあった。セシリアの視線に気づくと、アンナは小さく会釈し、今度は泣かずに笑ってくれた。
セシリアも笑みを返してから、隣のクラウスを見た。彼は彼女が落ち着くのを待つように、何も言わず座っている。
「今日、幸せでした」
口にすると、クラウスは穏やかに目を細めた。
「私も。まだ、もう少し今日が残っているけれど」
「ええ。ですから、帰ってからも聞いていただきたいことがあります」
「いくらでも」
嬉しい返事に、セシリアは少し考えてから付け加えた。
「でも、眠くなったらおっしゃってください。続きは明日でもお話しできますから」
クラウスは笑い、椅子の肘掛けに置かれていた彼女の手を取った。
「では、君もそうしてほしい」
「はい」
明日も、その次の日も、一緒に暮らすのだった。今日のうちにすべて話し終えなくてもいいし、一度伝えれば二度と言えなくなるわけでもない。そのことが、セシリアには何より嬉しかった。
やがて、祝宴を締めくくる音楽が流れ始めた。クラウスは広間を見てから、セシリアへ尋ねる。
「最後の一曲、踊れるかな。それとも、このまま休んでいたい?」
セシリアは少し足を動かし、立ち上がれそうなことを確かめた。それから彼の手を握り、自分から席を立つ。
「あなたと踊りたいです」
クラウスは嬉しそうに笑って立ち上がり、彼女の歩調に合わせて広間へ向かった。
これから先、二人で決めることは、まだたくさんある。今日と同じように顔を見て尋ね、答えを聞き、時には考え直しながら、一緒に暮らしていくのだろう。
音楽に合わせて彼の手を取り直すと、クラウスがそっと引き寄せた。セシリアはその肩へ手を添え、笑顔で最初の一歩を踏み出した。




